哲学から演歌まで  

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2014年 09月 10日

ポーランド・リアリズム「イーダ」

 関西は遅れての上映だった。

 極限をさらに越えた修羅のリアリズム。
 この記事では、昭和34年(1959年8月号)の月刊誌『映画芸術』の「特集・[灰とダイヤモンド]とポーランド映画」を古い書棚から引っ張りだして、今回上映の「イーダ」の感想と、映画館で売られていた「イーダ」のパンフレットの内容を比較してみることにした。
 映画好きの読者の方なら「イーダ」の映画批評は、私の読まなかった記事も読まれていよう。
 しかし、ポーランド映画が矢継ぎ早に日本で公開された1959年前後の日本の社会情勢と、観客の意識、感じ方。特に私のような[戦後第一世代=昭和一桁後半](以前に書いたこのブログでもそう書いたが、私が団塊の世代と区別する<族>とした世代のこと)は、敏感になにかを感じていた。
 恐らく古書店でも滅多に出会えない『映画芸術』。残念ながら私のてもとにも、A・ワイダの『地下水道』も、カワレロヴィッチ、や、ムンクらの『影』、『夜行列車』などあの魂を振るわせた映画が載った資料はみあたらない。
 昭和34年8月といえば、立命館大学・映画研究部のクラブをでて、まともな就職先もなく、今でいうニートそのもので、洋画の配給会社「東和映画」の観客動員係などやって糊口を凌いでいた時期だ。


 ポーランド人は、ひどい不幸な歴史を持ち、現在も深い苦悩を持ち続けている国民である。
 ポーランドは過去に3回もいわれれのない国土分割を経験している。たまたま、ロシア、オーストリア、プロシアといった当時の強国を隣国をもったがために、理由のない亡国の悲しみを味わった。
 第二次大戦では、旧ソ連(のスターリン)とドイツ(のナチス・ヒトラー)に、国土の全部を分割され、ナチス治下では身の毛のよだつ殺人工場オシヴェンチム(アウシュビッツ)の悲劇に遭っている。首都ワルシャワでは罪のない女や子供が犬コロのように殺された。血の気の多いポーランド人は、ナチスに抵抗した。その抵抗はますます残虐なナチスの報復となって跳ね返った。
 ポーランド赤軍の進撃を頼みに死に物狂いで行った「ワルシャワ蜂起」さえも、ポーランド生まれの赤軍元帥ロコソフスキーに見殺しにされた。ヴィスワ河の東岸まで進出しながら「渡河材料がない」との理由で河を渡らなかったロコソフスキー元帥に、ワルシャワ市民はいまも「裏切られた怒り」をもち続けている。(「地下水道」)
 解放後にできた社会主義政権は、戦争前のビルスズキ政権同様の恐怖政治となった。重工業偏重の経済政策を維持するため、政治警察はゲシュタボそこのけのスパイ網を巡らせ、市民は立ち話も自由にできない状態だった。
 その後、ゴムルカ政権復帰以降、国内に久しぶりの自由化が訪れたが、ワルシャワをはじめとする都市や農村はひどい戦災から回復し切れず、消費生活は東欧でも最低。
 悲惨な過去と現在(当時の)をもつポーランド人は権力が信じられず、また、戦時中下の一時期は、ナチスを叩いたソ連(スターリン)に荷担し、無実のイスラエル人にゲシュタボ並の摘発処刑に手を染めた者もいて(「イーダ」のヴァンダ)、自らをも信じられない自己疎外(今はほとんど使われなくなったが、昭和34年頃の若者がよく使った言葉)を起こしていた。人間の善意も自己存在にも疑問をもった青年が多くいた(「灰とダイヤモンド」のマチック)。
 当時、遠い日本から見れば、希望に満ちているような社会主義ポーランドの青年は、実は恐ろしいまでの不信と虚無感のなかで悩んでいた。ところがこの不信と虚無は、一面熱狂的愛国主義と、これまた恐ろしいまでの自我意識をももっていた。そのあたりは、当時も2014年の現在においても日本人、いや日本の青年は理解しがたい側面ではなかろうか。友邦(今でいう同盟国)であるはずのソ連にさえ屈服しない土性骨をもち、それは疑いもない強烈な自我意識の発露(まだアイデンティティという言葉が生まれていない?頃、 皮肉にもアイデンティティという概念を生んだ心理学者エリク・H・エリクソンは、母ルーマニア人?と、不倫相手のユダヤ人医師との間に生まれた人、後迫害を受けアメリカに移住・これはブログ筆者注)であったと、当時の「映画芸術」の「灰とダイヤモンド」の批評に書かれている。


 話は変わるが同じ「映画芸術」の号のなかで興味深い記事があった。タイトルは「ネオ・リアリズムからポーリッシュ・リアリズへ」で、映画批評家?の林六郎さんが書いている。

 映画好きの読者の皆さんならご存じのことと思うが、この流れは現在においてもいろいろな示唆を含んでいるので記事の文脈と、私の古今の思いをランダムに重ねてみたい。
 ネオ・リアリズムとイタリアン・リアリズムは同一カテゴリーの映画作法といっていい。第二次大戦後のイタリアの社会的断面を、ドキューメンタリー映像で撮り、監督の判断を持ち込まず編集しょうとした(ロッセリーニの唱えた中心のない構図)群であった。監督は、ロッセリーニやデシーカ。作品は「無防備都市」「戦火のかなた」「自転車泥棒」「靴みがき」「平和に生きる」などで、アセチレンの火影でイカの丸焼きをむさぼり食ったわれわれ敗戦国・日本人に強烈な揺さぶりとぬくもりを与えた。映画芸術がトンネルをくぐり抜けたことを明らかにした。
 ロッセリーニの「無防備都市」をアメリカで観たイングリット・バーグマンは、夫と娘をほっぽり出してイタリアに飛び、ロッセリーニに結婚を迫り一緒になった。ロッセリーニがバーグマンを使って撮った作品は周知の通り。男と女のなかにおおらかなアメリカ・ハリウッドでさえ、バーグマンのハリウッドでの仕事は長らく許さなかった。敗戦国イタリアの、戦勝国アメリカの映画人はともに燃え、敗戦国の日本人も平和への夜明けをこの流れに託そうとした。
 その流のつい隣り合わせに芸術論としての「社会主義リアリズム」があった。ネオ・リアリズムとイタリアン・リアリズムと社会主義リアリズムの、この3つをセットで捉える<族>と、ネオ・リアリズムとイタリアン・リアリズムを映画芸術論の1つと捉える<族>に別れた。私は、前者の<族>として映画研究部の1回生から3回生まで「社会主義リアリアリズム」に傾倒していた。部内でも2派に別れた。2回生から私に賛同する後輩も現れた。後者は、京都生まれ、京都育ちの部員が多く、大阪組も含めて都会育ちで高校時代から映画クラブに在籍し、映画鑑賞本数も地方出の部員とは圧倒的に異なっていた。特に、フランスの監督ジュリアン・デュヴィヴィエに傾倒していたような記憶がある。
 京都の大学の映画研究部間での交流も時々あったが、社会主義リアリズム論を機関紙に書いたり、議論の対象にしていたのは京大映画部と、わが立命館大映画部だけで、同志社大の映画部も、西京大(現京都府立大)の映画部も取り上げてはいなかった。同年の京大に大島渚がいたが、映画部には在籍していなかった。

 ところで、イタリアン・リアリズムの源流は、思想的にも技法的にも、1925年(大正14年)エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」にあるという意見もある。思想的には帝政ロシアの末期にロシア革命の火付けとなった戦艦ポチョムキン内の水兵の反乱と上官の弾圧を描いたサイレント映画。
 とはいえ、この映画の圧倒的評価は、「エイゼンシュテインのモンタージュ論」であった。異なった映像のカットとカットの衝突。音と映像の衝突。異なった映像の組み合わせでの意味表現(嘘かほんとか知らないがエイゼンシュテインは日本の俳句を研究していたとか。それで「柿の木に一つ残った柿の実」のカット。「烏が飛んできて柿の実を啄む」のカット。「烏が飛んでゆき、柿の木の実がなくなった」のカット。これで五・七・五の俳句と同じように「秋」という意味表現)。長さの違うシーンの動きで、追われる者と、追う者のフラッシュバックで、追われる者の切迫感表現。(これは活動写真の原型ともいわれる西部劇に使われるようになった)など。
 ところがイタリアン・リアリズムの特徴のドキュメンタリーリズム(例えば中心のない構図とか)とはまったく正反対の極端にシンボリックな映像、クローズアップが目立つ。
 私は当時、モンタージュ論は、まさに「マルクス弁証法」であり、後のソ連で形成された「ドラマツルギー論」「スタニラフスキー論」に繋がっていると思うことにした。
 
