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2014年 07月 29日

いろいろあった「フェティシズム」論 (4)

 前号から体調を崩し1ケ月以上もあきました。

 私の日本史への関心は、「日本刀の誕生から、太平洋戦争での軍刀までの鋼と作刀、および古代から日本刀にまつわる伝説と民話」と「縄文→弥生に生きたサンカ・蝦夷、エミシといえば外せない坂上田村麻呂、奈良時代から平安遷都にまたがる人物」と「阿頼耶識→唯識佛教=興福寺。興福寺といえば開祖道昭の『日本霊異記』、藤原一族(藤原鎌足、藤原不比等ほか)に支えられ強大な勢力に」この3つが核となって興味は拡大したものだった。

 その背後にあるものは、私の思考をずっと迷わせてきたものだった。日本人が原始共同体社会の古代から「情を、なにもかものペースにして[連帯]してきた生き方。そこには、時代時代の為政者の統治に虐げられた弱者や、社会からはじきだされたのけ者にもやさしい[絆社会]があった。それは大正から昭和初期の、関東大震災から満州事変へと時代が大きくカーブして、特高が拷問の弾圧をやっていったときでも、心優しく美しい抒情歌が日本人の心を捉え、歌謡曲も古賀メロデーを中心としたよなぬき演歌も戦前の一時期を風靡した。
 そして太平洋戦争が終わってしばらくつづいたアメリカの占領時代にも、左翼が台頭し、A級戦犯の岸首相によって安保条約が通過したあのときにも、「こころやさしい絆のこころは地下水のように、尾てい骨のように残っていた」。それが湧き水のように現れたのが、朝鮮戦争を機の好景気に東北地方の幼年労働者の大量調達。それは結果「故郷との連帯の切断となり」「ああ上野駅」に象徴されるところとなった。それでも彼らは、集団就職した会社を「絆社会の連帯の場として」生きようとした。
 それからしばらくの高度経済成長による物質文明に酔いしれた日本人。そして1992年頃バブル景気崩壊。そのときまでそうなると誰も予測できなかった人間欲望の性。バブル崩壊後の平成6年4月-1994年経済企画庁国民生活局は、日本国民に向けて「個の実現を支える新たな絆を求めて」という冊子を発行した。(このことは以前このブロクに書いた)。「新たな絆」という言葉には、当時の為政者のトリックが隠されている。どうしても「絆」という一字を入れておく必要性は痛いほど分かる。「絆」を持ち出しながら、まったく共同体社会における「連帯とはまったく違う」「個」=「自我の尊重」。「個」を主体とする新しい人間関係=これが日本国民に求めた「新しい絆」ということだったのである。その本質は古くから日本人がもっていた「絆」意識とは正反対のものだった。
 その頃、イギリスにおいてサッチャー首相が、後に新自由主義といわれる「頑張る者は報われる」という経済政策を打ち出し、GNPリーティング企業および富裕層の機関投資家も含め、儲けるために頑張る人たちは報われて当たり前、という市場自由競争主義が正当化されるようになり、雇用者においても稼ぎのよくない・生産性のよくない社員は報われなくて当たり前となり、日本の自由民主党は党の綱領にこれ掲げた。バブル崩壊後の日本の上場企業にはこの路線を導入し、「成果主義人事制度」年功序列・終身雇用・労使協調を廃止しこれに切り替えた。切り替えた理由はそんな本音丸出しでなく、「絆の日本的心は大切にして」というレトリックを使われるもやがで本音は露呈した。
 そしてバブル崩壊後の中高年のリストラの苦難の時代がき、やがてデフレ恒常の20年となった。話は聞いているが体験していない世代は、実感することはできないことが判明した現代。

 そこで当時私はどうあるべきか苦悶し模索したのが2009.5.2の「自立してゆくしかない時代」に添付したチャート「これからの集団的ベクトルのあり方」からはじまり→所属する企業のコーポレートアイデンティテイを確認・選択し、自己アイデンティティ(パーソナルアイデンティテイ)を確立した己と協働するという「CIとPIの統合概念」のチャート、これはロジカルに構造化する前の概念。→それをロジカルに企業内で実現するための実務化のロジックチャートが「個と組織の統合」であった。
 己にとってなすべきことは、選択した企業と主体的協働を実行するための《自己スキルおよび成果実現能力》。そのための条件として己の命の根源・コアと生態的につながった自己モチベーションの持続的循環的達成快感構造の確立、その根源に〈唯識の阿頼耶識〉をもってこれないかの模索)=前掲の奈良の興福寺であり薬師寺→南都六宗の謎も含め〉→そして2009.5.6の「阿頼耶識 あらやしき」に添付した「唯識佛教の心の構造」のチャート。その次のページにつづく「連帯と個の概念的試行」の2種のチャート。これは当時私がイメージしたバランスを取るべき五角形の概念領域と、その領域に内包する理性的認識・知覚的認識・肉体的感受で、このバランスこそ大事と考えた。これらの概念に魅せられた最大の理由は、その前ページに書いた「自己根源体は、魂が住む蔵のようなもので、蔵は外界と繋がる小さな出入り口から一日8万回もの情報=刺激を刹那にに受け、根源体は流転し、正=善のモチベーションや、負=今のままでいいという諦観と怠惰のいずれが蓄積するはず、という考え方だった。
 阿頼耶識とは無意識の心のエリアなので、意識化しないとモチペーションには使えないと、現・興福寺の貫首多川俊英僧からお返事をいただいたが、当時私は生意気にも、西欧の一神教でも教理を時代と、遠征先の民族・歴史・政治・生活習慣などの環境にどう馴染ませるか使い分けた史実もあり、使える可能性があるなら古代の教理をトランスファして使えないものかと失礼なことをいった記憶がある。
 そのとき僧は、「阿頼耶識をもってモチベーションするためには、無意識世界の阿頼耶識を意識化しなければならない。そのために唯識佛教では「阿頼耶識縁起」といって、すべては阿頼耶識から生起すると考えるのだが、同時に、自己を明日に向けてどのように展開していくか、ということについては意識の働きこそ重要だと考えます」といわれた。
 そこで「阿頼耶識縁起」を岩波佛教辞典で調べてみると、「唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとする唯心論哲学を説いている。それは主として迷いの世界についていうのであるが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識か、汚れた妄識であるかという論争が生じることになった」とある。
 さらに同辞典で「縁起」を調べてみると、「佛教の中心思想で、一切のもの(精神的働きを含む)は、種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生じるという考えを現す。〈因縁〉〈因果〉と同趣旨」とある。さらに初期佛教時代の縁起説から、時代と共にその説は変遷している。仏教思想発展の各段階を通じて、世界観・人間観を示すもっとも重要な教説であるが、もともと原因や条件を追求説明しょうとする姿勢から生まれたものであったため様々な語義が生じ転用された」と。平安末期頃からは次第に霊験利益譚中心に移行したとある。

 さらにヘーゲル(1770~1831)が「歴史哲学講義」のなかで「東洋的世界原理は、共同体精神が権威として現れることにある。個人のきままな振る舞いは、東洋においては権威のもとに抑制される。共同の概念は法律の形にあらわれる。しかし、主観の意志にとって法律は外からの支配をふるう権力であって、心情、良心、形式的自由といった内面的なものすべてが今だ存在しない。
 近代は紛れもなく西欧中心主義である。歴史も哲学も、中心がどんどん西に移動した。ギリシャ、ローマ、パリ、ロンドン、ベルリン。しかしなにものも無から生まれない。歴史でもご同様。ギリシャの先はペルシャであり、その先はインド、そしてどん詰まりがシナと考えられていた。
 しかし、現実の文明史は、ペルシャ・エジブトから始まって、東西に分化し、イギリスからアメリカへという西回り路と、シナから日本へという東まわり路が交わって、世界が一つになった。
 西欧にとって東洋は遠い。そのどん詰まりはさらに遠い。シナの歴史、東洋的世界、アジア的共同体は、個人が完全に共同体に埋没した世界、非主体的世界である、という通念が成立した。日本人が抱いているアジア的性格などは、西欧近代が植え付けた産物ではないか、と疑ってみる理由はある。
 ヘーゲルは、シナとともに歴史が始まる。歴史が伝えるところ、シナは最古の国家である。その国家原理が共同体であり、共同体と主体が無差別に融合している世界だという。詰まり、ヘーゲルは、シナをいまだ人間の自我意識が発生しない無意識の世界、動物と陸続きの世界だといっているのだ。そして案外、シナ=日本=アジア的のヘーゲルの定義を私たちは心地よく感じているのかも知れない。
 ※ヘーゲル哲学の特徴は「歴史」と「現実」をあつみをもって語られているところにある。いうまでもなくマルクスの歴史観や現実意識の大半は、ヘーゲルから得たといっていい。
(注)このヘーゲル説は、このブログの2013.1.17の「ペンデイングタグがあまにも溜まったもので (2)」のなかほどに、「東洋的無という概念の出所は近代西欧にあり──ヘーゲル」欄に詳細あり。
 これほど日本人の「共同体意識」に屈辱的文章に出会ったことがなかったので、当時の私の衝撃は大きかった。


