哲学から演歌まで  

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2013年 02月 10日

「演歌」「怨歌」のものがたり

 五木寛之さんが「怨歌歌手」と名付けた藤圭子は、岩手県一関市の生まれ。
 幼いころから浪曲歌手の父親、三味線瞽女(ごぜ)の母に同行して、門付けの旅回りの生活を送り、自らも歌っていたという。彼女は成績優秀だったが、貧しい生活を支えるために高校進学を断念。17歳のとき「さっぽろ雪祭り」のステージで唄う姿がレコード会社の関係者の目にとまり上京し、歌手としてデビューする。
 彼女の歌声には、夜の世界の女の暗く陰鬱な響きがあり、岩手の悲しい歴史を背負って生きる女の怨み=情念があった。(ソースwikipedia)

 私は、3.11を機に、岩手に関心を寄せていたから、藤圭子の歌を一度じっくり聴いてみようと思い、彼女のCDと、彼女の歌も作詞した阿久悠著『清らかな厭世』(中身は見ず、タイトルに惚れ込んで、これぞ演歌の神髄と思い)一緒に買った。
 彼女のCDのなかに、阿久悠の作詞ではなかったが、六本木哲作詞・作曲の「聞いて下さい私の人生」を一番に聞くことにした。
 一人静かなところで聞きたくて、30年も前よく釣り友達と鯉釣りに行った琵琶湖湖畔まででかけた。

 もう散りかけていた湖畔の桜のある砂浜に車を乗り入れ、CDをセットした。前奏がはじまって間もなく、私はその旋律に情動を感じ、1977年(昭和52年)篠田正浩監督・岩下志麻主演の「はなれ瞽女おりん」で見たカラー映像が突如蘇った。雪のなか、父母の後を追う少女瞽女おりん。白一色の雪のなか、おりんの行く跡に、初潮の鮮血のみがモノクロのなかにあった。あの情動は、まさに〈情念〉の映像化。忘れずにいた。

 そして藤圭子の歌がはじまった。

 聞いて下さい 私の人生
 生まれさいはて 北の国
 おさな心は やみの中
 光もとめて 生きて来た
 そんな過去にも くじけずに 
 苦労 七坂 歌の旅
 涙こらえて 今日もまた
 女心を ひとすじに
 声がかれても つぶれても
 根性 根性 ひとすじ演歌道

 さらに、二番も唄う。
 
 その後彼女の談によれば、自分はそんな暗い性格ではない。こんな歌は唱いたくないといって1980年一旦引退している。ところが翌年復帰しているが、その後は分からない。
 彼女の思いはどうあろうと、東北人の心情を唄ったことに変わりはない。そして懐かしい東北の原風景としての原共同体社会を、東北人も、すべての日本人も思い出したことだろう。天災・人災の3.11を機に。思いはそれぞれ違うとしても。ノスタルジーだけでこれから生きられないことも知っている。



 話を戻して───「はなれ瞽女おりん」の原作者・水上勉は福井県大飯町生まれの人。物語の舞台は東北ではなく北陸と思われた。水上勉の生家は、小浜から舞鶴に向かう国道から、噂の大飯原子力発電所に渡る[青戸大橋]を渡らず、反対側の道に入ったところと聞いていた。水上勉の父親は、村の墓地の入り口に住まう棺桶大工だたったと。
 北陸の地も、寒い北風が吹きつける貧しい人たちが住む地であったのだろう。生まれた赤子を断崖から落とし、間引かなければ食っていけなかった。水上勉の書いた民話のなかに、北陸でも座敷童伝説があったと書かれていた記憶がある。間引いた子の霊を祀ったのだろうか。
 この話も「怨歌」としの根は一つ。このブログの「掌編小説・首なし塚」のでどころはここだった。




