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2014年 09月 14日

2014年の「仲秋の名月」

 あえてこの記事は、前回の記事後にした。

 中秋とは、秋の真ん中、旧暦の7月から9月の真ん中の日。旧暦の月と日と時間が緩やかに流れていたころの日本。

◯NHKラジオが「月にちなんだ歌謡曲」を、東山に月が昇りはじめた頃はじまり、頭上近くに登ったとき、4曲は終わった。今年は晴れ間の夜空に「中秋の月」が浮かぶ。

 最初の曲が、東京児童合唱団による 文部省唱歌 童謡「うさぎ」 

  うさぎ うさぎ
  なにみてはねる
  じゅうごやおつきさん
  みてはねる

  (繰り返す、一番のみ)

 昇ってきた月は、輪郭が際立ってハッキリしている。流れながら形も変える雲をクラウドいい、それに対比して月をデジタルといった人がいた。
 なのに月の紋様はあまりにも曖昧であるがゆえに美しい。国によってたとえが違うという。
 なぜ日本人にはうさぎに見えるのか。作詞者も作曲者も不詳。だからいつ頃から唄われたものかも分からない。


 うさぎ うさぎ
 なにみてはねる

 は、幼い妹が姉に問うフレーズで

 じゅうごやおつきさん
 みてはねる

 は、姉が妹に答えるフレーズだともとれる。 


 二番目の曲は、田端義夫の唄った「大利根月夜」
 作詞 藤田まさと 作曲永津義正 昭和14年発売。大東亜戦争勃発四年前、私七歳。

  
  あれをご覧と 指さす方(かた)に
  利根の流を ながれ月
  昔笑うて ながめた月も
  今日は 今日は涙の顔でみる

  愚痴じゃなけれど よがよであれば
  殿のまねきの 月見酒
  男平手ともてはやされて
  今じゃ 今じゃ浮き世の三度笠

  もとを断たせば侍育ち
  腕は自慢の千葉仕込み
  なにが不足で大利根ぐらし
  故郷(くに)じゃ 故郷じゃ妹が待つものを

 平手造酒(ひらてみき)は、親分笹川繁蔵と知り合い、天保5年(1844年)8月6日、飯岡助五郎との大利根河原の決闘に笹川方の助っ人として参加し闘死した。享年30歳、争闘は笹川方優位に決し、笹川方で死んだのは平手造酒一人と伝わる。
 天保のアウトサイダーといえよう。


 この2曲唄われたころの日本人は、人生50年といわれ、嬰児・幼児が疫病で多く亡くなり、多産な家は子を間引き、人は老いると姥捨て山に自ら入った。

 
 現代人は昔に比べて30歳以上も長生きするようになった。昔の日本人になかった認知症、糖尿病、癌、難治性疾患(神経変性疾患・難治性眼疾患・貧血性疾患)。さらに、神経変性疾患のうち認知症・失調症・運動障害としてのアルツハイマー病・パーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症・ポリクルタミン病、プリオン病等における脳の記憶装置海馬、運動機能を司る小脳の萎縮などなど体内臓器がだすホルモン(悪さをするタンパク質)の死細胞の蓄積。それによる脳細胞の破壊で早かれ遅かれ死ぬとはいえ、それらの病が途方もなく増えた。その間の本人の苦痛、家族、医療機関にかける負担。高齢化人口増加による福祉および医療費国家予算の増加。どこの国も先進国からそうなって行く運命。

 ほとんどが、50歳を越えて現れる老化からくるものといっていいそうだ。医師は本人が、また親族が延命治療を望むのに尊厳死を選べば殺人罪で告訴される。
 財務省は在宅での介護と看取りをと、厚労省は高齢者医療・より高度な医療への促進・混合診療・薬事法の改正、特定指定大学病院等での生命科学・難病治療研究促進、市町村・地域医療センター・中型病院・開業医(医師会)は、とそれそれが権益を守っているかに見える。


 同じくこのラジオ番組で唄われた曲は、いずれも日本敗戦後の曲で、一つは、1955年(昭和30年)菅原津津子の唄った 「月がとっても青いから」 作詞 清水みのる 作曲 陸奥明 だった。

   月がとっても青いから
   遠まわりして帰ろう
   あの鈴懸(すずかけ)の並木路(なみきじ)は
   想い出の小径(こみち)よ
   腕をやさしく組み合って
   二人っきりで サ帰ろう

