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2014年 06月 23日

いろいろあった「フェティシズム」論 (3 )

 ここでは謎多き京の名刀鍛冶「三條宗近」の伝説の話───

 本格的彎刀の日本刀が形成されたとする年表を見ると、平安時代・延歴25年(805年)───平安京遷都が794年だから10年後に伯耆の国[安綱]という刀鍛冶が、自分の銘を、なかご(柄のなか)に切ったのが最初のもの。国宝の太刀として現存。大江山の酒呑童子を成敗したとの伝説で「名物童子切安綱」と呼称。同年は空海が帰朝し真言宗創設。
 このブログでもいくつも話題にした、延歴20年(802年)東北の蝦夷を平定した坂上田村麻呂が佩刀していた刀は、まだ直刀だった(京都・鞍馬寺蔵)。
 それ以前に唯一、大和・奈良時代の御物として、年代不明、刀工無名で、なかほどより両刃で反りのある保存のいい太刀「名物小烏丸」が現存する。

 その次の年代永延元年(987年)に「三條宗近」の記載が年表にある。この「宗近」にまつわる謡曲「小鍛治」に出てくる一条天皇と、合槌役を乞うて出た稲荷山の狐伝説の謎。これらと関係ありそうな長保2年(1000年)の奈良の「興福寺僧徒の乱暴禁止令」の話、これは後ほど──

 そこで私の日本刀研究の比較的初期に、「三條宗近」と、謡曲「小鍛治」の謎に出会い、平安時代流行った狐や蛇や、異霊なものへの恐れとか信仰が重なっていそうなことに興味をそそられていた。
 宗近の住んでいた三條とは、三條大橋を起点としての東海道を東に貫く旧街道の端。東大路通りを越え、神宮道(平安神宮の大鳥居のある)と三條通りとが交わる、南東の一帯を粟田口と今でもいう。平安時代後期には、京粟田口派という刀鍛冶一派が、鍛冶場をかまえる集団がいた。宗近も「粟田口三條宗近」ともいっていた。

 神宮道の三條を越え、細くなった一方通行の坂を進むと大楠木のある青蓮院門跡(粟田御所)があり、その南隣りは徳川将軍家が権力を誇示し朝廷を牽制、政治的拠点とした浄土宗大本山知恩院がある。
 青蓮院の裏手にあたる東側にある粟田神社は、東海道を東に旅立つ旅人たちの安全を祈った神社であり、幾多の名刀を残した粟田口派の刀鍛冶たちを祀った社が境内にある。
 この一帯は、奈良・大和朝廷時代から平安遷都へ移行した表と裏の歴史がいっぱい詰まったところでもある。
 また、江戸時代武士道の自力の精神を育てたのは曹洞宗と思いきや、佛の他力の信者であった家康とはストンとこない私だったが……

 謡曲「小鍛治」の話といえば、学生時代「能学部」にいた人たち、最近はじまった「京都観光検定試験」問題に出るほどの話だから、京都在住の人でなくてもかなり知られた話ということになっている。読者のなかにもよくご存じの方もいらっしゃろう。

 ここではご存じない方のために、この話の大筋と、私が個人的にこの話に興味をもった古代の狐や蛇を信仰した日本特有の異霊へのこだわり=フェティシズムの側面に触れてみることにする。。
 謡曲、長唄、歌舞伎にもなっている「小鍛治」の話である。
 平安の中期(永延の頃)京・粟田口三條に、橘信濃守粟田口藤四郎(たちばなしなのかみとうしろう)と号する、三條小鍛治宗近という刀工が住んでいた。歴史上実在したとなっている。
 粟田口という集落は、前述のような地にあり、今の都ホテルから蹴上げ辺りをも粟田口といっていた。
 現、粟田神社の辺りに仏光寺本廟があり、その辺りに宗近が住んでいた。本廟境内に宗近ゆかりの石碑があったと、現在その碑は浄土真宗仏光寺派大本山にある。その本山は烏丸仏光寺通り東入る、にある。創建は、建歴2年(1212年)に、親鸞聖人が北陸流刑から帰還され山科に草庵を立てられその庵を「仏光寺」と銘々されたところから由来。その後転々として現在の地に。
 また、知られてないようで京都では結構有名な「合槌稲荷神社」。神宮道三條交差点を東へ進むと、民家の並ぶ路地の奥にこじんまりした小さな「狐の社」がある。路地の入り口に小屋根のある案内板に宗近が信仰した狐に助けられ、一条天皇から頼まれた太刀を奉納できたと、謡曲同好会の有志による説明がある。以前はなかった朱塗りの鳥居の連々が立ち、奥までつづいている。何百年も何代もこの民家に住む人たちによって、宗近の思いは守られていた。

