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2015年 01月 18日

マックス・ヴェーバーの「3つの支配」(その2)

 前、記事1つで済ます予定でしたが、まだ肝心なことが書けておらず、つづきを(その2)で書くことにしました。ご了解を。


────問題ありとする見解────

佐々木毅氏は「何故にこの三類型なのか」という疑問が起こるのは禁じえないと述べている。(『政治学講義』東京大学出版会・1999年)。 ウェーバーは[支配」を「ある内容の命令を下した場合、とくていの人々の服従が得られる可能性」と定義する。彼によれば、すべての支配は、人々が支配者の命令を正当なものと認めて服従することによって成り立ち、この点で権力一般から区別される。支配者の命令の正当性の根拠(支配される側からいえば服従する根拠)が何であるかによって、支配は三つの純粋型(理念型)に分かれる。
 伝統的支配は、昔から妥当してきた伝統の神聖性に対する信仰に基づく支配である。合法的支配は、適正に制定された規則の合法性に対する信仰にたいする信仰に基づく支配である。カリスマ的支配は、「カリスマ(「神の恩寵」という意味)、すなわち特定の人物に備わった超人間的な資質に対する信仰に基づく支配である。
 愚見によれば、ウェーバーは二つの軸(縦軸に、上・非日常的、下・日常的)(横軸に、左・個人的、右・非個人的)←(ブログ筆者の力量ではプロットできないので文字で表現)で、「ウェバーの支配の三類型」をこれで示すことにする。
 横軸左・個人的と、縦軸上・非日常的との左上ゾーンに[カリスマ的支配]さらに左上に[カリスマの日常化]
横軸左・個人的と、縦軸下・日常的との左下ゾーンに  [伝統的支配]
横軸右・非個人的と、縦軸下・日常的右下ゾーンに [合法的支配]
となる。


 伝統的支配は「日常的」かつ「個人的」な支配である。合法的支配は「日常的」かつ「非個人的」な支配である。カリスマ的支配は、「非日常的」かつ「個人的」な支配である。「非日常的」かつ「非個人的」な支配類型の象限は空白になっている。
 ところで、ウェーバーは、支配の三類型のうちカリスマ的支配についてのみ、その日常化を問題にしているが、それはなぜだろうか。その理由は、支配が真に支配の名に値するものであるならば、それは一定の持続性を持たなければならないからである。その意味で、「非日常的」支配は真の支配とはいえないことになる。だとすれば、「非日常的」かつ「非個人的」な支配についても、それがどのような名称で呼ばれるにせよ、その日常化が問題になるに違いない。



─────3つともウェーバー自身否定的だったとさえ感じるのはなぜ?──────

 質問: 「ウェーバーはの3つの支配」と「ウェーバーの職業的な政治」の概念は、どのような「社会環境」のとき編み出されたのでしょうか。

 ベストアンサー☆ ブログ筆者の感想★

 ☆ウェーバーは、「支配の諸類型」で、合理的支配・伝統的支配・カリスマ的支配と3つの支配があるといい、さらに、合理的支配を官僚制的・合法的支配、伝統的支配を長老制・家父長制・身分的家産制、とに区別していた。
 そのうち、最初の合理的支配、官僚制というのは1870年ドイツ帝国が成立したときに始まったもので、だいたい近代国家というのは官僚制である。そして、ウェーバーは、「古代農業事情・邦訳では古代社会経済史」で、古代国家は官僚制を採用したことで、亡びたといっていたから、彼は官僚制を批判した。

 ☆つぎの伝統的支配というのは長老制、家父長制、身分的家産制といているから、どこの国でもだいたいそのように発展していて普遍的。
 特に、19世紀後半のヨーロッパは家父長制が強く、日本も明治の半ばから家父長制が強くなり、男尊女卑が激しくなり、家の中で家長が絶対的な支配権を持っていた。
 ウェーバー自身も厳格な父親と衝突し、喧嘩がもとで父親が死んだとき、自分のせいだと思って精神を病み、10年間は「引きこもり」になった経験があるので、人一倍、家父長制に苦しめられた。そんな時代だった。

