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哲学から演歌まで  

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2012年 03月 03日

つつましく怒らないことがよいとは限らない

 福島原発にほど近い、福島県三春町に住む臨済宗福聚寺住職・平成13年『中陰の花』で芥川賞を受賞した玄侑宗久氏は、東日本大震災直後から日本国民に今こそ「モード変換のとき」と訴えた。
 私はその言葉に共鳴し、氏の言葉として葉書や手紙に書き添えた。
 私はその言葉にある「モード」とは、その人の世界観とか価値観、思考回路、ライフスタイル、人生観などと解釈することとしていた。どちらかといえば、モードという言葉のイメージには「できれば今のままでいたい」「今のままがいい」「安穏でいたい」という人間だれしも変化を好まず慎ましくをモットーとしてきたが……という保守的匂いがしなくもなかった。

 というのは、今回の震災に対してどうも信用できない政府や官僚、東電の対応・態度に「怒ることから復興ははじまる」「思考モードの変換は、怒りのエネルギーから」と読み替えて私は考えていたから。しかし、仏門の氏がどのような考えにせよ「怒り」を肯定的に考えられることはあるまい。とは考えながら、次に筆を進めることにする。

 人間や動物は、長い歴史のなかで、自然や環境が変化するなかで今までは生きてこられたのは環境変化に自ら適応し変化してきたから=進化してきたから。それが命を子孫につなぐ術だったのだと。その環境とは自然のみでなく、人間がつくった時代時代の社会システムでもあった。そしてその時代で今までよかった社会システムが、これから生きて行くために不都合となれば「今のままがいい」「安穏がいい」ではすまされなくなり、得をする人の群れ・階層と、損をする人の群れ・階層が顕著になり、ある限界を越えると、格差は極限に至り民衆が命を賭けて蜂起することにもなる。
 そのたびに歴史は「モード変換」が起爆剤となり、社会システムは修正され、改革され、革命が起こったりもしてきた。

 僧侶の方々、宗教家の方々が、仏教であれ、キリスト教であれ、長い人間の歴史のなかでどれほど人間の精神の健全性・道徳・生命の尊さを育んできたか。生きるよりどころを与えてきたか。そんな方々はどんな理由があろうとも怒ることを肯定的にとらえられる方は少ないでしょう。とくに日本という風土のなかでは。とはいえ、例外的といえるものもあったようです。

 哲学者のアリストテレスは、条件付で肯定していました。
 「然るべきことがらについて、然るべき人々に対して、そしてまた、然るべき仕方において、然るべきときだけ怒る人は称賛される」『ニコマスコ倫理学』

 三木清は『人生論ノート』のなかで、怒りを肯定的にとらえている。多くの人が怒りを否定的にとらえる現状をみとめつつ、「彼は怒りが憎しみと混同されていることを問題視する。両者は確かに似たものではあるが、憎しみが極めて個人的負の感情であるのに対し、怒りは常に突発的なものであり、それだけに純粋なものである」といっている。
 そして一般的に、怒りは正常な判断力を麻痺させることは事実、と。

 大島渚は、かつてテレビ番組のなかで「今の日本人は怒らなすぎる。僕は怒らない日本人に怒っていると」といったこがあった。

 怒りには、いたって個人的なものとして、前述の三木清のいった憎しみの負がある。これを「私憤」といった人がいる。この「私憤」にたいして「公憤」があるというのである。時の為政者・権力者を擁護する政党とか官僚などが、自分も利権をえるために、社会の制度やシステムを自分に有利になるよう手を加え、自分らにとって都合の悪い情報は隠し、国民を騙す。クロスオーナーシップ(新聞社が放送局の資本参加するなど、特定資本が多数のメディアを傘下にして影響を及ぼすこと)などでよくいわれる民衆操作媒体を手放さがらない執念とか、霞ヶ関文学とかささやかれる、幾重ものレトリックをきかせた省令・通達など。
 またひどいもののなかには、陰の権力者のシンクタンクとしての日本の官僚システムを潰しにかかるある人物がいるとすると、メディアを総動員して悪評を再三流し、世論操作する。さらには検察という国家権力をつかって実刑判決のストーリーをでっち上げ、政治生命を絶とうとする。その実例は以前にあった。そのような政局絡みの動きに対する怒りこそ「公憤」であろう。

 さらには、今回の福島原発の政府対応にしても、国民の生命を守るべき官邸が、事実と異なる情報を流し、御用学者を使いバックアップさせる。責任を曖昧にして逃れようとする政府、閣僚、官僚、東電らに「公憤」が住民から、国民から投げられて当然であろう。

 文化人類学者・医学博士・東京工業大学大学院社会理工学研究科・価値システム専攻準教授 上田紀行氏は著書『慈悲の怒り・震災後をどう生きる心のマネジメント』のなかで、「正当な怒り、生産的な怒り」の節で、「震災後の今、日本人に何が必要と聞かれたら、私は、「怒り」「憤り」だと答えたい。「忍耐」や「かんばろう」は最初から日本人の得意技だが、「怒り」は最も不得意な分野らしい。悪玉を名指しできたとしても、悪の構造を改善していく力は一番足りないのでは、と。

 同著のダライ・ラマの言葉の節で、日本の仏教学者や僧侶たちの多くが「どんなことがあっても怒らず騒がず、ニコニコと生きなさい」といわんばかりのことを言う人たちがいて、以前から大きな疑問でした。確かに仏教の教義では「怒らないことだ」といわれています。でもことによりけりです、とダライ・ラマはいっていました。

 仏教の教理にあるように、怒りは自分を傷つけ、他人を傷つけます、だれにとっても有益ではない。だから自分を見つめて怒りを沈めていかなければならない。それがオーソドックスな仏教の教えです。しかし、現実の社会に大変な不正があったり、差別や弱い者いじめがあったりしても、それを目の前にして怒りをおさえてニコニコしていればいいのか。それが私の疑問でしたと。

 もう一つ、不動明王(大日如来の化身として真言密教・天台密教の仏像)についてダライ・ラマはつぎのように語っていました。
 社会的不正とか、悪に対して宗教者といえども無関心な態度をとるべきではない。ではこの場合、怒りの心をどう扱うかが書かれていた。
「怒りの心には2つのタイプがあり、第1のタイブは、慈悲の心から生じるもの。第2のタイプは悪意から生じるものです」。第1のタイブの「慈悲のこころから生じる怒り」は、社会的問題に心から関心を寄せて、何か社会の不正を正したいという気持ちにより生じる怒り。それは有意義な怒りで大いに持つべきです、と。
 
 不動明王は、大変怖い顔をして立っており、悪い怒りをもっている者に対して、あなたたちが煩悩にかられて、そんなばかばかしいことをやっていたら、あなた自身、どんどん不幸になってしまう、と「慈悲の心から怒りの極限の顔(憤怒相)で睨みつけているのです、悪の連鎖を止めるために。悪意の怒りは、連鎖が連鎖を呼び、拡大しますから」と。

 他のところで、不動明王は、小乗仏教ではなかった。中国に渡ってから生まれたもののよう、と。


 いずれにせよ愚者の私は、第2の怒りも充分コントロールできずにいます。でも第1の怒りが活性化すると、俄然モチベーションが湧いてくるのを実感します。

 
 

by kuritaro5431 | 2012-03-03 23:19


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