 コミュニズム(共産党)=スターリン主義を否定して、マルクス主義のエキスとしての「マルクス弁証法」のみ、たまたま私と相性のいい論理的ツールとしての「私流の弁証法五段階」(論理学として成立しなくていい。目的は成果=OUTPUTがだせればいい)。として、試行錯誤して「長い五月病からやっと抜け出したことに役立った」(五月病というのは、学生時代のその人間の志向性と、社会人になってからの志向性のギャップが、4月入社で五月に現れる病気のこと)(ギャップ要因 例えば権力・支配への嫌悪。順応要請・強要の拒否。自己主体の放棄。同期入社の者は要領よく転換・転向しているができない自分のリアリティのなさ、などなど)

 「私流の弁証法五段階・論理」を私流にこね回して使い込んだ「問題解決法」。原理はJコンサルファームで学んだものだが、なんとこの半年そのままの表題の本が続々出ていることに驚いている。私の目に触れた本のすべてが「問題とは、あるべき姿とのギャップ」と書いている。「問題を問題と気づかないことが一番の問題」と。
 話がこの記事のテーマからずれてきたので元に戻そう。


 ネオ・リアリズムおよびイタリアン・リアリズムは、その後「焼け跡リアリズム」として終焉した。と筆者林六郎さんは書いている。
 その記事のなかで「ある人は、イタリアン・リアリズムが<地方主義>に転化され新しい花を咲かせたからという。<地方主義>というものの実体はが僕にはよく分からないので論じようがないが、イタリアン・リアリズムはロッセリーニが行き詰まった地点で、その輝きは消えたみたい。(<地方主義>というところが今の安倍政権と妙にダブって気になるが。ブログ筆者)
 更にづづ゜き、イタリアの作家たちはファッシズムと戦う民衆の荒々しいエネルギーをそのまま映画に持ちこんでみたものの、解放後にくるマッカーシー旋風の暗い日を予見していなかった。いや身構えはしたものの対決するエネルギーを失っていた。

 当時サルトルが興味あることを当時警告している。「フランスの文化人にとって最大の関心事はコミュニズムである」といっている。フランスと並び最大の共産主義者を抱え、しかも一方の腕でカトリシズムという正反対のものをもたされている。ネオ・リアリズムはこの現実を避けて通るわけにはゆくまいと。
 本来、イタリアン・リアリズムは、社会主義リアリズムへの道へ繋がるべき宿命をもって生まれたのではなかったのか。ファツシズムとの戦いで組織された民衆の力は、少なくとも画面では解放とともに消え去っている。戦後の新しい社会でのカトリック、社会主義、資本主義の日常的対立───その歴史のなかで戦った民衆を描かない限りイタリアン・リアリズムの発展はなかったのではないか。
 確かに在来のリアリズムが行き止まりにきた映画芸術にとって、社会主義リアリズムは一つの新しい出口であったに違いない。フランス映画は「恋人たち」「二十四時間の情事」といった作品に象徴されるような〈人間の意識の流れ〉を捉えて出口に立とうと試みた。
 社会主義リアリズムが大衆から見放された最大の原因は、依然として教条主義に拘ったソ連映画のくだらなさなに起因していた。アウトサイダーは、資本主義国、社会主義国を問わず、今後量産される社会のシミ化していくだろう。今日の人間不信と孤立化はここからはじまる。
 ポーランド映画とソ連映画の本質的差は、制度と人間、集団と個人の対立からくる歪みを描く勇気があるかないかの一点にあると思われる。
 ポーランド映画の特徴は、ドクトル・ジバコが追求した自己疎外の一点にあるのだろう。なるほど映し出された世界「影」「地下水道」「灰とダイヤモンド」は戦時中か、戦後の混乱期が背景になっているが、作家の今日的観点から捉えられていることは、組織と個人の違和感がそこから出発して当時の現在(2014年の現在にもブログ筆者注)に拡大されていたことを暗示している。

 今回の記事の終わりとして「灰とダイヤモンド」の監督A・ワイダと映画評論家大島辰夫氏との一問一答のなかからキーワードを拾い終わりとする。
 (大島氏のまえがきから)
★カオスとしての史的状況のなかで、愛と死の戯れを演じ、罪と罰の問題を投げかける「若い世代の人間像」。
★カワレロウイッチの「影」、アウシュウイッツの囚人音楽隊による死の舞踏への永劫回帰を自ら断つこと「戦争の真の終わり」。それはまさしくポーランド人の歴史的悲願であり、その映像(イマージュ)と映画的形象づけ(イマジナシオン)を追求した。
★鋭い視覚を今日の現実のなかにすえ、アクチュアルな状況のなかに視覚を働かせている。つまり、彼らが自らに課した映画の文法と言語は、彼らの執拗なまでの現実としての「実存的人間」に向けられていた。
★スタイル(文体)、文脈は明らかに異なる。ワイダは具体化、カワレロウイッチは非具象化あるいは抽象化、両者とも教条化した社会主義リアリズムを越えて、一方はシュールリアリズム、他方はアンフォルメル(抽象絵画)との触発的造形の達成。このアバンギャルド精神のなかに、ネオ・リアリズムとの発展的呼応があるとすれば、その間の機微をとらえ、いわばポーランドのネオ・リアリズムにおけるイデオロジカル・ロマンチシズムあるいは、革命的契機を探りだしうるであろう。
 (A・ワイダとの「灰とダイヤモンド」についての一問一答)
★問、「灰とダイヤモンド」は、あなたにとって歴史を扱った映画ですか、それとも今日の問題を捉えたえいがですか。
☆答、観客は映画のなかに表わされた問題に、いつだって今日性をもった問題を見るのだから。
★問、原作に含まれた問題で、特にこの映画で浮き彫りにした問題はなんですか。
☆答、マチックという人物のなかの2つの法則。1つは、人を殺すことがなんでもなかった戦争の法則。2つ目は、平和の法則、つまり戦争最後の日々、同時に平和の最初の日。
★問、つぎのプランは?
☆答、撮りたいテーマは幾つもあり収拾つかないありさま。その1つは、離ればなれでは生きられないし、とはいえ一緒に生活することができない二人の話、つまり恋愛映画。2つ目のテーマは、ずーと前からぼくを悩まし、またぼくの生涯で最大の野心でもある一つのアイデアを実現すること、それはクトノ(ワルシャワ西方の要地)の防衛者たちを扱った、美しいが、しかし愚劣な過去の伝統についての話。どちらもまだシナリオはできてないが、映画に脚色できる文学上のテクストはある。




 










            
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# by kuritaro5431 | 2014-09-10 08:31
2014年 09月 06日

はじめての「詩」・習作


  憂鬱


  無題 1

 人のこころは捉えられるものではない
 自分の心の様も捉えがたきものなのに
 幸せが秋空の晴れ間のように現れては消えてゆく
 なにを幸せというのか

 風邪の熱に浮かされて
 枕元に魴鮄が打ち上げられる
 ウミノピリン フェナセチンが大脳中枢を鈍らせる

 魴鮄が赤紫色の鰭を動かし寝床に侵入する



  無題 2

 悲しみという風が吹いてきて
 M子という小さなヨットの帆をはった
 タンポポの咲く春の此岸から
 ツンドラの冬の孤島へとヨットは走る

 行く先はどこでもいい
 ただ遠いところに流されればいのと
 M子はいう



  メランコリー

 梅雨の前の梅雨
 雨樋を伝う雨の音
 五月の末にしては暑くない宵

 雨の音は春が終わる音
 夏のはじまりの音

 今夜は思い出したようにしか鳴かぬ泥蛙



  白い太った猫

 老いた雌猫
 犬の鎖に繋がれている猫
 その猫の鎖を黒革の手袋が引く
 しとやかな中年の貴婦人
 猫の耳は傷だらけ
 鮮血がしたたっている
 気力のない猫の目

  