 ☆つぎのカリスマ的支配とは、ドイツの宰相ビスマルクなどの影響があったと思われる。官僚がダメだと思っていたらつぎに来るへきものは民主的・独裁が一番いいと考えて、ビスマルクなどがモデルになっていた。確かウエーバーが死んだ1925年ごろ、まだヒトラーはでていなかったが、1920年代のワイマール体制には批判的だった。

 ★ウェーバーはそんな自分を自己否定した。ある人は健全な「自己嫌悪」といった。「自己嫌悪してバランスを取ろうとしたんだ」と。形式論理学で排中律を肯定したウェーバーにも、本当は人間らしい「排中律」を認めていたのではなかろうか。

 














             
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by kuritaro5431 | 2015-01-18 14:09
2015年 01月 17日

マックス・ヴェーバーの「3つの支配」(その1)

 正式には「マックス・ヴェーバーによる支配の3類型」。
 私がはじめてマックス・ヴェーバーのこの種の概念にであったのは、「ソフトVEマニュアル」日本バリュー・エンジニアリング協会発行の冊子のまえがきに載っていた「マックス・ヴェーバーによる3つの合理性」であった。2回目が「マックス・ヴェーバーの職業政治家の[責任倫理]と[心情倫理]」であり、3回目が今回の「マックス・ヴェーバーによる支配の3類型」であった。
 1回目の「3つの合理性」も、2回目の「職業政治家の[責任倫理]と[心情倫理]」も今までこのブログで書いてきたので興味をお持ちの方は記憶してもらっていることでしょうが、それぞれのポイントだけ話し、のち今日の本題に入ることにする。なぜなら3種とも共通の臭いをもっているから。

 「3つの合理性」は、

 ①価値合理性
   目指している価値と、自分の思考過程なり行動なりとの間に、論理的一義的かつ明晰な意味関連の存在。
 ②目的合理性
   特定の目的達成のために、いかなる手段選択をすべきかが目標となるから、問題となるのは、特定の手段選択と目的達成との間にみられる因果関係が論理的に明晰かつ一義的に捉えられること。
 ③形式合理性(因果合理性)
   単なる目的合理性にとらわれず、さまざまな事象を数理的に、できれば数学的にとらえることによって、的確な予測を可能にし、さらにはまた目的合理的に対象に働きかれて、目的を実現させるための能力を著しく高めるという結果をうみだすもの。

