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2012年 07月 16日

漱石もマックス・ウェーバーも現代を予言していた (2)

 前号の続きとしてもうしばらくウェーバーについて触れることにします。

 姜尚中著『マックス・ウェーバーと近代』(岩波現代文庫学術96)からウェーバーの真の姿を現した言葉を拾ってみますと──

◯ウェーバーは、市民道徳と文化の擁護者でもなければ、近代合理化を屈託なく賛美した近代主義者でもなく、逆にそれらの病理を容赦なく刎抉(ほじくりだす)する「ニーチェマン」であったといえる。

◯日本におけるウェーバー研究の巨峰大塚久雄と並ぶ丸山真男の文章を文中に引用して──
~1990年を通じて「社会の安全と安定という根幹がポロポロと崩れ始める崩壊感」が蔓延するにつれてポストモダンどころではなくなったからだ。この(近代)の底割れのような崩落は日本だけにとどまらない。それはグローバルな規模の「危機偏在」となってすべての社会を揺るがしつつある。それに対していまや、麻薬と内戦と飢餓が常態となりつつある世界システムの周辺部では大衆の福祉の増進を進め、大衆を積極的に生かす統合=同化ではなく、死のなかへ廃棄する絶滅の暴力が勢いをましつつあるし、世界システムの中心的「先進国」でも生きるにまかせて見棄てる権力のモードが支配しょうとしているのである。
 それは、個人や階層、国民を問わず、キャッチ・アップ型の近代が失効し、国境の内外に膨大なアンダークラスが放出される荒涼とした事態を指している。

◯ウェーバーは「理性の夢」に対する幻滅を戒めるだけでなく、理性的ユートピアの世俗的凱旋にも強い違和感を抱き続けたのである。
 アメリカが空前の豊かさを求め坂を登りつつあった社会システムとは、大量生産と大量消費の全般的合理化とライフスタイルのなかに実現されようとしていた。(注)この文の前半、ピックアップした文脈をつなぐためリライトした)

◯アメリカニズムには、禁欲的プロテスタンティズムの陰鬱な「現世支配」の倫理が世俗化し、それに変わって宗教的な聖性の外衣を脱ぎ捨てた薔薇色の啓蒙的なオプティミズムが支配する世界の指導原理となったのである。
 それは一種異様な尊大さで粉飾された機械化された秩序を意味していた。「支配の社会学」で規律による合理化の完成形態としてテーラー主義の「科学的管理法」が、取り上げられていることからもわかるように、ウェーバーは、生産過程の科学的・技術的に効率的な組織化を通じて社会的諸関係が徹底的に「即物化」され、それによって社会全体の富が極大化することを夢見た技術者のユートピアがアメリカで現実のものとなりつつあるとウェーバーはみていたのである。

◯「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」の末尾を飾る幸福を見いだした「最後の人々」というニーチェの言葉は、まさしくアメリカにふさわしかった。

◯1920年代は、まさしくアメリカニズムが世界を席巻する「黄金の20年代」であった。

◯ウェーバー没後の時代、合理化は、「新即物主義や社会工学、フォーディズムやアメリカニズム、さらには機能主義といった一連の意味関連を有する言語空間の中心に位置する言葉となった」のである。

◯この「モダン幻想」に酔いしれる合理化運動によってライフスタイルの基本は一変しようとしていた。
 経済の社会化と都市化、大衆の氾濫と日常生活の技術化、死亡率の低下と平均寿命の伸長、それにともなう日常意識からの「死の追放」と肉体賛美や青年礼賛美、日常生活の伝統的意味づけや儀礼様式の無意味化、宗教的な意味解釈の拘束力や教会儀式の規則力の弱化、さらに大衆消費の殿堂としての百貨店の出現や映画・ラジオなどニューメディアや「新しい物神」としての自動車の登場など、現在のグローバル化を彷彿とさせるような「液状化する近代」が沸き立っていたのである。
 このようなモダニズムの凱旋進行をリードしているのは、科学と技術のめざましい進歩であった。死や病い、老いを非効率性の領域に追放する「技術的進歩教」のユートピアへの扉が開かれようとしていた。

◯ウェーバーが試みた「真の実在」「真の自然」「真の神」さらには「真の幸福」への道としての科学(学問)は幻影と化し、ウェーバー死後ウェーバーが憂慮した方向へ押し流されていった。

◯手段と目的という道具的二元論理によって機能する。より効率性の高いシステムへの再編成を達成すべく、伝統的あるいは「自然に生い立った」集団や制度、文化や権威の様式、共同体をその構成要素に分析解体する「非情」なブロセスと化した。

◯なるほど確かに、この手段と目的という対立は、一見すると「価値という定項を存続させ、その場を確保しているかにみえる」。しかし、客観的にみればそれは「〈目的〉の項を括弧にくくり、純粋な手段のシステムの内部に取り込んでゆくことによって「目的」そのものを「特定手段の現実という空疎な目標」に「堕落」させてしまうのだ。

◯ここに「実質上の価値廃棄という結果」が待ち受けているのである。価値の廃棄によって手段的な効率性を高めていく合理化の行き着く果ては「陳腐さ」の悪が出現したのである。


