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2012年 07月 22日

漱石もマックス・ウェーバーも現代を予言していた (4)

 この号で、番組のテーマだった「日本人の幸福の基準」について考えてみたい。

 前号の軸として考えた戦後第二世代としての「団塊の世代」は、現代の若者にも大きな影響をもたらしている世代である。
 あのバブル崩壊で一番痛手を被り、辛酸をなめた世代にもかかわらず、自分の子供たちに、バブル崩壊前の「会社が社員の面倒を見、社員はそれに寄りかかった時代の社会システムのあり方」こそ、「我が子も安穏の幸せがある道」と考えている節がうかがえる。
 その証拠に、、学力の高い高校に入れるため、幼稚園・小学校・中学を選び、偏差値力一点集中の教育を迷いなく父母は進めようとしている。

 偏差値力は、各学科においてどれほど沢山の方程式を記憶しているかで勝負の決まる力といわれている。そこには必ず正解があり、正解率の高さによって難関高校・難関大学への入学の可否が決まる。難関大学の卒業生は、日本で有名な東証一部上場の企業に就職できるるという一連の流れが今も現存していると信じている。そこまで望まないとしても、できるだけ大きな企業が社員包容力がある、安全だと思っていることは確かのようだ。

 新聞・テレビ・ニューメディアにおいてもそんな時代はとっくに終わったと、どのメディアも発信しつづけている。これからは問題・課題に正解のない時代といわれだしてからもう久しい。これからの時代を生きる力として偏差値力だけでは生きていけない。「地頭力」゠常識値と経験値で困難な問題課題を凌いでいく力こそ大事といわれていることは団塊の世代の親たちも承知のことである。
 偏差値力+地頭力のあるのが一番いい。でもこれからどちらが大事かと問うと、どこの識者も地頭力という。ところが学校において地頭力向上のカリキュラムは組みにくいし、指導者としての教師をどう確保するかは現在未知数である。文科省としても政策の打ち出しまでにはいたっていない。となるとどうしても偏差値力に目を向けるしかない。
 
 そんな現状を若者も知りなから、パラサイトでつなぎながら生きている。親も精神障害など起こしてくれるよりはその方がいいと、その日その年を過ぎやらしている感じだ。将来、親がいなくなるときはかならずやってくる。年金がかけられていたとしてももらえる保証はない。年金もかけていない、かけられない若者も大勢いる。健康保険も同様だ。

 それにも増して、国家財政の健全化への道程と称して、野田内閣は、自民・公明の三党合意で、負の再分配としての「消費税」導入をもくろんでいる。格差社会はますます進みそうだ。3万人を越す自殺者がいて、100万人の鬱病患者がいる。まだ増えそうな日本。


 
 そんな状況認識をもって、姜先生と田島先生の話を聞いた。

 まず姜先生の話の主要を拾うと、
◯当たり前に思えていた「幸福の基準が崩れた」。
◯漱石は近代化の行き着く先を今日のように予言していた。
◯現代の人は、「現代人の心。生きる寄る辺探し」をしている。
◯最高学歴修了の若者の多くは、高等遊民。バラサイト・シングル。暮らしは下等遊民。
◯自分らしくしてシェアして生きたい。自分のオンリーワンを求める。
◯若者の典型を、自我とエゴ。セルフとI。ミーニズム。Self-consiousness=自我意識の強さ、と。
◯資本主義のルールはスポーツのような勝ち負け。1、銭 2、金 3、お金 4、マネーの順に言葉が並ぶ。
◯人間同士の三角関係に「金」が入ってくると、人間本来の関係が破壊する。漱石はそんな小説を書き、資本主義の行く末の人間関係を予言していた。
◯お金がすべてに還元される(貨幣経済)。お金がなければ生きていけない。大義と暴利のエゴイズム。

 最後に姜先生は「私の提言」板に、
「運命は受け入れよ。人為は乗り越えよ」と書いて「いつも目覚めていること、時代の不寝番として、しっかり見開いてみつめる」こと、といった。

 島田先生は、
◯自由を食べてしまった日本人。物があふれる自由→壁がなくなった→自由になった→苦しみがやってきた→自由さが理想であったが、ノマドに理想を求めなければ生きられなくなった。ノドマに乗れる人は高等遊民だけ。
◯日本には絶対神はない。カトリシズムのような信仰はなく、その代わりをする「心」。これは絶対的なものでなく、相対的なものだった。→無宗教・無党派。
◯自分も他者も傷つけたくない。自由を求め→己(自我の確立)→達成した→物もあふれ自由になった→果ては孤独。
◯資本主義の行き着く先、自分だけの世界。
◯神とか仏を信じるということは、自我を生け贄に差し出して得られるもの。
◯人は与えられた枠の中で生きる利点を忘れてしまった現代人。でも、その枠とは封建制度、家長制の維持に必要な掟でもあったのだ。
◯日本人は、信仰でなく、単なる無常ではなく、無常観「観」こそ日本人の心であり、信仰に匹敵するものであった。(この部分の私の解釈は怪しい)
◯「方丈記」の鴨長明は、「過去に囚われず、忘れる。→忘れることができる。そこに新しい可能性としてのポシ゜ティブなものとしての無常観を見いだしている。耐え難い悩みからの新生として」。
◯司会者が「無常を受け入れる?」とのことばを島田先生は遮り「そんなとらえかたは私はしたくない」ときっぱり言っていた。
◯新生とは、ツワイスボーン(2度生まれ)ということで、輪廻転生でなく現世においてである。幸せな人は一度生まれの人。
◯もてる国の方がうしなうものが多く苦しい。
◯ウェーバーも諦める価値をポジティブに干潟と思う。戦うさいごの抵抗を=諦める同意語として。
◯人間が死ぬとき、「死ぬ」のではなく、生と死が一体に生きた「死が終わる」と考えた。

 島田先生の提言板には、「ビンチがとチャンス」と書かれた。
 科学についても、一括りで万能だとか、限界だとか、判断しない。よいもの悪いものがあるのでもっと細部を見たい、といった。


 この番組を見て、私はいま仮の「日本人の幸福の基準」を次のように考えた。

!、自分の好きなことができて生きられること。堺屋太一氏の講演で聴いた話では、「自分の好きなこととは」2日も3日も続けてやっても疲れ知らずのことだそうだ。

2、好きなことをやって、中流の中または下の範囲ぐらいの年収(400万円~600万円)を稼げるくらいの能力を持つこと。パラサイトにしても年収250万円レベルでは、なにもできない。パラサイトもいつかは終わる。己や家族も、そこそこの命の営みをつないでゆくために。

3、好きなことがマルチに5つか6つあるのがいい。マルチの好奇心は、己のモチベーションを拡大してくれること間違いなし。そのなかで、稼ぎにつながるものは必ずいる。就職するにせよ、ノマドで生きるにせよ。自営でやるにせよ、それが社会・他者に貢献できるよう自己構造化すること。それこそ世界に一人しかいないパーソナルな自分の命のプラットホームなのだ。
 そして非効率性の領域に追いやられた人間性豊かな世界を復活させたい。結果は問わない、ブロセスに命のエキサイトがあればいい──
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by kuritaro5431 | 2012-07-22 12:15


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