  乳白色のガス

 比叡山は濃霧
 一面が乳白色の海だ
 霧がどんどん俺を宙に浮かせる
 
 意識も
 理性も
 合理性も

 そしてあらゆるものを諸行無常の霧に包む

 大地に踏まえようとする己の観念を
 輪郭のない気体が足を払う

 霧は今の俺にとっては敵だ
 霧の世界なんぞに
 ロマンなんぞありえない
 嘘だ
 偽物だ

 霧のなかに佇んでいる自分を思うと
 高調で焼かれたモノクロ写真が恋しくなる



  独身最後の年・29歳。長すぎた「五月病から抜けきれない」時期。
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# by kuritaro5431 | 2014-09-06 11:44
2014年 08月 18日

自慢の「自分史」を書きたい男の本能

 昔(バブル景気崩壊まえまで)の会社員は60歳定年、役員は65歳定年。今は後期高齢者になってからが実質の定年。半年、一年も経てば現役時代「退職したら……」との奔放な夢は失せ、一日中家にいる濡れ落ち葉に。奥さんは手慣れたもので子育て育児時代からの友達付き合いやら、あれやこれやの付き合いごとで外のネットワークはひろがっている。習い事などでもで闊達に出歩いている。
 なかには濡れ落ち葉を嫌悪し、現役時代のキャリアを生かし、どこかで、誰かに、地域に役に立ちたいと動きはじめる男たち、旦那たちもいる。再就職も含めて。ところが永年勤めた会社社会しかし知らない男たちは、困惑する。
 ほかの社会、ほかの会社・組織習慣で暮らしたことのない者が、ほかの社会でのコミュニケーション経験者としっくりいかない。それはあたりまえということをこの歳になってはじめて知る人も多いようだ。。永年いた会社の生活習慣を変えてコトをおこすということは、実は並大抵のことではないのだ。大変なことだったなのだ。 その証拠に学生時代同じクラブやゼミであれだけ意気投合していた友が、顔では懐かしく微笑んでも、腹の中で僅かな会話のズレが、口には出さないまでもそれは違う。と反応してしまう。転職経験もありほかの会社の雰囲気を経験した者ならいざしらず、真っ当な人間は一つの会社で出征してきている。
 親父の会社を継いだ小企業の経営者をやっている昔の友と、上場企業の役員になっている者とでは、ライフスタイルも組織管理に関するする価値観も、階級意識も、交際費の使い方についてもまるで違う。
 昔、真っ当といわれたひとたちは、大抵定年までその会社にいて、この組織習慣、組織風土、組織文化に馴染み一応の成功の人生を一区切りした。家も建て、子供全員大学を卒業させ一応納得のいく会社に就職させ、孫もできた。日本人の同世代の平均的成功者、いやそれ以上とさえ自負している。

 ここまではその世代の平和で幸福だった一般的モデルで、私のことでない。でも一つ同じ認識のところがある。それは会社が変わったらまるっきり組織社会としての習慣が違ったことである。これらのコトはブログのあちこちに書いたのでここでは割愛する。

 人はそれぞれ歩んだ道で、交友関係ができ、所属階級も自ずと決まり、どの〈族〉の人間かまわりの人間が決める。今でもかも知れないが、いい大学に入り、いい会社に入り、出征して世間がいう〈できるだけ上位の族〉に入り、一生を全うしたいと思っている人は多い。その過程で誰しも苦労する。実際は一人一人によって苦労の質が全然違うのだが、誰にとってもその人の苦労はかけがえのないものであることに違いない。

 そこで後期高齢者になると、自分の人生の苦労を振り返りたくなる。「来し方のノスタルジーである」。だから納得できた人生が今日まで送れたのだ。そこまではいい。それには「私の美談話?がある」と。結局自慢話にもっていきたくなる男の本能。それも肯定したとしょう。
 問題は「自慢の話のネタである。ネタ次第である」そのネタによって、その男の気がつかなかった魅力が浮かび上がるか、ゲスな不快な空気をまき散らすかになる。

 私ごとだが、定年制のない約束で入った三度目の会社だったが、定年制ができ、私は62歳で退職した。一般の会社員が退職後に体験したといわれる虚脱感をもたなくてすむワークスタイルの仕事だったので、仕事のない日、大阪の朝日カルチャーセンターの「小説実作教室」に通うことにした。
 その頃の、定年退職後のおじさん達は、文章センスを磨きたい。話仲間も増やしたいという婦人達のニーズも増え、各種の文化教室は花盛りで、特に「文章教室系」の講座は盛況だった。その系統には3つの流があった。

 ①類の講座は、ビシネス文書は書き慣れてきたが、時々の思いを「随筆やエッセイ」に短い文章で書き残してみたい。そのために゛ビジネス文と、散文の違いのポイントやリズムなどを、習作・添削・講義を通して書けるようになりたい。多くは、父や祖父が残した人生の体験談、苦労の末の成功談などに触発されてというのが多かったようだった。
 女性の参加者は、「洒落た短文を一筆箋や絵手紙に書きたかったり」「同じ趣向同士で語り合える仲間を増やしたい」だったりのようだった。

 ②類の講座は、どこかの文芸同人誌のメンバーだった経験者とか、同人誌に参加したいレベルの人たちで、すでに40~60枚(400字原稿用紙で)の小説を何作か書いているレベルの人たちで、メジャーな文学賞に挑戦できるまでの力はまだない人。

 ③類の講座は、実力は別として、将来文筆業で食っていきたいという強う意欲をもっている連中の多い教室。大阪でいえば「大阪文学学校」、東京でいえば有名だった「駒田信二小説創作教室」他。とはいえ、参加者の90%は、筆力過信のうぬぼれ屋で、純文学系での「文学界新人賞」「群像・新潮・すばるなどの新人賞」に、エンターテイメント系では「オール読み物新人賞」として多くの新人賞があった。ミステリー系では1000枚の「江戸川乱歩賞」は別格で、受賞すれば、即新人作家として登場できるといわれたもの。
 ところがその実態は、全国に何百という文芸同人誌があり、また一匹狼の修行者がおり、裾野は何百万人ともいるといわれたもの。芥川賞・直木賞他メジャな賞は年二回で、「3億円の全国宝くじ」よりはるかに格率の悪い作業。それでも出版不況・本離れ、といわれながら夢見る文学青年・文学少女・女子は結構いた。

 という流れが、1990年ごろまで続いた。
 そこで登場したのが、ひまを持てあましている定年退職者向けに「自分史づくり」ブームが起こった。それに乗った連中の多くは、「散文には全くの素人の」①類の族が多かった。自分史づくりのマニュアルも多々でた。
 それを機に、2つの社会現象が現れた。

 1つは、「懸賞原稿募集月刊誌」5~6誌の登場。もちろん「自分史(掌編もの)」「地域の民話などを題材にした掌編小説」「兼題の付いた俳句」「短歌」「写俳」「写真コンテスト」なかには「和菓子や旅館などのコピー募集もあった。
 懸賞金は三千円~一万円低度。それでも一時期たくさん「懸賞雑誌」は売れていた。

 2つ目は、「本格的自分史の原稿募集」由緒ある公的機関の募集で、原稿用紙250枚・梗概3枚以内。現役作家の選考。入賞者一名。ハードカバーの単行本に製作。出版部数五百部。3年の実績あり。

