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2013年 01月 17日

「ペンデング・タグ」があまりにも溜まった(2) 〔ヘーゲルのいう「無」〕

●「共通善」

 私はこのブログを通して「共通善」なるものを探していたような気がする。
 どこの国でも、性別年齢を問わず、人間だれしも持っている「輝くように生きたい」と深層で思っている因子のようなもの。
 あのサンデル教授も先日この言葉をある記事で使っていた。しかし「善」の定義らしいことはの語られていなかった。

 私のイメージしている「善」とは、勧善懲悪に含まれるような善ではなく、悪とも対等に戦える「パワー」を持った善。一神教をイメージする「絶対善」ではなく、悪の因子も内包した「相対的善」である。善の因子に実態があるかないか分からない。刹那に変化・流転している「気」のようなものを想像している。その人の心と身体を統合している命の「根源体」とか「核」のようなもの。
 以前このブログに書いた唯識佛教の心の構造の深層の心にあった「阿羅椰識」がフィリングとして非常に近かった。出逢いの動機は、40年も前になるか、NHK教育テレビで、フロイトの心の構造と、唯識のいう心の構造とがよく似ているとのことからであった。その説には幾多の見解があり、以前触れたのでここでは割愛する。

 その前に関心を持っていたA.H.マズローの『人間性の心理学───モチベーションとパーソナリティ』が下敷きになっていたことは事実であった。バブル景気崩壊前の「働く日本人」にはいたって有効であった。しかし、あのバブル崩壊後、3.4年でガラガラっと変わり、能動性のない日本人が増えるようになった。
 そこで私流(我流)のトランスファでありコラボレーションを思いつき、パーソナル・アイデンティテイの根本に阿羅椰識を置いた。そこを起点として自分にとってかけがえのない命の綱と外界を繋ぐ継ぎ手として「自己モチベーション」という概念を持ち込んだ。この考えには「自我」という厄介なものをどう扱うかという難問はあったが、まあ比較的取っつきやすいキーワードと考えた。仕事に取り組む姿勢にしても、キャリヤ形成にしても、前向きで積極的であれば、多様なイマジネーションが湧き、問題解決力もつき、経済成長の源といえるイノベーションにも役立てる。内的にも外的にも主体性のある自己形成ができる。よって狙う中間所得層への近道となる、と考えた。

 これを「汎用性のある共通善」とした仮説でこのブログを書き、発信した。
 今日現在のこのブログの読者数は、1.701名で実にマイナーである。ほとんどは毎回の「記事ランキング」から伺えるような若者が中心と推測。現在の政治とか社会システム、さらには自分のありようになんらかの矛盾を感じている層、[族]とみている。その読者においても必ずしも「共通善」という概念で串刺しにてぎる存在ではないと考えるようになった。 


●「共通善」なんてなさそう。そう思うようになった。

 私は「幼形成起熟」Neoteny(幼児の感覚で大人になっている異常者)の一種なのか?

 先のブログ『世界を五つの社会類型で観る』の本にも書かれているように、同じアジア圏で、しかも古代から交流のあった中国においても、コミュニケーション・ギャップは決定的なところで起こったりする。同じ漢字を使っても意味が全然逆だったり、対人関係、国交関係で謝れば、謝った方が賠償責任を持つ習わしとか、言語や態度という生活習慣の違いから自尊心まで傷つけることがある。と日中の民間交流の専門家はいう。
 これはいつも聞く、NHKラジオ深夜便「明日へのことば」でのその専門家の話だったが、日本人が書面で書く「手紙」という言葉は、中国では、「トイレットペーパー」のこことか。(聞き書きなので間違っているかも)。日本人と中国人が同席する席で、日本人が中国人に先に薦めることをせずタバコを吸いはじめたとする、中国人は馬鹿にされたと憤慨する。また、日本に滞在することになった中国人が、引っ越ししてきた挨拶に、土産をもって隣近所に挨拶に行った。するとどの日本人も、返礼の品を持って「こちらもよろしく」といってきたという。この行為は中国では、あなたとはお付き合いできませんという意志表示という習慣があり、その中国人はショックでしばらく落ち込んだとか。これぐらい[民族]かと[所属する・族]によってコミュニケーション・ギャップとか、勘違いが生まれるもの。それは当たり前のこと、だから「共通善」なるものは存在しない。ということがいわれる説が成立するようである。
 だから英語を世界共通言語にして、言葉のニュアンス違いからくるギャップを縮めようということも理解できなくもない。反面、言葉は国家統一の重要な因子なので、征服者が被征服者を徹底支配するため、征服者側の言語に強要統一した例は歴史に多くある。

 国内においても、価値観の多様化とかいうレペルを越えたところまで、さまざまなギヤップは複雑化し「格差」「差別」の要因となっている。それらの現代人の苦悩は、「哲学的アプローチ」であったり、「宗教的アプローチ」であったり、「心理学的アプローチ」であったり、また「医学的阿ブローチ」てあったり、で解決・改善の試みがなされている。
 また、政治や社会システムとは関係のない音楽や舞踊など言語とは別の文化領域で、国境・民族間の壁を越えて共感・共鳴のコミュニケーションも「善的」成果を挙げていることも事実である。日本における「明日がある」運動も、その典型かといえる。



●「東洋的無という観念の出所は近代西欧にあり」ヘーゲル(1770~1831)

 ずっと以前から気になっていたこの言葉がこの際浮き立った。
 1998年に購入した、鷲田小彌太著『哲学詞華集』のなかに載っていたヘーゲルのことばである。
 見開き1頁の短い文章なので、そのまま引用し、前述にまつわること、『世界を五つの社会類型で観る』の本にも書かれていたちこと、今外交問題になっている中国との関係、世界で最も旧いといわれる国家シナのこと、など考えを巡らしてみたい。