   月の雫(しずく)に濡れながら
   遠まわりして帰ろう
   ふと行きずりに知り合った
   想い出のこの径(みち)
   夢をいとしく抱きしめて
   二人っきりで サ帰ろう

   月もあんなにうるむから
   遠まわりして帰ろう
   もう今日かぎり逢えぬとも
   想い出は捨てずに
   君と誓った並木みち
   二人っきりで サ帰ろう

 昭和30年といえば、私は3回生。戦後の影をまだ引きづっていた。神武景気がはじまる前とはいえ、まだ就職難だった。でも国民誰もが明るい未来を期待し、疑わなかった。そんな明るい歌だった。それからというものは、急斜面をアクセルいっぱいで登るような高度経済成長期に入り、衣も、食も、どんどん洋風化し、これに比例して国民の寿命はどんどん伸びた。そしてそれを祝った。


 二つ目の曲は、1948年生まれ(昭和23年生まれ=丸っきりの団塊の世代)のフォークソング・ニューミュージックの井上陽水が「月の沙漠」を唄う。「月の沙漠」は、大正から昭和初期に叙情的挿絵画家加藤まさをが「少女倶楽部」に1923年(大正12年)発表した詩と挿絵からなる作品。だから人生50年とした世代から、当時の若者までみんな知っている歌詞だった。

  1 月の沙漠を はるばると 旅の駱駝(らくだ)が 行(ゆ)きました
    金と銀との 鞍(くら)置(お)いて 二つならんで 行きました

  2 金の鞍には 銀の甕(かめ) 銀の鞍には 金の甕
    二つの甕は それぞれに 紐(ひも)で結(むす)んで ありました

  3 先の鞍には 王子(おうじ)さま 後の鞍には お姫(ひめ)さま
    乗った二人(ふたり)は おそろいの 白い上着(うわぎ)を 着(き)てました

  4 広(ひろ)い沙漠を ひとすじに 二人はどこへ 行くのでしょう
    朧(おぼろ)にけぶる 月の夜(よ)を 対(つい)の駱駝は とぼとぼと

  
    砂丘(さきゅう)を 越(こ)えて 行きました

    黙(だま)って 越えて 行きました

  
  この誰もが知ってる歌詞とメロディを、世代の記憶を越えて日本の高度成長を支えた団塊の世代の井上陽水が唄う。井上陽水の世界で唄う。湿っぽい日本人の好む叙情を反省したり、これから来る物質文明に危惧を感じたりする感性が、ちよっとアナーキーであったりニヒリックであったりする。


◯どこのテレビチャンネルだったか忘れたが「今年の中国で[中秋の名月]に送る習慣の、〘月餅〙に異変が起きているとの報道。

☆中国共産党幹部に[中秋の名月]に〘月餅〙を贈るのがいつしか習慣化した。テレビには二重底になった下の段に札束がぎっしりの映像。中国共産党幹部への汚職を根絶する習近平の強い意志の現れと。各流通の店舗から今年は〘月餅〙の姿が消えた。それに変わる代替の商品が異様に並ぶ。

◯もうひとつ、これもどこのテレビチャンネルだったか忘れたが「中国残留孤児が日本国内で集まって、日本人でありなから日本語が話せない。念願かなって日本に帰ってきたものの、日本語の話せない日本人を雇ってくれるところはどこにもない、と。ほとんどは4歳ぐらいな時に満州(今の中国東北部)で帰国途中に親とはぐれ、親切な中国人に助けられそれ以後中国語習慣のなかで育てられた」

☆その孤児たちが、まずまず日本語をマスターした他の帰国孤児から日本語を習っている。そんな教室で集まるもう高齢の中国残留孤児たちは、中国語で話せる仲間との出会いにストレスから解放され、中国での幾年を懐かしく偲ぶ。日本語をマスターした帰国孤児の人数は少ない。日本人でありながら今の中国にまた帰って行った人たちも多くいると、話す。

☆その人たちにとって〘月餅〙は、中国語生活において切っても切れない思い出だと語る。

 人間は生まれDNAか、育ちか。
 



















                 
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by kuritaro5431 | 2014-09-14 19:23
2014年 09月 10日

