哲学から演歌まで  

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2009年 04月 15日

昭和32年頃

 私大の経済学部を卒業して、学生時代の下宿をでて、管理人のいないのほうずな下宿に引っ越した。
 就職した会社の仕事が性に合わず、6ヶ月で辞めた。今でいうフリーターのような仕事で食いつないでいた。
 仕事というのは、学生時代映画研究のクラブにいて、卒業した先輩が洋画の配給会社の宣伝部にいて仕事があると呼び出しの電報をよこした。よく仕事をくれた。

 小屋(封切り館でない映画館=2番館を小屋といっていた)のモギリ(入場券の半券をモギリながら入場者数を数え、興業収入を、配給会社に報告する仕事)というのは、配給会社直営の封切館での入りぐわいで、小屋に貸し出すフイルムの貸料が決まる。封切館で大入りになった映画はフイルム代が高くて小屋は借り料が払えない。そんな場合、小屋と配給会社で歩合の興業をやる。小屋は入場者数をごまかして少なめに配給会社に報告しょうとする。その見張り役をするのがモギリである。市内なら日当250円から300円ぐらいだったか。
 地方の小屋でのアルバイトは宿泊代込みだったので、1日に3000円ももらえた記憶がある。当時大卒の初任給が、12.000円ぐらいだったからいい実入りになった。なかには、ヤクザまがいのお兄ちゃんがいて、見張りをさせない。小屋同士で発行しているパスを持たせ、小屋から追い出す。夕方になればそのお兄ちゃんが作文した興行収入の電報を、配給会社に打つ。配給会社もうすうす知ってやっていたのだろう。
 地方のあくどい小屋主のなかには、モギリのアルバイトに女をつけて、汚らしい連れ込みホテルに閉じこめて、酒と女と場末の料理にひたらせる。配給会社からロードマンが巡回してくるときだけあたかも毎日もぎりをやっているように、アルバイトを入り口に立たせる。ロードマンも金をつかまされ、お互いなれ合いのようだった。

 通常は、自分で旅館を探し、朝昼番の食事も自分持ち。旅館代、食事代など小屋持ちなら、日当はかなり余った。一週間の予定の上映が、3週間ものロングランになれば、仕事なしで2ヶ月は食えた。
 3週間もいれば小屋主とも親しくなり、別れ際には結構な金一封もくれた。

 
 そんな時代にも、一流企業志向の者はいた。でもみななんらかの志を高くもち「将来の生活安定のため」を上位においている者は少なかったと思う。中堅企業に就職した者も、たいていは入社してから志の高い目標を設定し、現場の実務を習得しながら上昇志向の弧を描いていた。
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by kuritaro5431 | 2009-04-15 09:01


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