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2014年 07月 29日

いろいろあった「フェティシズム」論 (4)

 前号から体調を崩し1ケ月以上もあきました。

 私の日本史への関心は、「日本刀の誕生から、太平洋戦争での軍刀までの鋼と作刀、および古代から日本刀にまつわる伝説と民話」と「縄文→弥生に生きたサンカ・蝦夷、エミシといえば外せない坂上田村麻呂、奈良時代から平安遷都にまたがる人物」と「阿頼耶識→唯識佛教=興福寺。興福寺といえば開祖道昭の『日本霊異記』、藤原一族(藤原鎌足、藤原不比等ほか)に支えられ強大な勢力に」この3つが核となって興味は拡大したものだった。

 その背後にあるものは、私の思考をずっと迷わせてきたものだった。日本人が原始共同体社会の古代から「情を、なにもかものペースにして[連帯]してきた生き方。そこには、時代時代の為政者の統治に虐げられた弱者や、社会からはじきだされたのけ者にもやさしい[絆社会]があった。それは大正から昭和初期の、関東大震災から満州事変へと時代が大きくカーブして、特高が拷問の弾圧をやっていったときでも、心優しく美しい抒情歌が日本人の心を捉え、歌謡曲も古賀メロデーを中心としたよなぬき演歌も戦前の一時期を風靡した。
 そして太平洋戦争が終わってしばらくつづいたアメリカの占領時代にも、左翼が台頭し、A級戦犯の岸首相によって安保条約が通過したあのときにも、「こころやさしい絆のこころは地下水のように、尾てい骨のように残っていた」。それが湧き水のように現れたのが、朝鮮戦争を機の好景気に東北地方の幼年労働者の大量調達。それは結果「故郷との連帯の切断となり」「ああ上野駅」に象徴されるところとなった。それでも彼らは、集団就職した会社を「絆社会の連帯の場として」生きようとした。
 それからしばらくの高度経済成長による物質文明に酔いしれた日本人。そして1992年頃バブル景気崩壊。そのときまでそうなると誰も予測できなかった人間欲望の性。バブル崩壊後の平成6年4月-1994年経済企画庁国民生活局は、日本国民に向けて「個の実現を支える新たな絆を求めて」という冊子を発行した。(このことは以前このブロクに書いた)。「新たな絆」という言葉には、当時の為政者のトリックが隠されている。どうしても「絆」という一字を入れておく必要性は痛いほど分かる。「絆」を持ち出しながら、まったく共同体社会における「連帯とはまったく違う」「個」=「自我の尊重」。「個」を主体とする新しい人間関係=これが日本国民に求めた「新しい絆」ということだったのである。その本質は古くから日本人がもっていた「絆」意識とは正反対のものだった。
 その頃、イギリスにおいてサッチャー首相が、後に新自由主義といわれる「頑張る者は報われる」という経済政策を打ち出し、GNPリーティング企業および富裕層の機関投資家も含め、儲けるために頑張る人たちは報われて当たり前、という市場自由競争主義が正当化されるようになり、雇用者においても稼ぎのよくない・生産性のよくない社員は報われなくて当たり前となり、日本の自由民主党は党の綱領にこれ掲げた。バブル崩壊後の日本の上場企業にはこの路線を導入し、「成果主義人事制度」年功序列・終身雇用・労使協調を廃止しこれに切り替えた。切り替えた理由はそんな本音丸出しでなく、「絆の日本的心は大切にして」というレトリックを使われるもやがで本音は露呈した。
 そしてバブル崩壊後の中高年のリストラの苦難の時代がき、やがてデフレ恒常の20年となった。話は聞いているが体験していない世代は、実感することはできないことが判明した現代。

