2013年 12月 18日
私は、「双極性」という思考に、無意識ながらとても好奇心をもっていたことが、最近見つけた精神障害の医学と医療のWikipedia記事「双極性障害」のなかで発見した。 その記事によると、「双極性障害」とは、ひらたくいえば、躁状態(躁病エピソード)と鬱状態(大鬱病エピソード)という病相(エピソード)を繰り返す精神疾患であり、気分障害の一つである、とのこと。 詳しくは、総合失調症と並び、二大精神疾患といわれれていると。古い呼び名は躁鬱病あるいは、双極性感情障害ともいわれた、と。「総合失調症」をちょっと調べてみると、10代後半から20代に発症し、慢性に進行する疾患。生涯有病率は、100人に1人ぐらい。比較的多い疾患。遺伝的要因かどうかは明らかでない。症状としては、発症の初期か慢性期か、陽性か陰性かによるが、傾向として「不機嫌」「親への反抗」「昼夜逆転」「成績低下」「友人との交流障害」。幻聴、幻覚、妄想、自我障害など。総合失調症の特徴の一つに、本人の病識欠如、異常と思わず不眠治療で対処していること。 実は、私は思春期の頃、いやもっと幼少の頃から、この二つの症状を体験していたのだった。自分の実感からすれば、幼少の頃は「総合失調症」らしきものを、思春期においては「双極性障害」を。幼少の頃のことはここでは書けないトラウマが起因して、思春期に「双極性障害」を発症していたと確信的にいえる。ここでいわれている躁症状と鬱症状そのものが定期的に6ケ月サイクルで確実にやってきた時期があったから。いま思えばその時期に「総合失調症」の症状も確かに現れていたと思え、「双極性障害」と「総合失調症」合併症だったのではないかと思い出される。医学的にそのような合併症があるのかないのか知らないが、当時としては、とてつもない苦痛と屈辱を体験したことであり、その苦痛は他と比較して軽い重いの問題ではなく、100パーセント主観的苦痛であった。それはどうしようもない実感であった。 「総合失調症」の特徴として、異常さを病識しないものとあるが、私は「定期サイクル型躁鬱病」と明確に病識していたので、病名については不確かである。当時としても今としても、病名は私の関心事ではない。そのときも今も、その時期私はその苦しみを自力で如何に克服するかかが命題であったから。 そこで、今日の記事タイトルにある「双極性」という概念の効用とリスクについて書くことにする。 私は「双極性」という言葉を知らずして、その概念化に憬れていたことについてである。 なにごとにも両極に極限があるはずであり、それを「Aの端からZまで」とイメージしたことにあった。そのイメージは、このブログのタイトルを「AからZまで」とするわけにはいかず、「哲学から演歌まで」との例えばのタイトルにしたものであった。その意味は、「はじめに」に書いた内容そのものだった。 ところがである。その極限と思えるものを探れば、そこにはいつも際限ない向こうに極限が存在していた。 ある日「哲学から演歌」だけで「まで」の付いてないタイトルで検索すると、「哲学から演歌まで」の生の記事を紹介してもらっているベージが現れた。私としては「まで」に意味をもたせたつもりでいたが、私の語感の未熟さを反省した。そして、さらに最近「哲学から」だけで検索すると、多くの〔この種の視点・切り口〕の羅列が現れた。いるもんだ、私と同じ思考回路をもった「族」が、と思った次第。 それはそれとして、小説家村上春樹は、自分の小説作業を「穴を掘る」といっている。私はその言葉を際限のない極限探しと受け取っていたものだ。 ここで取り上げた「双極性障害」についても、穴を掘れば、入り口は小さくてもきっとその奥には、際限のない症状観察の歴史と治療の進化の歴史があり、ちょっとやそっとで素人の手におえるものではない世界があったはずである。今思えば今さらのようにおもえる。 ところが当時の私は、苦痛逃れたさの一念から周期的にやってくる鬱状態を意識でコントロールできないものかと必死でその方法を探索したものだった。 そのためにと、その気分の変化を内省観察しようとした。コントロールするには意思の強さが必要であり、その強弱は性格の強さ弱さにあると考えるようになった。主には対人関係における押しと引き、後に思うようになったオフェンスとディフェンスのバランス。別の言葉でいえば世渡り術、処世術。「攻撃に勝る、防御なし」とか、孫子の兵法の「相手と己の力量を知り、相手が強いときは引き、相手が弱いときは、押す」とか。 それらを可能にするには、自己の性格改造が必要。まずは、弱さの源を切除する。それから他者に負けない強さへと鍛錬すること、と考えた。