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哲学から演歌まで  

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2013年 02月 27日

実はこのブログで、ひっくり返しを試してみたのだが

 平易でわかりやすい文章は、私の特技であったが、あえてペダンチックな文体にした。そうした理由と、結果の思いを今回は書きます。

 私のビジネス文章修行のスタートは、昭和36年29歳のとき。M自動車ディーラーの営業業務課長時代。当時大変評判になっていた岩淵悦太郎編著『新版悪文』から。
 
 散文でなく、あくまでビジネス文章としての心得だった。

①読み手は忙しいので、すらすら読めるように───
②枚数はできるだけ少なく。3枚までがよい。(当時はB5箋、手書き、今はA4ワープロ主流)
③センテンス短く、句読点多く。漢字少なく、新聞記事モデルで。
④改行はMAX5行以内に。
⑤含みの文章禁止。意味を取り違えられないように。
⑥小割りブロックにして小見出しつける。
⑦チャートなど入れて視覚的理解訴求。ロジカルな伝達なり、ロジカル・コミュニケーションの促進に役立てる。
⑧書き慣れの訓練。
⑨社外などへの公文は、様式の細部まで詳細配慮
 ・宛名(社名、所属部署、役職、氏名、などいずれもフル表記・省略禁止)
 ・社標準あれば遵守
 ・なければ、JIS標準で
⑩手書き文字は、美しさより正確さ、整然さ、読みやすさ、親しみやすさ重視。

 29歳より、62歳のJフアーム退職までの33年、スタッフ畑で毎日書いた企画職人のマナーと心得としてやってきた。勤めた3社のなかでは、いずれの会社でも読みやすさと早さで一番だった。退職後、個人コンサルとして上記の心得を守り、サービス業をやってきたと思っている。


 そして80歳近くなって、東北大震災というとてつもない災害を一人の日本人として遭遇した。作家であり僧侶の玄侑宗久さんの「今こそモード変換を」といった言葉に触発されて、20歳代の若者との接触を図ってみた。
 後で分かったことだが、その人たちは高級ノマドといわれる高学歴の連中だった。シェア・ハウスに集う会を訪ねた。
 私の一番の現場体験は、経営コンサルとして接した中堅企業の経営者や幹部、そして社員たちだったと自己紹介した。するとそのなかのノマドらしい女性が、「経営のハウツーとやらを教えてこられた?」といった。私はムカッとして「ハウツーを求める経営者の会社とは契約しなかった」といったものだ。
 後でのミーティングで感じたことは、大企業ですら大学教育に求めるものは、入社後すぐにも即戦力として働いてくれる「実学」という力量をという言葉と同じニュアンスの「ハウツー」に[下品な妙手]と嫌悪を抱いていることを確認した。そのことは私も同感だった。

 その後しばらくして休んでいたこのブログを使って、以前から考えていた、皮肉を込めた反転のひっくり返しを試してみたいとの思いが強まった。それは「わかりやすく読みやすい」を無視した読者にへつらわない文章ということでもあった。

 Jファームで学んだことに2つあった。1つは、ベーシックな知識をビジネスの世界で実用化できる知恵に変換すること。もう1つは、「なんでもかでも抽象的なこという評論家や学者の言葉には現実感がなく、企業経営には無益のもの」という考えがオーナー経営者には多々あると実感していた。要は具体的でわかりやすいものでないと現実世界では役に立たないと。それに近い考えをもって発言している政治家もいた。ところが「具体的こそ善しとする考えには、DOの指示をしたがるちぢこまった思考が習慣化しているところ」と教えられ、それに対し抽象的な思考には、方法を限定しない豊かな選択と、人間の発想の可能性を信じる自由があった。その発想に触れたとき私は、目から鱗の感動を覚えたものだった。確かに「目的」の抽象度を高めると、目的達成の選択肢は抽象度に比例して広がるが、現実との論理的距離は遠くなる。イマジネーション力がないとこの方法論は使えない。この発想は自分の力、イマジネーション力でイノベーションも、問題解決を試みるハウツー思考とは正反対のもだった。

 それでこのブログでは、ハウツー批判の皮肉を込めてペダンチックともいえる思考法であえて試してみた。もう一つの皮肉は、高級ノマドの女性がいった今の若者に何となく共通するシニシズムとしての「ハウツー蔑視」=「実学も蔑視」への皮肉も込めてこのブログを書いたのである。

 政治の世界で、政党の公約とみなされていた〔マニュフェスト〕も何人かの学者が指摘したように、本来のマニュフェストとは「共産党宣言」のようなもので、具体的政策を並べたものではないといっていた。ところが国民の多くが期待する具体的実行項目の公約としてマニュフェストが位置づけられるようになり、政党によっては、具体的施策をわが党は掲げていると自慢そうにいっていたところもあった。
 そしてポピリズム化したマニュフェストは、「実行できない政党のお題目」と国民の政治不信へと広がった。


 ところで、このブログのベタンチックな概念性が皮肉と取られず、嫌み感覚として表に浮きすぎ、読者数は伸びなかった。もともと読者数を求めてのブログではなかった。マイナーでよい、リタイヤした老体のたわごととして見られ、攻撃するにも値しないと思われるものだろうから現役の人が言えないことも書けるとも思っていた。
 それよりなにがしかの実用性があると評価してくれる人がおればいい。その人たちはどれぐらいいるかの方は気になっていた。
 そしてマイナーながら読者数は緩やかに増え、今日現在1979人になった。