 (以下掲載文のまま)

 東洋的世界の原理は、共同体精神が権威として現れることにある。個人の気ままな振る舞いは、東洋においてはじめて権威のもとに抑制される。共同の観念は法律の形にあらわれる。しかし、主観の意志にとって法律は外から支配力をふるう権力であって、心情、良心、形式的自由といった内面的なものすべてが今だ存在しない。(「歴史哲学講義」) 注❶


 近代哲学は、紛れもなく西欧中心主義である。歴史も哲学も、中心がどんどん西に移動した。ギリシャ、ローマ、パリ、ロンドン、ベルリン。しかし、なにものも無から生まれない。歴史でもご同様。ギリシャの先はペルシャであり、その先はインド、そしてどん詰まりがシナと考えられていた。
 しかし、現実の文明史は、ペルシャ・エジプトから始まって、東西に分化し、イギリスからアメリカへという西回り路と、シナから日本へという東まわり路が交わって、世界が一つになった。
 西欧にとって東洋は遠い。そのどん詰まりは、さそらに遠い。シナの歴史、東洋的世界、アジア的共同社会は、個人が完全に共同体に埋没してしまった世界、非主体的世界である、という通念が成立した。日本人が抱いているアジア的な性格などは、西欧近代が植え付けた産物ではないか、と疑ってみる理由はある。
 ヘーゲルは、シナとともに歴史が始まる。歴史が伝えるところ、シナは最古の国家である。その国家原理が共同体であり、共同体と主体が無差別に融合している世界だという。つまり、ヘーゲルは、シナをいまだ人間の自我意識が発生しない無意識の世界、動物と陸続きの世界だ、といっているのだ。そして案外、シナ=日本=アジア的のヘーゲル的定義を、私たちは心地よく感じているのかもしれない。注❷


*ヘーゲル哲学の特徴は、「歴史」と「現実」が厚みをもって語られているところにある。いうまでもないが、マルクスの歴史観や現実意識の大半は、ヘーゲルからえた、といっていい。注❸

 (以上が掲載されている全文である)


 注❶「歴史哲学講義」に書かれたものを著者が要約したものと思われる。
「歴史哲学講義」とは、ヘーゲル死後、後世のヘーゲル研究者が、ヘーゲルの講義録をまとめたもの。日本では、ヘーゲル著・長谷川宏訳「歴史哲学講義」上下・初版1994年・岩波文庫あり。

 注❷❸著者の内容紹介



 私の感想

ⓐ『世界を五つの社会類型で観る』を読んだとき、神父の著者がフランスで修行中、同僚の研究者神父に日本人にも理性を通して自己の内面を洞察し、自己アイデンティティをもとうとする者が増えている。と何人かにいったが、だれひとり理解してくれる者はいなかった。欧米人以外そのような理性的思考のできる者がいるはずがないと、いわれたと。
 その言葉以上に、今回改めて読んでみて、2.3日眠れないほどのショックを受けた。

ⓑ❷の後段で「~いまだ人間の自我意識が発生しない無意識の世界、動物と陸続きの世界~」をシナといい、「シナ=日本=アジア的のヘーゲル的定義」であった。これほど露骨な蔑視があろうか、と。

ⓒ西欧で「自我の確立」がなされたのは、ルネサンス(14~16世紀)ではなかったのか。それ以降を西欧基準で「近代」と名付けたのでは。

ⓓさらに、❷の最後で「(そのことを)私たち(日本人)は、心地よく感じているのかも知れない。」と。ぐさっと鋭利な刃が刺さる思い。
 まさに「無意識の動物と陸続きの世界」。言い換えると「森羅万象の自然と一体で暮らしていた縄文の時代の尾てい骨を残して暮らしていたアテルイそのもの」。テレビ「アテルイ伝」で描かれた原始共同体の「絆」は、確かに理性ではなく「情による連帯」であったのかも知れない。個人の気ままな振る舞いは許されない共同精神は権威となり、掟であっただろう。
 なのに、「アテルイ伝」のもつ原始共同体的なものに日本人は無意識に心地よいノスタルジーを感じているのかも知れない。

ⓔ確かに、日本は戦後の経済成長で、欧米の近代合理主義(民主主義と資本主義セットの)を学ぶことによって経済的・物的豊かさを得た。ところが西欧といわれるEU諸国も、アメリカも、世界を今後もリードするパワーを継続できなくなってきた。世界をリードし、モデルたり得た欧米思想が、これからの世界のモデルたり得なくなった。
 その根本には西欧では近代以降、自然も、経済も、人間の働く成果も、人間の理性→知→合理性(科学も含む)→なにごともコントロールできるという思想が主流となり、今も主流として生きているところにあると思う。

ⓕさまざまなギャップや格差は、矛盾をはらみ・対立し、新しい社会や人間の生き方の枠組みを変えていくだろう。その選択肢の一つに、西欧に蔑視された感性を内包するクールジャパンがある。

ⓖ政治においても、経済においても、社会と個人の関係においても、行き詰まれば変革のエネルギーが起こる。回帰ではなく、過去の遺産・伝統を取り込み脱皮するもの。
 過去の権益を固守したい人、「新しい酒は、新しい革袋に」という諺のように、人間の営みのベースとなるプラットホームを変えてゆく人、そのパワーバランスが問われているのか゜今だ。

ⓗ「共通善」という概念は、もてないかも知れないが、私がこのブログにとりあげた「加藤登紀子のこよなき健全性」の記事(「こよなき健全性」という言葉)は息長く多くの人の賛同を得たようだった。  

by kuritaro5431 | 2013-01-17 14:09


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