ポーランド・リアリズム「イーダ」

 関西は遅れての上映だった。

 極限をさらに越えた修羅のリアリズム。
 この記事では、昭和34年(1959年8月号)の月刊誌『映画芸術』の「特集・[灰とダイヤモンド]とポーランド映画」を古い書棚から引っ張りだして、今回上映の「イーダ」の感想と、映画館で売られていた「イーダ」のパンフレットの内容を比較してみることにした。
 映画好きの読者の方なら「イーダ」の映画批評は、私の読まなかった記事も読まれていよう。
 しかし、ポーランド映画が矢継ぎ早に日本で公開された1959年前後の日本の社会情勢と、観客の意識、感じ方。特に私のような[戦後第一世代=昭和一桁後半](以前に書いたこのブログでもそう書いたが、私が団塊の世代と区別する<族>とした世代のこと)は、敏感になにかを感じていた。
 恐らく古書店でも滅多に出会えない『映画芸術』。残念ながら私のてもとにも、A・ワイダの『地下水道』も、カワレロヴィッチ、や、ムンクらの『影』、『夜行列車』などあの魂を振るわせた映画が載った資料はみあたらない。
 昭和34年8月といえば、立命館大学・映画研究部のクラブをでて、まともな就職先もなく、今でいうニートそのもので、洋画の配給会社「東和映画」の観客動員係などやって糊口を凌いでいた時期だ。


 ポーランド人は、ひどい不幸な歴史を持ち、現在も深い苦悩を持ち続けている国民である。
 ポーランドは過去に3回もいわれれのない国土分割を経験している。たまたま、ロシア、オーストリア、プロシアといった当時の強国を隣国をもったがために、理由のない亡国の悲しみを味わった。
 第二次大戦では、旧ソ連(のスターリン)とドイツ(のナチス・ヒトラー)に、国土の全部を分割され、ナチス治下では身の毛のよだつ殺人工場オシヴェンチム(アウシュビッツ)の悲劇に遭っている。首都ワルシャワでは罪のない女や子供が犬コロのように殺された。血の気の多いポーランド人は、ナチスに抵抗した。その抵抗はますます残虐なナチスの報復となって跳ね返った。
 ポーランド赤軍の進撃を頼みに死に物狂いで行った「ワルシャワ蜂起」さえも、ポーランド生まれの赤軍元帥ロコソフスキーに見殺しにされた。ヴィスワ河の東岸まで進出しながら「渡河材料がない」との理由で河を渡らなかったロコソフスキー元帥に、ワルシャワ市民はいまも「裏切られた怒り」をもち続けている。(「地下水道」)
 解放後にできた社会主義政権は、戦争前のビルスズキ政権同様の恐怖政治となった。重工業偏重の経済政策を維持するため、政治警察はゲシュタボそこのけのスパイ網を巡らせ、市民は立ち話も自由にできない状態だった。
 その後、ゴムルカ政権復帰以降、国内に久しぶりの自由化が訪れたが、ワルシャワをはじめとする都市や農村はひどい戦災から回復し切れず、消費生活は東欧でも最低。
 悲惨な過去と現在(当時の)をもつポーランド人は権力が信じられず、また、戦時中下の一時期は、ナチスを叩いたソ連(スターリン)に荷担し、無実のイスラエル人にゲシュタボ並の摘発処刑に手を染めた者もいて(「イーダ」のヴァンダ)、自らをも信じられない自己疎外(今はほとんど使われなくなったが、昭和34年頃の若者がよく使った言葉)を起こしていた。人間の善意も自己存在にも疑問をもった青年が多くいた(「灰とダイヤモンド」のマチック)。
 当時、遠い日本から見れば、希望に満ちているような社会主義ポーランドの青年は、実は恐ろしいまでの不信と虚無感のなかで悩んでいた。ところがこの不信と虚無は、一面熱狂的愛国主義と、これまた恐ろしいまでの自我意識をももっていた。そのあたりは、当時も2014年の現在においても日本人、いや日本の青年は理解しがたい側面ではなかろうか。友邦(今でいう同盟国)であるはずのソ連にさえ屈服しない土性骨をもち、それは疑いもない強烈な自我意識の発露(まだアイデンティティという言葉が生まれていない?頃、 皮肉にもアイデンティティという概念を生んだ心理学者エリク・H・エリクソンは、母ルーマニア人?と、不倫相手のユダヤ人医師との間に生まれた人、後迫害を受けアメリカに移住・これはブログ筆者注)であったと、当時の「映画芸術」の「灰とダイヤモンド」の批評に書かれている。


