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2012年 04月 11日

電気のなかった暮らし (1)

 私は旧制中学1年のとき終戦を迎えている。父は岡山県東北部の村で国民学校(今の小学校)の校長をしおり、戦時中は生徒に軍国主義教育を先頭になってやっていた。終戦の年、定年までに2年ばかり猶予はあったが「教え子に申し開きができん」といって退職を決意した。
 その理由は他にもあった。その1つは、農地改革で父が親の遺産分けでもらっていた田畑が、耕作してもらっていた人に渡る。それでなくてもその日その日食べるものがなかっときだったから、その田畑のある地(父が生まれ育った鳥取との県境の村・西粟倉村)で自給自足の百姓をしようと決めたことだった。もう1つは、人間が人間に管理され、管理することの煩わしい教員生活から脱出し、中国山地にほど近い、自然豊かな地で父なりの回帰を試みたと、私はみていた。
 私や姉たちが育ち、両親と母方の祖母とが一緒に暮らした家は、父の里より20kmほど南、今の中国縦貫道作東 ICの近くにあった。母方の代々の地にあったその家はそのままにして、他の美作の僻地で教員をしていた姉以外、4人父の故郷で共に暮らすことになった。遺産の田畑は、田舎のなかでもさらに人里離れた山裾の5反(50a)ほどの山田と、1反ほどの畑たった。その脇に藁葺きの空き家があり、そこで暮らすことになった。一番近い家まででも200mはあった。電気はきておらず、明かりは石油ランプだけだった。

 父は下見してきた話をした。
 
 5年も住んでいない空き家は荒れていた。屋敷の裏は崖になり、その上に山田が連なっている。山田から滲みでる清い水が床の下を静かに流れ、井守がいた。表の入り口から土間に入ると、左側に足踏み式の石臼があり、右の板間に囲炉裏があった。家屋のなかに牛小屋を取り込んだスペースがあり、物置になっていた。
 井戸はなく、谷川から流れてくる水が家の前の葦原の湿地を抜け、畳半畳ほどの洗い場に溜っている。そこが一切の水場らしかった。
 風呂場と便所は別棟になっており、風呂は五右衛門風呂で釜はすべすべしていた。窓丈の戸板を開けると川向こうの草刈り山が見えた。汲み取り便所にも水が溜まり、短く刻んだ藁が一面に撒かれ浮いていた。
 間取りは、前に6畳二間、裏にも6畳二間あり、床の間には、天照皇大神の掛け軸が粗壁にかかったままだった。

 父は何か希望に満ちていたような記憶がある。それは、谷川の水を利用して小型発電器で電気を起こし、送電の柱を建て明かりぐらいは賄えるようにすると意気込んでいたから。
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by kuritaro5431 | 2012-04-11 21:59


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