 話を冒頭に戻しましょう。
 3年前の平成23年(2011年)は『古事記』編纂1300年記念ということで、「古事記」に関する歴史家や研究者の論文や研究資料が多くだされた。記紀については相当昔から物語の虚実について多くの研究者が立場立場の論文など発表し、論争されてきた。もちろんその論文に目を通しての見解が述べれるほどの知識は到底持ち合わせていない私である。
 とはいえ、政治・世相が騒然としている今、歴史の節節に古代日本はどうだったのか、西欧の諸国、シナ、朝鮮との関係はどうだったのか、自分の持てるインタレスト分野から接近してみたくなるのは別に歪なことではなかろうと思う。
 いくつかあった手持ちの資料をたぐった。目を引いたのは、「現代思想 2011 Vol.39-6 5月臨時総特集古事記1300年目の真実」だった。今もバックナンバーとして書店の棚に並んでいる。
 執筆者が私好みの、梅原猛先生、作家の瀬戸内寂聴さん、それに上野千鶴子さん他だった。歴史研究者からは余りよくいわれない方もおられる。
 とある私設歴史博物館で、私がある質問をすると、若い解説員が、歴史研究に文学的イマジネーションを持ち込んではならない、あくまで立証できる史実をベースとするのが歴史研究の基本ですと解説員はいった。私は、史実・資料といっても時の為政者がつくったものであったり、都合のわるいものを焼却したりしてきたと聞くが、生の人間が争い、騙しあい、支配する者される者、権力と欲望の狭間で生きた庶民の記憶こそ歴史ではないのかというと、慌てて古参の解説員が割っては入り、「われわれは歴史学者ではありません。学術的なほんとのことは分かりません。専門的なことは歴史学者にお尋ねください」といい、私と若い解説員を引き離した。
 私はこの種の本を漁り読む時も、永年私がペンデングにしていた事項(自己に関わる優先度の高い疑問符)
についてつい目がゆく癖がある。時にその論文のテーマと関係なくても───

 冒頭の、梅原猛先生の「古事記論」。同じ桑原武夫先生門下といえる鶴見俊介先生とでも、一旦丸山真男の評価になると「転向」の問題では真っ向から異なる。もちろん鶴見俊介先生は、アメリカでプラクマティズム研究をされ、日本に紹介された方でもあるから、アメリカ的効率主義を嫌う梅原先生とは異なる合理性感覚の持ち主だから双方のこの話は、私には理解できる。
 現代思想の「古事記論」の、津田左右吉のこの論については、鶴見先生も梅原先生に同調されるものと思う。
 津田左右吉著『文学に現れたる我が国民思想の研究』のなかで『源氏物語』も禅も芭蕉もくそみそに批判されている。そして彼が唯一礼拝しているのは小林一茶である。いってみれば、彼は一切深遠なものを信じず、平凡な日常的なものにしか価値を認めないのである。こういう彼にしてみれば神々に関する神秘的なことが多く語られる日本の神話などというのはまことに荒唐無稽なものと考えられたに違いない。このような思想は大正デモクラシーの影響のもとにある、どこかで自然主義文学に通じる凡人観といってよいだろう。

 この文章のなかの「自然主義文学」というフレーズに青春の苦い思いが甦る。映画において、イタリアのネオリアりズム=社会主義リアリズム(ヌーベルバーグの前) の支持者は、悪しき作風の典型として「自然主義リアリズムだ」と批判した時期があった。被写体は社会の歪みに向け、ドキューメンタリータッチで撮るべきだと。 自然主義文学は、フランスのエミール・ゾラの「居酒屋」に源流ありとするが、日本では、赤裸々な雑多な空間のなかでの生殖でない性の描写をありのまま実写する。ありのままの実写を通じて人間存在を描写する手法が自然主義文学といわれた。
 その流れは、徳田秋声、田山花袋にはじまり、いくつか分派して、その一部が川端康成に繋がった。川端自身も変遷しての孫かひ孫かとどこかでいっていた。『雪国』 の駒子に繋がった。川端康成は、日本的自然主義文学を自らの美学による文体の形象化により昇華させ、ノーベル文学賞を受賞した。
 映画「雪国」で駒子を演じた岸恵子がフランス人監督イブ・シャンピとの結婚式で川端康成は媒酌をしている。
 私は2012.2.9の「岸恵子」と題したブログを書いた。その文章には駒子が世界で昇華した大人の女の片鱗を書いた。
 そして2013.3.25 幻冬舎の辣腕エディター兼社長 見城徹氏に仕掛けられて小説『わりなき恋』をだした。そこには亡き師匠川端康成の自然主義文学の臭いを継いでいた。
 五木寛之の「風のカフェ」というBSフジの番組に、五木寛之氏と見城徹氏と、岸恵子と若い美人のエデターと4人の談話には、ベテランの書き手五木寛之氏に幻冬舎記録の大べストセラー「大河の一滴」を書かせるまでの見城氏の熾烈な裏話、そしてヒットには至らなかった『わりなき恋』の裏話。編集者も、ベテラン作家も、セミプロ作家もみな日夜血の滲む思いでキラーなコンテンツと細部に神宿るオーラを探索しいた。

 この梅原「古事記論」に絡んでいる話をもう少しだけ、どうしても書いておきたことがある。

 ①白鳳時代(645年)孝徳天皇のとき「大化の改新」が始まったと年表にはある。その前の飛鳥時代に聖徳太子逝去(622年)、それを機に権力を広げていった蘇我氏。蘇我入鹿はクーデター「乙巳の変」によって暗殺され滅ぼされた。ここまでは日本史の定説。ここで触れたいのはその後の藤原氏(鎌足・不比等たちの歴史の蔭に隠された戦略である)。
 梅原先生は、「古事記」を書いたのは、藤原不比等のペンネーム稗田阿礼ではないかといわれる。あれだけ膨大な物語の記憶を稗田阿礼といえども記憶でるはずがない、と。そして藤原鎌足の菩提寺を興福寺とした。藤原氏庇護を受けた興福寺は宝蔵院覚禅房胤創設で僧兵に「宝蔵院流槍術」教え、武闘集団としても平安時代中期までその勢力を維持し、長保(1000年)には、「興福寺僧徒の乱暴禁止令」がでている(日本刀剣年表)。宝蔵院覚禅房胤は、南朝系の柳生宗矩とも交流があったともいわれる。祇園さんと今も京の町衆に親しまれている八坂神社も一時興福寺の配下にあった。
 そうみると、奈良時代前半から天平年間に政権を握った藤原不比等の四人の息子達は分派して、平安時代においては、不比等亡き後政権の座を巡って血族の悲劇も今の世とどこか似ている。

