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2012年 08月 08日

アメリカの合理主義の典型に反発した想い出

 前掲の事務機械化ワーキングチームに、「セールスマンの行動管理をマークカードを使ってやってくれい」という方針がトップからでた。
 当時の自動車販売は、どこの会社でもセールスマン別にテリトリーを設定し、訪問セールス方式を採用していた。
 トップは理系出身の元技術屋で、セールスマンはしっかり行動管理しなければなまける者、と決めてかかっていたようだ。今思えば、テーラーの科学的管理法的思考の人だった。

 確かに、今まで経験したことのない現業業務の分析をし、あるべきこれからの業務システムのありようをフローチャートに書き、なかなか標準化できそうにない業務習慣を、コンピューターが受け入れてくれるレベルまでどう標準化するか。ワーキング・メンバーは、日常業務をやりながら、研修所に集まり3^4日単位の合宿をやり、アイデアを出し合う時間を取った。その時間は楽しかった。その頃はすでに、JISによるフローチャートの書き方基準、使う記号もできていた。

 ところが、アメリカの合理主義のシンボルのようなコンピューターが人間を管理する。トップから要求されたそのことに、非情に違和感をもったものだった。
 それでも、その特命は受けシステム作りに取りかかった。トップは、完全自動管理のようなシステムを望んでいたが、リーダーの私は、私の責任で目立たないところでセールスマンが息抜きができる仕掛けを忍ばせた。

 システム設計のおもしろさが分かってくるにつれて、アメリカ的思考が込められたマシンを使って日本人を管理する。アメリカ人経営者とアメリカの労働者。会社内におれる連帯感、仕事観はアメリカとは違うと思うようになった。


 そして、2009年5月5日のブログに書いた「日本刀剣展」を見たときの想い出が蘇った。
 あの頃は、自己の弱さを切除する刃物探しからの日本刀であった。その効用は躁と鬱の波がかなりの落差で交互に半年ごとにやってくる、それの地ならしできるツールとして、残酷性と、美意識が欲しかった。別にマゾ好みでも、ナルシストでもなかったが自己を厳しく制御するためにその感覚を望んでいた。その感覚は、偶然な出逢いとして私の心の深層に定着してゆくことになった。
 元々の目的は、「躁と鬱の落差の平板化」であった。内科の町医者は「もっと気楽に環境順応したら?」といったが、「今のままの自分でいながら治してくれるのが医者ではないのか」などと、嘯いたこともあった。臨床心理士ならそんなの元々たいしたことはなかったんだといいそうである。また、精神科医なら単なる自意識過剰のパ-ソナリティ障害の一種というだろう。
 そんなわけで私は目的が達成される手段なら、俗説であろうが、愚策といわれようが自分にとって最適解ならそれでよかったのだ。学者ではないのだから。


 当時私の心をあれほど揺さぶり、自立的治癒(不安から安定へ。そして内的強さを一応保ち、他者への連帯的配慮も少しはできる人間に変化)したことから、温かみのない無機的なパサパサした機械のようなアメリカ合理主義に支配されてなるものかという気負いもあった。
 それはまだ方法の定まらないペンディグ・タグのような概念と感覚のようなものだった。

 日本刀は世界に類のない作刀法で作られていた。日本人の技術の粋、多くの工程にに分業化された職人がいて、それぞれがマニュアル化、標準化しようのない固有技術に魂を込め、現代では採算の合わない非効率の末に得た果物を尊んだ。まさにそこに、平安時代以降に形成された渡来技術でない日本人が生んだ技術があるとみた。

 そんな風な関心を膨らませながら、セースルマンの行動管理のシステム作りは一応完成した。

 それからの私は、しばらくの間、昔の日本の職人(技術者)たちの生きざまと生活を想像し、その魅力にのめり込んでいった。


 慶長2年(1597年)より前の刀が古刀といわれ、それ以降明治になるまでの刀を新刀と呼び、明治以降の刀を現代刀と呼ばれている。
 古刀は、一体の鉄で刀身が作られたが、新刀以降は、刀芯にカーボンー粒子の多い銑鉄を使い、その銑鉄を挟むように、カーボン粒子の少ない玉鋼が包んだ。古刀も新刀も折れず曲がらず良く切れた。いずれも、日本刀の作刀法は世界の剣のなかで一番の低温鍛え。資料にはコークスがなかったからとあるが、年代が符合しないところもあり、ペンデングになっている。

 天保の頃(1830年)刀鍛冶の間で「古刀作法に帰れ」という運動が起こった。刀身一体の鉄で作る作法こそ本来の日本刀であると。
 ところが、形、姿は古刀のように作れたが、古刀の切れ味はでなかった。その後なぜ? と古刀の科学的分析が行われたが、現代の科学をもってもその謎は解けなかった。当時いわれていたことは、多分古刀に使われた鉄の原料砂鉄にあったのではないかと。古くは古刀に使われた砂鉄は、山で採取した土砂混じりの砂鉄を、山中につくったかんな流しという疎水に放り込み、流しながら砂鉄を沈殿させ、砂鉄のみ採取した。
 そして集めた砂鉄を山中にこしらえた野蹈鞴(のたたら)=(1㍍四方ぐらいの穴・砂鉄を溶かす原始的溶鉱炉)に赤松の割り木を井桁に組んで燃やし、燃える炎のなかに砂鉄を放り込んでゆく。赤松の割り木は皮が剥かれていたことがわかった。皮には燐が多く含まれていたからだった。なぜ赤松でなければいけなかったのか、火力が強いからとの説もあるが、はっきりとはわかっていないようだ。彎刀の日本刀が作られだしたのが平安時代の中期ぐらいといわれている。その時代に赤松の皮に燐が多く含まれていたことをどうして知り得たのか。
 その野蹈鞴で七昼夜松の割り木を燃やしつづけ、砂鉄と割り木を交互に放り込む作業がつづけられた。

