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2012年 08月 21日

私の考えた「自立」とは? (2)

 「自分と社会」との関係のありようとして考えたのが(1)であった。

 (2)では、(1)の対の概念として「自分のなかの自分」を考えようとするものである。

 学生時代福田恒存が、この2つの概念の前者を「社会的自我」といい、後者を「個人的自我」といっていた。自我を2元論的に考えるのはためらっていたが、まあ論理的に整理もつきやすそうだったので私はその考えを支持してきた。自我という概念はとても素人では扱えそうにないやっかいなものに思えていた。とくに「個人的自我」はとても難しいものに思えていた。

 この2つの「自我」の扱い方、とらえ方によって今回のテーマ「自立」について大きく変わる、と考えた。
 私はこれからの時代(バブル景気崩壊後)後者の自我「自分のなかのの私」=「個人的自我」がキーポイントになると考えた。

 自立とは、「他者や自分を支えてくれた外側の力がどう変わろうとも、能動的な自分として生きてゆく」こととしていた私には、うわべの自分でなく、深層の自分のところで「能動的自我を育て、根付かせ、そこから成長させてゆく。海中のでっかい昆布のように岩場にしっかり根を張り、段々成長し、広い社会にてでゆく」。ここで思う「能動的自我とは、社会のなかで自分なりの役立ちを演じてゆける私の根源体としての純粋の自分」。それを「自分のなかの私」「個人的自我」とも≒考えた。

 その考えを示したのが2009.5.2付けのブログ「自立してゆくしかない時代」の後段に載せた「PIを確立して世のため人のために役立ち真の自己実現の喜びを」という概念チャートだった。
 そのチャートの一番下に「PIコア」自己の根が「私の深層にある健全で能動的な根源体、純粋の自分」として設定した。社会への役立ちが感謝となって自己根源体にフィードバックされ、それは善のサイクルとなって、私の命も、他者の命も生命賛歌のパワーとなる。と考えると、健全な自我を支える倫理観も、一神教のような絶対神でなくても成立するのではないかと───
 その根源体の私のイメージに符合したのがたまたま「阿羅耶識」だったのだ。
 
 
 こんな風に「自主自立」という概念を天の邪鬼の私が我流に構築したからとてなにになる。と識者はいわれることだろう。
 この考えを世に普及しようか、ビジネスマンに教えてあげようとか、心理療法の1つの方便として使えないかとか、というものではなかった。私というパーソナリティから湧く心象を私なりに論理化したブロセスをチャートや言葉で示し、ちょっとでも「阿羅耶識」への善の刺激にでもなればと思ってのことだった。 


 それにしても、「自我」という言葉には、東西を問わず、時代を越えてとてもとても複雑な思いが入り混じっている。
 私の入り口は、東洋的思想では「自我を越える」からはじまったが、この言葉そのものの出所も怪しい。「越える」の字か「超える」か、また「超自我」か、「自我の否定」という言葉もあったのか。
 自我という概念定義も「哲学から、その学派から」「宗教の一神教から、その代表キリスト教から、その他の一神教の各派から、多神教から、日本の古神道から、日本において自力の自我はあったのか、浄土真宗に見る他力と自我はどんな関係だったのか。
 また「精神分析からみる自我は」「心理学からみる自我、ユング、フロイト、エリクソンなどの自我は」「心理療法からみる自我は」。
 さらには、欧米においてキリスト教のキリストが絶対者として倫理規範を厳然とコントロールしていた時代と、「神は死んだ」とニーチェがいった以後の西欧と、などなど歴史的経緯をたどる力さえ私にはない。

 しかし、歴史が近代化してゆく過程でその時代に生きた人たちにとって「自我」はのっぴきならない避けては通れない概念であったことに間違いはない。


 高度成長期のさなかでは、多くの若者がA・H・マズローの名著『人間性の心理学』を支持したものだった。モチベーションとパーソナリティをベースにした心理学だったので、いつしか私の原点になっていたのかも知れない。


 阿羅耶識といえば、フロイトとの比較論がすぐささやかれるようになっているようだが、切り込みの視点が異なれば、比較の対象にすらならない面もある。

 私は、先にも述べたように、比較論とか、精神分析論とか、心理療法に興味をもっての阿羅耶識ではなかった。ただ唯識のこころの構造とフロイトの心の構造のスケルトンが似ていて、私のトランスファ・ロジックに使えないかと思ってのことだった。



 
 (注) 2009.5.6のブログ「阿羅耶識」の後段に追加掲載した
    「連帯と個」の概念的試案 AとBのチャートについて


  これは、バブル崩壊後間もないころ、いろいろ「阿羅耶識」という概念を幻想した遊びのイマジネーションでした。機会があればまともに再考したい私のペンデング・タグの1つです。



 (お断り) 
 今朝、8.23.6:00この原稿を読み返し、入力ミスの多さに自分ながら驚きました。いつものことですが。気になった方その箇所読み返していただければ。すみません。
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by kuritaro5431 | 2012-08-21 15:09


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