   藤原武智麻呂 藤原南家開祖に
   藤原房前    藤原北家開祖に
   藤原宇合    藤原式家開祖に
   藤原麻呂    藤原京家開祖に

 朝廷から実質の統治権=ぶれない権力を奪ったものの、今度は血族間の(今でいう政党)権力への執着と幻想的欲望の行方。

 ②は、先のこのブログにも書いた、梅原猛著「日本の深層」の蝦夷エミシ族の本州説と、北海道蝦夷エゾ族は本州族と違い北方から別ルートで渡来したという説。後者は言語学者 金田一京助、民俗学者 柳田国男、(桑原武夫)、宗教学者 山折哲夫、宮沢賢治も。この人達の概ねの共通点は、弥生時代以降の人たちが日本人で、それ以前の縄文時代の人たちは日本人とはいえない。地方の現住豪族が地域を支配し、統一国家といえなかった、と。騎馬民族で、住居定着型でない遊牧民ノマド族。縄文時代は一万二千年つづき、弥生時代は、縄文・弥生の混血時代を入れて高々三千年。弥生を日本の期限とする人たちは日本人を農耕の単一民族と見る。前者説の人たちは一万二千年スパンで日本の歴史を考える。
 ここに名を連ねた、桑原武夫、梅原猛、山折哲夫は、京都の「国際日本文化研究センター」の創始尽力者であり、歴代の所長経験者である。同時に京都学派を築いた学者たちである。歴史に対するスタンスの違いはあるも、哲学にせよ、民俗学にせよ、宗教学にせよ、異質の才能をおおらかに育てた桑原先生にせよ、ベースに、人間を包括的に捉える《共通善》へのこよなき憧憬を感じるからである。

 ③、梅原猛先生といえば、先生書き下ろしの、あのスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」がある。記紀に登場する日本武尊。小碓命(ヤマトヲグナ)は、16歳で熊襲を成敗するまでの名。熊襲の首領熊襲建(クマソタケル)は命絶えるまぎわ、小碓命の武勇を嘆賞し、倭建(ヤマトタケル)の号を献ずる。
 古事記におけるタケルは、粗野で野蛮で、父景行天皇((101~130年)はいつも手をやく存在。天皇はわずかな家来で熊襲討伐を命じる。娘に化けて熊襲の宴会に潜り討ち果たす。以後もつぎつぎと出される理不尽な父の命令。
 相模の国で欺され、野中で火攻めにあったときもスサノウノミコトが出雲の国で八岐大蛇を成敗し、大蛇の腹の中から出てできた剣、草那芸剣(草薙剣)で草を払い、火打ち石で迎え火を点けて逆襲。
 熊襲の時も、火攻めの時も、二人の叔母に助けられ父の仕打ちから救われた。母性本能をくすぶる得体の知れない魅力がヤマトタケルにはあったのか。
 最後は、伊吹山の神と対決し、神の化身の大蛇をまたぎ、神に氷雨を降らされ意識朦朧のなかで、ヤマトタケルは30歳(113年)の若さで死す。
 「古事記」では父との人間関係から悲劇のヤマトタケルと記され、「日本書紀」では天皇への従属、天皇性賛歌の物語となっている。
 なのに、ヤマトタケルは死後、白鳥となって大和を目指して飛んでいった。
 私は、このスーパー歌舞伎に微かな疑問を持っていた。あの「日本の深層」で書かれた悪路王といわれたアテルイを京に連れてきて処刑した、することになってしまった、大和朝廷の征夷大将軍坂上田村麻呂。その人を描いた著者が? と思ったが、実は田村麻呂も百済あたりからの渡来人、アテルイとは幼なじみだったとかの伝説も読んだような記憶もあった。

 現代思想 「古事記」総特集 1300年目の真実 で、私として取り上げないわけにいかないのが 瀬戸内寂聴さんの「古事記私的体験」である。

 数え切れないほどあらわれる面妖な神々───
 古事記の文学的価値は、神も人も、善人ばかりでなく、本能のままに動く煩悩過多で淫乱な生きものである点であろうか。
 神も人も登場人物すべてがいきいきとして、煩悩のままに行動している。儒教のまだ入っていない日本人の生き方の自由さ奔放さが小気味ようい。神仏習合でなく、神仏混合の時代。
 動物が人間のように口をきき、人と交信するし、子をなすなどあり得ないはずなのに、古事記に読みふけると、それが至極自然に思えてきて、ふと、本当に昔、昔は人も鳥獣も同じように語り合い、媾わった時があったかのように錯覚してくる。
 中巻に入ってる倭建命=ヤマトタケルノミコトの話は、小学校でも習ったが、雄壮て華やかで悲劇的で劇的要素のすべてを備えている。倭建命は、まさに物語のスターだった。と書いている。
 私は、この文章を読んですぐさま連想した。
 今風にいえば、「快感ホルモン・ドーパミン全快」。儒教とか、理性とかという「抑制ホルモン・ギャパ」など気にしない原始的生命の野放しの物語。無意識か、それとも意識してか「戒」という箍などほっとらかして「弛緩の楽園で命が欲するままに流されて」という日本的エロチシズムの特質の断面を感じる。

 後、聖徳太子(飛鳥時代・574~626年)は法隆寺、大阪に四天王寺、鑑真和上(奈良時代に帰化・688~763年)は唐招提寺。この頃より「戒」=してはならないこと(道徳) と「律」=罰すること(法律)がこの二人の僧で広められた。

 (注)「南都六宗」とは、奈良時代、平城京を中心に栄えた奈良佛教の総称。

 ・法相宗 開祖・道昭、寺院・興福寺・薬師寺
 ・倶舎宗 開祖・道昭、寺院・東大寺・興福寺
 ・三論宗 開祖・恵灌、寺院、東大寺南院
 ・成実宗 開祖・道蔵、寺院、元興寺、大安寺
 ・華厳宗 開祖 良弁・審祥 寺院・東大寺
 ・律宗   開祖 鑑真 寺院 唐招提寺

 宗派というより互いに教養を学び合う学派だった。
 聖徳太子・法隆寺は聖徳宗として別格との説あり。

 唐招提寺の執事長の談によれば、聖徳太子の「戒」と「律」と、鑑真和上の「戒」と「律」は同じではあるが輸入されたテクスト(お経)が違うと。
    
















            
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# by kuritaro5431 | 2014-07-29 10:33
2014年 06月 23日

いろいろあった「フェティシズム」論 (3 )

 ここでは謎多き京の名刀鍛冶「三條宗近」の伝説の話───

 本格的彎刀の日本刀が形成されたとする年表を見ると、平安時代・延歴25年(805年)───平安京遷都が794年だから10年後に伯耆の国[安綱]という刀鍛冶が、自分の銘を、なかご(柄のなか)に切ったのが最初のもの。国宝の太刀として現存。大江山の酒呑童子を成敗したとの伝説で「名物童子切安綱」と呼称。同年は空海が帰朝し真言宗創設。
 このブログでもいくつも話題にした、延歴20年(802年)東北の蝦夷を平定した坂上田村麻呂が佩刀していた刀は、まだ直刀だった(京都・鞍馬寺蔵)。
 それ以前に唯一、大和・奈良時代の御物として、年代不明、刀工無名で、なかほどより両刃で反りのある保存のいい太刀「名物小烏丸」が現存する。

 その次の年代永延元年(987年)に「三條宗近」の記載が年表にある。この「宗近」にまつわる謡曲「小鍛治」に出てくる一条天皇と、合槌役を乞うて出た稲荷山の狐伝説の謎。これらと関係ありそうな長保2年(1000年)の奈良の「興福寺僧徒の乱暴禁止令」の話、これは後ほど──

 そこで私の日本刀研究の比較的初期に、「三條宗近」と、謡曲「小鍛治」の謎に出会い、平安時代流行った狐や蛇や、異霊なものへの恐れとか信仰が重なっていそうなことに興味をそそられていた。
 宗近の住んでいた三條とは、三條大橋を起点としての東海道を東に貫く旧街道の端。東大路通りを越え、神宮道(平安神宮の大鳥居のある)と三條通りとが交わる、南東の一帯を粟田口と今でもいう。平安時代後期には、京粟田口派という刀鍛冶一派が、鍛冶場をかまえる集団がいた。宗近も「粟田口三條宗近」ともいっていた。