 山肌を削り、砂鉄混じりの土砂をかんな流し(疎水)に放り込む。かんな流しに流す水は、山中に池をつくり、そこから供給した。赤松を伐採し、皮を剥き、割り木にした大勢の人夫たちは野蹈鞴渡りの不定住者だったのかも知れない。砂鉄混じりの土砂と、割り木にする赤松を取り尽くせば、また別の山に移動したらしい。
 とてつもない重労働だったであろう。蹈鞴の炎の熱風をもろに浴びながら七昼夜の寝ずの労働。そんな人夫の働きによってできた鉄の塊は、下界に丸太のコロで引き下ろされていった。村里に集められた鉄塊(鉧・けら)は、粉砕され、カーボン粒子の多い鉄・銑鉄と、カーボン粒子の少ない玉鋼に選別され流通された。日本刀の原材料になる玉鋼は、一塊の鉧からほんのわずかしか取れない。それが古刀製作用の鉄だった。その他の鉄は、鍬や鎌、大工道具、茶釜の材料などになった。

 このように昔のような方法で玉鋼をつくるとすると、現代では金より高く付くと報告されている。
 その玉鋼のなかで最も質のよいものは奥出雲でとれている。今のJR安来の中国山地山中である。ヤマタノオロチ伝説の地である。
 その地で取れた鋼を、安来鋼といわれ、和鋼(わこう)のなかの最高品質と今もいわれている。その玉鋼研究で有名なのは、安来市内にある、日立特殊鋼精錬所と聞いている。

 このように野蹈鞴での製鉄は日本各地でおこなわれていた。
 これらの玉鋼は、全国各地に点在していた刀鍛冶に供給された。代表的な古刀として山城国・粟田口三条・宗近(祇園祭の先頭を行く長刀矛のてっぺんに立つ長刀製作の刀工。謡曲でも有名な小鍛治・小狐丸の伝説の主、ほか多くの伝説あり)。相模国・正宗(第一級の刀鍛冶・国宝多し)。伊勢国・村正(徳川家の妖刀伝説)。美濃国・兼元(関の孫六・三本杉の波紋が有名、三島由紀夫の自決のとき森田が三島の首をはねた刀、現物は東京代々木の刀剣博物館に所蔵と聞く)。伯耆国・安綱(彎刀初期の刀工・童子切りの名称の刀、大江山の酒呑童子を切った伝説の刀、東北・蝦夷(エミシ)のアテルイとゆかりの田村麻呂が伊勢神宮に奉納した太刀も)。備前国(ここほど古刀・新刀ともに多くの優れた刀工を輩出した国はない)。当時の国として63国にわたる。

  
 蹈鞴は後、山裾に移り、採取した砂鉄は、建て屋のなかの炉(これを蹈鞴という)・長方形の土作りの溶鉱炉に木炭と砂鉄を交互に放り込む方式に変わった。ここでも7昼夜の操業であった。この時期になると、鉧作りの集団は組織化され、人夫も役割が決まり家族も含め定住方となった。とはいえ砂鉄資源を取り尽くした集団は、新天地を求め流れていった模様。このころの形式が一般的にテレビなどで紹介されているもの。アニメ「もののけ姫」にでてくるものもこれ。

 日本刀の原材料であった砂鉄を製鉄するのにこれほどの手間暇かけていた日本の代表的物づくり。
 その玉鋼を受け取った刀工たちは、各流派ごとの口伝による技術伝承によって交流もし、切磋琢磨し、流派ごとの特徴を醸し出し、武器としてだけでなく、祭礼に、また美術工芸品として世界に誇る「もの」をつくりだした。
 第二次大戦中は、軍刀拵えした日本刀をもった多くの将校、陸海のうら若い特攻隊が日本刀を包帯で巻き、抱え南の空に散っていった。

 その後の刀鍛冶集団の工程は、各派ごとに分業化され、刀鍛冶→研ぎ師→彫り師(刀身の)→鍔師→小柄師→鞘師→拵え師などなど一団の村社会・共同体となっていた。
 特に刀鍛冶においては、刀身に現れる地肌、雲とか影のような地模様、独特の波紋、これらは焼き入れ前に刀姿となった刀身に、焼き刃土というどろどろの土を塗り、その土の濃淡によって焼きの入り方が変わる。それが研ぎ上がったとき、刀身の地肌に現れる。鉄は焼き入れの温度によって変態(硬質になる)する。その性質を利用して作られる。折れず曲がらず、よく切れる。実用性だけでなく、美術的工程を同時に施しているのである。


 このように日本刀だけとってみても、これだけ手間をかけて作ったのが日本の「ものづり技術」。そして錆びないよう、代々おなじこころを維持して手入れして、保存してきた。千年以上も作刀当時の姿と美しさを保つことがどんなに大変なことか、誰かの代で手が抜かれていたら、おお錆びになる。研げは研ぎ痩せして元の姿はもう二度とみることはできない。年に二回の手入れは最低必要。そんな神経質な鉄を日本刀は使っているのである。

 そこにクールジャパンの原型が見える。

by kuritaro5431 | 2012-08-08 14:41


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