その頃どこかの心理学の本に、人間の気質は変えられないが、性格は改造できると書かれていて、それがきっかけで心理学→マインドサイエンスへとベクトルが動いていったのだった。 その症状と模索は高校卒業まで続き、大学進学してやっと改善の兆しが現れた。そのきっかけになったのはマルキシズムとの出逢いであった。マルキシズムといってもその思想がわかるわけでもなく、次のような例え話に惹かれてのことだった。 ────5~6人の子供の群れがおり、その集団はもともと仲良し集団だった。ところがある時期から一番面倒見のよかったAが、幅をきかすようになりその行動を不快に思う者が現れはじめた。その人数はやがて2人になり、3人になりAへの抗議へと発展した。Aはもともと正義感の強い子供だったが、みんなの抗議の的になるようになってから、人柄が変わった。暴力的になり、弱そうな子供から自分の子分にしようとした。そしてAはますます横暴になり、仲間とのトラブルを起こすようになった。見かねた仲間全員があるときAを袋叩きにして追い出した。そして元の仲良し集団に戻った。新しい仲良し集団のリーダーは、Aを追い出したときのリーダーBになった。そして一年も経つとBは、後のAとおなじような行動を取るようになった。人間だれしも、人のためになる行動を取る時期は美しいが、支配欲、権力欲が現れると自ら崩壊するもの。との話だった。 その頃の話は、このブログ初頭の「昭和32年頃」「仕事のない日」の記事に書いた。 私にとっての双極性動態とは、Aを躁とし、Zを鬱とすると、Aの極限に達すると、その反動で気分は反転しはじめZに向かって動き出す、流れ出す。バランスのいい状態のところで停まってくれればいいのだが、止めることができずZの極限に向かって流れてゆく、オーバーランだ。そしてZの極限に達すると反転しないと心身が保てなくなり反転する。 あたかも、そのサイクルは、何かの必然のようであった。 そのときの極限には、際限がないはずと頭では認識しているも、私の免疫力の限界からか、心身が堪えられなくなり反転した。 私に取っては、Aのどん詰まりにせよ、Zのどドン詰まりにせよ狂気の気分が湧きはじめ、幻覚や妄想が現れはじめ、これ以上は無理と生理が限界信号を出す。客観的には際限のない極点が、私という主観的知覚からは、確かに私の限界点が存在した。 私の願っていた双極性動態のコントロールとは、AからZへの流れ、ZからAへの流れ、その移行のなかで必ず訪れる気分バランスのいい状態のところを長く維持する術探しであった。操作できるはずと考えた。 最初にそのヒント探しの網に掛かったのが、1933年日本公開のアンドレ・カイアット監督「眼には眼を」(仏)であった。中東シリアの砂漠の小都市で現住の女が子宮外妊娠し、夫が故障した車に手こずりながらやっと病院にたどり着くもフランス人医師の誤診で妻を死なす。その復讐に砂漠の渓谷の吊り橋でその医師の最後の水(ボトル)を落とす。イスラムの男と女の白人への復習。激しい怨念と執念の実行。 当時なぜこの話が私の心情操作に役立つヒントと感じたのか未だに不明。だが強烈な記憶としてテレパシーとして残っている。 二度目のテレパシー受信は、前衛文学同人と称する会で知り合った3つ年上の男から、ストラビンスキーの「春の祭典」スイスロマンドのアンセルメ指揮 を聴かされ、シベリアの大地に春を呼ぶ生贄の祭りのクライマックス。動の連打のあとの「静」。「動」の極限と「静」の極限を思わせ、到底この極限のイマジネーションを湧かすことも表現することもできない己の才能に強烈なダメージを受け、そのあと身震いするほどの感動が湧いた。 古来よりクラッシック音楽は、宮廷の庇護のもとに清らかな音で作られていた。それに対し、ストラビンスキーなどが追求した現代音楽は、土着の民族音楽に含まれていた不協和音を取り入れたものだった。 また、このレコードのジャケットには、華麗の指揮で有名なアンセルメはフッサールの現象学者であり、数学者でもあったと記されていた。。 三度目は、先天性心臓奇形で、生後三ヶ月で長男を亡くし、父が孫の成仏を願って浄土真宗に帰依した。これを契機に私は地元出版の「恐山物語」にあった地蔵和讃に深入りし、此岸にいる私が生ある限り「三つきという短いときをともに過ごしたことを思う」ことした。 四度目のテレパシーは、先の記事で書いたように、自分の弱さ(その頃から、性格のみの弱さもさることながら、コトに対する意識化の弱さ、執念の軽さなどを意識しはじめていた)の切除のツールとしての日本刀の魅力、民族的アイデンティティを呼び覚ます美学。作刀法・鍛錬法・砂鉄・玉鋼。さらには和鋼と青紙スーパー鋼と日本の現代打ち刃物。