人気ブログランキング |

哲学から演歌まで  

fmcfmc.exblog.jp
ブログトップ
2009年 04月 19日

記憶と忘却とバーソナリティ

 この3つの言葉は、私が青年期のこころに衝撃的に刻まれたものだった。76歳になったいまでも、ときに頭をもたげる。良きにつけ悪しきにつけて、終始この言葉に支配されたのは30歳から40歳ぐらいだった。

 記憶という言葉を強烈に意識し始めたのは昭和34年日本で上映されたアラン・レネ監督の原題「ノーモア広島」日本名「二十四時間の情事」。主人公の原爆体験が、時間が経っても意識の奥底でいつまでも把時され、蘇る。記録ではない記憶なのだ。記録は図書館や記録映画のなかにある。でも、人間の記憶は深層の心のながに沈んでいる。それが外界の刺激によって再生される。
 時も同じ頃だったか、ピカソのゲルニカの壁画が京都市立美術館にやってきた。ピカソの祖国ゲルニカがナチスに爆撃され、悲痛に悶える市民が壁いっぱいに描かれている。まさに、ビカソが忘れまいとする心がみなぎっていた。

 忘却という言葉に出会ったのは古い。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓うこころの悲しさよ」「君の名は」のラジオドラマがはじまると、この言葉が流れる。
 たとえば、悲しい恋の別れ、愛する人に刃物で刺されるような言葉を吐かれたとき、鬱病が3年も治らず苦しんだ人とか、でも多くは時の経つことで忘れられる。忘却という作用なくして人間は生きられようか。忘却とは、仏が人に与えた救いではなかろうか。

 パーソナリティという言葉を、哲学の論理の講義のなかで聞いたのは、初めてだった。大学四回生の「経済哲学」の特別講義で、当時マルクス、ヘーゲルの弁証法研究で有名だった梯明秀先生に、私は質問した「ヘーゲル弁証法の行く先は神で、マルクス弁証法の行く先は、なぜ現実に戻るのですか」と、すると先生は、「ヘーゲルの論理は、下から上に上昇し、フェティシズムという論理的空洞を通過して神にいたる。マルクスはフェティシズムという過程を通過して現実に戻った」といった。
「フェティシズムという空洞には論理が存在しないとするならば、ヘーゲル弁証法とマルクス弁証法の論理的論証はできないではないですか」と私が問うと、「その通り」といった。 
 「ではヘーゲルとマルクスの違いはどこからくるのですか」と尋ねると。
 「それは、ヘーゲルとマルクスのパーソナリティの違いからきているんだよ」といった。
 その言葉には驚いた。論理的空洞のある哲学があるとは。
 それからというものは、人間その人が論理を選択するとき、バーソナリティが決定するものだと。

 フェティシズム=物神崇拝。マルクス経済学では、商品が人間の労働による価値を通じてではなく、それ自体固有な神秘的な力を持つと考えられて、崇拝される対象になる。崇拝という行為には論理はなぃと私はおもった。だから先生は論理の空洞といったのだと考えることにした。

 パーソナリティもまた生まれつき思考回路が人それぞれに違っていて変わることはない。思考回路や価値観は、ハーソナリティによって規定されている。だから論理としては空洞というのだろう。私はそう考えた。

by Kuritaro5431 | 2009-04-19 11:15


<< 弁証法 その1      仕事のない日 >>