 謡曲「小鍛治」の筋は、
 ある夜、一条天皇が夢で不思議なお告げを聞いた。「宗近に刀を打たせよ」と。
 翌日勅使が宗近に天皇の命を伝えた。ここからはじまる謡曲「小鍛治」。作者、年代ともに不明の物語。
 宗近は、向こう槌を打つ者がいないのでと断るも許されず、困り果てる。信仰の厚い稲荷神社に詣でる。参道を歩いていると、若者が現れ、一条天皇より頼まれし刀を打つ向こう槌の若手がいないと察するが、よければそれがしが承ろうかと、いう。
 勅使がいった日本武尊の草薙の剣にも劣らぬ剣。これを打とうよ、と宗近を励まし若者は稲荷山に消えた。
 力を得た宗近は、わが家に帰り七重の注連縄をめぐらせ鍛冶壇にあがって、作刀の完成を十方の諸神に祈った。
 その夜、鉄の槌をもった若者が現れた。それからというものは作刀がとんとん拍子に進み、 剣はできあがった。宗近は剣の名を思案していたところ、若者は「小狐丸」がふさわしいといい、表に「宗近」、裏に「小狐丸」と刻んだ。
 宗近が勅使に稲荷の神体「小狐丸」の剣を捧げた後、若者は「これまでなり」といい叢雲に乗って稲荷山に帰っていった。若者は神狐の化身で、名工宗近の霊体験の談である。
 日本では天皇の宝物として、鏡、玉、剣がある。これは単なる武器ではなく、天皇の精神の象徴であった。
 この「小鍛治」の謡曲は、神狐の力により草薙の剣にも勝る剣を打てとの一条天皇の命に応えたという話である。
 ここまでが一般的に知られた「小鍛治」にまつわる話である。
 
 一条天皇は七歳で即位し、在位 986~1011年とある。仏光寺派の開祖親鸞聖人は、奈良佛教・南都六宗と対立した平安遷都以降の比叡山天台宗分派の宗派である。 
 宗近は実在した人物であることは確かのよう。「天慶元年(939年)生まれ、長保三年(1001年)に七十七歳で死す」とあるも、大方の説で生きた時代も、後年の様子も定かでない。
 そもそも謡曲「小鍛治」の作者も、つくられた年代も不詳ということだから、そんなことはどうでもいいのかも知れない。
 それにしても、それ以外まことしやかな話はまだある。また、以前よりペンディグのまま放置していたことをちょっと突っ込むハメになった私は、思わぬところで日本の古代史の迷路にはまってしまった。(これは次号以降で)
 
 それ以外の真偽ない交ぜの話として、
 祇園祭の「長刀矛」の屋根の上で天を指す薙刀は、宗近の作といわれ、それは娘の疫病治癒の感謝として作刀奉納され現存している(矛巡行に据えられているものはレプリカ)。また、静御前のもっていた二振りの薙刀も、義経が自害した短刀も、弁慶の三尺五寸の大薙刀も宗近の作とガイドの話では、つけくわえられる。
 また、謡曲にでる稲荷山とは、はじめは伏見稲荷と思っていたが、そうではなく現都ホテルの裏山一帯を指していた。昔は、都ホテル内に祠があったが、現在は都ホテルの5階から裏山にでられる出入り口があり、急な斜面の山道を登ると、向こう槌を乞うてでた狐をを祀った祠がある。山道の入り口には、その伝説の立て看板がある。
 さらに、あまり知られてない話として刀剣研究家・元熊本大学教授・福永酔剣著『日本刀名工伝』(平成8年・雄山閣)の一等はじめに「小鍛治宗近」として取り上げている。ここでは、小狐丸を一条天皇に奉納した後、山陽道を下り宇佐八幡宮を参拝したという伝説は西国の所々にあると書いている。小鍛治の名は天下にとどろき渡っていた。さらに薩摩や宮崎にも旅し、折々に名を伏せて刀を打った伝説もある。皇国国家の権力に関わることから逃れた旅であったか、と。宗近の墓と伝えられるものが奈良県郡山市付近にあるというも定かではない、とあったが、宗近が奈良に戻るはずはあるまいと私は思っていた。

