哲学から演歌まで  

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2009年 05月 05日

日本刀との出会い

 自己実現を果たすには、自分の弱さを克服して、目指す目標に向かってパワーを継続しなければならない。
 私にはそれが中学時代からできなかった。ある時期とても興味の湧くテーマが現われると、しばらくそれに没頭し、酔いが覚めると他の興味に関心が移る。
 友人との議論にしばらく勝ち続けていると思うと、ある時期から負けるようになる。
 あるとき、それは躁の心の時期と、鬱の心の時期が交互にやってきていると気づいた。躁の時期はなにをやってもうまくゆく、友人関係とも仲良く楽しくやれたし、議論も前向きに活発にやれた。
 ところがなんの予兆もなく、鬱の時期がやってくる。鬱を抑えるコントロール法を自分なりにいろいろ考えたがどれもうまくゆかない。自己のモチベーションと大いに関係があるので、これだけはコントロール法を見つけたかった。
 関係ない話と思っても、恐山のシャマニズムが糸口を与えてくれるかとおもったり、「眼には眼を」という映画で、1本しか残ってないコーラーの瓶を女が復讐のため吊り橋から落とすシーンは「自分の弱さを切断する」非情な感覚として受いれようとした。
 だが、それらの試みはみな空転した。

 大学の2回生の時だったか、いやもっと後だったかもしれない。友人と東京に旅をする機会があった。銀座を歩いていたら百貨店の店先に「日本刀剣展」の看板がでていた。もしや悩み解決の手掛かりがつかめるかもしれないと思い、友人と別れ会場に入ってみることにした。
 その会場は博物館の移転とやらで、臨時の展示会場だった。私ですら知っている国宝の名刀が数々並べられ、度肝を抜かれた。一番に目に飛び込んできたのが「虎徹=こてつ」だった。四つ胴切り落としと「金の象嵌」の入った巾広の刃渡りの短い刀だった。ガラスケースのなかの立て札に、罪人の胴を四つ重ねて一度に切った刀とあった。正宗やら兼元やら名刀が並び、私はその会場に3時間もいた。二つ胴、三胴切り落としの象嵌の入った刀に見入った。
 自分の弱さを切り落とせる刃物はこれだとやっと巡り会えた。
 剃刀では刃こぼれする。牛刀では細部の細工ができない。それに日本刀には日本人のアイデンティティと美意識が込められていてうれしかった。

 それからというものは、日本刀にのめり込み、刀剣展があるごとに見て回り、関連の本を買い漁り、現代の科学においても古刀(鎌倉時代初期以前)の切れ味は再現できないことを知った。その理由は、刀作りの原料となる砂鉄と蹈鞴(たたら、当時の溶鉱炉)にあり、硫黄と燐とマンガンの極度に少ない鉄にあった。それは現代では作れないと。
 古刀と新刀(鎌倉後期以降)の工法は違っていた。古刀も新刀も、各地にいくつもの流派を形成していた。それぞれが刀身の地肌、波紋は、直刃、互の目乱、怒濤乱、など独特の美しさを醸し出していた。
 また、それぞれの刀には、伝説、物語などがあり、謡曲、歌舞伎、にも取り入れられていた。
 伝統の美学をもち、非情な切れ味を備え、鬱期の自己の弱さを切断するのにこれ以上納得のゆくものはなかった。
 自分の弱さに非情と思えるほどの叱咤をかけ、地ならしをした。やがて鬱と躁との落差は縮まった。
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by kuritaro5431 | 2009-05-05 10:05


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