 神宮道の三條を越え、細くなった一方通行の坂を進むと大楠木のある青蓮院門跡(粟田御所)があり、その南隣りは徳川将軍家が権力を誇示し朝廷を牽制、政治的拠点とした浄土宗大本山知恩院がある。
 青蓮院の裏手にあたる東側にある粟田神社は、東海道を東に旅立つ旅人たちの安全を祈った神社であり、幾多の名刀を残した粟田口派の刀鍛冶たちを祀った社が境内にある。
 この一帯は、奈良・大和朝廷時代から平安遷都へ移行した表と裏の歴史がいっぱい詰まったところでもある。
 また、江戸時代武士道の自力の精神を育てたのは曹洞宗と思いきや、佛の他力の信者であった家康とはストンとこない私だったが……

 謡曲「小鍛治」の話といえば、学生時代「能学部」にいた人たち、最近はじまった「京都観光検定試験」問題に出るほどの話だから、京都在住の人でなくてもかなり知られた話ということになっている。読者のなかにもよくご存じの方もいらっしゃろう。

 ここではご存じない方のために、この話の大筋と、私が個人的にこの話に興味をもった古代の狐や蛇を信仰した日本特有の異霊へのこだわり=フェティシズムの側面に触れてみることにする。。
 謡曲、長唄、歌舞伎にもなっている「小鍛治」の話である。
 平安の中期(永延の頃)京・粟田口三條に、橘信濃守粟田口藤四郎(たちばなしなのかみとうしろう)と号する、三條小鍛治宗近という刀工が住んでいた。歴史上実在したとなっている。
 粟田口という集落は、前述のような地にあり、今の都ホテルから蹴上げ辺りをも粟田口といっていた。
 現、粟田神社の辺りに仏光寺本廟があり、その辺りに宗近が住んでいた。本廟境内に宗近ゆかりの石碑があったと、現在その碑は浄土真宗仏光寺派大本山にある。その本山は烏丸仏光寺通り東入る、にある。創建は、建歴2年(1212年)に、親鸞聖人が北陸流刑から帰還され山科に草庵を立てられその庵を「仏光寺」と銘々されたところから由来。その後転々として現在の地に。
 また、知られてないようで京都では結構有名な「合槌稲荷神社」。神宮道三條交差点を東へ進むと、民家の並ぶ路地の奥にこじんまりした小さな「狐の社」がある。路地の入り口に小屋根のある案内板に宗近が信仰した狐に助けられ、一条天皇から頼まれた太刀を奉納できたと、謡曲同好会の有志による説明がある。以前はなかった朱塗りの鳥居の連々が立ち、奥までつづいている。何百年も何代もこの民家に住む人たちによって、宗近の思いは守られていた。

 謡曲「小鍛治」の筋は、
 ある夜、一条天皇が夢で不思議なお告げを聞いた。「宗近に刀を打たせよ」と。
 翌日勅使が宗近に天皇の命を伝えた。ここからはじまる謡曲「小鍛治」。作者、年代ともに不明の物語。
 宗近は、向こう槌を打つ者がいないのでと断るも許されず、困り果てる。信仰の厚い稲荷神社に詣でる。参道を歩いていると、若者が現れ、一条天皇より頼まれし刀を打つ向こう槌の若手がいないと察するが、よければそれがしが承ろうかと、いう。
 勅使がいった日本武尊の草薙の剣にも劣らぬ剣。これを打とうよ、と宗近を励まし若者は稲荷山に消えた。
 力を得た宗近は、わが家に帰り七重の注連縄をめぐらせ鍛冶壇にあがって、作刀の完成を十方の諸神に祈った。
 その夜、鉄の槌をもった若者が現れた。それからというものは作刀がとんとん拍子に進み、 剣はできあがった。宗近は剣の名を思案していたところ、若者は「小狐丸」がふさわしいといい、表に「宗近」、裏に「小狐丸」と刻んだ。
 宗近が勅使に稲荷の神体「小狐丸」の剣を捧げた後、若者は「これまでなり」といい叢雲に乗って稲荷山に帰っていった。若者は神狐の化身で、名工宗近の霊体験の談である。
 日本では天皇の宝物として、鏡、玉、剣がある。これは単なる武器ではなく、天皇の精神の象徴であった。
 この「小鍛治」の謡曲は、神狐の力により草薙の剣にも勝る剣を打てとの一条天皇の命に応えたという話である。
 ここまでが一般的に知られた「小鍛治」にまつわる話である。
 
 一条天皇は七歳で即位し、在位 986~1011年とある。仏光寺派の開祖親鸞聖人は、奈良佛教・南都六宗と対立した平安遷都以降の比叡山天台宗分派の宗派である。 
 宗近は実在した人物であることは確かのよう。「天慶元年(939年)生まれ、長保三年(1001年)に七十七歳で死す」とあるも、大方の説で生きた時代も、後年の様子も定かでない。
 そもそも謡曲「小鍛治」の作者も、つくられた年代も不詳ということだから、そんなことはどうでもいいのかも知れない。
 それにしても、それ以外まことしやかな話はまだある。また、以前よりペンディグのまま放置していたことをちょっと突っ込むハメになった私は、思わぬところで日本の古代史の迷路にはまってしまった。(これは次号以降で)
 
 それ以外の真偽ない交ぜの話として、
 祇園祭の「長刀矛」の屋根の上で天を指す薙刀は、宗近の作といわれ、それは娘の疫病治癒の感謝として作刀奉納され現存している(矛巡行に据えられているものはレプリカ)。また、静御前のもっていた二振りの薙刀も、義経が自害した短刀も、弁慶の三尺五寸の大薙刀も宗近の作とガイドの話では、つけくわえられる。
 また、謡曲にでる稲荷山とは、はじめは伏見稲荷と思っていたが、そうではなく現都ホテルの裏山一帯を指していた。昔は、都ホテル内に祠があったが、現在は都ホテルの5階から裏山にでられる出入り口があり、急な斜面の山道を登ると、向こう槌を乞うてでた狐をを祀った祠がある。山道の入り口には、その伝説の立て看板がある。
 さらに、あまり知られてない話として刀剣研究家・元熊本大学教授・福永酔剣著『日本刀名工伝』(平成8年・雄山閣)の一等はじめに「小鍛治宗近」として取り上げている。ここでは、小狐丸を一条天皇に奉納した後、山陽道を下り宇佐八幡宮を参拝したという伝説は西国の所々にあると書いている。小鍛治の名は天下にとどろき渡っていた。さらに薩摩や宮崎にも旅し、折々に名を伏せて刀を打った伝説もある。皇国国家の権力に関わることから逃れた旅であったか、と。宗近の墓と伝えられるものが奈良県郡山市付近にあるというも定かではない、とあったが、宗近が奈良に戻るはずはあるまいと私は思っていた。

 
 と長い間そう思っていた。
 またまた、ところがである。何年か前に宗近の末裔が奈良の春日山の近くで刃物屋をやっているというホームページを見つけた。いつか機会があれば覗いて見たいと思ってから日が経っていた。ホームページには興福寺の支援を受けてという意味合いのことが載ってっていた。興福寺といえば、唯識(あの「阿頼耶識」)の法相宗の総本山。ひょっとすると深い因縁があるかも知れないと思い、5月のゴールデンウークに家内と一緒に出かけてみることにした。その日は思いの他奈良市内は観光客で賑わい、タクシーもバスも交通渋滞で動かない。目当ての刃物屋には行けなかった。

 次回は、「いろいろあった「フェティシズム」論 (4)」の記事で、このつづきを書くことになるが、現地取材できず、情報源は主にインターネットによる情報検索と、今まで収拾していた日本刀にまつわる書籍・資料。さらに今まで疎かった日本の古代史研究の書籍漁り。一昨年古事記編纂1300年を記念して出された書籍など、となった。








                    
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# by kuritaro5431 | 2014-06-23 10:23
2014年 06月 11日

いろいろあった「フェティシズム」論 (2)

 このブログで、日本刀を取り上げたのは2009.5.5の「日本刀との出会い」からだった。
 元々日本の刃物に執着心の強かった私は、幼い頃から脆弱な心身を補強する呪術的感性を無意識に求め彷徨っていた。永い間───