 
 と長い間そう思っていた。
 またまた、ところがである。何年か前に宗近の末裔が奈良の春日山の近くで刃物屋をやっているというホームページを見つけた。いつか機会があれば覗いて見たいと思ってから日が経っていた。ホームページには興福寺の支援を受けてという意味合いのことが載ってっていた。興福寺といえば、唯識(あの「阿頼耶識」)の法相宗の総本山。ひょっとすると深い因縁があるかも知れないと思い、5月のゴールデンウークに家内と一緒に出かけてみることにした。その日は思いの他奈良市内は観光客で賑わい、タクシーもバスも交通渋滞で動かない。目当ての刃物屋には行けなかった。

 次回は、「いろいろあった「フェティシズム」論 (4)」の記事で、このつづきを書くことになるが、現地取材できず、情報源は主にインターネットによる情報検索と、今まで収拾していた日本刀にまつわる書籍・資料。さらに今まで疎かった日本の古代史研究の書籍漁り。一昨年古事記編纂1300年を記念して出された書籍など、となった。








                    
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by kuritaro5431 | 2014-06-23 10:23
2014年 06月 11日

いろいろあった「フェティシズム」論 (2)

 このブログで、日本刀を取り上げたのは2009.5.5の「日本刀との出会い」からだった。
 元々日本の刃物に執着心の強かった私は、幼い頃から脆弱な心身を補強する呪術的感性を無意識に求め彷徨っていた。永い間───

 2009年時点での社会環境は、~1993年バブル景気崩壊。2008年のリーマンショク前。
 私は1986年62歳でコンサルファームJを退職した。入社時では定年なしの約束。70歳でも現役で年俸3000万円のコンサルもいるとのことだった。
 バブル景気崩壊後しばらくJファームに在籍していて、バブル崩壊後の各社の人員調整(出向・転籍)→リストラのまっただ中で企業向けの「リストラ組社員の自立支援のコンサルティングプログラム」をつくり、彼らと会社を支援した。私の支援プログラムの柱は「キャリヤの転職先向け再訓練と、個として己の自立」だった。ここでは、「個の自立支援」でやった私の固有技術について述べることにしておく。バブル期には「~テクノ」が流行り、マネジメント畑でも、コンサルのスキルを固有技術などと呼んでいた。いかにもロジカルに聞こえたから。

 私の固有技術の柱を、今まで関心のあったマインド・サイエス系のもの、それに日本的テイストとして、日本の佛教(おもに梅原日本学から学ぶ)。心理学系ではエリクソン系の発達心理学とアイデンティティ論。後、河合隼雄先生の日本人向けアイデンティティ論。日本的ロジックには、かなり衒学的だが「唯識佛教のこころの構造」「深層にある無意識世界の〔阿頼耶識〕」これを実務にも使えるロジックにしょうと試みた。「唯識論理療法」も囓ったりした。それは必ずしも教理に叶って学ぶというよりは、社会、会社、自己との関係でこの時代をどう凌ぐか、生き延びるかにコンセプトを置いたものだった。私が当時現実と繋ごうとした〔阿頼耶識〕の概念は、2009.5.6のブログのチャート。そのコアを主体にもった「個と会社」の関係性をどうあるべきか。そのベースになるものは社員個々人の内発的モチベーションとした。それが2009.5.2の「自立してゆくしかない時代」に添えたチャートである。このチャートは今でもよくできたものと自画自賛している。が、当時は多少の評価もされたが、政治も経済も金融も大きく変わった今、単純すぎるといわれそうだ。

 その頃、いやそれ以前から遠のいてはまた思いだし、とぎれとぎれにつづいた日本刀へのインタレスト。自己の弱さの根っこを切除する。牛刀でなく、剃刀でなく、呪術性と原始共同体社会に根をもつ日本人の魂と美学。それは私という固有の人間の「志向性」からくる空想、幻想の内部増殖と意識はしていたが、自然発生的に増殖していった、今日まで。それはひとえに「脆弱な自己の改造」のために、であった。
 子育て時代は、そんな妄想に耽ってはおれず、生活のために働き、多くの時間、そのことを忘れていた。
 再度日本刀へのインタレストが膨らんだのは、バフル景気崩壊後「己の個の主体」を考えもせず、路頭に迷った多くのサラリーマンを見て触発されてのこと。
 会社・ときの政府の言い分は不条理であったとしても、「己の生」は、己で凌いで行かねばならない。「社会の仕組み・制度、自分が所属する組織(昔は藩、現代は会社)に頼って生きるか。自力で生きるか」。前者の生き方を「共同体社会での隣人助けあい」といい、後者を「個力・キャリアで働き、自力で稼ぐ生き方」といったもの。政府も「21世紀の社会構造委員会報告」をバブル崩壊直後に「個の実現を支える新たな絆を求めて」のタイトルで経済企画庁国民生活局編で発刊している。ここでは、日本的集団主義(絆)は否定しないが、個力中心の集団主義にこれから移行すべき、といったのである。