 (注)ブログ筆者の解釈

 「3つの合理性」

 ①、自分が目指している価値(心情も含む)と、それを支える自分の思考プロセスは自分の行動に現れる。目指す価値を一元的ベクトルに絞るためには、論理的にも心情的にも綿密な合理的関連性を保持させること。その遂行を妨げるものを排除するため、社会的、政治的な多大な不利益も、覚悟する合理性。
 ②、「なんのために」という目的のない行為は、この世にはないという立場の考え方(合理主義)。「なんのために」とは、大抵「特定の目的のために」となる。その目的達成のためにどのような達成手段(方法)が最適か(効率的か)をどうやって設定するか。幾つもの切り口を調べ研究し、そのなから選択する。目的と手段が決まれば、手段の実行によって「どんな成果OUTPUTをどのぐらいいつまでに出すか=目標を決める」実務ではその後PDCAが使われる。
「ここで問題となるのは、特定手段選択と目的達成との間にみられる因果関係が論理的に明晰かつ一義的にとらえられること」と書かれているように、この目的合理性でここが一番難しいところ。
 まず「なんのために」という目的の対象をどの範囲でとらえるか。特定の、といっても「問題解決のための原因の事象なのか、改善のために押さえておかねばならない事象なのか、いずれにしても個別の事象(問題点など)を取り上げれば際限とのないモグラ叩きに陥る。共通する原因の個別事象をグルピンクし抽象化してとらる。抽象化過程で、個別事象に含まれる原因と抽象化された事柄の因果関係が論理的・有機的に絞られていなければならない。とはいえ、絞られる程度が狭ければ、活動成果は小さくなり、抽象度が高ければ、自ずと事象と目的の因果関係は複雑になり、目的達成の活動計画も目標設定もむつかしくなり、難易度は高まる。活動体の力量に合わせたレベル設定が難しいといっている、ともとれる。
 ③、の形式合理性(因果合理性)は、目的合理性を支援し、一層高い効果を出そうという合理性である。数理を道具とした論理学を形式論理学といわれた(古くはアリストテレスによって組織された論理学でその後変遷し今日にいたる)。この論理学から導き出される答えは「蓋然性」。因果関係から見ての「確からしさ」なのである。哲学、数学、統計学などで使われた。「可能性」と「蓋然性」は別の意味をもっている。「可能性」は、あるかないかのどちらか。「蓋然性」は、高いか低いかとの曖昧さが残っている。それが「可能性」というニュアンスで使われるようになり、この③でも、「~数学的にとらえることによって、的確な予想を可能にし」とある。今日の政治・経済の予測においても、数値を「可能性の判断材料として」テレビ、新聞などで使われる。数値は勘でなく科学的とのグローバルな認識の仕方と思うようになった。それに拍車をかけるように数値の「見える化」運動としてさまざまなグラフが為政者を支援してきた。
「有り」と「無し」は「1」か「0」のみであり、「中間」はなし、ということ。以前このブログに書いた「いろいろあったフェティシズム論」でマルクス弁証法は、「中間はなし」=「排中律」と批判し、中間の曖昧さにこそ人間らしがあるといった。
形式論理学が導く「蓋然性」は、確かに資本主義の複雑に進化した政治・経済のコントロールに貢献した。同時に為政者の恣意的道具として使われた光と影がある。


「マックス・ヴェーバーの職業政治家の[責任倫理]と[心情倫理]」は、

「責任倫理」を要約すれば、
「予測できる限り自らの行為の結果を考慮し、軍事力・警察力行使という国民にとって甚だ危険な選択でも、その責任を引き受ける態度」

「心情倫理」を要約すれは、
「自らの行為の価値を純粋に信じて、その結果は神に委ねて省みない態度」


「マックス・ヴェーバーによる支配の3類型」は、

「合法的支配」と「伝統的支配」と「カリスマ的支配」

①合法的支配
  制定規則による合法的支配。形式的に正しい手続きで定められた制定規則によって、任意の法を創造し、変更しうるという観念による。もっとも純粋な形は、官僚制支配。継続的な仕事は、主として官僚的な力によって行われるが、最高権力者は、君主(世襲カリスマ的支配)であるか、国民によって選ばれた大統領(カリスマ的ヘル(主人))であるか、議会団体によって選挙されるかである。

②伝統的支配
  昔から存在する秩序と支配権力の神聖性、を信じる信念に基づく。もっとも純粋な形は家父長制的支配。命令者の型は「主人」てあり、服従者は「臣民」であり、行政幹部は「しもべ」である。

③カリスマ的支配
  支配者の人(パーソン)と、この人のもつ天与の資質(カリスマ)、とりわけ呪術的能力・啓示や英雄性・精神や弁舌の力、とに対する情緒的帰依によって成立する。永遠に新たなるもの・非日常的なもの・未曾有なるものと、これらのものによって情緒的に魅了されることが、この場合、個人的帰依の源泉なのである。最も純粋な形は、予言者・軍事的英雄・偉大なデマゴーグの支配である。 専ら純粋に指導的個人に対して、かれの個人的・日常的資質の故に、服従が捧げられるのであって、彼の制定法上の地位や伝統的権威に基づいて服従がおこなわれるのではない。