 そこで当時私はどうあるべきか苦悶し模索したのが2009.5.2の「自立してゆくしかない時代」に添付したチャート「これからの集団的ベクトルのあり方」からはじまり→所属する企業のコーポレートアイデンティテイを確認・選択し、自己アイデンティティ(パーソナルアイデンティテイ)を確立した己と協働するという「CIとPIの統合概念」のチャート、これはロジカルに構造化する前の概念。→それをロジカルに企業内で実現するための実務化のロジックチャートが「個と組織の統合」であった。
 己にとってなすべきことは、選択した企業と主体的協働を実行するための《自己スキルおよび成果実現能力》。そのための条件として己の命の根源・コアと生態的につながった自己モチベーションの持続的循環的達成快感構造の確立、その根源に〈唯識の阿頼耶識〉をもってこれないかの模索)=前掲の奈良の興福寺であり薬師寺→南都六宗の謎も含め〉→そして2009.5.6の「阿頼耶識 あらやしき」に添付した「唯識佛教の心の構造」のチャート。その次のページにつづく「連帯と個の概念的試行」の2種のチャート。これは当時私がイメージしたバランスを取るべき五角形の概念領域と、その領域に内包する理性的認識・知覚的認識・肉体的感受で、このバランスこそ大事と考えた。これらの概念に魅せられた最大の理由は、その前ページに書いた「自己根源体は、魂が住む蔵のようなもので、蔵は外界と繋がる小さな出入り口から一日8万回もの情報=刺激を刹那にに受け、根源体は流転し、正=善のモチベーションや、負=今のままでいいという諦観と怠惰のいずれが蓄積するはず、という考え方だった。
 阿頼耶識とは無意識の心のエリアなので、意識化しないとモチペーションには使えないと、現・興福寺の貫首多川俊英僧からお返事をいただいたが、当時私は生意気にも、西欧の一神教でも教理を時代と、遠征先の民族・歴史・政治・生活習慣などの環境にどう馴染ませるか使い分けた史実もあり、使える可能性があるなら古代の教理をトランスファして使えないものかと失礼なことをいった記憶がある。
 そのとき僧は、「阿頼耶識をもってモチベーションするためには、無意識世界の阿頼耶識を意識化しなければならない。そのために唯識佛教では「阿頼耶識縁起」といって、すべては阿頼耶識から生起すると考えるのだが、同時に、自己を明日に向けてどのように展開していくか、ということについては意識の働きこそ重要だと考えます」といわれた。
 そこで「阿頼耶識縁起」を岩波佛教辞典で調べてみると、「唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとする唯心論哲学を説いている。それは主として迷いの世界についていうのであるが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識か、汚れた妄識であるかという論争が生じることになった」とある。
 さらに同辞典で「縁起」を調べてみると、「佛教の中心思想で、一切のもの(精神的働きを含む)は、種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生じるという考えを現す。〈因縁〉〈因果〉と同趣旨」とある。さらに初期佛教時代の縁起説から、時代と共にその説は変遷している。仏教思想発展の各段階を通じて、世界観・人間観を示すもっとも重要な教説であるが、もともと原因や条件を追求説明しょうとする姿勢から生まれたものであったため様々な語義が生じ転用された」と。平安末期頃からは次第に霊験利益譚中心に移行したとある。

 さらにヘーゲル(1770~1831)が「歴史哲学講義」のなかで「東洋的世界原理は、共同体精神が権威として現れることにある。個人のきままな振る舞いは、東洋においては権威のもとに抑制される。共同の概念は法律の形にあらわれる。しかし、主観の意志にとって法律は外からの支配をふるう権力であって、心情、良心、形式的自由といった内面的なものすべてが今だ存在しない。
 近代は紛れもなく西欧中心主義である。歴史も哲学も、中心がどんどん西に移動した。ギリシャ、ローマ、パリ、ロンドン、ベルリン。しかしなにものも無から生まれない。歴史でもご同様。ギリシャの先はペルシャであり、その先はインド、そしてどん詰まりがシナと考えられていた。
 しかし、現実の文明史は、ペルシャ・エジブトから始まって、東西に分化し、イギリスからアメリカへという西回り路と、シナから日本へという東まわり路が交わって、世界が一つになった。
 西欧にとって東洋は遠い。そのどん詰まりはさらに遠い。シナの歴史、東洋的世界、アジア的共同体は、個人が完全に共同体に埋没した世界、非主体的世界である、という通念が成立した。日本人が抱いているアジア的性格などは、西欧近代が植え付けた産物ではないか、と疑ってみる理由はある。
 ヘーゲルは、シナとともに歴史が始まる。歴史が伝えるところ、シナは最古の国家である。その国家原理が共同体であり、共同体と主体が無差別に融合している世界だという。詰まり、ヘーゲルは、シナをいまだ人間の自我意識が発生しない無意識の世界、動物と陸続きの世界だといっているのだ。そして案外、シナ=日本=アジア的のヘーゲルの定義を私たちは心地よく感じているのかも知れない。
 ※ヘーゲル哲学の特徴は「歴史」と「現実」をあつみをもって語られているところにある。いうまでもなくマルクスの歴史観や現実意識の大半は、ヘーゲルから得たといっていい。
(注)このヘーゲル説は、このブログの2013.1.17の「ペンデイングタグがあまにも溜まったもので (2)」のなかほどに、「東洋的無という概念の出所は近代西欧にあり──ヘーゲル」欄に詳細あり。
 これほど日本人の「共同体意識」に屈辱的文章に出会ったことがなかったので、当時の私の衝撃は大きかった。