 そこで、まだJコンサルタントファームにいた私は、「リストラ組社員の自立支援のコンサルティングプログラム」の一端として「自力で生きる」概念と「現実の働き方」の枠組み=実現性がイメージできるロジックチャートを中心としたものをつくった。営業を通してプロモートした。中身は概念止まりで済む世界でないのでOUTPUT=コンサル成果、はストーリー的計画書と、場面ごとのアドリブでやったもの。よく批判されるコンサルタントのハウツウ指向は、Jファームのコンサルタントは全員が嫌ったものだったし、だれもやらなかった。
 それにしても、この難問は、コンサルファーム各社も確たる成果は出せなかった。

 これらの経緯で、私ごと日本刀との関連は、「原始共同体的=絆頼り」対「個力・自力」を対意概念とするバンラスの問題だった。前者の概念や感性を抑制したり、捨てたりせず、そのままにしておいて、後者の概念と感性のオクターブを上げればいい。私はそう考えた。日本刀のように折れず曲がらずよく切れる──その歴史をたぐると、何かヒントがありそうな。
 
 日本刀の定義は、玉鋼でつくられた反りのある劍・刀であると、ものの本にある。ものの本とは定かな定義が述べられた本が見あたらなかったという意味である。
 彎刀になった時期は平安時代の前期あたり。それ以前の日本の太刀は、直刀だった。彎刀は、渡来してきた騎馬民族が馬上からの戦いに優れていたから使っていたものとの説。その騎馬民族とは、南から北に向かって進んだ大和朝廷に従わず、東北・岩手あたりで「まつらわぬ民」として永く戦った蝦夷(エミシ)。その首領「悪路王」こと、あの「アテルイ」。蝦夷が使っていた彎刀は、「蕨手刀」(わらびてとう)という柄まで鉄の小刀(二尺以下・一尺以上、日本刀でいう脇差)で、日本刀のような切っ先はなかった。奈良・正倉院に現存。その蕨手刀は、渡来した騎馬民族の鍛冶は、百済との交易ルートをもち材料の軟鉄を持ち込んだとか。定かでない。私の調査力のおよばぬところ。
 さらに日本刀は世界の太刀のなかで唯一低温(炭の火力)でつくられていると。なぜか、それはコークスが入手できなかったからと。コークスを使う溶鉱炉は、現在の高炉である。鉱石をコークスの炉で溶解し鉄の湯を取り出す製鉄法。ところがこの製鉄法では、硫黄と燐とマンガンがかなり混入するとある。
 というぐわいに、つじつまの合わない謎だらけの日本刀。その他にも興味深い謎がある。その謎には「フェティシズム」が絡んでいるように思えるから面白い。
 私は永年の内に、「鉄」「和鋼」「玉鋼」「日本刀作刀法」「古刀・新刀の違い」「刀鍛冶の流派」そして「日本刀にまつわる物語」などの書籍を随分買い込んだ。。最近では、今まで手の届かなかった謎が、かなりインターネットで検索できるようになった。その情報も、日本史では当たり前となっているものから、真偽ない交ぜのものまで広く深く広がった。
 最近偶然書店で見つけた、小笠原信夫著『日本刀──日本の技と美と魂』文春新書730円は、今まで入手した本や情報のなかで一番満足もゆき信用もできる本だった。東京国立博物館勤務・刀剣室長。

 最近妙に気になる二種の言葉。松尾芭蕉の①「不易流行」と②「虚に居て實を行うべし。實に居て、虚にあそぶ事はかたし」と、神仏系の人がいう③「諸行無常」と④「輪廻転生」。私はこの二種の言葉は、アイロニー(対意語)と思えるのだが。
 ①は、「蕉門に、千歳不易の句。一時流行の句といふあり。是を二つに分けて教へ給へる、其の元は一つなり。去来」。②は「想像の世界に身をおいて、真実を表現せよ。事実にとらわれていて、想像の世界に奔放に遊ぶことは、難しいことである」。
 ③は、「あらゆる現象(人間存在も含め)は変化してやむことがないという理」④「生ある者が生死を繰り返すこと」