 まだまだ拾いたい言葉は数々あったが、ここでは割愛する。

 著者の姜尚中先生は、あとがきのなかで───そもそもわたしの「ウェーバー体験」は圧倒的に大塚私学(大塚久雄)のフィルターを通して形成されたといって過言ではない───といっている。
 他方日本におけるVEの推進者たちも大塚久雄を理論的支えとしたらしい節がうかがわれ妙な不思議さを感じてならない。当時発展途上の日本においてはウェーバーがこれほど厳しい断罪を下した「毒」としての「近代化=合理化」も、疑いもせずキャッチアップして築いた日本人の豊かさであった。それはバブル経済崩壊まで登り詰めた「物神話に浮かれた幻の幸福だったのか」「それともアメリカの政治的レトリックの絡んだ近代化推進に、時の日本のリーダーは承知で乗ったのか。何か大きな生け贄を差しだしそれと交換に」。


 私は『マックス・ウェーバーと近代』という本を読んで実に大きな衝撃をうけ、3っ日間考え込んだ。
 1984年から9年間在籍したJ・コンサルファームにおいてソフトVEを学び修行し、それなりにクライアントに役立ってきたと思っていたからである。確かにこの本でも指摘されているVE特有の「手段と目的」「機能主義による分析」は行ったものの、ハードVEのようになにがなんでもという合理化はやらなかった。
 先に述べたように、クライアント・ニーズをクライアントの気づかった視点で切り込んで、例えば、問題になっている組織機能を強化させたり、企業目的を売上とか利益獲得のためとせず、社会や顧客に役立ったリターンとしてついてくるもの。健全な目的設定こそ、企業発展の第一ボタンと唱えた。バブル景気崩壊前のその時期、中期経営計画策定が流行っていた。努力目標ならいざ知らず、目的に「3年後売上高100億円達成して二部上場する」とした中小企業が結構多かったからだ。そのように持ちかけ健全な目的設定をしてもらった。目的実現のための最適手段の設定・選択は私流にアレンジメントしたVE手法を使ったことは事実である。

 そこには一般企業では見られなかった、クライアントが望む成果(契約成果)を出して「なんぼ」というプロの仕事場があり、それを学んだ。私のパ-ソナリティからしても自ら望んだ厳しさと引き替えに得た自由であった。

 私は、目的達成のために必ずしもVEの機能分析を使ったわけでもなかったし、VEをコンサルティングを行う上の1つのメッソードと考えていた。だからもしろプロの仕事人としての修行のメッソードととらえていた。

 振り返れば1970年頃は、日本の経済成長も加速し始めたころであり、確かに金太郎飴的画一団結型社員育成に各企業はやっきになって集合教育やOJTをやっていた。マックス・ウェーバーのいった大量生産、大量消費に向けての流れであった。

 そんななかで、巷の書店では「創造性開発」「能力開発」「人間形成」「システム開発」などの本が並んでいた。その頃はまだマーケティング関連の本とかドラッカーなどのマネジメント関連の本はでていなかった。今思えば確かに日本においても大量生産・大量消費社会適応の大手製造業中心の「物社会」への移行期であったことになる。そんな本のかなには若者の健全なモチベーションを触発してくれるものも多くあった。本は自分で買った。社外の講演会、講習会なども多々あり、上司に申し出れば大抵出席させてくれた。

 このブログ全体のながれを読まれた方は、私のパーソナリティをそれなりに推察していたたいていると思っていますが、私は元々、合理的なものを嫌うタイプの人間だった。それでは当時の流れのなかで生きていけそうにないので、意識的に合理的思考を取り込もうとした。そして時代に合う人間形成に努めた。それは、情緒的な私のオクターブを抑えるのではなく、一方の理性的、科学的、論理的、合理的思考領域を広げ、高める方法でバランスを取った。その時代を生き抜く方便として。

 しかし、元来人間主義的なパ-ソナリティの強い私は、社会的環境(特に身近な職場環境)が、私の許容範囲を超えて合理的(非人間的)になりすぎたり、それが権力の化身となっているような経営者に対しては理性では抑えられない嫌悪と拒絶感をもつようになり、2つの会社を辞めた。準備なしに辞めるわけに行かないから、転職できる何かの力量を磨こうと自己啓発した。
 そんな傾向はいつしか、自分はゼネラリストでは生きられる人間ではないと悟り、専門職としての汎用性のある思考とスキルをもって生きるしかないと思うようになっていった。

 そこで、私がソフトVEを学び、プロの経営コンサルタントとして生きるコツを学習したやり方は、3.11以降の日本でも、人によっては通用する生き方、働き方、稼ぎ方ではないかと思うのですが。それを私の今の一応の結論としておきます。こうあらねばならないなどという正解はないのが現代でしょうから。
 でも1ついえることは、生きることに積極的であることと思うのですが。


 この号の最後に、
 しかし、『マックスウエーバーの近代化』の本のなかに気になる「エートス」という言葉があった。私ももしかしたら……ということ。

 大辞泉で調べてみると、
!、アリストテレス倫理学で、人間が行為の反復によって獲得する持続的な性格、習性。
2、一般的には、ある社会集団・民族を支配する倫理的心的態度。


 他の説として

 冷静と情熱、理性と情念、合理と非合理、といった異質な要素の何らかの統合によって生み出された行為への一定の傾向性。
 エートスを、人間と社会の相互規程性をとらえる戦略概念として最初に用いたのはアリストテレスであり、社会認識の基軸として再びとらえたのはマックス・ウェーバーである。
 ウェーバーによれば、この行為性向は、次の性質を併せ持つ。
 ギリシャ語の習慣(エトス)に名称が由来していることからもうかがえるように、エートスは、それにふさわしい行為を実践するなかで体得される(習慣によって形作られた)行為性向がある、と。

 ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」「道徳」「社会心理学」「倫理学」と関連している。

by kuritaro5431 | 2012-07-16 16:54


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