 3つ目は、「あなたの原稿が本になります」。広告を見られた方もあると思いますが、問題を起こした出版社もありました。
 そのシステムは、「自分史」「小説」「エッセイ」などの完成原稿または企画書や・構想メモを送ってもらえば、プロの編集者が、推敲、編集、代筆までおも行い単行本に仕上げます、と。製作部数500部。自社契約の全国書店の棚に並べます、というもの。出版費用は、完全原稿で優秀と審査されたものは、印刷・広告費とも出版社持ち。それに準ずるものは、出版社と著者との共同企画として、総費用折半。個別に見積もる。というもの。
 原稿枚数は、300枚から500枚。
 私は実際、完全原稿の企画出版契約の見積もりをしてもらった。著者負担ハードカバーで300万円、ソフトカバーで250万円。実質自費出版以上なのでやめた。ユニークなモチーフと、鋭い感性の文体なので是非世に出したい、ついてはと前述の勧誘だった。編集者らしいセールストークだった。原稿は確かに読み込んでくれてはいたが……
 それにそっくりの企画が「超・知の巨人」で有名なあの人が、これまた超大手出版社と組んで「自分史を書こう」との運動をはじめた。NHKラジオ深夜便でも紹介された。送られてきた原稿はその巨人が全部目を通すと。どんな人の人生にも必ず教えられるものがあると。出版社のホームページには、出版費用についてはぼやっとふれられているだけだった。同じ自分史を出すなら権威のある人のフィルターを経て、有名出版社から出れば、ステータスは保証される。出版費用の高低ではないとの特別<族>は確実にいるのだろう。


 ところで、自費出版をするにせよ、商業出版をやるにせよ、「自分史」に絡む記事にせよ、自分の企画を提案主張する際にも、「絶対やってはならないコトがある」それは、自分の不利な情報は拾わず、書かず、好意的に扱ってもらった話や記事ばかり引用しょうとする負の欲望。そんなことをすると、すべての登場人物のリアリティは極端に欠如する。どうしてもあのときの事件では、嫌いな人物だがあの人だけはずせない。そんな人物こそリアルに書くべきだ。
 自分史は、散文です。実証を決めつける論文ではありません。散文とは結論、結果は書かず、読者が想像して読む文体のことです。そのさじ加減に作者の影が滲む。それが日本のエッセイ。

 恐らく自分や家系、先祖、血統に絡む事件を書いた文章を読むと、取り上げた人物=書き手によって、その人がどれだけ真摯で謙虚で、また傲慢な人かも分かるというもの。また左の価値観にも、右の価値観にも相対的対意があるものとして疑問符をつけて考え・観察することが、リアルに人物を描くコトになるもの。

 日経新聞の「私の履歴書」は、まさに筆者の自分史です。どれも散文(読み手に任す)で書かれています。押しつけがましさはありません。それは筆者達のインテリゼンスです。バランス感覚です。日経の記者のアドバイスがどの程度あるのか知りませんが、筆者によって書かれる内容も、立場も違うのに、押しつけがましさのないインテリゼンス・ラインはみな揃っています、それでいて筆者の個性はあらわれています。

 昔、エッセイは、有名人の「余芸だ」といわれたものですが、今は「エッセイ」という文芸カテゴリーができあがっているかのようです。プロの作家あり、経営者あり、学者あり、俳優あり、それぞれのテイストでありコンテンツが表現されています。
 ある文章教室で、受講者が他の受講者から提出した習作に講評を受けると「この文は、文章家で定評のある◯◯銀行の◯◯頭取に添削してもらった文章です」と、不快な顔を露わにした。時にこんな場で出くわすことがある。先の傲慢と通じる感性である。

 こんな話もあった。以前の会社で経営企画室にいたときがあり社長が、「君、私の[自分史]つくろうと思うんだが、インタビュー形式で原稿起こしてくれんかね」といった。
 昨年は黄綬褒章をもらったものだし、創業者として年商400億円の会社にまで成長させた功績を後世に残したいらしい。黄綬褒章申請の時、随分納得のいかない話を書いた記憶もあった。(この話は社長と私だけの話で今日まで一切口外していないので社内のだれ一人知るよしもないことであるが) その企画なら外部の専門のディレクターに頼んだ方がいいですよ。その道のプロだから巧くやってくれますよというと。
「聞いたんだよ。そしたら5000部で400万といわれたよ」
「私の[自分史]なら、原糸メーカーやら商社やら、機屋やら小売店やらで5000冊は売れるでぇ、売れたら200万だす、どゃ」といわれたことがある。私はY部長のほうが適任でしょうと断った。
 どうせ気分の悪くなるようなつくり話、自慢話を書いてくれというに決まっているから。

 今はその社長は、私が辞めてから亡くなった。
 今でも退職した役員経験者を中心に「◯◯◯創業者を偲ぶ会」を毎年開催していると聞く。
 現社長は娘婿である。最盛期には年商400億円もあって2部上場も計画した時期もあったのに、今は年商130億。時代時勢は変わったのに、創業者時代の自慢話の会ではいたたまれまい。
 アベノミクス推進の「日本アカデメイア長期ビジョン研究会」における「価値創造経済モデルの構想」で話題のLIXILの藤森義明CEOの「空き家増加を見込むリフォーム戦略」に新しい住生活企業グループのM&A(ファブリックスでは川島・セルコン)────インテリアのファッション化から、「センスのいい住み心地・使い心地」「住む人優先の住」へのイノベーション。私は必ずしもアベミクスの肯定派ではないが、確率の悪い賭けを信じたい気持ちもないではない。

 経営の神様といわれた松下幸之助のカリスマ性は、今も根強く、その後の3代の社長は、幸之助イズムの払拭に大変な腐心をしたと聞く。
 ところが後進国タイでは、小島の多い国柄、松下幸之助商法の精神が、これぞクールジャパンのおもてなしと歓迎されているとか。時代は巡る。「時代適応とは?」考えさせられる言葉。
 ダイエイの落日にも、中内さんがどうても手放したくなかった「中内の自己自慢・男の本能が災いしたか」。


 アメリカでは「エッセイ」は論文に近いプレゼンテーションの一形態と、以前にこのブログに書いた。
日本人には、 プレゼンにおいても 情=文学的なもの→曖昧なおもしろさ→アナログ→クラウド→決めつけない→などをコンセプチャルな領域にまで持ち込みたがる。それをテーストとしたがる。それは合理性、スピード、コスト効果には反比例する。ところが、スピード文化に疲れたアメリカンスタンダード=プラグラティズムからすればクールジャパンと見えることにもなる。

 エッセイ1つとっても、普遍性のない自慢は、嫌われる。エッセイも含め、ブレゼンの形式形態は多様になっている。パワーポイント+レクチャーもあれば、散文的エッセイで疑問を気づきかせる喚起もあれば、批判的論文もあれば、比較評価論文もある。ただ昔の象牙の塔の内のみのアカデミズムは敬遠される傾向にある。
実行性と実利性を織り込んだフレゼンテーションが求められることは確か。
 同時に、プレゼンの形式・形態、編集の知恵=エディター効果の知恵はますます複雑化し、重視されよう。

 
 政経電論〈政治・経済を武器にする“解説”メデイア〉
 ヒットメーカー!の憂鬱 本当の自分はそうしゃない!

   幻冬舎・見城徹×作詞家・秋元康×尊徳編集長
 


 是非必見2014.7.10の記事。バックナンパーも多々。
 
 











          
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# by kuritaro5431 | 2014-08-18 12:58
2014年 08月 15日

日本刀の誕生から量産された太平洋戦争の軍刀まで (2)

 前号からのつづき

⑨先に書いた日本刀はなぜ砂鉄を原料として、割り木を溶鉱炉の燃料としなければならなかったかの問い、その謎がどうしても気になっていた。。
 私が集めた書籍・資料からも、公的資料館、代々木の刀剣会館にも確たる答えはなかなった。テレビの日本史座談会などで、その他の話題に混じって古代の朝鮮半島との貿易があった頃、鉄塊の輸入もあり、それに伴って鍛冶職人も渡来したとの話を耳にしたような気もするが定かな記憶はない。
 また一説によると、一時あった百済あたりからの粗鋼の輸入が、何かのトラブルで途絶え、それからは、日本で自前の溶鉱炉を考えるしかなかったからとの説も。
 シナにおいては、昔の奉天・今の瀋陽に巨大な露天炭鉱があった。満州事変の頃豊かな資源の満州と、新聞に報道されたものだった。広大な露天の棚から、一般庶民も石炭を採取し、冬にはペチカを炊いていた。その地は漢民族3/4のほか、満族、朝鮮族、回族なと少数民族が住んでいた。明、清王朝の時代から、歴代の王朝はこの豊富なエネルギー資源に関心を寄せていた。当初は陶器製造の燃料だったが、偶然に石炭の燃えカスで鉱石を溶かすと粗鉄の塊ができた。それに気づいたのが朝鮮族だったなどの話も聞いたような気がする。百済系のアテルイと坂上田村麻呂とは幼なじみ、アテルイの母の子守歌を共に聴いた仲間だったとの伝説も。そんなまことしやかな話までどこかで読んだ。朝鮮族はペチカでなくオンドルで家屋全体を暖めた。