 玉鋼(たまはがね)とは、純度の高い和鋼(わこう)のこと。鉄の純度は、硫黄と燐とマンガン(鉄が嫌う不純物)が極度に少ない鉄を指す。玉鋼は砂鉄(1山砂鉄・2川砂鉄・3浜砂鉄) からつくられる。山砂鉄が一番。古代の玉鋼は、赤松の山林の斜面を堀り、赤土混じりの山砂鉄を採取した。斜面に池を掘り、疎水をつくりその溝に赤土混じりの砂鉄を流し沈殿した砂鉄を選別した。溜まった砂鉄を野蹈鞴(のたたら・1メートルほどの縦穴)を山の中腹につくり、近隣の赤松の木を伐採して割り木にする。赤松の皮には燐が多く、そのため皮を剥いて割り木にしたと。その時代赤松の皮に燐が多いことだれが知っていた?
 野蹈鞴の上に赤松の割り木を井桁に組んで、七昼夜燃やし、燃える蹈鞴に人夫が交替で砂鉄を放り込む。七昼夜過ぎ冷えた蹈鞴の底に、溶けて固まった1トンばかりの粗鉄の塊、鉧(けら)ができ、それをコロを敷き人夫が里に降ろす。
 里では、役割を持つ今でいう技師たちが、鉧を粉砕し、玉鋼と銑鉄に選別する。鉧に含まれる玉鋼は10 %もなかったとか。このようにして砂鉄が製鉄されのは古代の一時期と思われる。平安時代の初期か、奈良時代の後期までと推定できる。
 この時代から玉鋼の名産地は伯耆の国、安来だった。JR山陰線安来駅から南、中国山脈の麓に奥出雲の集落がある。横田町、吉田町、砂鉄記念館もある。八岐大蛇伝説の斐伊川の上流である。今も年に一度、伝統保存事業として、粘土作りの長方形の里の蹈鞴で古代の製鉄法で吹いていた。

 私がJファームにいた頃、3年ばかり松江近辺でコンサルの仕事があったので、現地で空いた日程を「和鋼・玉鋼・安来鋼」と「古代日本の製鉄法」の探索にあてた(ファームでは居場所さえ告げておれば比較的行動は自由だったから)。
 その頃の私はもう足かけ30年ばかり日本刀研究に首を突っ込んでおり、日本刀に関する基礎知識は粗方持っていた。
 その過程で、日本刀の「謎」はなんといっても素材としての鉄、日本独自の玉鋼にあると、どの研究者も口を揃えていたので、その時点では素材の鉄に焦点を絞っていたものだ。
 安来市内の「和鋼記念館」(日立特殊鋼KKがなんといってもこの領域の権威)や、奥出雲の吉田町・横田町にある資料館を回ると、野蹈鞴時代の操業模型や当時産出された砂鉄の標本もあった。不定住の人夫が過酷な砂鉄採掘と、七昼夜不眠の蹈鞴操業。そこには当時から(平安時代中期くらいか)れっきとした管理組織があったように伺える。地域の豪族、村の庄屋、下級武士、蹈鞴操業にかかわる技能職種(結構分業化されていた模様)の階級、その下に不定住人夫家族。そこには村組織があったと見える。
 伯耆の国以外では、中国山脈を越えた美作の国(現・岡山県西粟倉村大茅)の蹈鞴製鉄跡「大茅の鉄山」。播磨の国(現・兵庫県宍粟市千種)の規模の大きい「千種の蹈鞴操業集団」。山の斜面に段々の石垣の屋敷跡があった。(ここはアニメ「もののけ姫」のモデルになったところ)。両蹈鞴製鉄跡は、同じようなたたずまいを醸し、広場には蹈鞴操業を祀る火の神の祠があるり、集合便所らしい跡には、どてかい赤い棘のある羊歯(しだ)が群生していた。それはあたかも火傷して転げ回って死んだ人夫の怨念のように。
 不定住の人夫たちは、野蹈鞴時代から山に赤松がなくなれば他の鉄山に雇われて渡る。里の蹈鞴時代では砂鉄採掘の山が枯れると、家族ごと他の操業村に移っていった。不定住の山の民とも……
 