 2009年時点での社会環境は、~1993年バブル景気崩壊。2008年のリーマンショク前。
 私は1986年62歳でコンサルファームJを退職した。入社時では定年なしの約束。70歳でも現役で年俸3000万円のコンサルもいるとのことだった。
 バブル景気崩壊後しばらくJファームに在籍していて、バブル崩壊後の各社の人員調整(出向・転籍)→リストラのまっただ中で企業向けの「リストラ組社員の自立支援のコンサルティングプログラム」をつくり、彼らと会社を支援した。私の支援プログラムの柱は「キャリヤの転職先向け再訓練と、個として己の自立」だった。ここでは、「個の自立支援」でやった私の固有技術について述べることにしておく。バブル期には「~テクノ」が流行り、マネジメント畑でも、コンサルのスキルを固有技術などと呼んでいた。いかにもロジカルに聞こえたから。

 私の固有技術の柱を、今まで関心のあったマインド・サイエス系のもの、それに日本的テイストとして、日本の佛教(おもに梅原日本学から学ぶ)。心理学系ではエリクソン系の発達心理学とアイデンティティ論。後、河合隼雄先生の日本人向けアイデンティティ論。日本的ロジックには、かなり衒学的だが「唯識佛教のこころの構造」「深層にある無意識世界の〔阿頼耶識〕」これを実務にも使えるロジックにしょうと試みた。「唯識論理療法」も囓ったりした。それは必ずしも教理に叶って学ぶというよりは、社会、会社、自己との関係でこの時代をどう凌ぐか、生き延びるかにコンセプトを置いたものだった。私が当時現実と繋ごうとした〔阿頼耶識〕の概念は、2009.5.6のブログのチャート。そのコアを主体にもった「個と会社」の関係性をどうあるべきか。そのベースになるものは社員個々人の内発的モチベーションとした。それが2009.5.2の「自立してゆくしかない時代」に添えたチャートである。このチャートは今でもよくできたものと自画自賛している。が、当時は多少の評価もされたが、政治も経済も金融も大きく変わった今、単純すぎるといわれそうだ。

 その頃、いやそれ以前から遠のいてはまた思いだし、とぎれとぎれにつづいた日本刀へのインタレスト。自己の弱さの根っこを切除する。牛刀でなく、剃刀でなく、呪術性と原始共同体社会に根をもつ日本人の魂と美学。それは私という固有の人間の「志向性」からくる空想、幻想の内部増殖と意識はしていたが、自然発生的に増殖していった、今日まで。それはひとえに「脆弱な自己の改造」のために、であった。
 子育て時代は、そんな妄想に耽ってはおれず、生活のために働き、多くの時間、そのことを忘れていた。
 再度日本刀へのインタレストが膨らんだのは、バフル景気崩壊後「己の個の主体」を考えもせず、路頭に迷った多くのサラリーマンを見て触発されてのこと。
 会社・ときの政府の言い分は不条理であったとしても、「己の生」は、己で凌いで行かねばならない。「社会の仕組み・制度、自分が所属する組織(昔は藩、現代は会社)に頼って生きるか。自力で生きるか」。前者の生き方を「共同体社会での隣人助けあい」といい、後者を「個力・キャリアで働き、自力で稼ぐ生き方」といったもの。政府も「21世紀の社会構造委員会報告」をバブル崩壊直後に「個の実現を支える新たな絆を求めて」のタイトルで経済企画庁国民生活局編で発刊している。ここでは、日本的集団主義(絆)は否定しないが、個力中心の集団主義にこれから移行すべき、といったのである。

 そこで、まだJコンサルタントファームにいた私は、「リストラ組社員の自立支援のコンサルティングプログラム」の一端として「自力で生きる」概念と「現実の働き方」の枠組み=実現性がイメージできるロジックチャートを中心としたものをつくった。営業を通してプロモートした。中身は概念止まりで済む世界でないのでOUTPUT=コンサル成果、はストーリー的計画書と、場面ごとのアドリブでやったもの。よく批判されるコンサルタントのハウツウ指向は、Jファームのコンサルタントは全員が嫌ったものだったし、だれもやらなかった。
 それにしても、この難問は、コンサルファーム各社も確たる成果は出せなかった。

 これらの経緯で、私ごと日本刀との関連は、「原始共同体的=絆頼り」対「個力・自力」を対意概念とするバンラスの問題だった。前者の概念や感性を抑制したり、捨てたりせず、そのままにしておいて、後者の概念と感性のオクターブを上げればいい。私はそう考えた。日本刀のように折れず曲がらずよく切れる──その歴史をたぐると、何かヒントがありそうな。
 
 日本刀の定義は、玉鋼でつくられた反りのある劍・刀であると、ものの本にある。ものの本とは定かな定義が述べられた本が見あたらなかったという意味である。
 彎刀になった時期は平安時代の前期あたり。それ以前の日本の太刀は、直刀だった。彎刀は、渡来してきた騎馬民族が馬上からの戦いに優れていたから使っていたものとの説。その騎馬民族とは、南から北に向かって進んだ大和朝廷に従わず、東北・岩手あたりで「まつらわぬ民」として永く戦った蝦夷(エミシ)。その首領「悪路王」こと、あの「アテルイ」。蝦夷が使っていた彎刀は、「蕨手刀」(わらびてとう)という柄まで鉄の小刀(二尺以下・一尺以上、日本刀でいう脇差)で、日本刀のような切っ先はなかった。奈良・正倉院に現存。その蕨手刀は、渡来した騎馬民族の鍛冶は、百済との交易ルートをもち材料の軟鉄を持ち込んだとか。定かでない。私の調査力のおよばぬところ。
 さらに日本刀は世界の太刀のなかで唯一低温(炭の火力)でつくられていると。なぜか、それはコークスが入手できなかったからと。コークスを使う溶鉱炉は、現在の高炉である。鉱石をコークスの炉で溶解し鉄の湯を取り出す製鉄法。ところがこの製鉄法では、硫黄と燐とマンガンがかなり混入するとある。
 というぐわいに、つじつまの合わない謎だらけの日本刀。その他にも興味深い謎がある。その謎には「フェティシズム」が絡んでいるように思えるから面白い。
 私は永年の内に、「鉄」「和鋼」「玉鋼」「日本刀作刀法」「古刀・新刀の違い」「刀鍛冶の流派」そして「日本刀にまつわる物語」などの書籍を随分買い込んだ。。最近では、今まで手の届かなかった謎が、かなりインターネットで検索できるようになった。その情報も、日本史では当たり前となっているものから、真偽ない交ぜのものまで広く深く広がった。
 最近偶然書店で見つけた、小笠原信夫著『日本刀──日本の技と美と魂』文春新書730円は、今まで入手した本や情報のなかで一番満足もゆき信用もできる本だった。東京国立博物館勤務・刀剣室長。

 最近妙に気になる二種の言葉。松尾芭蕉の①「不易流行」と②「虚に居て實を行うべし。實に居て、虚にあそぶ事はかたし」と、神仏系の人がいう③「諸行無常」と④「輪廻転生」。私はこの二種の言葉は、アイロニー(対意語)と思えるのだが。
 ①は、「蕉門に、千歳不易の句。一時流行の句といふあり。是を二つに分けて教へ給へる、其の元は一つなり。去来」。②は「想像の世界に身をおいて、真実を表現せよ。事実にとらわれていて、想像の世界に奔放に遊ぶことは、難しいことである」。
 ③は、「あらゆる現象(人間存在も含め)は変化してやむことがないという理」④「生ある者が生死を繰り返すこと」