 簡単に言うと、
①合法的支配とは、正当な手続きにより定められた法律により支配や権威の正当性が担保されるとするもの。
②伝統的支配とは、昔からある伝統や風俗や風習、家柄、身分によってしはいや権威の正当性が担保されるとするもの。
③カリスマ的支配とは、個人的資質(パーソナリティ)により大多数の大衆の心をとらえ、大衆的帰依による圧倒的支持と賛同を集めたカリスマ的為政者によって支配や権威の正当性を担保するものである。


 このうちカリスマ的支配というのが厄介なのである。
 アドルフ・ヒトラーや毛沢東などの事例を見ればわかるが、カリスマ的支配は理性ではなく、情的なものによる支配であり、心酔した大衆による熱狂的支持をもたらす危険がある。


(この文章の出所)2010年09月06日のブログ「なんだね マックス・ヴェーバーによる支配の3類型-「支配の社会学から」でした。筆者名前は確認できませんでしたが、今の安倍政権を考える上で大いなるヒントになったものですから掲載させてもらいました。





 











              
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by kuritaro5431 | 2015-01-17 17:45
2015年 01月 05日

「阿頼耶識」の再考

…… 私は2009年5月6日に、このブログでははじめて「阿頼耶識」について触れた。
 このブログではという前のテストアプローチは、経営コンサルタントファームJを退職する2年前・1996年頃のことだった。そのときの概念設計にかかわるものを述べたのが2009年5月2日のブログ「自立してゆくしかない時代」のものだった。それはよくも悪くもブルーカラーもホワイトカラーも会社や組織に頼らず自前で生きる術を身につけてくれという時代の要請であった。
 管理者も労働者も集団連携でわが社の売上を拡大する=昔の藩益の確保と似ている。そのために学習したのが「集団で生産性を上げるハウツウ」ばかり。それでよかった。その辺のことは「自立してゆくしかない時代」の前文に書いているので割愛するが、「個人としての主体性」「自己アイデンティティ」をもてということだった。言い換えれば「もともと自分の中にある他人が代行できない自己の根の発見」。それを「PI=Personalidentitityを確立して世のため人のために役立ち真の自己実現の喜びを」のチャートで表現した。
 PIコアとして「他人に代行できない自己の根源体・実存的身体と精神が、他者に向かって、さらに広い世界に向かって有機的に発展する自己発動的論理を内在し、そのモチベーションを持続しうるもの」「それは深層の蔵のなかにいる無意識の自分」。
 次のページの「CIとPIの統合」(CI=CorporateIdentity)のチャートは、自己と会社(組織)の関係を、双務的契約とし、会社側は「経営理念」「経営方針」「経営目標」「部門目標」と演繹的ブレークダウン。社員一人一人は「PIの確立により、自己の根を起点として、内発的モチベーションを持続し、原状を常に否定し、あるべき姿を求めイノベーションを通し、新しい価値を創造していく。そして自己実現と、会社の社会的役割まっとうのための集団活動と融合させる。自己の帰納的アプローチ。
 次のチャートの、「これからの[集団的ベクトル]のあり方」では、従来のように個人としての社員も、会社も、共通目標を売上とか利益にせず、「顧客・社会への役立ちとし、役立ちの大きさに比例してリターンがついてくる」とした。またこれからは「文明的価値」重視から「文化的価値」創造へのシフトおよび復帰。健全なバランスへ。
 次の4つ目のチャートは、3つ目のチャートを現実化した「個と組織の統合」で、当時の経営者から支持されたものだった。

 そこで2009年5月6日に、書いた「阿頼耶識・あらやしき」の記事については、読者の皆さんの関心を呼び常に記事ランキングの上位に載り、今も3位にランキングされている。
 それで筆者の私は、その後考えさせられることがいくつかでて、再考することも迫られ今回この記事を書くことにした。
 この2009年5月6日記事の肝は、2009年5月2日の特にNO1のチャートを前提とした実存感のある「五角形チャート概念的試考AとB」、Aを主としてBで補としたもの。

