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2014年 02月 21日

「黒白(こくびゃく)」と「白黒(しろくろ)」

 通常今の日本人は、大抵「白黒(しろくろ」という言葉使いで定着している。「黒白(こくびゃく)」という表現は、「大辞林」「広辞苑「広辞林」「新明和国語辞典」をはじめ「類語国語辞典」角川書店にも載っている。念のために「記者ハンドバック新聞用字用語集」共同通信社第9版には、カテゴリー分類のせいか見つからなかった。日本語辞典の代表格の辞典には、これほど一般的扱いされているのに、日常的には使われていない。それは概ね同意語であるから自然に「白黒(しろくろ)」となっているのであろう。

 両方とも私たち日本人は、日常的な倫理観で直面した事案に直観的に反応して「正しいか、正しくないか、どっちだ」「罪があるか、ないか」「有罪か無罪か」小さなことから大きなことまでいれれば、一日万ともいえる判断を80%くらいは無意識に、20%ぐらいはちょと考えてやっているらしい。倫理観でといったが、だれ一人そんなおおげさな意識でやっている者はいない。

 でも「こくびゃく」と「しろくろ」と並べてみると、意味は同じようでも、ニュアンスは同じとは受け取れない。「こくびゃく」は耳慣れない言葉だからなおさら。

 私は「黒白」といえば池波正太郎の小説の題名、上下2巻を連想する。そこで印象つけられたその言葉は、「黒」が先にあるだけに、「悪と善」「邪と正」「有罪と無罪」という言葉に聞こえてくる。それでいて、小説の中の主人公の存在を通して、人間の善悪なんて簡単に決められる者ではないという作者の心情が、言葉では語られなくても読者に伝わってくる。

 それに比べて「白黒」は、倫理観というより、なにが正で、なにが負か、というような論理的判断をしなくても、また感情とか情動を持ち込まなくて二者択一の選択ができる。選択結果は「+かー」「0Nか0FF」「正しいか正しくないか」「罪があるかないか」などと、「白黒どっちかはっきり決めること」「そのために裁判で白黒つける」。極めつけは以前「弁証法てき論理」再考(その3)」で述べたような「白と黒の中間のグレーゾーンは原則存在しない」という「排中律」につながっていく。


 そうしてみると人間の成長も、「0N・0FF」のように段階的にやってくると思う人もいるも知れない。またある人は、ゆるやかに、努力の積み重ねでやってくるという人もいる。ノーベル賞クラスの博士が、突如夢の中で答えを思いついたという話を何度か聞いたが、期せずしてその人たちは99%の努力でといっている。人間の頭脳は寝ている間でも発酵熟成しているようである。

 最近の国会での与党と野党の論争。野党でも勝ち馬に乗りたいための「提灯記事でない、提灯質問」への応答態度。まさにグレーゾーンの容認どころか、民間外交の重要性とは、「ロビー活動」の人脈の濃淡であったり、国会内外でのMO氏、TA氏、M0氏の不快きわまる、また政府の右傾化や、強い決められるリーダーを国民が選んだはずという現政権の危うさ。
 中国対応、韓国対応、日本が一番の後ろ盾としているアメリカ。さらにロシアの絡む政局の中で平気で国益不利と素人でも分かる政権要人の発言の数々。これが責任与党とは思えない。職業としての政治家、プロの政治家ならやるはずもない悪手が目立ちすぎる。
 先の経団連中国訪問でも、中国の政府内の二重勢力への読み不足で表の対応と裏の現実を十分分析把握してのことか、専門家の指摘もある。

 政治や経済のことを気にせずに生きられるならそれに越したことはない。でも、こうも日々の政局や経済変動があるとおちおち歳も取れない。

 巧妙な「黒白の言い回し」、懸念、ペンデイング・タグといえば、それは思い過ごし、陰謀説の聞きすぎ、見過ぎ、変人の書いたブログや記事の読み過ぎ、という。それにしてもこの一週間特に表に出だした今までの裏情報。用意されたかのように。容易ならないならない事項が目立つ、多い。「おもてナシ」の言葉のテレビでの露出度と比例しているようだ。だがまだ政党支持率には大きな変化はない。アンケートに恣意のないものはない。とだれかいっていた。今のうちにどさくさて決め、選挙の公約と国民が思っていた政策が、月日が経つにつれて玉虫色になり、グレーゾーンに変わってきている。「相手があることだから」……。
 支持率の限界を超え低下したとき、豹変できる法準備、法解釈の閣議決定。そのタイミング。そのときこそ国民がそこまでと思っていなかった政治的現実が現れる。
 
 世の中の様々なシステムが複雑になった。せめて日経新聞ぐらい人並みに読みとれる知識は持ちたい、と思ってもそれとて容易ではない。

 「白と黒」と間に解析不能といえるほどの選択肢があり、その選択ベクトルの正しさはいまやいかようにも示せるからである。
 「黒」の手練手管のリアリティの凄さを知らない人が多すぎる。「きれいごとは、たびたび人を感動の渦にまきこむけれど、そのベースにある人間の信頼の絆(連帯)(隣組的共同体)(いい意味の集団主義)ほど為政者が民衆操作に使い勝手のいい社会心理はないのだということも、ことあるごとに肝に銘じておくことの大切さ。偏差値だけでは生き延びられなくったのが21世紀の最大のグローバル変化。守りと攻め、攻めと守りの知恵磨き。己個人としても、生活の糧を得る個人としても集団としても。その上に課せられる人間力として、「その人はこんな混沌の世紀でも、どれほど健全に、世のため人のために生きたか、が問われる」。その評価の切り口も実に多様である。庶民としての私は、クリエーション=広い意味での「生産的」と考え意固地にそれに拘っている。












                

by kuritaro5431 | 2014-02-21 11:12


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