 玉鋼(たまはがね)とは、純度の高い和鋼(わこう)のこと。鉄の純度は、硫黄と燐とマンガン(鉄が嫌う不純物)が極度に少ない鉄を指す。玉鋼は砂鉄(1山砂鉄・2川砂鉄・3浜砂鉄) からつくられる。山砂鉄が一番。古代の玉鋼は、赤松の山林の斜面を堀り、赤土混じりの山砂鉄を採取した。斜面に池を掘り、疎水をつくりその溝に赤土混じりの砂鉄を流し沈殿した砂鉄を選別した。溜まった砂鉄を野蹈鞴(のたたら・1メートルほどの縦穴)を山の中腹につくり、近隣の赤松の木を伐採して割り木にする。赤松の皮には燐が多く、そのため皮を剥いて割り木にしたと。その時代赤松の皮に燐が多いことだれが知っていた?
 野蹈鞴の上に赤松の割り木を井桁に組んで、七昼夜燃やし、燃える蹈鞴に人夫が交替で砂鉄を放り込む。七昼夜過ぎ冷えた蹈鞴の底に、溶けて固まった1トンばかりの粗鉄の塊、鉧(けら)ができ、それをコロを敷き人夫が里に降ろす。
 里では、役割を持つ今でいう技師たちが、鉧を粉砕し、玉鋼と銑鉄に選別する。鉧に含まれる玉鋼は10 %もなかったとか。このようにして砂鉄が製鉄されのは古代の一時期と思われる。平安時代の初期か、奈良時代の後期までと推定できる。
 この時代から玉鋼の名産地は伯耆の国、安来だった。JR山陰線安来駅から南、中国山脈の麓に奥出雲の集落がある。横田町、吉田町、砂鉄記念館もある。八岐大蛇伝説の斐伊川の上流である。今も年に一度、伝統保存事業として、粘土作りの長方形の里の蹈鞴で古代の製鉄法で吹いていた。

 私がJファームにいた頃、3年ばかり松江近辺でコンサルの仕事があったので、現地で空いた日程を「和鋼・玉鋼・安来鋼」と「古代日本の製鉄法」の探索にあてた(ファームでは居場所さえ告げておれば比較的行動は自由だったから)。
 その頃の私はもう足かけ30年ばかり日本刀研究に首を突っ込んでおり、日本刀に関する基礎知識は粗方持っていた。
 その過程で、日本刀の「謎」はなんといっても素材としての鉄、日本独自の玉鋼にあると、どの研究者も口を揃えていたので、その時点では素材の鉄に焦点を絞っていたものだ。
 安来市内の「和鋼記念館」(日立特殊鋼KKがなんといってもこの領域の権威)や、奥出雲の吉田町・横田町にある資料館を回ると、野蹈鞴時代の操業模型や当時産出された砂鉄の標本もあった。不定住の人夫が過酷な砂鉄採掘と、七昼夜不眠の蹈鞴操業。そこには当時から(平安時代中期くらいか)れっきとした管理組織があったように伺える。地域の豪族、村の庄屋、下級武士、蹈鞴操業にかかわる技能職種(結構分業化されていた模様)の階級、その下に不定住人夫家族。そこには村組織があったと見える。
 伯耆の国以外では、中国山脈を越えた美作の国(現・岡山県西粟倉村大茅)の蹈鞴製鉄跡「大茅の鉄山」。播磨の国(現・兵庫県宍粟市千種)の規模の大きい「千種の蹈鞴操業集団」。山の斜面に段々の石垣の屋敷跡があった。(ここはアニメ「もののけ姫」のモデルになったところ)。両蹈鞴製鉄跡は、同じようなたたずまいを醸し、広場には蹈鞴操業を祀る火の神の祠があるり、集合便所らしい跡には、どてかい赤い棘のある羊歯(しだ)が群生していた。それはあたかも火傷して転げ回って死んだ人夫の怨念のように。
 不定住の人夫たちは、野蹈鞴時代から山に赤松がなくなれば他の鉄山に雇われて渡る。里の蹈鞴時代では砂鉄採掘の山が枯れると、家族ごと他の操業村に移っていった。不定住の山の民とも……
 
 現代で蹈鞴操業でこの鉄を製鉄すれば金より高くつくと。
 平安・鎌倉時代においても、良質の玉鋼の採掘は、資源の限りで衰え消える。以降は神社仏閣の解体で出た古釘、農具、大工道具などの古鉄を混ぜて使うようになり、作刀鍛練法も変わってゆく。
 慶長四年?以前を古刀といい、それ以降を新刀といった。古刀は一体の鉄でつくられた。新刀は、刃の部分にカーボン粒子の多い鉄を入れ、胴は柔らかい鉄で巻いた。その頃には、渡来の蕨手刀の素材も製鉄法も日本流に昇華して日本独自のものとしての日本刀が完成していた。縄文の魂が渡来の鍛冶たちの技法を受けながら、日本の技と美と魂になっていった時代といえるだろう。


 次の(3)では、一条天皇の勅命を受け、「小狐丸」という名刀を、稲荷山の狐の合槌(向こう槌)のお陰で作刀でき奉納した、京都三條粟田口の名工、三條宗近の伝説に────

 
 

















                     
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# by kuritaro5431 | 2014-06-11 07:41
2014年 06月 10日

いろいろあった「フェティシズム」論 (1)

 これは結構面倒な話だった。でも面白かった。
 かといって謎の伝説も絡み、謎が解けたわけでもなかったが。

 思えば経済学部4回生のときだから、今から60年前のこと。経済哲学(資本論の貨幣価値論)で有名だった梯秀明教授の「前方の旅」と「後方の旅」の講義を聴いてのことだった。
 前方の旅とは、現実からスタートし、下から上へと上昇する過程(帰納・科学的アプローチ)のこと。後方の旅とは、前方の旅を終えて、つぎの旅としての後方の旅に(演繹・哲学的アプローチ)移る。そのとき、論理的空洞が生じる。これを「フェティシズム」──と。
 同じ弁証法学者のヘーゲルは、後方の旅で神に至る──と。
 考えたことも、空想したこともないない奇妙きてれつな衒学にたぶらかされた思いと、身震いするような呪術を覚えたものだった。
 当時、梯先生から直接指導を受けられた服部健二先生は、そんな話聞いたことない。もしかしたらヘーゲルのいった余談話をされたのかも知れないと。
 この辺の事情は、2009.5.30「弁証法 その3」のブログに書いている。

 この話とは別のところでのことだが、私は幼い頃からよく研がれた日本の打ち刃物や、磨かれた打ち金物、主に大工道具などにとりとめもない魅力に憑かれていた。それは肥後守であったり、鉋の刃であったり、鑿であったりした。
 終戦直後の昭和22年、向かいに住んでいた宮大工の棟梁についていき道具屋で金槌を買った。店番がいなかったので、棟梁がいうように、2つの金槌の打ち面の角をカチンと鉢合わせ、負けた方を捨て、次々と傷の入らないものを選んでいった。10本は試しただろうか。店のものに見つかりでもすればただでは済まなかったはず。
 その金槌が68年経った今もびくともしていない。以前話にも出た日本刀手入れ用の油、丁子油を頭や胴や柄にも思い出しては塗った。樫の柄を金槌に差し込んでいる部分は、京都にきてから鉄の楔を買い瞬間ボンドを流し込みしっかり打ち込んであるので、石も割った、鉈の背も荒っぽく打ったが傷一つない。一方が丸い面で釘を打つ、一方は釘の頭を沈めるために尖った造りになっている。両方に打ち面のある金槌は、一方はフラット、一方は軽い凸になっている。フラットの方で釘を打ち、凸で金属を打つ。
 焼き入れの甘い金槌は、永い間に脇に鉄が盛り上がる。焼きの入りすぎた金槌は、固くて欠けている。
 私に取って家宝の金槌は、打ち面を時にフラットに金剛砥石で研いでいる。なかなか下りないのが家宝の証拠。

 フェティシズムという単語を、『岩波の哲学思想辞典』で引き、「呪物崇拝」(じゅぶつすうはい)をインターネットで検索してみた。 

 『岩波の哲学思想辞典』での、フェティシズムという用語は18世紀中葉にフランス、ドイツで生まれ、19世紀に入って哲学、民俗学、性愛論、経済学の領域で使用され、20世紀では精神分析の基本概念の一つとなってる。各領域で用語の内容は異なるが、「聖なる」事物崇拝の性格は共通している。
 【言葉の由来・要約】「作り事」。「魔術」または「呪術」。「呪術崇拝」。アフリカの黒人達は「地上の事物崇拝」