そして妖艶な文様を醸す話題のダマスカス鋼・ウオーツ鋼と日本刀鍛錬法とのこと。 五度目のテレパシーは、NHK教育テレビの時代に放送された「フロイトの心の構造と唯識の心の構造の類似性」。これは解釈しだいではきっと使えると思った。それを追っかけた経緯は、以前このブログに書いた。 当時探していたのは、[個々人の命の根はきっとあるはず]それが無意識の領域であろうがなかろうがどちらでもよかった。たまたまその話では、無意識の領域だっただけ。 個の魂のいる世界=[かけがえのない私の命の源・阿頼耶識]と、現実世界=[人間同士がよくも悪くも関わって生きている世界]とが有機的(ここでこの表現は適当でないがとりあえずそうしていた)な一本の糸で繋がりうるもの。もしその糸がイマジネーションとしてでもいいから、確かな手応えで認識できたら概念化できる。 その概念(コンセプト)は、AからZまでの際限のない三次元空間に星の数ほど存在する教理や、定理、思想、イデオロギー、価値観、主張、未知の知など、正解のない現実世界において自己がバランスよく生きようとする力になると仮説した。以後幾多のトライ&エラーで、私というハーソナリテイにおいては、かなり有効性を発揮した。別のとらえ方をすると[内省的世界](純粋主観)と、[社会的連帯世界](ある人は、共同体社会におれる自己存在といい、ある人は、人間は一人では生きられない人間同士助け合って生きる存在といい、ある人は、それを絆といい、唯識でもそれを縁起という、……) 私として有効性があったとて、普遍性のもてるロジックでありツールになるとは限らない。唯識では阿頼耶識は、無意識世界のこころのありようであり、意識化しないと現実世界でのモチベーションとして働きようがないとしている。 このブログでは、人間だれしももっている得意技を生かして連帯社会で役だって行く、その源は、命をつないでゆくための「個」の原始的デモーニッシュに内在するバイタリティが己のモチベーションをかき立てる。エキサイティングさせる。それこそが人間の歴史を発展させてきたイノベーションではなかったか。 この仮説を長らくかけて追っかけたが、そんな「共通善」はどうやら存在しないと、81歳のこの歳になってやっと知った気がしている。やはり[国=国益]とか[族の価値]とか[国境]とかの守りと攻めの攻防のバランスで歴史は作られる。 今関心事は「世界が平穏であるためならの嘘、二枚舌も許される」=したたかな民主主義。世界の警察国家の威力が失せたアメリカ。そして人気NO1のロシアのプーチン。イスラム原理主義(自爆を賭した価値合理性)、古代ユダヤ民族の怨念、中華思想・五行思想、朝鮮起源説。そこに絡む多神教・八百万の神の東洋の果ての日本。 このブログのはじめの頃書いた「マクロコスモス=宇宙」も「ミクロコスモス=人間」も支配しているものはシャクティ(サンスクリット語の「力」)パワーである。という「業の思想」の言葉がいやにリアリティをもって思い出される。 今朝NHK深夜便で「ねむのき学園」の宮城まり子の「愛」のインタビューは感動的だった。これは日本における共同体愛の極限とさえいえる。探せばもっと向こうに際限があるかも知れないが。「学園の経営を考えると死ぬに死ねない」の言葉が胸に刺さる。この愛の継承にもお金はいる。寄付で賄うもあるが、やはり継承には資金調達の合理的手段は欠かせない。 そして、民主党政権を経て、第二次安倍政権。ITの普及ともあいまって、日本の国民も「生活」や「死に方」の絡む国政(政治。経済)の表と裏、さまざまな格差の起こる正体の虚実を掴む術を学習した。特に東電絡みの原発問題での学習は大きかった。 でも、若い理系の人たちから思いもよらない着想が生まれ、世界一の技術が実用化しかけている。しかしその軽やかで笑いに満ちたモチベションから生まれたイノベーションは、古い革袋のプラットホームやOSには馴染まない。彼らは軽やかに[族に属する自分]と[古い掟に拘束されない自由な自分]の二枚の名刺を使い分け、歴史的転換期の大海原に漕ぎいでている。 文系の若者ももがいている、クロスメデアやSNSを使いこなしコンテンツビジネスで未来を拓こうともしている。コンテンツというそのコンテンツこそ謎の可能性を内包していて、妖怪のようでさえある。進化するデジタルの使いこなしと、次世代アナログとのコラボ。国境を越えた異民族のデモーニッシュと同化したりして─── 理系・文系のカテゴリを話題するのは日本人だけとか? 嘘かほんとか知らないが。
by kuritaro5431
| 2013-12-18 12:26
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