 話は変わるが同じ「映画芸術」の号のなかで興味深い記事があった。タイトルは「ネオ・リアリズムからポーリッシュ・リアリズへ」で、映画批評家?の林六郎さんが書いている。

 映画好きの読者の皆さんならご存じのことと思うが、この流れは現在においてもいろいろな示唆を含んでいるので記事の文脈と、私の古今の思いをランダムに重ねてみたい。
 ネオ・リアリズムとイタリアン・リアリズムは同一カテゴリーの映画作法といっていい。第二次大戦後のイタリアの社会的断面を、ドキューメンタリー映像で撮り、監督の判断を持ち込まず編集しょうとした(ロッセリーニの唱えた中心のない構図)群であった。監督は、ロッセリーニやデシーカ。作品は「無防備都市」「戦火のかなた」「自転車泥棒」「靴みがき」「平和に生きる」などで、アセチレンの火影でイカの丸焼きをむさぼり食ったわれわれ敗戦国・日本人に強烈な揺さぶりとぬくもりを与えた。映画芸術がトンネルをくぐり抜けたことを明らかにした。
 ロッセリーニの「無防備都市」をアメリカで観たイングリット・バーグマンは、夫と娘をほっぽり出してイタリアに飛び、ロッセリーニに結婚を迫り一緒になった。ロッセリーニがバーグマンを使って撮った作品は周知の通り。男と女のなかにおおらかなアメリカ・ハリウッドでさえ、バーグマンのハリウッドでの仕事は長らく許さなかった。敗戦国イタリアの、戦勝国アメリカの映画人はともに燃え、敗戦国の日本人も平和への夜明けをこの流れに託そうとした。
 その流のつい隣り合わせに芸術論としての「社会主義リアリズム」があった。ネオ・リアリズムとイタリアン・リアリズムと社会主義リアリズムの、この3つをセットで捉える<族>と、ネオ・リアリズムとイタリアン・リアリズムを映画芸術論の1つと捉える<族>に別れた。私は、前者の<族>として映画研究部の1回生から3回生まで「社会主義リアリアリズム」に傾倒していた。部内でも2派に別れた。2回生から私に賛同する後輩も現れた。後者は、京都生まれ、京都育ちの部員が多く、大阪組も含めて都会育ちで高校時代から映画クラブに在籍し、映画鑑賞本数も地方出の部員とは圧倒的に異なっていた。特に、フランスの監督ジュリアン・デュヴィヴィエに傾倒していたような記憶がある。
 京都の大学の映画研究部間での交流も時々あったが、社会主義リアリズム論を機関紙に書いたり、議論の対象にしていたのは京大映画部と、わが立命館大映画部だけで、同志社大の映画部も、西京大(現京都府立大)の映画部も取り上げてはいなかった。同年の京大に大島渚がいたが、映画部には在籍していなかった。

 ところで、イタリアン・リアリズムの源流は、思想的にも技法的にも、1925年(大正14年)エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」にあるという意見もある。思想的には帝政ロシアの末期にロシア革命の火付けとなった戦艦ポチョムキン内の水兵の反乱と上官の弾圧を描いたサイレント映画。
 とはいえ、この映画の圧倒的評価は、「エイゼンシュテインのモンタージュ論」であった。異なった映像のカットとカットの衝突。音と映像の衝突。異なった映像の組み合わせでの意味表現(嘘かほんとか知らないがエイゼンシュテインは日本の俳句を研究していたとか。それで「柿の木に一つ残った柿の実」のカット。「烏が飛んできて柿の実を啄む」のカット。「烏が飛んでゆき、柿の木の実がなくなった」のカット。これで五・七・五の俳句と同じように「秋」という意味表現)。長さの違うシーンの動きで、追われる者と、追う者のフラッシュバックで、追われる者の切迫感表現。(これは活動写真の原型ともいわれる西部劇に使われるようになった)など。
 ところがイタリアン・リアリズムの特徴のドキュメンタリーリズム(例えば中心のない構図とか)とはまったく正反対の極端にシンボリックな映像、クローズアップが目立つ。
 私は当時、モンタージュ論は、まさに「マルクス弁証法」であり、後のソ連で形成された「ドラマツルギー論」「スタニラフスキー論」に繋がっていると思うことにした。
 