 これならの伝説のなかで、一番信用のおける書籍を書店で偶然見つけた。それは小笠原信夫著「日本刀─技と美と魂」文春新書571であった。著者は1939年生まれ、早稲田大学卒、日本美術刀剣保蔵協会を経て、東京国立博物館勤務、刀剣室長、工芸課長等歴任。東京国立博物館名誉会員。
 この本の60頁に、かねてからの私の疑問の一部を晴らす短い記事があったのでその部分を引用する。

 「唐太刀から日本刀へ」との小見出しに、
 刀剣類ははじめ中国大陸、朝鮮半島から輸入され、やがて我が国で模倣して製作した経緯があり、それがいま正倉院宝物のなかに伝世している。これらの様式は一様でないが、切刃造(きりっはづくり)直刀(ちょくとう)の唐太刀が当時の最新様式であったとみられる。この片手で握る寸法の柄形式の直刀は平安初期まで続いているが、やがて両手柄用の鎬造彎刀(しのぎづくりわんとう)という日本独特の様式に変化完成いていく(写真省略)。その時期や過程があまり明白にわかってないのだが、平将門、藤原純友(ふじわらのすみとも)らの承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)(935年~)以前には成立していたものと推察される。
 それには蝦夷エミシと呼ばれた人々の用いた蕨手刀(わらびてとう)、立鼓刀(りゅうことう)、(共に明治以降の名称)様式が大きく影響したことは確実だろう。唐手刀は長寸で、柄には柄に木を嵌めているのに対し、蕨手刀、立鼓刀は短寸で、刀身と柄が鉄の友造りとなる。蕨手刀は、柄が棟方(むなかた)反って細くなり、先が早蕨(さわらび)のように丸くなる。中には柄中央に透かしのあるものもある。立鼓刀は柄が握りやすいように中央を細くしている。この蕨手刀が同じ友柄の長寸彎刀の毛抜型太刀に発展したのは容易になっとくできるが、長寸で片手用木柄の唐太刀から、短友柄の蕨手刀へ、さらに長寸両手柄の毛抜型太刀へと変化し、木柄の日本刀が完成したという変化過程はどう考えても適当でない。
 基本的には、片手柄直刀から両手柄彎刀に発展したもので、「断つ」(断ち割るから)、「切る」(切り裂く)への変化があったものと思われる。やがて毛抜型太刀は、衛府太刀(えふのたち)と呼称され、衛府の官人が佩用した。この様式は俘囚太刀(蒔絵銀造俘囚の太刀)ともいったので、蝦夷の俘囚鍛冶の他国移住があったこととあわせて考えなくてはならない。
 また、奈良から平安時代にかけて、衛門府(えもんふ)の衛士(えし)に徴収された板東(ばんどう)の地方豪族の師弟達などが通常佩用していた蕨手刀などが、一般化したものと思われる。横刀(おうとう)、蕨手刀、立鼓刀など後世の脇差しに匹敵する寸法の刀剣は、むしろ平時の武装的服装に佩用したものではなかったか。
 直刀時代の『令義解』(りょうぎげ)の「関市令」(かんしりょう)のなかに、粗悪品は売るなとして、横刀、槍、鞍、漆器などに制作者の姓名を記すべきと規定している。もちろんそのようなな作品は存在しない。しかし刀剣の茎(なかご)に作者の銘は、たがねで切る習慣は平安時代、一条天皇の永延(987~989年)の鍛冶といわれる三條宗近、古備前友成などからみられる。作風もさることながら、銘字の研究は大きな問題であって、刀剣研究で真贋を鑑別するさいに一番問題となるところである。とくに、初期作や晩年の作にみられる通常のものと変わった銘字や、弟子などによる代銘、二代三代の襲名についてである。この問題のむつかしさは、平安時代から江戸末期にいたるまでの刀剣制作を組織・工程・社会制度までも同一視でどうれつに論じてしまうことにより生ずる。さらに、父または師匠の名を襲名すること、弟子が代作して師の許可を得て代銘したもの、別人同名などが入り組んで加わるため、困難さを増している。」とある。
 著者の立場から、日本刀の鑑定に関する側面の謎が、私の取り上げた「三條宗近」においても取り上げられており、納得できた。

 先の朝鮮から送られてきていた粗鋼で造られた「蕨手刀」は、撫順産の石炭からできた粗悪なコークスを用いたものではなかったか、「蕨手刀から日本刀に進化していった時代に一番関わったと思われる奈良が、なまくらの粗悪刀の代名詞のようにいわれた理由を──小笠原信夫・同著『日本刀・日本の技と美と魂』の第九章に"奈良刀と切れない刀"で触れられている。」
 また近年、中国の「熱処理工程をもつ工場指導に立ち会った日本の品質管理技士が、その粗さに驚いた」との話も聞き、これもなるほどと納得した。
 (ブログ筆者・注)東北の蝦夷エミシの流れを汲むといわれるサンカ(山の民/ノマド)が使っていたといわれる、ウメガイという両刃のナイフがある。蕨て刀(わらびてとう)、立鼓刀(りゅうことう)、とのつながりは不明。明治以降銃刀法で両刃の制作・所持禁止となる。

⑩次に、日本と遠く離れたシリアの首都ダマスカスと関わりのあった「日本刀が絡む伝説」。GAINAX原作・庵野秀明脚本・監督のSFアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」。日本での発表・放送1994年~。
 平成25年7~9月、大阪歴史博物館で特別展「ヱヴァンゲリヲンと日本刀展」を開催。主催は、大阪歴史博物館・テレビ大阪・テレビせとうち・一般社団法人全日本刀匠会事業部。
 この特別展のコンセプトは、次のような2項で書かれている。
1,「エヴァンゲリオンとは」(EVA:エヴァ)と呼ばれる巨大な人造人間にのって、襲来する謎の敵「使途」と戦う少年達、そして彼らを取り巻く人間達のドラマを描いたアニメーション。1995年からテレビ放映がはじまった。当初よりマンガとメディアミックス型のコンテンツとして製作されており、後に派生した内容の物語が小説などでも展開される。またこのほかに、プラモデルやフイギヤー製作、ゲームやパチンコでもエヴァンゲリオンを素材とした展開が行われた。
2,「エヴァンゲリオンと日本刀」。昨年公開の『エヴァンゲリオン新劇場:Q』に際して企画された展示会で、岡山県にある備前長船刀剣博物館で開催。現代の日本刀制作者達によって、「エヴァンゲリオン」作品のなかに登場する武器や、、「エヴァンゲリオン」の世界からインスピレーションを得た作品を製作し、日本刀の魅力を多くの方に知っていただこうというものです。大好評を得たためこれまでに全国4カ所を巡回しています。
今回、TV版「エヴァンゲリオン」や新劇場版にも登場する「ロンギヌスの槍」や、「エヴァンゲリオン」の派生ストーリーである、「エヴァンゲリオンANIMA」に登場する「ビセンオサフネ」などの武器が実際に製作されました。
 とありました。
 私も2013年からスタートした「KYOTO CMEX 2013 コンテンツクロスメディアセミナー」参加から、コンテンツビジネスにも関心を寄せ、「既成概念打破の認識・知覚・感性・新しい論理のフラットホーム、それに必要な概念設計=コンセプト、その具象化・形象化のコンテンツ=内容を試行錯誤してきました。」上記のコンセプトを読んで、「年老いた一人の人間の観念+感性の思考か・イマジネーションか、と、思えたりして、私のコンセプトの定義との違いにとまどいました。

