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2012年 07月 14日

漱石もマックス・ウェーバーも現代を予言していた (1)

 2012年7月6日のBSプライム・ニュースで、姜尚中さん(東大大学院・情報学環教授)と島田裕巳(宗教学者)による「日本人の幸福の基準」と題する番組があった。

 姜先生は、ときどきテレビでお目にかかっていて好感をもって見聞きしていたが、話題の著書『母──オムニー』は読んでいなかったが『悩む力』は読んでいた。そのなかに2つ気になる点があったので、そこに注力して番組をみるハメになった。が、それはそれとして、この番組のなかで夏目漱石(1869年~1916年)とマックス・ウェーバー(1864年~1920年)の二人が百年前の同時代を生き、両者とも現代という近代化の果ての社会を予言していたことが語られると聞き、大変興味をそそられた。

 そんなことで、このブログではテレビ番組のタイトル「日本人の幸福の基準」の話題から少し回り道しての展開になりそうですし、また今までのブログ原稿のなかで一番長いものになるかも知れません。というのは、3.11以降一番気になっている「これからの世代の働き方」と大いに関係があるからです。
 

 さて、『悩む力』を読んで気になったこと2つ

1. M・ウェーバーは、アメリカ合理主義(近代化)の大いなる推進者ではなかったのか、が?
2.「自我」が起点となって人間は左右されると読み取れるが、日本の仏教は自我を越えるところに特徴があったのでは?

 そんな思いをもってその番組を録画しながら見た。
 『悩む力』を読んで気づかなかったところも聞け、新鮮な驚きもあった。しかし前述の気になる点は晴れなかった。
 そこで、録画のDVDを2度見てから、姜先生の著書をアマゾンからプリントアウトし、『悩む力・続』と『マックス・ウェーバーと近代』のどちらにしようかと書店に出向いた。2冊を見比べると、私のクエスチョンには、難しそうだが後者の本の方が答えてくれそうでそちらの本を買った。


 1のクエスチョンの出所は、私が53歳のとき、自由な働き方を求めて3つ目の会社、J・コンサルティングフアームに経営コンサルタントとして入社して間もなくのことだった。
 特別の研修などなく先輩のコンサルタントが各自で開発したコンサルティング技術資料を閲覧したり、J社の基幹技術としてのVE(Value Engimeering)の資料を読み自習することが義務づけられていた。VEには、製造業や土木業(主には大手製造業)などの生産性向上を目指したハードVEと、商品、サービス、価格など価値創造や組織機能向上などを目指すソフトVEがあった。前者を物理的特性をもつハード分野適応とし、後者を社会的特性をもつ分野にも適応可能とした。
 ハードVEをやるコンサルタントは全員理系出身で、扱う案件もプロジェクト方式によるVE技術の活用がメーンであった。それに対しソフトVEをやるコンサルタントは、ほぼ全員文系出身で、扱う全体案件のうち2割程度であった。私は文系出身で、所属するコンサルティング本部も、マネジメント本部と称し、小売業を除く全中堅企業を対象としていた。

 ある日先輩のコンサルタントから読んでおくようにと渡されたのが『ソフトVEマニュアル』であった。その本の「はじめに」のなかに、ここで問題とする「マックス・ウエーバーの3つの合理性」という短文があった。このブログの2009年6月04日の「方法論の進化」のところに取り上げたが再掲すると、
 
1.価値合理性
目指している価値と、自分の思考過程なり行動なりとの間に、論理的一義的かつ明晰な意味関連の存在。

2.目的合理性
特定の目的達成のために、いかなる手段を選択すべきかが目標となるから問題となるのは、特定手段選択と目的達成との間にみられる因果関係が論理的に明晰にかつ一義的にとらえられていること。

3.形式合理性(因果合理性)
単なる目的合理性にとどまらず、さまざまな事象を数理的に、できれば数学的にとらえることによって、的確な予測を可能にし、さらにはまた目的合理的に対象に働きかけて、目的を実現させるための能力を著しく高めるという結果を生み出すもの。