 コミュニズム(共産党)=スターリン主義を否定して、マルクス主義のエキスとしての「マルクス弁証法」のみ、たまたま私と相性のいい論理的ツールとしての「私流の弁証法五段階」(論理学として成立しなくていい。目的は成果=OUTPUTがだせればいい)。として、試行錯誤して「長い五月病からやっと抜け出したことに役立った」(五月病というのは、学生時代のその人間の志向性と、社会人になってからの志向性のギャップが、4月入社で五月に現れる病気のこと)(ギャップ要因 例えば権力・支配への嫌悪。順応要請・強要の拒否。自己主体の放棄。同期入社の者は要領よく転換・転向しているができない自分のリアリティのなさ、などなど)

 「私流の弁証法五段階・論理」を私流にこね回して使い込んだ「問題解決法」。原理はJコンサルファームで学んだものだが、なんとこの半年そのままの表題の本が続々出ていることに驚いている。私の目に触れた本のすべてが「問題とは、あるべき姿とのギャップ」と書いている。「問題を問題と気づかないことが一番の問題」と。
 話がこの記事のテーマからずれてきたので元に戻そう。


 ネオ・リアリズムおよびイタリアン・リアリズムは、その後「焼け跡リアリズム」として終焉した。と筆者林六郎さんは書いている。
 その記事のなかで「ある人は、イタリアン・リアリズムが<地方主義>に転化され新しい花を咲かせたからという。<地方主義>というものの実体はが僕にはよく分からないので論じようがないが、イタリアン・リアリズムはロッセリーニが行き詰まった地点で、その輝きは消えたみたい。(<地方主義>というところが今の安倍政権と妙にダブって気になるが。ブログ筆者)
 更にづづ゜き、イタリアの作家たちはファッシズムと戦う民衆の荒々しいエネルギーをそのまま映画に持ちこんでみたものの、解放後にくるマッカーシー旋風の暗い日を予見していなかった。いや身構えはしたものの対決するエネルギーを失っていた。

 当時サルトルが興味あることを当時警告している。「フランスの文化人にとって最大の関心事はコミュニズムである」といっている。フランスと並び最大の共産主義者を抱え、しかも一方の腕でカトリシズムという正反対のものをもたされている。ネオ・リアリズムはこの現実を避けて通るわけにはゆくまいと。
 本来、イタリアン・リアリズムは、社会主義リアリズムへの道へ繋がるべき宿命をもって生まれたのではなかったのか。ファツシズムとの戦いで組織された民衆の力は、少なくとも画面では解放とともに消え去っている。戦後の新しい社会でのカトリック、社会主義、資本主義の日常的対立───その歴史のなかで戦った民衆を描かない限りイタリアン・リアリズムの発展はなかったのではないか。
 確かに在来のリアリズムが行き止まりにきた映画芸術にとって、社会主義リアリズムは一つの新しい出口であったに違いない。フランス映画は「恋人たち」「二十四時間の情事」といった作品に象徴されるような〈人間の意識の流れ〉を捉えて出口に立とうと試みた。
 社会主義リアリズムが大衆から見放された最大の原因は、依然として教条主義に拘ったソ連映画のくだらなさなに起因していた。アウトサイダーは、資本主義国、社会主義国を問わず、今後量産される社会のシミ化していくだろう。今日の人間不信と孤立化はここからはじまる。
 ポーランド映画とソ連映画の本質的差は、制度と人間、集団と個人の対立からくる歪みを描く勇気があるかないかの一点にあると思われる。
 ポーランド映画の特徴は、ドクトル・ジバコが追求した自己疎外の一点にあるのだろう。なるほど映し出された世界「影」「地下水道」「灰とダイヤモンド」は戦時中か、戦後の混乱期が背景になっているが、作家の今日的観点から捉えられていることは、組織と個人の違和感がそこから出発して当時の現在(2014年の現在にもブログ筆者注)に拡大されていたことを暗示している。