 私がこの企画に寄せた関心は、奇怪なビジネス・モデルではなく、「中世ヨーロッパのキリスト教諸国が、聖地エルサレムをイスラム諸国から奪還するために十字軍を派遣した。十字軍は長い苦戦となった。そのとき折れず曲がらぬダマスカス鋼で造られたダマスカス刀が活躍し、勝利した。その話であった。」
 調べてみると、ダマスカス鋼なるものは存在せず、古代インドで発祥したウォーツ鋼がシリアに流れ、シリアで加工されダマスカス鋼と呼ばれるものになった。ウォーツとはインドの地名で、サンスクリット語でダイヤモンドの意。その後ダマスカス刀の工法伝承は途絶え、作刀法不詳となった。再現テストした学者によると、幾種類かの鉄・鋼を多層で鍛え、ランダムに練鍛すると、面妖な模様が現れ、素直に折りたたみ練鍛すれば正目の文様となることがわかった。世界ではじめて生産されていた合金だったのだ。
 その話がいつごろ日本に伝わったか知れないが、2.3年前、熊本の日本の打ち刃物師で、刀鍛冶の子孫と名乗り、日本刀の作刀法(新刀以降)の鋼割り込みの技法を使い、安来鋼の「青紙スーパー」や、多層の鉄と鋼のランダム練鍛による妖艶な包丁が京都の打ち刃物屋に並ぶようになった。とはいえ、日本刀練鍛法における異種の鋼を練鍛だけで接着させる技術は、材料に砂鉄から製鉄した玉鋼を使うのと同等程度の難易度を要すると現存の刀鍛冶は話す。
 話題なった熊本の打ち刃物師は、娘さんが大手広告会社で外国人マニア向け通販企画をやっいた経験を生かし4ケ国語のホームページでナイフのカタログに掲載したことろ、閑古鳥が鳴いていた鍛冶場が一気に活気づき、生産は半年待ちになったとか。
 
 京都三條の古い打ち刃物店で、「タマスカス鋼の柳刃包丁は、いくらからあるの、と聞くと、3万円からといった」「値段が高くくなるにしたがって?」と聞くと、合金の種類が増えるとの、接着難易度の高い鉄を使い、妖艶さ、面妖さを増すからです」といった。産地は、福井、新潟の燕市などといい、顧客の好み、鑑識、刃物店と鍛治師との固有の連携で、特有のブランド力を醸しているようだった。

⑪最後は、日本刀の命といわれる「良質の砂鉄から玉鋼を造り──これが叶えられなくなった安来鋼はどうしたか」、これが私の最大の疑問だった。

 そこで永年伯耆の鋼を研究した今の日立金属(株)が開発した「総称安来鋼」。
 刃物鋼は「紙」と呼ばれる。

 そのランクが

 青紙スーパー
 青紙2号
 白紙3号
 白紙1号
 黄紙3号
 黄紙2号

 青紙1号もあるが極めて希。
 一応高級な順番に並べましたが、刃物は、硬さと粘りなどの配分がありますので、値段だけじゃ何ともいえません。これは、炭素鋼、合金鋼系ですが、他にステンレス系の銀系、ATS34などがあります。
 白紙、黄紙は基本的には不純物を極力低減した純粋の炭素鋼で、焼き入りが難しく、鍛冶職人の技次第で切れ味がよくも悪くもなりやすい。不純物の少ない純粋の炭素鋼です。
 青紙はタングステンやクロムや炭素の化合物(公金炭化物)を含む硬度のある鋼種で、白紙、黄紙に比べて高価。摩耗しにくく長が切れする。

 と、日立金属(株)のホームぺージにありました。


 青紙に関する私ごとを少々。
 五年ほど前に東寺の「終い弘法」を覗いたおり、裏門近くで旧友のDIYアドバイザーに逢い「その先に名のある刃物専門の骨董屋がでてるよ」といい案内してくれた。ジャの道はヘビだ。おやじとも旧知のなからしい。京の宮大工が使ったというすっかり研ぎ痩せた鉋や鑿をならべていた。見ると、鉋の糸裏、鑿のべた裏、の諺通り、痩せてはいても研ぎ手のぬくもりが伝わってくる道具たち。片隅の小振りな紙箱に無造作に2.3本の肥後守が寝転んでいた。その中の一つを取り上げてみると、真鍮の鞘に「登録商標 肥後守定 駒⏋」とあり、カネコマとは肥後守の最高級ブランドであることは子供のころから知っていた。もう出会うこともなかろうと諦めていた刃の厚み4ミリはある「大」の本物。刀身には「青紙割り込み」の鏨がある。
 「いくら?」と聞くと。「一万円」といった。旧友が取り上げていた赤樫の台の仕上げ鉋。「これいいものだよ」とはいうもののひどい研ぎやせの刃。「これ買って合わせて八千円でどうー?」と掛け合ってくれた。
 とても気に入った買い物となった。
 家に帰るなり、粗砥、合成中砥、青砥、本山の仕上げ砥石、の順で念入りに研いだ。髭が剃れるほど刃が付いた。くすんでいた真鍮の鞘も石粉で磨いた。すると鞘の裏面に「笹に虎の絵、元佑作」の銘があった。日本刀に塗る丁子油(ちょうじゆ)をガーゼに浸ませ塗った。年に一度の障子貼り、濡れた紙もよく切れた。地蔵盆のテントでこどもに竹とんぼや水鉄砲をつくってやり、肥後守で鉛筆を削って見せ、削らせた。
 一昨年、和洋のナイフがブームになった折、肥後守の産地、播州三木市のホームページを開いた。「肥後守永尾駒製作所」のホームページに、四代目永尾元佑鍛冶の写真が載っていた。カタログに「笹に虎」が代々の印とあった。
 私は尋ねごとを兼ねて、四代目永尾元佑さん宛に手紙をだした。三日後ご本人から電話があった。写真の印象よりお歳の声だった。「今はもう息子が継いでくれています」「三木では全校児童が肥後守をもって工作しています」「私の銘は、ひごもりさだ といいます」「お尋ねの安来の玉鋼と青紙は別物です。あれは後世日立金属が開発した鋼です」「私の先祖は刀鍛冶ではありません。鍬や鎌の農具をつくった鍛冶屋です」「息子が毎年京都高嶋屋で展示販売の催しをやっているので、その際ご案内します」「あってやってください」とのことだった。
そして今回「肥後守永尾駒製作所」のホームページを開いてみると、四代目元佑さんの写真も「銘」も記されてなかったが、最高級品としての肥後守・笹に虎は健在だった。

 もう一つ私が家宝にしているいつか書いた「金槌」。65年も経ってもへたらない、青紙の鏨はないがキット青紙だ。フラット面を金剛砥石で研いでも容易に降りない代物。


 終戦の日、江見国民学校の校庭で、士官学校の見習い伍長が孟宗竹を校庭に立て、切り込んだが途中で止まりグニャと曲がった。なまくら刀だった。古参の上等兵は、スパッと切った。上等兵は玉鋼の古刀や、新刀は買えなかったとしても、青紙割り込みの軍刀はもっていたことだろう。
 昨年、整骨院のリハビリ待合で、90歳の立命館大学の先輩と同席した。京都法政学校の時代かと聞くと、もう大学になっいて学徒動員で出兵した。角帽に学生服、ゲートルに木銃で「かしらみぎ」、ざくざくざく。満州からシナに渡って、南方に行った者も多かった。学徒動員兵は、軍刀を下げていた。「ガチャンポン」とみんないっていた軍刀を。どんな刀だったかしつこく先輩に質問したが、記憶がないという。ただなんどもみんな「ガチャンポン」といっていたことを繰り返すだけだった。


 この記事の最後に2014.7.10に聞いた「政経伝論」解説メディア のビジネス編。

 そのときのタイトルは「ヒットメーカーの憂鬱」
 
   幻冬舎・見城徹
        ×
    作詞家・秋元康
        ×
     尊徳編集長
   の動画対談・放談

 自己嫌悪の中で懸命にクリエートとするクリエーターの憂鬱と厭世。
 カテゴリー別のバックナンバーあり、ご存じでない方必見を。













              
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# by kuritaro5431 | 2014-08-15 13:33
2014年 08月 09日

日本刀の誕生から量産された太平洋戦争の軍刀まで (1)