 ここで平成24年10月に唯識佛教で歴史的にも大きな意味を持つ奈良の興福寺貫首多川俊英僧に、私が直接手紙でお尋ねし、それにご丁寧なお返事を貫首からいただいた。多川俊英著の唯識の解説は多く書かれており、何冊かの本から私は唯識を学んでいた。
 いただいたご返事の全文をここに掲載させてもらいます。



冠省
 早速ながら、「唯識のいう『阿頼耶識』の働きで、弛緩しているかに見える日本人のこころを心底からモチベートできないものか」というご質問でございますが、それには、阿頼耶識という無意識を意識化することが必要でしょう。しかし、唯識佛教では、「不可知」ということになっており、阿頼耶識の内容(過去における自己の行動情報──これを種子しゆうじ、とか習気しゅうけ、といいます──のすべて)を直接把握することはできません。不可知のものを手がかりにモチベートすることはできないでしょう。
 唯識佛教では、たしかに阿頼耶識中の種子から現実の行為行動(これを現行げんこう、といいます)が生起すると考えるのですが、「待衆縁たいしゅえん(衆の縁を待つ)」といって、さまざまな縁の和合がなれけばなりません。つまり、こうしょうという意識の都合だけで、阿頼耶識を動かすことはできないわけです。
 フロイトの精神分析では、無意識(抑圧されたもの)を意識化することによって精神状況を改善するのですが、この無意識と唯識の阿頼耶識しは相異するわけです。

 唯識佛教では「阿頼耶識縁起」といって、すべては阿頼耶識から生起すると考えるのですが、同時に、自己を明日に向けてどのように展開していくか、ということについては意識の働きこそ重要だと考えます。
 日本人の昨今の弛緩は、戦後長く続いた平和と良好な経済状況、そうした状況下では、一般論ですが、ほしいものは大体手に入る。小生は昭和二十二年生まれですが、中高生のころの家での役割は風呂焚きでした。風呂に入るにも、それなりの時間と労力とが必要でしたが、今ではボタン一つです。生活のすべてが大体こうした状況になれば、心が弛緩するのは当たり前ではないでしょうか。例え僅かなことでも、人間、手間ヒマをかけて仕上げた時、心に充実感を憶えるわけで、そこからまた、こころを掻き立てるような衝動も出てくるのではないでしょうか。
右、お答えになってないかもわかりませんが、ご返事申しあげます。近年、段々秋が短くなって、冬支度の頃です。どうぞ、ご自愛下さい。 敬 具
                                                       興福寺貫首 多川 俊英
 平成二十四年十月三十一日

 福島 丞 様



 と、このようなご返事を高僧から直接いただけるとは思ってもいなかった。高弟からの返事でももらえたらと思って出した質問状。大学の同窓であったせいもしれない。
 お礼の手紙を差し上げた。そして生意気にもちょっとさらなる私の疑問を添えた。

☆は、ほぼ私の想定通り。 ★は、さらなる疑問と、時代に合わせた活用はないものか。

☆1、阿頼耶識の内容(過去における自己の行動情報──これを種子しゆうじ、とか習気しゅうけ、といいます──のすべて)
★2、阿頼耶識は、唯識佛教では、「不可知」(無意識の世界なので知ることはできない)ということになっており、不可知のものを手がかりにモチベートすることはできないでしょう。阿頼耶識という無意識を意識化することが必要でしょう。
☆3、たしかに阿頼耶識中の種子から現実の行為行動(これを現行げんこう、といいます)が生起すると考えるのですが、
★4、「待衆縁たいしゅえん(衆の縁を待つ)」といって、さまざまな縁の和合がなれけばなりません。つまり、こうしょうという意識の都合だけで、阿頼耶識を動かすことはできないわけです。

 上記の点が、私がNO1のチャートのように、☆1、のような何世代もの自分の過去から繋がった遺伝子と、重なって刹那の刺激を生まれてこの方受け続け、変化ししつづけている他人が代行できない無意識の「魂」というか「固有の命の根」というかが棲んでいる「蔵」。これを私は阿頼耶識と理解した。その蔵にある命の根から生起する「空」に似た紐は、意識もしない、見えもしない、しかし「自己固有の論理の紐となって、無意識世界から顕在世界に繋がっているもの」だから濁世においても掛け替えのない自分が命をかけて責任を持って生きている。善人は善人として、悪人は悪人して。だからぶれない。意固地だけれど。
 その生きざまのイマジネーションが「阿頼耶識」という概念として私を魅力づけた。決して唯識が先にあったわけではなかった。

