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2009年 04月 27日

私の怨歌の源流はこの和讃にある

 37年前の2月、私は生まれて3つきの長男を亡くした。
 火葬にするとみな灰になり、なにもかも残らなくなるからと、田舎の父が役場に掛け合い、土葬の許可をもらって待っていた。
 小雪の舞う墓地に、友人がくれたおくるみを着せ、小さい柩に入った嬰児は、深く掘られた赤土の穴にロープで降ろされた。
 これだけの年月が経ったのに、その子は、薄紫のおくるみのままでいた。


                       賽の河原の稚児和讃

 1, これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語り 聞くにつけても哀れなり

 2. 二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが賽の河原に集まりて親を尋ねて立ちめぐり

 3. 峰の嵐の音すれば 父かと思いよじ登り 谷の流れを聞くときは 母かと思いはせ下り

 4.西や東とかけめぐり 手足は血潮にそめながら 父上こいし母こいしと叫べども

 5.影も形も見えざれば 泣く泣くその場に打ち倒れ 慕い焦るるふびんさよげにあわれな幼児が

 6.河原の石をとり集め これにて回向の塔を積む いちじゅう積んでは父のため 二重積んでは母のため

 7.三重積んでは故郷の 兄弟我が身と回向して 昼は独りで遊べども  日も入相のその頃に 

 8.地獄の鬼が現われて 積みたる塔をおしくずし また積め積めと責ければ 幼児余りの悲しさに

 9.紅葉の様な手を合わせ 許し珠恵と伏し拝む 折しも西の彼方より、光明輝き尊くも

10.大慈大悲の地蔵尊 現れいでさせ給いつつ 眼に見てる慈悲の色 たとえかたなき御涙

11.ようやく歩み近づきて 大悲摂取の手をのべし 幼き者を見衣の 袖に抱えて撫でさすり

12.育て給えば幼児は いまはみ親のふところに こころのままに喜びて 楽しみ尽くることぞなき


  霊山恐山物語より、一部平易に訂正。


 
 2013.2.9追加記事

 恐山については若い頃から強い関心を持っていた。
 2012/04/20出版の、南直哉著『恐山』は、その月に即読んだ。まさに「目から鱗」の思いで読み終わった。
 それは、「死者のゆくあの世はあるのか」という疑問といえば疑問のようなものであったが、まさにだれも経験したことのない純粋の「形而上世界」である。自分としては「あの世はない」との思いのほうが強かった。
 でも生後3月で亡くなった長男の生前の面影は忘れられない。

 南直哉僧は、恐山菩提寺の院代である。
 閉山の冬季を除き、多くの縁者が恐山を訪れる。みな死者を思ってやってくる。生者が死者を思う念力が「あの世があると思わせる」。恐山はあの世と一番近い山。ひょっとすると逢えるかも、と。イタコの口寄せ聞けば、その声はと思い、人の想像力は素晴らしい。

 その本のなかで著者は、「釈尊は、あの世があるともないとも答えなかった」「答えないのが答えだと」「あると思えばあるだろうし、ないと思えばないだろう」と。それは「無記」という、と。

 実は私の一つ上に兄がいて、同じく一年も経たない夏、脳膜炎で亡くなっていた。
 百歳まで生きた私の母は、ずーっと忘れられなかったといっていた。
 87歳で亡くなった父は、孫を亡くした悲しみより、子を亡くした悲しみを一生思いつづけることになる私が、不憫といった。

 私も父の歳まで後7年。母の歳まで20年。
 妙に、死への恐怖はみじんもないが、痛みは困る。

 死後は、長年鯛釣りに通った若狭の海でとめどなく漂いたい。
 30頭ものイルカの群れがいたっけ。

 そこはあの大飯原発の沖。その頃は放射能に村も海も汚染されイルカの群れもいないだろう。
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by kuritaro5431 | 2009-04-27 16:28


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