 前4シリーズで「フェティシズム」をキーワードにして3つの「霊性」を追った。洋の東西の古代人も魅せられたり憑依したキラーのパワー→日本的共同体の絆社会が醸した特有の「虚実ない交ぜ」の人間苦楽実存の物語───神話、伝説の物語文化→左の極限・右の極限、果てしない両極限───その「双極性」のなかに存在する黒白(こくびゃく)の、善も悪も相対化させる三次元の広大な相対的世界、無限の対意概念が存在する。概念のみにとどまらず心と体の詳細な機能をどこまでもリアルに捉えるリアリテイが子供も大人も、科学者おも納得させるリアリティを醸す作家もいる。それらをビッグデーター「京」をもってセグメントし、さらに垣根を越えてトータルな発展のために使うとしている人もいる。元日本最大のERPカンパニーも参加を名乗った。

 この大げさな命題を、私の至って個人的なインタレストで表題と付き合わせてみることになるが、おそらく私の「内奥にある自己嫌悪が増幅することになるのは明らかだろう。が、それを81歳の私はなんとかクリエイトの源泉にトランスファしてみせると苦悶している」。毎朝、寝床で四時に目覚め、昨日の苦悶が至福の時間となって、アレはこうすればどうか、コレはこんなアプローチはどうか、などイマジネーションとなってわくわくする楽しい時間となる。そして昼間はまた憂鬱の時を過ごす。今はただこのブログを書くために、周辺に満ち満ちたアンチテーゼ=対意概念の定義検索に時間を潰している。やがて抽象が具現化と実行のストーリー・物語となる。ロジカルシンキングは有効なツール。


 こんなおもいをひっざげて、本論に入ることにしよう。
 日本刀にまつわる話は、これまでに何度かこのブログに書いた。いろいろあるなかで、至って個人的なこことして、発達障害→社会適応障害の自覚と「自立へのもがき」→「脱出への手がかり」としての刃物だった。

 「私は、幼少の頃から心身が至って脆弱・病弱だったことから母方の祖母と母親の過保護・過干渉で育った。その理由は、私より一年先に生まれた待望の男児が生後半年で脳膜炎で亡くなった。翌年生まれた私がこれまた病弱だった。おそらく先に亡くなった嬰児の悲しみも癒えぬまに、病弱な私もまた自力で育たたずまた───という恐怖にも似たおおのきで日夜を送っていたものと、思春期になって知った。自我がふつふつと芽生えはじめた頃の私は、もう取り返しのつかない自分ができあがっていた。学力は低下し、意欲もなく、関わるすべての人(親も教師も友達も)を嫌悪し、まさに後に気づいた発達障害児そのものとなり、自己おも嫌悪するようになりそれは増幅していった。
 その頃の自分が、孤独の世界で唯一楽しめたのは、母方の曾祖父(祖母の父親)が長崎で蘭学を学び、田舎に帰り医者をしていたころ使っていたという錆びたメスや曲がったハサミを研いで見たり、村の鍛冶屋で打ってらった肥後守を研いだり、さらに石粉で磨いてみたり、鍛冶屋でもらった油を塗ってみたりしたことだった。
 中学一年の終戦の日は、家の向かいの江見国民学校が熊本士官学校の疎開分舎になっていて、なぜ二階に一人でいたのか思いだせないが、玉音放送を聞いた炊事当番兵が泣きながら手押しポンプの井戸端で米を研いでいたのを二階から眺めていた。私も理由もなく泣いた。
 翌日は士官学校の生徒をはじめ古参の上等兵やら全員が、校庭に小銃・機関銃などの兵器を並べ、銃に刻んである菊の紋章をエンピ(背嚢に付く小型スコップ)で、削り取っていた。皇国日本の象徴を付けたまま、MP(アメリカ占領軍憲兵)に渡すわけにいかなかったからである。
 私を可愛がってくれた古参の上等兵が、明日は供出する軍刀で孟宗竹を校庭に立ててスパッと切った。若い見習伍長も同じようにやったが、刀は途中で、グニャッと曲がって止まった。曲がった刀を石で伸していたが鞘には入らなかった。
 翌朝その上等兵が私を呼びにきた。軍刀を供出する前に山に行き思い切り雑木を切りまくろうと。私も仏壇の戸棚にあった曾祖父が長崎から持ち帰ったらしい朱鞘の平作りの脇差しを持ち出し、一緒に山に出かけた。雲一つない晴天だった。上等兵は、五センチもある雑木をこともなげにスパッスッパと切っていった。その行為を咎める村人などいない。私も習って、小枝を切ったが、胸がすくような手応えはなかった。
 三日後、熊本士官学校の一団は、それぞれ故郷に向かって旅立った。あの上等兵は、私に記念にと自分のしていた腕時計をくれた。防弾の文字盤ガラスは擦ると甘い香りがいつまでもした。
 その後の私は戦後のどさくさも絡み、旧制から新制へとかの転校や、農地改革で遺産の田畑が取られると、父は教員の定年を待たず父の郷里に隠遁し、家族全員自給自足も兼ね美作東北の果てに引っ越した。
 私は近くの高校に転校したものの、重症と自覚できるほどの発達障害・社会適応障害に縛られていた。躁と鬱が交互にやってくる〔双極性障害〕だった。
 その双極性障害がほぼ抜けたのは、立命館大学経済学部に入学してからであった。それ以後の話は、部活・映画研究部で曲がりなりにも機関紙に評論や論文を書く訓練をやり、当時は「議論はあくまで生産的であるべき」をモットーに、今思えばディベートの訓練をせっせとやっていたことになっていた。四回生で、梯秀明教授との出会いがあり、その後につながった。


 そこで日本刀の話になるが、謎の多い日本刀をザックリ「日本刀とは」とまとめてみると次のようになる。

①彎刀(平安時代中期以降)の「太刀」と「刀」。
 「太刀」は、上に反り、「刀」は、下に反る。「太刀」は佩くといい。「刀」指す、という。
 太刀も刀も、刃渡り二尺以上のものをいう。二尺以下一尺以上の刀を脇差しという。鍔のあるものをいう。
 一尺以下が短刀となるが、短刀には鍔はないので刀といわない。
 太刀なり、刀なりを「佩き」「指し」て、左の外側にあたる刀の面を、いずれも「表」といい、その内側・反対側を「裏」という。これは「脇差し」「短刀」も同じ。
「表には作刀鍛冶の名、号、国・住などが鏨で刻まれる」。
「裏には、作刀年月、依頼人、試し斬りをしたなら依頼人と執行人(歴代公儀御用の試し斬り山田浅右衛門)、首のない処刑された罪人を、土壇場(赤土の盛り土)に乗せ、一人、二人、三人、四人、と積み、三人を一刀で切断すれば「三つ胴裁断」の金の象嵌が入いる。最大「四つ胴裁断」あり。

②日本刀の定義は「玉鋼でつくられた剣」とあるが、古刀(慶長四年まで)、新刀(慶長四年以降明治まで)といわれるも明治以降の現代刀にはあてはまらないので、定義不明とも。
古代の日本は、コウクスが入手できなくて、やむなく「砂鉄を蹈鞴で炭火の低温溶鉱炉」となったとの説が主流。世界の剣で低温(炭火)作りは、日本だけと。

③古刀とは、すべて一体の鉄で作刀された。刀身に弾力を持たせるため、鍛える過程で火の粉を飛ばして脱炭(カーボン粒子を飛ばす)した。刃の部分は脱炭しない。それで折れず曲がらぬ日本刀となった。

④新刀は、刀身に軟鉄を、刃の部分にカーボーン粒子の多い鋼を「割り込み」抱き合わせた。この割込み技術には、異なる質の鉄を接着し、一体の刀にする技術が必要で、これを日本刀特有の技術ということにもなった。(これは後世、玉鋼が高価で使えなくなったことから、有名刀剣鍛冶の子孫の技術を継承してと、いう現代の日本の刃物屋、日本の打ち刃物屋の流れをつくった)。ここにも日本刀の亜流が絡む疑わしい謎も絡んで、歪んだ商業主義ともなったきらいがある。
 