 ここで一旦話は飛躍する。
 先日起こった「アルジェリア事件」。

 1937年フランス映画の名匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督が撮ったフランス映画の代表作。ジャン・ギャバン主演の「望郷」、原題「PEPE LE MOKO」。映画ファンでなくても知っている名作。日本公開1939年(昭和14年)、キネマ旬報・洋画の部・ヘスト1。
 この映画は、フランスの植民地時代パリで銀行強盗をやったお尋ね者のギャングの名前がペペ・ル・モコ/ジャン・ギャバン。彼はフランス統治下のアルジェリアの迷路のような暗黒街カスバに隠れる。彼は偶然酒場で出会った金髪のパリ女に惚れてしまう。ペペが「メトロの匂い」と表現した、パリへの望郷の思い。モコが射殺されたと刑事から聴かされ、パリに帰るために波止場に行った彼女を追って、ペペは警察に捕まることを知りながら街を出てしまう。波止場で船上の彼女に向かって叫ぶ「キャビー」という叫びは汽笛に掻き消されて届かない。映画史上に残る素晴らしいラストシーンは、日本映画にも多くの影響を与えた。
 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、フランス人特有のペシミズムを描いた代表的監督でもあったからだ。

 フランスと植民地アルジェリアの関係は、政治的にも宗教的にもかなり複雑な関係であった。1966年には、フランスとアルジェリアの共同製作映画「アルジェの戦い」(アルジェリア独立運動地下組織の戦い。指導者青年の死闘の物語。日本公開1967年、キネマ旬報・洋画の部・ベスト1)。1972年にはイタリア/アルジェリア共同製作映画「さらば外人部隊」カスバを舞台とした映画。などがあった。
 
 映画「望郷」では、遠い異国の日本人には当時のアルジエリアの政治状況は一般の観客には分かりようもなかった。男と女の切ない物語として受けとめてた。

 この映画「望郷」は、日本人の情動に強く共鳴し、演歌「カスバの女」、作詞・大高ひさを・作曲・久我山明・唄・エト邦江で世に送り出し大ヒットした。

 その歌詞は、

 涙じゃないのよ 浮気な雨に
 ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
 ここは地の果て アルジェリア
 どうせカスバの夜に咲く
 酒場の女のうす情け
 
 唄ってあげましょ 私でよけりゃ
 セーヌのたそがれ 瞼の都
 花はマロニエ シャンゼリゼ
 赤い風車の 踊り子の
 いまさらかえらぬ 身の上を
  
 貴方もわたしも買われた命
 恋してみっとて 一夜の花火
 明日はチェニスか モロッコか
 泣い手をふる うしろ影
 外人部隊の白い服


 この歌は、多くの演歌歌手に時代を越えて唱われた。(順不同)

 エト邦江、青江三奈、ちあきなおみ、藤圭子、八代亜紀、梶芽衣子、田端義夫、前川清、氷川きよし、などなど。


 今回のアルジェリア人質事件で、最後に亡くなられた、前副社長最高顧問の新谷正法氏の一年先輩で、昔一緒にアルジエリアに赴任されていたという日揮OBの方の話が印象的であった。
 日揮といえば、報道でご存じの通り、さまざまなエネルギー産業に関与している世界的プラント会社である。そのOBの方が「あの映画にてでくる、あのカスバの酒場で、日本恋しと、日揮の派遣社員みんなで、『カスバの女』を唄ったものだった」と。それがどれだけ励みになったことかともいった。
 私は、なんども見ていた「望郷」を、この記事を書くため再度見た。
 今、世界各国ではエネルギー問題が暗黒の人脈も絡んで、魑魅魍魎の世界を形成していると聞く。人脈の弱い一国の首相が、人命第一優先。テロによる暴力は許さないと、宣言してもその黒いパワーは厳然と存在している。
 ここでも、犠牲になるのは、表の社会から抹殺されても仕方のない人々ではなかったか。そこにも福島原発の事故直後高濃度汚染水で被曝して無縁佛となった人たちと同種の人がいたのではなかったか。その人たちの「怨み」が澱になり、地球のあちこちに堆積している。その思いを共有しいる此岸の人が唄うのが「怨歌」だろう。
 