 それと、阿頼耶識というものに含む霊性が、「怪奇・妖怪」であったり「艶本」「枕絵」「春画」であったり「狐・狸・蛇・河童などの動物信仰」をも容易に飲み込む寛容と実存感が己のモチベーションを掻き立てる──に繋がる気がしたもので───

 それと唯識とあるように、形而下的認識の人間の部位機能としての眼・耳・鼻・舌、触覚の五つの認識器官による五識。その上に、知覚・感情・思考・意思としての意識六識がある。
 多川貫首もいわれるように、一番人間の認識行為に影響が大きいのは、現実生活における五識受信形態の変化ではなかろうか。社会的環境変化、として人口の多い社会的下位層の文明的豊かさは、価値観の変化、唯識のいう「能変」(変化、回転、転換)に似てる大きな変化を起こした。文明的豊かさを創り出すために経済的豊かさを資本主義経済論理で促進する。その促進で一番コストがかかるのが人間の労働コスト。時間あたり賃金となり、何かにつけて労働時間をかけないこと、短くすることが生産性の尺度となった。それは西洋・特にアメリカ資本主義が目指し、日本が追っかけた幸せのモデルだった。

 いいたいのは、古代ローマでも征服していった国の風土に合わせ、キリスト教のありようも変えた歴史もある。同時に征服と奴隷の歴史もある。またユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教3兄弟で、譲れぬ宗教原理で血で血を洗う。彼らにとっては生活そのものだ。

 この10年20年でめざましく社会的変化が起きたのは、理屈で仕組みや機能を知らなくていい、操作が面白くいつでも誰とでも繋がれる、コミニケーションできる情報通信機器があっという間に世界に広がった。機器をツールとして今までになかった情報(六識の知覚・感情もひっくるめて)も、刹那の交信で創生か破壊かのリスクを抱え能変している。

 そうであれば、コラボレーションでるものがあれば教理・原理に囚われず試してみて改善効果がでれば、唯識とは別のカテゴリーのものとして体系化し、社会に貢献する手はないだろうか、ということでもあった。ただし薄っぺらなハウツウまがいのものはご免だ。マイノリティであろうが、長いスパンに絶えられる健全な働きのあるものとして。

 とはいえ、「自己存在の魂の蔵としての阿頼耶識は、無意識なので意識化しなければ能動的働きはできない」といわれたことにはシヨックだった。衒学的論理であるにせよ、ひょっとしたら効力を発するのではないかと大いに期待し、何人かから肯定的反応を得ていたからである。

 多川俊英高僧からいただいたご返事によると、意識化するためには「、「待衆縁たいしゅえん(衆の縁を待つ)」といって、さまざまな縁の和合がなれけばなりません」とある。
 初期の段階で阿頼耶識に関心を寄せていたとき、「縁」とはなにか、「縁起」とはなにか調べてはみたものの「待衆縁」を理解するにはいたらなかった。

 取っつきやすい大辞林でどういっているか、「縁」①人と人を結ぶ、人力を越えた不思議な力。巡り合わせ。②親子・夫婦・親戚などの間柄。③知り合いの間柄。交わり。縁故。④関係。つながり。⑤関係のできるきっかけ。⑥[佛教]結果を生ずるため間接的原因や条件→因。
 同じく大辞林での「縁起」①物ごとの吉兆の前兆。兆し。②社寺の起源・由来や霊体験言い伝え。③事物の起源や由来。④[佛教]因縁によってあらゆるものが生ずること。