 話を冒頭に戻しましょう。
 3年前の平成23年(2011年)は『古事記』編纂1300年記念ということで、「古事記」に関する歴史家や研究者の論文や研究資料が多くだされた。記紀については相当昔から物語の虚実について多くの研究者が立場立場の論文など発表し、論争されてきた。もちろんその論文に目を通しての見解が述べれるほどの知識は到底持ち合わせていない私である。
 とはいえ、政治・世相が騒然としている今、歴史の節節に古代日本はどうだったのか、西欧の諸国、シナ、朝鮮との関係はどうだったのか、自分の持てるインタレスト分野から接近してみたくなるのは別に歪なことではなかろうと思う。
 いくつかあった手持ちの資料をたぐった。目を引いたのは、「現代思想 2011 Vol.39-6 5月臨時総特集古事記1300年目の真実」だった。今もバックナンバーとして書店の棚に並んでいる。
 執筆者が私好みの、梅原猛先生、作家の瀬戸内寂聴さん、それに上野千鶴子さん他だった。歴史研究者からは余りよくいわれない方もおられる。
 とある私設歴史博物館で、私がある質問をすると、若い解説員が、歴史研究に文学的イマジネーションを持ち込んではならない、あくまで立証できる史実をベースとするのが歴史研究の基本ですと解説員はいった。私は、史実・資料といっても時の為政者がつくったものであったり、都合のわるいものを焼却したりしてきたと聞くが、生の人間が争い、騙しあい、支配する者される者、権力と欲望の狭間で生きた庶民の記憶こそ歴史ではないのかというと、慌てて古参の解説員が割っては入り、「われわれは歴史学者ではありません。学術的なほんとのことは分かりません。専門的なことは歴史学者にお尋ねください」といい、私と若い解説員を引き離した。
 私はこの種の本を漁り読む時も、永年私がペンデングにしていた事項(自己に関わる優先度の高い疑問符)
についてつい目がゆく癖がある。時にその論文のテーマと関係なくても───

 冒頭の、梅原猛先生の「古事記論」。同じ桑原武夫先生門下といえる鶴見俊介先生とでも、一旦丸山真男の評価になると「転向」の問題では真っ向から異なる。もちろん鶴見俊介先生は、アメリカでプラクマティズム研究をされ、日本に紹介された方でもあるから、アメリカ的効率主義を嫌う梅原先生とは異なる合理性感覚の持ち主だから双方のこの話は、私には理解できる。
 現代思想の「古事記論」の、津田左右吉のこの論については、鶴見先生も梅原先生に同調されるものと思う。
 津田左右吉著『文学に現れたる我が国民思想の研究』のなかで『源氏物語』も禅も芭蕉もくそみそに批判されている。そして彼が唯一礼拝しているのは小林一茶である。いってみれば、彼は一切深遠なものを信じず、平凡な日常的なものにしか価値を認めないのである。こういう彼にしてみれば神々に関する神秘的なことが多く語られる日本の神話などというのはまことに荒唐無稽なものと考えられたに違いない。このような思想は大正デモクラシーの影響のもとにある、どこかで自然主義文学に通じる凡人観といってよいだろう。

 この文章のなかの「自然主義文学」というフレーズに青春の苦い思いが甦る。映画において、イタリアのネオリアりズム=社会主義リアリズム(ヌーベルバーグの前) の支持者は、悪しき作風の典型として「自然主義リアリズムだ」と批判した時期があった。被写体は社会の歪みに向け、ドキューメンタリータッチで撮るべきだと。 自然主義文学は、フランスのエミール・ゾラの「居酒屋」に源流ありとするが、日本では、赤裸々な雑多な空間のなかでの生殖でない性の描写をありのまま実写する。ありのままの実写を通じて人間存在を描写する手法が自然主義文学といわれた。
 その流れは、徳田秋声、田山花袋にはじまり、いくつか分派して、その一部が川端康成に繋がった。川端自身も変遷しての孫かひ孫かとどこかでいっていた。『雪国』 の駒子に繋がった。川端康成は、日本的自然主義文学を自らの美学による文体の形象化により昇華させ、ノーベル文学賞を受賞した。
 映画「雪国」で駒子を演じた岸恵子がフランス人監督イブ・シャンピとの結婚式で川端康成は媒酌をしている。
 私は2012.2.9の「岸恵子」と題したブログを書いた。その文章には駒子が世界で昇華した大人の女の片鱗を書いた。
 そして2013.3.25 幻冬舎の辣腕エディター兼社長 見城徹氏に仕掛けられて小説『わりなき恋』をだした。そこには亡き師匠川端康成の自然主義文学の臭いを継いでいた。
 五木寛之の「風のカフェ」というBSフジの番組に、五木寛之氏と見城徹氏と、岸恵子と若い美人のエデターと4人の談話には、ベテランの書き手五木寛之氏に幻冬舎記録の大べストセラー「大河の一滴」を書かせるまでの見城氏の熾烈な裏話、そしてヒットには至らなかった『わりなき恋』の裏話。編集者も、ベテラン作家も、セミプロ作家もみな日夜血の滲む思いでキラーなコンテンツと細部に神宿るオーラを探索しいた。