 現代で蹈鞴操業でこの鉄を製鉄すれば金より高くつくと。
 平安・鎌倉時代においても、良質の玉鋼の採掘は、資源の限りで衰え消える。以降は神社仏閣の解体で出た古釘、農具、大工道具などの古鉄を混ぜて使うようになり、作刀鍛練法も変わってゆく。
 慶長四年?以前を古刀といい、それ以降を新刀といった。古刀は一体の鉄でつくられた。新刀は、刃の部分にカーボン粒子の多い鉄を入れ、胴は柔らかい鉄で巻いた。その頃には、渡来の蕨手刀の素材も製鉄法も日本流に昇華して日本独自のものとしての日本刀が完成していた。縄文の魂が渡来の鍛冶たちの技法を受けながら、日本の技と美と魂になっていった時代といえるだろう。


 次の(3)では、一条天皇の勅命を受け、「小狐丸」という名刀を、稲荷山の狐の合槌(向こう槌)のお陰で作刀でき奉納した、京都三條粟田口の名工、三條宗近の伝説に────

 
 

















                     
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by kuritaro5431 | 2014-06-11 07:41
2014年 06月 10日

いろいろあった「フェティシズム」論 (1)

 これは結構面倒な話だった。でも面白かった。
 かといって謎の伝説も絡み、謎が解けたわけでもなかったが。

 思えば経済学部4回生のときだから、今から60年前のこと。経済哲学(資本論の貨幣価値論)で有名だった梯秀明教授の「前方の旅」と「後方の旅」の講義を聴いてのことだった。
 前方の旅とは、現実からスタートし、下から上へと上昇する過程(帰納・科学的アプローチ)のこと。後方の旅とは、前方の旅を終えて、つぎの旅としての後方の旅に(演繹・哲学的アプローチ)移る。そのとき、論理的空洞が生じる。これを「フェティシズム」──と。
 同じ弁証法学者のヘーゲルは、後方の旅で神に至る──と。
 考えたことも、空想したこともないない奇妙きてれつな衒学にたぶらかされた思いと、身震いするような呪術を覚えたものだった。
 当時、梯先生から直接指導を受けられた服部健二先生は、そんな話聞いたことない。もしかしたらヘーゲルのいった余談話をされたのかも知れないと。
 この辺の事情は、2009.5.30「弁証法 その3」のブログに書いている。

 この話とは別のところでのことだが、私は幼い頃からよく研がれた日本の打ち刃物や、磨かれた打ち金物、主に大工道具などにとりとめもない魅力に憑かれていた。それは肥後守であったり、鉋の刃であったり、鑿であったりした。
 終戦直後の昭和22年、向かいに住んでいた宮大工の棟梁についていき道具屋で金槌を買った。店番がいなかったので、棟梁がいうように、2つの金槌の打ち面の角をカチンと鉢合わせ、負けた方を捨て、次々と傷の入らないものを選んでいった。10本は試しただろうか。店のものに見つかりでもすればただでは済まなかったはず。
 その金槌が68年経った今もびくともしていない。以前話にも出た日本刀手入れ用の油、丁子油を頭や胴や柄にも思い出しては塗った。樫の柄を金槌に差し込んでいる部分は、京都にきてから鉄の楔を買い瞬間ボンドを流し込みしっかり打ち込んであるので、石も割った、鉈の背も荒っぽく打ったが傷一つない。一方が丸い面で釘を打つ、一方は釘の頭を沈めるために尖った造りになっている。両方に打ち面のある金槌は、一方はフラット、一方は軽い凸になっている。フラットの方で釘を打ち、凸で金属を打つ。
 焼き入れの甘い金槌は、永い間に脇に鉄が盛り上がる。焼きの入りすぎた金槌は、固くて欠けている。
 私に取って家宝の金槌は、打ち面を時にフラットに金剛砥石で研いでいる。なかなか下りないのが家宝の証拠。

 フェティシズムという単語を、『岩波の哲学思想辞典』で引き、「呪物崇拝」(じゅぶつすうはい)をインターネットで検索してみた。 

 『岩波の哲学思想辞典』での、フェティシズムという用語は18世紀中葉にフランス、ドイツで生まれ、19世紀に入って哲学、民俗学、性愛論、経済学の領域で使用され、20世紀では精神分析の基本概念の一つとなってる。各領域で用語の内容は異なるが、「聖なる」事物崇拝の性格は共通している。
 【言葉の由来・要約】「作り事」。「魔術」または「呪術」。「呪術崇拝」。アフリカの黒人達は「地上の事物崇拝」