①〔フェティシズムと自然宗教〕
 ド・ブロスのフェティシズム論の3つの側面。1.神格化された物的対象(山、海、木、石、各種の動物、等々)聖なる事物をめぐる祭祀体系、タブーの体系から構成されている。2.フェティシズムは、単なる迷信や偶像崇拝ではなくて、ひとつの独自の宗教体系とみなされている。ド・ブロスは、ヒュームの自然宗教論から示唆をえて、フェティシズムの心的動機を「恐怖」と「無知」に求める。だからド・ブロス的フェティシズムとほぼ同義になる。3.ヒュームと同じ見知にたったアダムスミスもまた原始宗教を恐怖と無知の産物として定義し、同時にそれを人類の最初の認識形式とみなす。

②〔哲学的言説のなかのフェティシズム〕
 カントは〘単なる理性の限界内の宗教〙のなかでこういう。「純粋に物的手段によって超自然的効果を生むという幻想… この種の企ては普通は呪術と呼ばれるが、フエティシズムという用語に変えた方がよい」。
 ヘーゲル『歴史哲学講義』(1831).ド・ブロスをそのまま引用したかに述べている。←(この件についてブログ筆者・次に注)
 実は2013.1.12のこのブログ「ペンデングタグが溜まった(2)←[ヘーゲルのいう「無」]の記事の2頁下方に、「東洋的無という概念の出所は近代西欧にあり」に記載している。鷲田小弥太著『哲学詞華集』で取り上げられている。ヘーゲル著・長谷川宏訳『歴史哲学講義』(上)(下)青629・630岩波文庫あり。
 当時のブログにも書いたが、東洋の果て日本を近代西欧はこんな風に見ていたのかと、刃で刺される思いがした。
 ここでも私がずーと気にしてきた〈日本人はこれからも原始共同体的社会の「和」とか「絆」とか「情動」をよりどころに暮らし、生きて行くのか。良くも悪くも西欧的な個の主体と自由を求めた近代化の恩恵を受け、その体験はもう遺伝子の半分か1/3ぐらいには擦り込まれているのに。同じ東洋人でも中国人は違う(加藤隆著『武器としての社会類型論──世界を五つのタイプで見る』)。一方で西欧的思考から発展した科学も哲学も、そしてより複雑化する定量・定性・ブラス温厚そうな情感での恣意的操作ロジック・国民には覚束なく不安〉。
 話を戻して、~辞典のつづき──
「彼らは木、石、木像、など手当たり次第になんでも聖霊にしてしまう。これがフェテッシュで……呪術を意味するフェティソから由来している」
 ヒュームとスミスの議論を踏まえて、ド・ブロスのフェティシズム論を最も正統的に継承したのはA・コントである。「人類はどこでもフェティシズムから出発する」(『実証哲学講義』)。コントにとってフェティシズムはひとつの歴史的時代であり、「最初の神学的状態」である。この神学的状態はフェティシズムから多神教を経て一神教へと発展する。フェティシズムは、人間による最初の因果的説明法であり、幻想であっても自然からの人間解放の力である。
 マルクスは1842年にド・ブロスの、『呪物崇拝』を読み、「木材倒伐論」において現代の私有財産が未開社会の呪物と等しいと批判する。同じ理論でマルクスは『資本論』のなかで「商品のフェテッシュ的性格を論じている。「机が商品として現れるやいなや、それは一つの感覚であると同時に超感覚的なものになってしまうのである。──これをフェティシズムはと呼ぶ」といっている。(ブログ筆者・注)これでやっと梯先生のいった意味が分かった。60年来の疑問が解けた。
 ニーチェは形而上学と理性の言語が「粗雑なフェティシズム」に囚われていると批判した。(『偶像の黄昏』1888年)。

③「性愛論(セクソロジー)」
 19世紀から20世紀初頭にかけてフェティシズムは性愛論の用語として定着する。性的倒錯としてのフェティシズムである。フロイトの病理学的性愛論を踏まえての一つの転換。性愛を無意識の構造のなかに位置づけ、いわゆる性的倒錯は性的主体の正常な基本様式とした。


 (2)につづく
 、

 













                       
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# by kuritaro5431 | 2014-06-10 15:33
2014年 05月 31日

「人間性の志向性」とは

 厳密には、単に「志向性」。志向性という語彙だけでインターネットを検索すれば、あまりにも多様なものが現れると思って私は「人間性の~」を付け足して索引してみた。

 この「志向性」という言葉は、日本のある哲学者が何年か前にどこかのコラムに書いていた哲学用語だった。ときにふっと思いだし、いつか忘れ、また思いだしたりしていた。
 うろ覚えの記憶では、そのある哲学者はこのようにいっていたように記憶している。
「人間はだれしも、ある方向に思いを寄せるもの、止めどなくそっちの方向に想念が膨らんでゆくこともあるもの。その想念とは得てして「怨み」であったり、「嫉妬」であったり、「疑い」であったり、「負」の情感のものがそうなる。だからその想念をほっとらかさず、そこそこの段階で制御する必要があるんだと」
 私は、その時分からその情感こそ「情念」の一種と認識していた。「情念」とは、理性で制御しにくい大変厄介なものと思っていたから。でも、そう膨らまない段階のものなら、制御できる。ある段階を越え(オーバーラン)れば手に負えないものになる。その限度を見極める術はあるか。私はそのことに大変興味を覚えたものだった。


 ところが、私が今回調べてみようと思ったきっかけは、「私が私なりになり立っていた私なりの意識が、はっきりしない曖昧で複雑な外圧(安倍政権のゆくへ、原発再稼働問題、中国の海洋覇権問題、フランスの政権変化、北朝鮮動向、等々)を受け、妙に注意深くなっている自分を意識してのことだった」。
 そして様々な領域やカテゴリーがますます複雑化し、専門化し、ロジカルシンキングが恣意的に使われたり、操作的説得の術としてまかり通ったり、健全なクリティカルシンキングが、クレーマー扱いされたり、風評被害吹聴者にされたりしかねない危うい時代。己の観察力と思考力を鍛えるしかない。
 
 そしてインターネットでの検索結果は、想像を越える数の「見出しと、3.4行の概要」。70頁はプリントしたが、まだ続きがあったが打ち切った。アイテム数としては、250をはるかにに越えていた。
 

 「志向性」(Intentionality)の概説には、こうあった。

 人間の意識が、外部の世界の何か(志向対象)に対して注意を向ける能力、または心的状態を関連づける能力である。ブレンターノやフッサールの現象学においては、志向性とは意識のあらゆる活動に伴うものであり、すなわち心的現象の本質的特性であって、心的現象は、志向性によって物質的現象から区別できるとされた。

 例えば「愛」とはなにものかを愛することであり、「欲求」とはなにものかを欲することであり、「嫌悪」とはなにものかを嫌うものである。心的現象は常に志向対象をもつもの。

 また、志向的状態は、思考対象とそのアスペクト形態をもっている。アスペストとは人が認知する際の、対象となる事物の現れ方のことである。例えば金星は、あるときは「宵の明星」という現れ方をし、あるときは、「明けの明星」という現れ方をする。


 この「志向性」のアイテムは、哲学・心理学・医学・宗教におよぶ重要なINDEXとして利用できると私は感じました。関心をお持ちになった読者の方、是非「人間の志向性」で検索してみてください。難問を解くヒントが幾つも複層的に埋もれているようですから。

 私は、取り敢えず私がピックアップした「見出しと、3.4行の概要」について列挙してみることにします。詳しい内容は「見出し」をクリックして確認してください。私の感想についてはスペースが取れれば書くことにします。

 それにしても、昨日プリントアウトした「人間性の志向性」の「見出しと、3.4行の概要」の表示の順番が大きく変わっているので戸惑いましたが、予定通りすすめることにします。


★ 「ウチへの志向性」と「ソトへの志向性」 <個と共同体の問題>に対する ...(Adobe PDF)

上柿崇英(2009a)『総合人間学』学文堂第 3 号 pp.178-190 掲載. 「ウチへの志向性」 と「ソトへの志向性」. <個と共同体の問題>に対する進化心理学的アプローチ
 

★1.知識・理 解 2.汎用的技能 3.態度・志向性 4.統合的な 学習経験と ...(Adobe PDF)

 人間性心理学. 基礎実習Ⅰ・Ⅱ. 家族臨床心理学. 非行犯罪臨床心理学. 3年次 病院 臨床心理学. 産業臨床心理学. 臨床神経心理学. コミュニティ心理学. 医学概論・医療 福祉論. 児童福祉学・関係法規. 4年次 臨床心理学理論特講. 臨床心理学実務特講.

