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2012年 02月 16日

絆・連帯

 東日本大震災の一報は、轟きうねる大津波の怒濤ではなく、黒い飛沫が海面をひときわ高くして、岸に向かって何もかも押し流しながら寄せてくる映像であった。それほど速い波には見えないのに、とてつもないエネルギーが堅牢な二階建ての家屋をぼりぼりと飲み込み、なぎ倒しながら形状を崩しやってくる。横倒しになった家屋と鉄製のコンテナーが入れ替わりながら破壊力を一層増している。

 この映像はリアルタイムに全世界に流された。
  
 老人ホームの女看護師が、身に迫る危険もかえりみずお年寄りを車椅子に担ぎ乗せ、男子職員につないでいる。外国人研修工をぎりぎりのところで避難させ、自らは波に飲まれた地元工場経営者。

 これらのニュースを目の当たりにした各国の人たちは、テレビ、新聞、インターネットやブログなどで溢れんばかりのエールを送ってくれた。

 翌日は津波が引き、基礎のコンクリートの残る更地に仮設のテントを張り、ボランティアによる炊き出し、緊急物資の配給が行われている映像が流された。電柱は傾き、電線は垂れ、昨日までの生活の匂いのかけらもなく無機質に広がる大地のみ横たわっていた。遠くに見える静かな海が映っていた。

 そこでの住民は、炊き出しの食べもの、緊急物資の毛布など、配給が全員にゆきわたりはしないと知りながらも、順序よく一列になって自分の番のくるのを待っている。

 またそんな映像を見た世界の人たちは、秩序正しく、冷静な日本人に感激しとてもすばらしい日本人と。他の国の人ならわれ先にと列などつくらず群がり奪い合うのが普通の人間の本性ではないでしょうかと。他の国、他の民族ではとても考えられないことといった人もいた。

 本当の日本人を外国の人たちは知っているのだろうかと、私は思う。
 確かに、日本人はどの国の人でも隣にいる人たちを大切にし、助け合って生きてきた。ある時期を除いて。1890年(明治23年)和歌山串本沖で起きたトルコ海軍エルトウールル軍艦遭難事件。乗員に多くの犠牲者がでた。そのとき串本の村中の人が命がけで乗員たちを助け、暖かい各々の家に向かい入れ、介護した。今も日本とトルコの親交の語りぐさとなっている。江戸の下町の人情は、八っつあん、熊さんの落語のなかで今でも生きている。日本人より日本研究に詳しいドナルド・キーン先生も日本人のすばらしさを再度3.11で再確認して日本に永住されることをきめられたと聞いた。
 私も日本人の遺伝子のなかには、貧しくても、絆と連帯をよりどころに生きてきたという血が民族のなかに流れていると思っている。そのことについては、後々このブログで触れることになるが。

 ところがである。今回の3.11の天災(地震と大津波)と、人災(福島原子力発電所の爆発)はわけが違う。と、私は腑に落ちなかった。

「こんな非常時でも、日本の民衆は絆と連帯を大切にし、怒らず、黙々と足下からの復興を祈り励んでいる」と。そう国内メディアも外国メディアも報道していたが、真実と、隠された嘘が混在した匂いがし、容易に信じられなかった。

 普段なら私は疑いもなく東北の人たちの生きさまに感動し、エールを送れたはずなのに、どこかそれは違うという私の触覚が躊躇させていた。
 ブログに書くとしてももう少し時間が経てば違った確証とか、誰かが情報操作していたこととかが明るみに出るのではないかと、その時期を待つことにしていた。

 そして3.11の日から今日の2月16日になっても疑いは晴れず、そのエネルギーは疑問を追った日々となっていた。

 この9ケ月で各メディアの報道傾向も、書店に並ぶ夥しい数の3.11に絡む書籍も、書店を訪れるたびに刻々と変わっていった。エンドレスの変化を追っているだけでは、書くタイミングも逸するので、取り合えず、この9ヶ月集めた数々の情報と「思索した連想」をシークェンシャルにはならないとしても、アドリブで書き残すことにした。

 

by kuritaro5431 | 2012-02-16 15:21


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