⑤刃紋は、焼き入れ前に「焼き刃土」を刀身に塗り、刃になる部分には塗らない。そうしておいて焼き入れの水槽に浸けると、焼き刃土の塗られてない部分は、「鋼特有の変態(カーボン粒子が凝縮し、硬度を増す)現象を起こす」。そうしておくと仕上げの研ぎ工程で、鉄片で磨き上げると微妙な文様が現れる。それが刃紋である。流派、刀工によって千変の文様を醸し、武具でありながら鋼の工芸美を生み出した。
 治金工学では「熱処理」といい、固いだけでなく、粘り強さをもたせるため、一旦焼き入れた鋼を「焼き戻し」の工程が入る。日本刀の「焼き入れ」も同じ工程が入る。
(注)「経営計画においても、理想的な〝あるべき姿〟だけの計画では、臨機応変の対応力に欠ける。だからビジネスにおいても、「焼き戻し工程」を織り込んだプランニングが必要だ」ということ。同時にマニアル依存のマネジメントに警鐘を鳴らしているともとれる。アナログ的、アドリブ的対処は経験値=キャリアにおいてのみ形成される。

⑥日本刀の焼き入れと、「折れず曲がらず、美しい」は、刃紋だけでなく、刀身の地肌(板目肌、梨地肌、銀筋流し、などなど)であり、刀身の厚み、反り具合いなどもまた、刀鍛冶の流派・刀匠の美意識によって形成された。
 萬屋錦之助が演じた「子連れ狼」の拝一刀がもっていた実戦本位の重く太い肥後の「同田貫・どうたぬき」もあれば、公家がもっていた戦闘には使い物にならない華奢な細身の太刀もあった。
 そこには日本古代からの朝廷と、武家と、鍛冶職人、などの階級社会と経済構造もあったはず。
 これらはみな日本刀の素材・砂鉄からつくられた鉄「玉鋼」であり「銑鉄」と切っても切れない関係があった。
 「鉄を支配する者は国家を支配する」と、素戔嗚尊スサノウノミコトが出雲の斐伊川の上流(現在の奥出雲・吉田町・横田町)に棲む八岐大蛇を成敗し、同体からでた太刀が、天叢雲剣(あまのむらくもの つるぎ)(草薙剣(くさなぎのつるぎ)とされ、出雲の国の神話と、大和の国の神話とつながり、ヤマトタケル日本武尊がその太刀で熊襲を成敗。この話は記紀神話の謎に繋がる。
 戦後の日本においても「鉄は国家なり」といわれ、高度経済成長にかかせないものだった。
 私はこの話に興味を持ち、Jコンサルファーム時代に、出張の合間をみて、奥出雲の吉田町・横田町を訪ねた。そこには、伯耆の砂鉄を支配した一族の記念館があった。そこには与謝野晶子も逗留したとの短冊もあった。野蹈鞴時代から里蹈鞴の時代まで良質の玉鋼、銑鉄を境港から各地に供給したところであった。(この話は以前、このブログに書いたのでここでは割愛する)。
 その後、日本固有の砂鉄からの製鉄技法は、安来の日立特殊鋼・現在は日立金属に引き継がれている。安来市内には日立金属によって維持された蹈鞴製鉄の資料・模型。当時の生産物など展示されている。
 そんなわけで、この地方で古代から産出された良質の鋼をいつしか、「安来鋼」といわれるようになった。
 ところが砂鉄からの製鉄で良質の玉鋼をつくるということは、金を精錬するより高くつくことになり、いわゆる「安来鋼は変遷する」その研究と技術は、企業秘密であり、国家秘密の技術であったかもしれない。
 その件は後ほど────

⑦それと日本刀の作刀全行程には、多くの職人が役割分担・分業化し、徒弟・世襲も交えて技術、美意識・誇りが長い歴史のなかで継承されてきた。
 「刀の拵え」(刀身の彫り師・一般には焼き入れ後、鍔師、柄・つか師にしても多様な部材が工芸の粋をもってつくられた、鞘にしても太刀と刀は違い一振りごとに刀身に合わせ狂いの少ない朴の木をもちてた、鞘は塗り師に渡り漆工芸がシンプルにそしてときに華やかに粋に、小柄にしても蒔絵とと象嵌を凝らしている、研ぎ師によりよく切れしかも刃紋と刀身の地肌の美が完成する、そして完成した太刀や刀を包む刀袋、拵え刀は錦の袋、白鞘は無地の袋と決まっている、その袋は白い房のついた白い紐で蝶蝶結びで房を垂らす、などなど、日本刀→日本人の美意識→魂は、細やかな儀の所作と繋がっている。拝刀するときの所作も定められている。)。
 これらは、このように幾つもの部品に別れ、それに刀匠の流派が絡み、職人間における主従関係、依頼者の権力、権威、制作資金の出所なども複雑に絡みながらもそれなりになりたっていたと思われる。
 納得のゆく完成度と美意識は、依頼者の厳しい要求と批評眼、日本の美に精通した刀剣鑑定士もいた。それに挑戦した各部位の職人技と心意気。たった一振りの刀のために投入した血を吐くほどの訓練と、加工のために費やした時間。時間コストを越えて創出された物の価値。
 現在読者の皆さんの宅、ことに田舎に故郷をもつ人は、刀タンスか、仏壇の下に刀が二振りや三振りはあろう。ところが重要刀剣でない限り、また刀に心得のあった祖先を引き継いでない限り、大抵鞘のなかで錆びている。そこそこの名のある刀工の作であっても、錆びた刀は値打ちはない。研いで作刀されて当時の姿が再現されれば文化工芸品として評価される(値が付く)。深い錆は研ぎ降ろしても消えない。深錆でなくても錆を降ろせば研ぎ痩せする。作刀当時の姿でなくなる→評価は下がる(安い値となる)。そう錆びていない刀の普通の研ぎ料ご存じてすか、1寸1万円です。刀は一般的に二尺三寸だから、23万円というのが相場です。本研ぐぎ(刃をつける)は、寸・一万二千以上でしょう。すると二尺三寸の刀で27万円以上といわれるでしょう。
 バブル景気の最中、京都四条のど真ん中に「常信」という名刀「虎徹」や「一竿子忠綱」などを委託販売していた由緒ある刀剣店があった。鑑定書はあるものの真贋の程はわからなかった。そのなかには、拵え付で立派に研がれた刀剣便覧にも載っている刀が30万、40万で売られていた。無名のもので気に入ったものが20万でも買えた。だから研ぎ代は現代のコストで、刀の相場は、込み込みでと妙なものだった。それは本研ぎの工程に荒研ぎから、中研ぎ、仕上げ、さらに刃紋と地肌の美しさをだすために最後は鋼の鉄片を指で半日も磨くことを知っていたから。
 私がはじめてIBM360モデル20に出会った1969年、生産性向上とは時間コストを下げることとイコールだったことへの疑問だった。宮崎駿の「風立ちぬ」のアニメのテーマは、「戦前の時間と、現在の時間との落差といった人がいた」と以前のブログに書いた。それは分かるとしても、古代の日本刀作刀工程のコスト/価値の方程式を肯定評価するのは、世界の0.001%ぐらいの富裕層か。これからの世紀で人間が求めるクールジャパンはどこに軸足をおけばいいか。確かに、日本刀作刀のなかに、クールジャパンのコアは存在する。

⑧明治維新前夜、刀鍛冶の間で「古刀の作刀に戻れ」の運動が起こった。姿は似た刀ができたにはできたが、切れなかった。後の治金工学の学者の研究で、古刀の断面と、この「古刀に帰れ運動」でつくられた刀の断面の電子顕微鏡写真比較が行われ、一つには鋼の焼き入れ時におけるマルテンサイトの変態密度が違っていた。古刀の密度は圧倒的に濃かった。鋼に含まれる不純物、燐と硫黄とマンガンが非常に少なかったという2点だった。
奥出雲の野蹈鞴で赤松を伐採し、皮を剥いていたという記録は、赤松の皮に燐が多かったことを古代の人は知っていたことになる。硫黄とマンガンの少ない原因は、私の調べたところでは不明だった。

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# by kuritaro5431 | 2014-08-09 13:28