 もう一面、この映画「望郷」と、フランス人ジュリアン・デュヴィヴィエ監督を思うとき、当時でも西欧人の大半は、ペペ・ル・モコとキャピーの関係を、理性では制御できない人間の性(さが)として厭世的ではあるにせよその情動を肯定的に捉えていたと思った。もともとジュリアン・デュヴィヴィエ監督自体そんなタイプの監督だったから。それはアメリカ映画にはない繊細な人間感情を肯定的に捉えようとするフランス映画の魅力であった。
 また、男女の間の感情と、理性が制御しようとした情念とは別。と思っているフランス人が大半ではないかとも思ったりした。男も女も、一人の相手に貞節を尽くすという考えが道徳的かといえば、それは相手の個人的存在としての自由を束縛することになり、社会的規範としての道徳性より、「個としての実存性=他人が代行できない自己と関わる相手としての異性が優先する」というおもいがあるのではないかと思ったりする。
 そう思えば昨年日本でも上映された「サルトルとボーヴォワール哲学と愛」のわけが分かるというもの。

 演歌とは関係ない話であるが、1958年のフランス映画、監督・脚本ルイ・マル作品「恋人たち」ジヤン・ヌモロー主演。当時ルイ・マル26歳。私も26歳・肉体も精神も燃えていた。その時期観た映画は、私の想う〈情念〉の極みであった。
 ────月と星がときを制する夜、あらゆるものは眠りに落ち、闇と静謐が時間の観念を忘れさせる。その刹那、恋の深淵に沈んでゆくふたりにとって瞬間は永遠の意味をもつ。華やかな上流社会にいる夫人が、すべてを捨て去り、ふと知りあった青年と逃避行に出発する。たった一夜の出来事で女は変わった、恋に日常の時間概念は通用しない。月明かりの情事は、風景を、男と女を、透き通るガラス細工のように映しだす。この美の官能に研ぎ澄まされたジャン・ヌモローの怪しい眼差し。
 その映像の背後に繊細でけだるいブラームスの弦楽六重奏曲第一番の曲がながれ、やがてすべり落ちてゆくようでいて決然とした響きを孕む旋律にいろどられ"恋"の極限に達する。
 その後私は、この曲がブラームスの弦楽六重奏曲第一番であったことがおもいたせず、それらしいレコードを買ってはみたが、みな違っていた。再上映されることもなかった。そして昨年、十字屋楽器店で再版のDVDをみつけ購入た。そして54年ぶりに観た。
 26歳のとのときのような肉体的知覚情動は得られかなったが、どこか無意識の深層に反応していた。その記憶は、脳のどこか、臓器のどこかなかわからなかったが、確かに呼応していた。(ソース上原徹)


 
 ここでもう一度日本の話に戻したい。

 歌謡曲の一部が「演歌」といわれるようになった説とか時期はいろいろあった。だがなにをもって演歌というかという定義らしきものはなかった。自然発生的にそういわれるカテゴリーがてきたとしかいいようのないのが実情のようである。別に学問的に演歌を研究しようというわけではないので定義はどうでもいい。

 一般的には「昔にはあった人情とか、近代という時の流れに取り残されてしまった男への悲哀とか、そんな男に共感する女とか、神戸や横浜の港に立ち寄る外国船の船乗りとの一夜の恋と別れとか、情に飢えた酒場の女が男の嘘に騙されたとか、また叶えられぬ人の妻を愛してしました男の悲哀とか。これらのイメージを唄う歌を演歌といっているように思える」。

 それでは、この記事を書くにしてもよりどころがないので、ここでは一応「演歌の肝は情念」との私の仮説ですすめてきた。
 
 そうなると、五木寛之さんの思考とイメージにある、また、梅原猛先生のいわれる日本の故郷東北といわれるイメージを私は「演歌」「艶歌」「怨歌」と捉えてきた。
 私流にさらにシンボリックに絞るなら「曽根崎心中」のあの下りになる。

 ――この世の名残り、夜も名残り。死にゆく身を譬ふれば、仇しが原の道の霜。一足づつに消えてゆく。夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば曉の。七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の。鐘の響きの聞きをさめ。寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは。草も木も空も名残りと見あぐれば。雲心なき水のおと、北斗は冴えて影うつる、星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の、橋と契りていつまでも。われとそなたは女夫星。かならずそうと縋りより。二人がなかに降る涙、河の水嵩もまさるべし。……

 透明な情念の連鎖と、その韻律。
 湧きあがる内からの暗雲に耐えかねている。
 心の闇の連鎖を放っておけばとほうもない怪物となって地獄の底までついてくる。
 恐怖が津波のように押し寄せてくる。
 
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by kuritaro5431 | 2013-02-10 17:09


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