 この梅原「古事記論」に絡んでいる話をもう少しだけ、どうしても書いておきたことがある。

 ①白鳳時代(645年)孝徳天皇のとき「大化の改新」が始まったと年表にはある。その前の飛鳥時代に聖徳太子逝去(622年)、それを機に権力を広げていった蘇我氏。蘇我入鹿はクーデター「乙巳の変」によって暗殺され滅ぼされた。ここまでは日本史の定説。ここで触れたいのはその後の藤原氏(鎌足・不比等たちの歴史の蔭に隠された戦略である)。
 梅原先生は、「古事記」を書いたのは、藤原不比等のペンネーム稗田阿礼ではないかといわれる。あれだけ膨大な物語の記憶を稗田阿礼といえども記憶でるはずがない、と。そして藤原鎌足の菩提寺を興福寺とした。藤原氏庇護を受けた興福寺は宝蔵院覚禅房胤創設で僧兵に「宝蔵院流槍術」教え、武闘集団としても平安時代中期までその勢力を維持し、長保(1000年)には、「興福寺僧徒の乱暴禁止令」がでている(日本刀剣年表)。宝蔵院覚禅房胤は、南朝系の柳生宗矩とも交流があったともいわれる。祇園さんと今も京の町衆に親しまれている八坂神社も一時興福寺の配下にあった。
 そうみると、奈良時代前半から天平年間に政権を握った藤原不比等の四人の息子達は分派して、平安時代においては、不比等亡き後政権の座を巡って血族の悲劇も今の世とどこか似ている。

   藤原武智麻呂 藤原南家開祖に
   藤原房前    藤原北家開祖に
   藤原宇合    藤原式家開祖に
   藤原麻呂    藤原京家開祖に

 朝廷から実質の統治権=ぶれない権力を奪ったものの、今度は血族間の(今でいう政党)権力への執着と幻想的欲望の行方。

 ②は、先のこのブログにも書いた、梅原猛著「日本の深層」の蝦夷エミシ族の本州説と、北海道蝦夷エゾ族は本州族と違い北方から別ルートで渡来したという説。後者は言語学者 金田一京助、民俗学者 柳田国男、(桑原武夫)、宗教学者 山折哲夫、宮沢賢治も。この人達の概ねの共通点は、弥生時代以降の人たちが日本人で、それ以前の縄文時代の人たちは日本人とはいえない。地方の現住豪族が地域を支配し、統一国家といえなかった、と。騎馬民族で、住居定着型でない遊牧民ノマド族。縄文時代は一万二千年つづき、弥生時代は、縄文・弥生の混血時代を入れて高々三千年。弥生を日本の期限とする人たちは日本人を農耕の単一民族と見る。前者説の人たちは一万二千年スパンで日本の歴史を考える。
 ここに名を連ねた、桑原武夫、梅原猛、山折哲夫は、京都の「国際日本文化研究センター」の創始尽力者であり、歴代の所長経験者である。同時に京都学派を築いた学者たちである。歴史に対するスタンスの違いはあるも、哲学にせよ、民俗学にせよ、宗教学にせよ、異質の才能をおおらかに育てた桑原先生にせよ、ベースに、人間を包括的に捉える《共通善》へのこよなき憧憬を感じるからである。