 平凡社哲学事典では「縁」については述べられていないが、「縁起」について次のように述べられ、分かりやすい。
 「因縁生起」の略である。佛教においては、一切の存在はことごとく相対的依存の関係の上にあり、その関係性そのものを因縁といい、その関係作用を縁起という。その作用を定式化していえば、`これあるときにかれあり,これ生ずるときにかれ生じ,`これなきときにかれなく、`これ滅するときにかれ滅す、となる。それが縁起(あるいは縁生)の定式であって、さらに略して縁起というのであり、これが佛教のすべての根底をなしている。→因縁。とある。

 次に、岩波哲学・思想辞典をみると「縁起」について長々と原始仏教時代から、[近代の縁起解釈論争]まで各派によって幾多の変遷があったことが述べられている。
 「縁起」は、ばしめに、ゴータマ・ブッタの悟りの内容を表明すといわれる根本教理の一つ。その原意は「縁ょって生起すること」であり経験世界を構成する精神的・物質的な要素としの法(ダルマ)が、他の法に依存して生起をさすという道理をさす。と
 いかにすればひとは苦悩から解放されるかという人生の普遍的な回答という性格を持つ縁起は、【原始仏教】→【部派佛教】→【大乗仏教】という佛教思想史において特に重要視され、様々な解釈と議論をもたらした。と書かれている。
 【原始仏教】の時代に、六識(眼識から意識)も登場している。【部派佛教】では、業の因果説が私の関心を呼ぶ。【大乗仏教】では、初期の般若経をベースとした「空」。竜樹(ナーガールジュナところ)は、縁起を佛教の根本教理として重視した。ところがかれの縁起解釈は、縁起や因果を諸法の作用間の関係と見て、ここの法の本質を認めた説一切有部の解釈と鋭く対立していた。
 このように般若経をべースとした縁起説が、必ずしも普遍のものではなかった、ともいえる。でも、今日では、玄奘漢訳の般若心経が、親鸞の創設した浄土真宗以外すべてで、唱えられている。
 瑜伽行派(ゆがきは)は、アサンガ(無著)以降、すべて<識>のみであるという唯識説を定着させ、主観と客観を誤って分別する識(=心)のもつ基本的な性質を依他起性(えたきしょう)───筆者注・意識に頼らなければのところ───すなわち他に依存する性質と呼んだ。これは「縁起する性質」言い換えた術語に他ならない。また<識>は、潜在的アーラヤ識(阿頼耶識).自我意識としてのマナス(末那識).それに眼識から意識までの顕在的な六識として転変すると説かれるが、この場合変転をあらしめている<識>の性質が依他起性.つまり縁起という性質である。アーラヤ識と、マナスおよび六識とが相互に因となり果となって転変することは、後に「阿頼耶識縁起」と呼ばれる。

 このように瑜伽行派の唱える唯識佛教においても、歴史的変遷の中において確たる普遍性があったとは思えない節がある。一神教が絶対神であるのに対し、相対的な多神教の佛教において、日本において、ばしめに、ゴータマ・ブッタの悟りの内容を表明すといわれる「根本教理の一つ」とみなされているところにもうなずける。

 私は、「他人が代行できない自分。その根源が<根>が、無意識世界の己の魂の「蔵=阿頼耶識」に棲んでいる。無意識の記憶装置のかで───意識はなんら関与することはないに、命の、魂の根源が刹那の刺激を<識>を通して変化し続けている。

 まだまだ書きたいこと、調べ不足のことが山ほどある。愛用している権威ある岩波の「佛教辞典」に載っていることとの関連はあまりにもくどくなりすぎるで書けなかった。

 それにしても、私がたてた仮説の希望は、一個の生命体としての己が「死ぬまで形而下的世界で生きるために」こころ・身体、肉体、を上げてあらゆる識の感度を磨き、阿頼耶識→末那識→意識→五識・五感を根こそぎつなぎ、生きること。八識のつながりは生態的であり、うねる螺旋のような昇華へのベクトルをもっているはずと思いづけている。


















               
 
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by kuritaro5431 | 2015-01-05 18:38