 そこでこのブログに対する自分の評価・反省は、曲がりなりにも同じスタンスで書き続けたから分かったことでもあった。それを次に列記してみると────

■前号「混沌の今、どう生きる」の記事のなかにあった「今日、2013.2.20の日経新聞朝刊だけでもこれだけのことが挙げられた」のなかの、加地倫三著「たくらむ技術」の広告文にあった「かわいがられた方がぜったいトク」いう言葉。

これをこのブログに当てはめてみると、嫌み感覚が浮き立ちかわいがられなかったかと。


■政治の関連談話でよく聞くようになった「ケミストリー(chemistry)」という言葉。ここでは、「人[集団、状況]の性質:(人と人との間の)相性、つながり。という意味で使われていた。

これは今回の安倍総理とオバマ会談での安倍総理評価にこの言葉が好意的な意味で使われた。国家戦略の絡む外交においても、このケミストリーなくしてやり遂げられないと。それには表の相性と、報道されなかった熾烈な裏でのやりとり、この表と裏の明暗を、ケミストリーのパフォーマンスで自己演出しあう技。ウイットのユーモアも交えて───その先に発展するであろう互いの信頼と、目指す国益。

もう一つは、プーチン大統領と森元総理の会談。ここでプーチン大統領が北方領土問題で、持ち出した「引き分け」の意味と、両人のケミストリー。プーチン氏のしたたかさを語る元ロシア大使。

■つぎに「疑いの過剰反応はよろしくない」との元アメリカ大使の発言にBSプライム8のキャスター苦笑い。

このブログでは、疑ってかかることが「哲学することのはじまり」であり、リアルに生きる基本とも書いた。その考えに今も変わりはない。が、それを表の顔で発言したり発表したりするかどうかは別のこと。疑いの影を表に投影しながら、過剰反応しない。疑いももたないのは、幼稚。
このことで、かの有名なルース・ベネディクト著「菊と刀」(昭和24年)を眺めてみると、当時は当時としても今でも私から見て、日本人観察はかなり当たっていると思うところがある。ベネディクトは日本にきたこともなく、資料だけで書いたものと内容は疑わしいというアメリカ人もいるようだが、何事においても現状肯定して生きようとした日本人のお人良さは、あたっていよう。疑いをもたない国民につながる。
とはいえ、戦後の日本の経済発展を支えた思想に、現状を善しせず「現状否定」の精神で、改善していった足跡は今でも確かにある。後進国が日本語そのまま「カイゼン」といっている通り。ゆるい会話に慣れすぎると、疑うことも弱まり、改善パワーもイノベーション力も弱まる。要注意。

■「ノンポリ・オタクといいながら政治的事柄に強い関心をもつ、逆転のアウトサイダー批評家宇野常寬氏」

ノンポリと称しながら、従来の体制の枠組みを守り、利権で生きている輩に内心嫌悪すら感じるオーラを発するが、表だった過激の言動はしていない。その感性に同世代の若者が彼に共感している。「ノンポリのオタクが日本を変える時~」という番組をNHK・Eテレが組んでいた。
宇野氏は、先に若者意識を何とかしょうと、感性同朋の士のケミストリーを狙っているようにもみえる。

■「理性的認識と違った鋭い知覚能力をもつ《族》が確実に増えている」
実に高度なコンテンツを内包しているさまざまな媒体でも、いとも簡単に操作してその中身を取り込める《族》がいる。
紙媒体の漫画がデジタル技術とコラボして進化した。並行して人間の肉体への関心が高まり、五官による認識能力が高まった。それぐらいしか想像できない戦後第一世代としての私。
現在においても、30代と10代では知覚認識の感性や質的能力は違い、その実態を想定することは私にはできそうにない。

■この一ヶ月、以前から関心のあった「虚と実」に思いを馳せた。
それは「表と裏」であったり、「リアリティとフィクション」であったり「現実とバーチャル」であったりした。そして昔から裏からの皮肉とか風刺に虚実の概念と感性が使われたようだ。
近松門左衛門の「虚実皮膜論」の原文には、「きょじつひにく」と仮名が振ってあるそうだ。

1994年の谷崎潤一郎賞の辻井喬著「虹の岬」の一文に、芭蕉の言葉が挿入されていた。
「虚に居て實をおこなうべし/實に居て虚にあそぶべからず」と。私は小説家であり詩人の辻井喬と西部百貨店社長・会長だった堤清二をこの言葉に重ねた。

■もう一つ興味深い言葉にであった、それは「伏水流(ふくすいりゅう)」
日本各地にある地下水脈の名水。永平寺では「冬期には雪がまんまんと降り積もり、清らかな水が地中深く蓄えられ、そのわき水で精進料理がつくられる」と。

表面的なストーリーの奥深く伏水流のように……と使われる言葉。

■これらの感性がクールジャパンの商品やサービスに織り込まれるかと思うと、なんだか希望が湧いてくる。

by kuritaro5431 | 2013-02-27 12:13


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