①〔フェティシズムと自然宗教〕
 ド・ブロスのフェティシズム論の3つの側面。1.神格化された物的対象(山、海、木、石、各種の動物、等々)聖なる事物をめぐる祭祀体系、タブーの体系から構成されている。2.フェティシズムは、単なる迷信や偶像崇拝ではなくて、ひとつの独自の宗教体系とみなされている。ド・ブロスは、ヒュームの自然宗教論から示唆をえて、フェティシズムの心的動機を「恐怖」と「無知」に求める。だからド・ブロス的フェティシズムとほぼ同義になる。3.ヒュームと同じ見知にたったアダムスミスもまた原始宗教を恐怖と無知の産物として定義し、同時にそれを人類の最初の認識形式とみなす。

②〔哲学的言説のなかのフェティシズム〕
 カントは〘単なる理性の限界内の宗教〙のなかでこういう。「純粋に物的手段によって超自然的効果を生むという幻想… この種の企ては普通は呪術と呼ばれるが、フエティシズムという用語に変えた方がよい」。
 ヘーゲル『歴史哲学講義』(1831).ド・ブロスをそのまま引用したかに述べている。←(この件についてブログ筆者・次に注)
 実は2013.1.12のこのブログ「ペンデングタグが溜まった(2)←[ヘーゲルのいう「無」]の記事の2頁下方に、「東洋的無という概念の出所は近代西欧にあり」に記載している。鷲田小弥太著『哲学詞華集』で取り上げられている。ヘーゲル著・長谷川宏訳『歴史哲学講義』(上)(下)青629・630岩波文庫あり。
 当時のブログにも書いたが、東洋の果て日本を近代西欧はこんな風に見ていたのかと、刃で刺される思いがした。
 ここでも私がずーと気にしてきた〈日本人はこれからも原始共同体的社会の「和」とか「絆」とか「情動」をよりどころに暮らし、生きて行くのか。良くも悪くも西欧的な個の主体と自由を求めた近代化の恩恵を受け、その体験はもう遺伝子の半分か1/3ぐらいには擦り込まれているのに。同じ東洋人でも中国人は違う(加藤隆著『武器としての社会類型論──世界を五つのタイプで見る』)。一方で西欧的思考から発展した科学も哲学も、そしてより複雑化する定量・定性・ブラス温厚そうな情感での恣意的操作ロジック・国民には覚束なく不安〉。
 話を戻して、~辞典のつづき──
「彼らは木、石、木像、など手当たり次第になんでも聖霊にしてしまう。これがフェテッシュで……呪術を意味するフェティソから由来している」
 ヒュームとスミスの議論を踏まえて、ド・ブロスのフェティシズム論を最も正統的に継承したのはA・コントである。「人類はどこでもフェティシズムから出発する」(『実証哲学講義』)。コントにとってフェティシズムはひとつの歴史的時代であり、「最初の神学的状態」である。この神学的状態はフェティシズムから多神教を経て一神教へと発展する。フェティシズムは、人間による最初の因果的説明法であり、幻想であっても自然からの人間解放の力である。
 マルクスは1842年にド・ブロスの、『呪物崇拝』を読み、「木材倒伐論」において現代の私有財産が未開社会の呪物と等しいと批判する。同じ理論でマルクスは『資本論』のなかで「商品のフェテッシュ的性格を論じている。「机が商品として現れるやいなや、それは一つの感覚であると同時に超感覚的なものになってしまうのである。──これをフェティシズムはと呼ぶ」といっている。(ブログ筆者・注)これでやっと梯先生のいった意味が分かった。60年来の疑問が解けた。
 ニーチェは形而上学と理性の言語が「粗雑なフェティシズム」に囚われていると批判した。(『偶像の黄昏』1888年)。

③「性愛論(セクソロジー)」
 19世紀から20世紀初頭にかけてフェティシズムは性愛論の用語として定着する。性的倒錯としてのフェティシズムである。フロイトの病理学的性愛論を踏まえての一つの転換。性愛を無意識の構造のなかに位置づけ、いわゆる性的倒錯は性的主体の正常な基本様式とした。


 (2)につづく
 、

 













                       
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by kuritaro5431 | 2014-06-10 15:33