 この「マックス・ウェーバーの3つの合理性」について当時先輩は次のように教えてくれたものだった。
 
 われわれが採用している方法・手段は、ある目的を達成するために最良と考えられるもののはずである。因果合理性からみても、最良と考えた方法・手段である。これらの方法・手段、つまり因果合理性を、目的合理的の世界に投影し。目的→手段の合理性へと遡って検討し、場合によっては価値合理性にまで遡り、再度因果合理性に投影し直すことによって、最良の方法を得ようとしたものである。
 VEの原理は、単なる方法・手段の合理性にとどまらず、目的合理性、価値合理性という複眼的合理性の検討によって、最良の方法・手段を得ようとしたものである。したがって、VEは、物理的な特性をもつハードの分野に対しても、社会的な特性ををもつ、ソフト分野においても、適用可能であると思う。
 しかし、ソフト分野は、対象が物理的なものでなく、社会的なものであるから、そういう意味での難しさは、当然存在する。ソフト分野のVEは、対象を機能分析するむつかしさもあるが、複雑な因果関係のなかで機能しているいるものであるから、それらをビジュアル化し、解くための技法も重要となる。
 
 というようなことを語ってくれた記憶がある。

 当時の私にとっては、考えてもいなかった合理性への新しい視点に目から鱗の感でしゃぶり付くように体験していった。
 それはクライアントに提案する企画書のテーマ設定と目的の設定から手段設計、各手段ごとの定性的・定量的OUTPUT、それらを統合する総合的成果への期待を文章とチャート・図表でロジカルに企画書にまとめることから始まった。その企画書の草案は、クライアント面談に同席した先輩コンサルタントを含め定例の本部会議でコンサルタント全員による評価が行われることになっていた。その場では上下関係のない評価が遠慮のない厳しい言葉で交わされた。その過程でなんども書き換えさせられた。その多くは、設定したテーマおよび目的に対して、選ばれている手段が最適ではない、という指摘。分化された手段が最後に統合されていない。この案件の目的はこれでは達成されない、という指摘。

 ここでの修行は、コンサルテング・ハウツウなどではなく、J・ファームのメソードであったとおもう。そのことをJ・ファームは一番大切にしていたと今でも思える。クライアント・ニーズを担当コンサルタントの視点でどう「目的化」するか、その目的にクライアントは感動したか。目的達成のストーリーにもクライアントにわくわくするような期待を持たせたか、であった。
 もう一つ重要なことへの気づきは、「目的設定はコンサルタントの力量の内としてかなり自由であった」ことである。私が扱ったVEはハードVEでなく、ソフトVEであったこともあったと思うが。そのことは、後段の論点となるマックス・ウェーバーの予言と関係してくる。

 私はこのように「マックス・ウェーバーの3つの合理性」に感動しながらも、もともとアメリカ的合理性には理系の連中のように心底同調できない天の邪鬼であった。だからソフトVEを思想傾向をもたない道具としてのメソードとして使えると思っていた。また使いようによって充分成果が出せた。
 私は、ソフトVEの日本に馴染まないところは勝手に日本ナイズした。特にテーラー主義的労働観は、日本では労使共に違うと思っていたし、組織統治において欠かせないアメリカのブロテスタンティズム(一神教)においても、日本では絶対神は存在せず、あったとしても八百万の神々に対する敬意と脅威に近い相対的なもので、姜先生もテレビが語られたような「自我を生け贄に神に差し出し得られる信仰」のような厳しい自己規制の働きは幸いか不幸か存在していない。

 ソフトVEについては、コンサルティングモデルはJコンサルファーム内においても、概念的スケルトンが多く、細部まで落とし込んだモデルはなかったと記憶している。そういう意味でソフトVEは、かなり日本的にトランスファされつかわれていたと思う。


 いつの時期だったか忘れたが、アメリカの要人が日本人のことを「ものまね上手な好戦的類人猿」といったことかあるが。確かに戦後日本の高度経済成長はアメリカへのキッチ・アップのなかで多くを学び、取り込み日本的にアレンジメントし発展した。その結果(2)で姜先生が『マックス・ウェーバーと近代』のなかで強烈なまでに指摘されている事柄を考えると胸が痛む。
 マックス・ウェーバーと縁の深い、ソフトVEについては、思想的傾向をもたないメソードとして、3.11以降の産業のあり方、働き方、雇用の創出にも役立つものを内包しているように思えてならないのだが、間違いであろうか。

 
 

by kuritaro5431 | 2012-07-14 17:45


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