★受容性と志向性(Adobe PDF)

 のである」という志向性をもつという事実の認識はそれ自体ではそれほど目新しい ... る 実体をその世界観の中核に置いたライプニッツの体系は、志向性の哲学史におい ..... つまり、すべての人間という表象は、人間のクラスを対象としてもつ表象ではない。

★思考の志向性を変えてみる・本来的自己からの呼びかけ - 思考の部屋

 2014年3月11日 - 人間的な人間は、永遠に少数派である。」のか、という問い。 というブログに、同じ方 からだと思いますが、またコメントを頂きました。 ・崇高な思想を掲げて闘い、国を奪った ときから内部抗争と腐敗が始まる。 ・人間に内在する悪性を理解し、それ ...

★人間性心理学と禅仏教

 第1章 人間性心理学と自己理論 1 人間性心理学とは何か 2 成長する力 3 自己と経験 の不一致 4 自己自身になるということ 第2章 十分に機能する .... 人間性心理学の第三 の特徴は、人間に内在する成長力や価値志向性を重視する目的論的な立場にある

★人間性・志向性 | 「自分を知る」から始める転職

 shuka2.com/転職-キャリア-/.../人間性・志向性
 自己紹介. 人の第一印象は、7秒で決まるとよく言われています。つまり、自己紹介で、 あなたの第一印象が決まると言っても過言ではありません。メラビアンの法則にあるよう に、第一印象を決定する要因は、相手の表情から55%、相手の声から38%、相手の ...

★対人的志向性尺度作成の試み(Adobe PDF)

 高い人の中には, 協同的志向性をもつ人と競争的志向性. をもつ人とが含まれ, また, 他 者 ... 低い人は個人主義的志向性をもち, 協同性, 競争性とい. うよりは合理性に関心を ... (ー980) は相互依存関係における人間行動の一般理論を. 目指して, 行動選択の内的 ...

★非精神病性ひきこもけの理想自己志向性の特徴 - Kyushu University ...(Adobe PDF)

 非精神病性ひきこもけの理想自己志向性の特徴. とカウンセリングにおける変化. 高橋 紀子 九州大学大学院人間環境学府.

★利的志向性と現代社会 - 原野辰三の斬り捨て御免

 現代は家電・通信機器等がデジタル化したが、人間の頭までがデジタル化したのだろう。 人間は古今東西「損得」を勘案しなかったわけではない。すなわち「利的志向性」は人間 の本性であり、それは本能的欲望といえる。人間である限り誰にでも本能欲望がある

★「行動」志向性とその表現形 | とある我学の備忘録

 2014年1月19日 - 最近個人的に考えていたことが2つあった。 1つは、行動力がある人はなぜあんなにも 行動することができるのかということ。 もう1つは、「夢を叶える」という言葉に感じる壮絶 な違和感についてだ。 これについて考えいくと、人間は「行動したい

★面接で「人間性」を問われる質問とそれに対する答え方

 2014年3月23日 - 面接では人間性が問われるような質問を多々される機会があります。 では、そのような 質問が来た時にはどのように ... これは、主に仕事や働くことのモチベーションや志向性 を見るための質問です。また、仕事に対する姿勢などを知る事で、 ...

★確かな学力の志向性と授業の具体(Adobe PDF)

 集まったのだという。 確かな学力の志向性. 確かな学力の充実に様々なプロジェクトが起. ち上がっている昨今だが、生きる力を知・. 徳・体に整理したとき、その知の側面が確. かな学力だと定義づけられている。徳の側. 面は「豊かな人間性」だし、健康・体力は.

★志向性・意図性 - 各学問を体系化しよう

 2013年7月26日 - 集団~人類学・人類・人間性 和解 · 財 · 消費 · 物権 ... 志向性・意図性. Last-modified: 2013-07-26 (金) 12:50:41 ... 志向性あるいは指向性(独: Intentionalitat)はエトムント・ フッサールの現象学用語で、意識は常に何者かについての意識であることを表す。

★ある種の志向性を持つ存在'脳

 長い生物の進化の過程を経て構成されてきた存在である脳には、ある種の志向性を 特徴として挙げる事が出来る。簡単に言ってしまえば、原則として「 ... 複雑に見える人間 の行動でさえ、全体的に見ればそれは成り立っている。誰だって自分が不健康になる より ...

★人間らしさ担う人間性知能「HQ」 「ホンマでっか」でおなじみ、澤口先生講演

 ... が所長を務める人間性脳科学研究所で研究を重ねている「人間性知能『HQ』( Humanity Quotient)」の役割と重要性について指摘。 ... 言語や理論、記憶なども もちろん重要な能力だが、人間にとって最も重要なのは未来志向的行動力。

★戦略志向性の分化と組織プロセスの影響 - 武蔵野大学(Adobe PDF)

 はじめに. 本稿では、組織内の戦略志向性の分化に影響を与える組織的要因について 検討を行なっていく。より具体的. には、① .... リーダーシップに関す. る諸研究では、典型 的なリーダーシップ・スタイルとして、タスク志向と人間関係志向の二次元が主要な次元 ...

★リーダーシップ論の展開とリーダーシップ開発論 - 東洋大学(Adobe PDF)

 仕事と人間関係の両方に配慮することが重要と結論している。後者では、「生産志. 向性 」と「従業員志向性」の 2 つの次元から人間関係に配慮することだけが重要. との結論に 達している。また、ミシガン大学のリカート(Likert, 1961)は、リーダ. ーシップ・スタイルを ...


★志向性 - 就職・転職活動~新卒から中途採用まで

 採用担当者のチェックポイント自分の言葉で自分の体験を具体的にアピール採用担当 者は、自己PRであなたの性格や長所、仕事への姿勢、価値観を知ります。サンプルや マニュアル本を写したとすぐにわかるような言葉ではなく、自分の言葉 ...

★ストレスとストレスコーピングの実行性と志向性(Ⅰ)(Adobe PDF)

 人間と環境とのある特定な関係」と定義した。 Holmes ... ストレスとストレスコーピング の実行性と志向性(Ⅰ) .... 性的な障害. 新しい家族ができる. ビジネスの再調整. 経済 状態の変化. 友人の死. 仕事の変更. 配偶者との喧嘩の数. 1万ドル以上の借金(抵当).

★知って話題にできるページ 性格分析

 目的志向性の強さ, 実行力あり。有能やり手。意志が強い, 強引。仕事にムラ。手段を 選ばない。 欲望がストレート, 情熱的。愛情が強い。直情。積極性。 がめつい。所有欲。 独占的。利己性。 力関係を敏感に意識, 向上心。いい意味の野心的。忠実。 権力志向。

★志向性・語り・行為(Adobe PDF)

 とした上で,「人間はポリス的動物であり,その構造において発達形. 成したポリス内存在 の可能性をもつ存在者である」(ebd.) と論じている. (vgl.,GA 17,13―19)。 西洋哲学 の歴史の中では,ロゴスが「理性」と「翻訳」(SZ,32)されて. 志向性・語り・行為. 5 ...


★未来志向で人間性心理学を取り込んだ認知行動療法が ...

 未来志向で人間性心理学を取り込んだ認知行動療法がACT、過去志向で精神分析 心理学を取り込んだのがスキーマ療法かもと思っているなう。どっちが今、役に立つかを 考えればいいように思う。



















                    
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# by kuritaro5431 | 2014-05-31 15:43