 ③、梅原猛先生といえば、先生書き下ろしの、あのスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」がある。記紀に登場する日本武尊。小碓命(ヤマトヲグナ)は、16歳で熊襲を成敗するまでの名。熊襲の首領熊襲建(クマソタケル)は命絶えるまぎわ、小碓命の武勇を嘆賞し、倭建(ヤマトタケル)の号を献ずる。
 古事記におけるタケルは、粗野で野蛮で、父景行天皇((101~130年)はいつも手をやく存在。天皇はわずかな家来で熊襲討伐を命じる。娘に化けて熊襲の宴会に潜り討ち果たす。以後もつぎつぎと出される理不尽な父の命令。
 相模の国で欺され、野中で火攻めにあったときもスサノウノミコトが出雲の国で八岐大蛇を成敗し、大蛇の腹の中から出てできた剣、草那芸剣(草薙剣)で草を払い、火打ち石で迎え火を点けて逆襲。
 熊襲の時も、火攻めの時も、二人の叔母に助けられ父の仕打ちから救われた。母性本能をくすぶる得体の知れない魅力がヤマトタケルにはあったのか。
 最後は、伊吹山の神と対決し、神の化身の大蛇をまたぎ、神に氷雨を降らされ意識朦朧のなかで、ヤマトタケルは30歳(113年)の若さで死す。
 「古事記」では父との人間関係から悲劇のヤマトタケルと記され、「日本書紀」では天皇への従属、天皇性賛歌の物語となっている。
 なのに、ヤマトタケルは死後、白鳥となって大和を目指して飛んでいった。
 私は、このスーパー歌舞伎に微かな疑問を持っていた。あの「日本の深層」で書かれた悪路王といわれたアテルイを京に連れてきて処刑した、することになってしまった、大和朝廷の征夷大将軍坂上田村麻呂。その人を描いた著者が? と思ったが、実は田村麻呂も百済あたりからの渡来人、アテルイとは幼なじみだったとかの伝説も読んだような記憶もあった。

 現代思想 「古事記」総特集 1300年目の真実 で、私として取り上げないわけにいかないのが 瀬戸内寂聴さんの「古事記私的体験」である。

 数え切れないほどあらわれる面妖な神々───
 古事記の文学的価値は、神も人も、善人ばかりでなく、本能のままに動く煩悩過多で淫乱な生きものである点であろうか。
 神も人も登場人物すべてがいきいきとして、煩悩のままに行動している。儒教のまだ入っていない日本人の生き方の自由さ奔放さが小気味ようい。神仏習合でなく、神仏混合の時代。
 動物が人間のように口をきき、人と交信するし、子をなすなどあり得ないはずなのに、古事記に読みふけると、それが至極自然に思えてきて、ふと、本当に昔、昔は人も鳥獣も同じように語り合い、媾わった時があったかのように錯覚してくる。
 中巻に入ってる倭建命=ヤマトタケルノミコトの話は、小学校でも習ったが、雄壮て華やかで悲劇的で劇的要素のすべてを備えている。倭建命は、まさに物語のスターだった。と書いている。
 私は、この文章を読んですぐさま連想した。
 今風にいえば、「快感ホルモン・ドーパミン全快」。儒教とか、理性とかという「抑制ホルモン・ギャパ」など気にしない原始的生命の野放しの物語。無意識か、それとも意識してか「戒」という箍などほっとらかして「弛緩の楽園で命が欲するままに流されて」という日本的エロチシズムの特質の断面を感じる。

 後、聖徳太子(飛鳥時代・574~626年)は法隆寺、大阪に四天王寺、鑑真和上(奈良時代に帰化・688~763年)は唐招提寺。この頃より「戒」=してはならないこと(道徳) と「律」=罰すること(法律)がこの二人の僧で広められた。

 (注)「南都六宗」とは、奈良時代、平城京を中心に栄えた奈良佛教の総称。

 ・法相宗 開祖・道昭、寺院・興福寺・薬師寺
 ・倶舎宗 開祖・道昭、寺院・東大寺・興福寺
 ・三論宗 開祖・恵灌、寺院、東大寺南院
 ・成実宗 開祖・道蔵、寺院、元興寺、大安寺
 ・華厳宗 開祖 良弁・審祥 寺院・東大寺
 ・律宗   開祖 鑑真 寺院 唐招提寺

 宗派というより互いに教養を学び合う学派だった。
 聖徳太子・法隆寺は聖徳宗として別格との説あり。

 唐招提寺の執事長の談によれば、聖徳太子の「戒」と「律」と、鑑真和上の「戒」と「律」は同じではあるが輸入されたテクスト(お経)が違うと。
    
















            
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by kuritaro5431 | 2014-07-29 10:33