 今回の記事の終わりとして「灰とダイヤモンド」の監督A・ワイダと映画評論家大島辰夫氏との一問一答のなかからキーワードを拾い終わりとする。
 (大島氏のまえがきから)
★カオスとしての史的状況のなかで、愛と死の戯れを演じ、罪と罰の問題を投げかける「若い世代の人間像」。
★カワレロウイッチの「影」、アウシュウイッツの囚人音楽隊による死の舞踏への永劫回帰を自ら断つこと「戦争の真の終わり」。それはまさしくポーランド人の歴史的悲願であり、その映像(イマージュ)と映画的形象づけ(イマジナシオン)を追求した。
★鋭い視覚を今日の現実のなかにすえ、アクチュアルな状況のなかに視覚を働かせている。つまり、彼らが自らに課した映画の文法と言語は、彼らの執拗なまでの現実としての「実存的人間」に向けられていた。
★スタイル(文体)、文脈は明らかに異なる。ワイダは具体化、カワレロウイッチは非具象化あるいは抽象化、両者とも教条化した社会主義リアリズムを越えて、一方はシュールリアリズム、他方はアンフォルメル(抽象絵画)との触発的造形の達成。このアバンギャルド精神のなかに、ネオ・リアリズムとの発展的呼応があるとすれば、その間の機微をとらえ、いわばポーランドのネオ・リアリズムにおけるイデオロジカル・ロマンチシズムあるいは、革命的契機を探りだしうるであろう。
 (A・ワイダとの「灰とダイヤモンド」についての一問一答)
★問、「灰とダイヤモンド」は、あなたにとって歴史を扱った映画ですか、それとも今日の問題を捉えたえいがですか。
☆答、観客は映画のなかに表わされた問題に、いつだって今日性をもった問題を見るのだから。
★問、原作に含まれた問題で、特にこの映画で浮き彫りにした問題はなんですか。
☆答、マチックという人物のなかの2つの法則。1つは、人を殺すことがなんでもなかった戦争の法則。2つ目は、平和の法則、つまり戦争最後の日々、同時に平和の最初の日。
★問、つぎのプランは?
☆答、撮りたいテーマは幾つもあり収拾つかないありさま。その1つは、離ればなれでは生きられないし、とはいえ一緒に生活することができない二人の話、つまり恋愛映画。2つ目のテーマは、ずーと前からぼくを悩まし、またぼくの生涯で最大の野心でもある一つのアイデアを実現すること、それはクトノ(ワルシャワ西方の要地)の防衛者たちを扱った、美しいが、しかし愚劣な過去の伝統についての話。どちらもまだシナリオはできてないが、映画に脚色できる文学上のテクストはある。




 










            
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by kuritaro5431 | 2014-09-10 08:31
2014年 09月 06日

はじめての「詩」・習作


  憂鬱


  無題 1

 人のこころは捉えられるものではない
 自分の心の様も捉えがたきものなのに
 幸せが秋空の晴れ間のように現れては消えてゆく
 なにを幸せというのか

 風邪の熱に浮かされて
 枕元に魴鮄が打ち上げられる
 ウミノピリン フェナセチンが大脳中枢を鈍らせる

 魴鮄が赤紫色の鰭を動かし寝床に侵入する



  無題 2

 悲しみという風が吹いてきて
 M子という小さなヨットの帆をはった
 タンポポの咲く春の此岸から
 ツンドラの冬の孤島へとヨットは走る

 行く先はどこでもいい
 ただ遠いところに流されればいのと
 M子はいう



  メランコリー

 梅雨の前の梅雨
 雨樋を伝う雨の音
 五月の末にしては暑くない宵

 雨の音は春が終わる音
 夏のはじまりの音

 今夜は思い出したようにしか鳴かぬ泥蛙



  白い太った猫

 老いた雌猫
 犬の鎖に繋がれている猫
 その猫の鎖を黒革の手袋が引く
 しとやかな中年の貴婦人
 猫の耳は傷だらけ
 鮮血がしたたっている
 気力のない猫の目

  

  乳白色のガス

 比叡山は濃霧
 一面が乳白色の海だ
 霧がどんどん俺を宙に浮かせる
 
 意識も
 理性も
 合理性も

 そしてあらゆるものを諸行無常の霧に包む

 大地に踏まえようとする己の観念を
 輪郭のない気体が足を払う

 霧は今の俺にとっては敵だ
 霧の世界なんぞに
 ロマンなんぞありえない
 嘘だ
 偽物だ

 霧のなかに佇んでいる自分を思うと
 高調で焼かれたモノクロ写真が恋しくなる



  独身最後の年・29歳。長すぎた「五月病から抜けきれない」時期。
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by kuritaro5431 | 2014-09-06 11:44