哲学から演歌まで  

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2014年 03月 30日

新入社員でも知っておくべき経営用語

 前号のブログのつづきしとて「連休も過ぎ」継続して今の会社、今の職場に勤めることにした人を対象の記事です。

 以下に示す計画は、どの部署に配属されようと、その部署の一員として、絶対承知しておくべき事柄です。

 、新しい社員が加わる職場は、(概ね課単位か、グループになっている)職制には、課長およびグルー長が、その職場の責任者である。課の上位に部門があり、部門の傘下にいくつかの課があるのが普通にある組織である。当然部門には部門長がいる。部門全体の責任者である。一般的な会社では、年度初めに部門長は「部門方針」と「部門全体の重点課題と施策」と「目標(数字)」その他、会社によって部門の「損益計画書」および「費目別予算書」が、全社年度事業計画策定委員会の承認のもとにつくられている。

 まずは上記の計画書がどんな仕組みでつくられ、年度末に向かってどう「方針(言葉で示される方向付け)」が管理=マネジメントされ、今期の「部門としての重点課題(重点的にやらねばならい事柄は何か)を知り、部門として実施予定の施策とは何かを知る。
 「目標」は、会社によってまちまち、部門、職場によってもまちまち。営業でいえば、大分類別・年間の売上高、同・粗利益額と粗利益率、限界利益、営業マン一人当たり年間売上高、など

 
 ここまでにでてくる業務遂行上の「経営用語」でも、言葉の定義を理解しておかないと、一緒に仕事をする仲間、上司との日常のやりとりに、連絡・報告にミスが起こったりする。

 これから列記する用語は、原則としてパソコンのインターネットで検索できるレベルのものでいい。
 スマホをいつももっているのでよいと、スマホだよりにせず、システム手帳のようなものに、自分用の用語集をつくりもちあるくのがおすすめ。その目的はいずれ自分の言葉として使えるようにするため。関心が深まれば無意識に深掘りしたくなるもの。

★職制とは、組織でどんな機能をもつものか、
★一般的部門内組織とは、 部門内に管理課があるがその役割は。
★「方針」という言葉は結構難しい。「目標」が先で「方針」が後という説もあり。「目標」は、数字で示す到達すべき目印。「方針」はあくまで言葉で示す方向性・ベクトル。日科技連のいう方針には、数字が含む。
 中期経営計画がある会社では、年度計画は、「目標」からはじまる。
 私は、年度計画おいては、方向性を先にするため「方針」に示し、その線上に「目標」としている。
★重点課題とは
★施策とは
★「損益計算書」P/L(これについては中身まで熟知必須)
★「費目内訳」(これについては中身まで熟知必須)
★「粗利益」=損益計算書の売上総利益に同じ
★「営業利益」本業利益とも
★「限界利益」は、管理の効用は、 
★「内部留保」とはどんなもの。財務諸表のどこに記載。
★「調査・分析」は、新入社員がよくやらされる仕事。調査・分析は「ある目的のための手段」であり、調査・分析の報告書をまとめるのが目的ではない。はき違えないこと。使用目的にはいつも期限がある。
★自分の仕事の「ハウツウ」=こまごしたやり方手順 を講習会や講演会・教育研修や本に求めてもないものと思え。いくら事例を並べられても個々人にピッタリの事例なんかあるはずがない。事例は、原理とか基本を学ぶ方便だ。「自分のハウツウは自分がつくるもの」。

  その他会議などでよく使われる言葉(浅く広くから、仕事にあわせいずれ深く)
★PDCA マネジメントサイクルとは、
★「付加価値」は、 本当は財務用語で 年間売上高ー年間外部購入額だか、プラスアルファの価値という意味でも使われるようになっているので、使い方注意。
★PPMとは、
★戦略と戦術との関係は、
★マーケティング  アメリカマーケティング協会の定義参照のこと(時代で変わった)
★SPとは 
★マネジメント と コントロールの違いは、
★ISOとは、
★上場企業におけるROEとは
★モチベーションとモラルの使い分け
★KJ法とは
★NM法とは、
★ABC分析、パレート図とは、
★特性要因図とは、
★IAとは
★VEとは、
★交流分析とは
★方針管理とは
★蓋然性とは、
★株式会社は誰のもの、いろいろの説を知っておく、
★経営理念の本当の意味はまだまだ、その力の活用はまだ未開発だ。
★コンブライアンスと株式会社の関係とは、
★SCRほんとうの意味とは
★「顧客満足」とは、(ISOの普及でQC活動時代と変わってきた)
★冨の再配分とは
★格差社会の実態とは
★「役割」は、 わが社の 商品・技術研究室の、製造部門の 営業部門の 人事制度の 物流センターの、などなどの。「役割」があれば、必ず「働き」がある。
★コストについて、これは入社早々から徹底的に研究しておくテーマだ。きっと君の将来を左右するから。
★企業にとってのブランドとは、
★企業買収はなんのために行われるか、
★労働とは、

  など、文系の人向きになりましたか。

  女性の方たちにも、
  これらのことを理解して、仕事をするのと、無関心にいわれたことだけする社員とでは大違い。
  所属した部署の、全社的役割、当職場の役割、今期やろうとしている部門の重点課題、そして数値目標の達成。 そして新人の私に期待されている役割、例え細かくいわれなくても、これらの資料を自ら推察して、行動する。
 頼まれたことの結果は、仲間同士でもかっちり報告する。遅れている場合はその理由と中間報告。
 メモを上手使いコミニュケーションミスのないようクイックレスポンス。いくら忙しくても涼しい顔で対応する。
 それに笑顔が加われば、あなたは職場の花となる。
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by kuritaro5431 | 2014-03-30 16:16
2014年 03月 30日

新入社員のコールデンウィーク

 今は死語になったか知らないが、学校を卒業してはじめて社会にでる。就職してはしめての大型休暇。この時期に学生生活と会社勤め(多くは)のライフスタイルとの間に相当のギャッブが現れる。多くの学生は環境適応障害を起こす。これを「五月病」といわれた。鬱病にさえなる人もいた。
 バブル景気崩壊前、日本的経営が功を奏していた頃は、「全社一堂の入社式→中央研修センターでの集合教育→職場内教育→職場への配置」をへて、自分が社会人としてはじめて働く職場につく。そしてその環境がどれほど学生時代の環境と違うかを知ることになる。各企業にすれば、新入社員を迎える一連の催事は、「終身わが社の一員になる洗礼の儀」であった。「あたかも藩に仕官した侍のように、職種を問わずその群れに所属し、一同と死を共にする覚悟を誓うことだけで」生活が保証されたように。
 学園の自由、思想の自由、研究テーマも自由、学生の自治活動も自由、サークル活動、社外活動も自由、という放たれた環境のなかで、「経済活動とはかなり離れたポジションにいた学生」。今はかなり変わってはきたが。
 ところが「会社という組織機能は、経済活動=自社利益の拡大を通して様々な社会貢献をする」組織体である。得た利益をどう配分するかは、国家観、政治、経済、金融等々のよりたつところできまるところである。

 学生たちは、自分がよりたとうとした方向性と、研修会で教わった職場の「組織・職務分掌(規程)や責任権限(規程)」の中身を知るにつけその隔たりの深刻さを感じるようになる。その隔たりは各種社内規程におよぶ。その学生のジレンマが「五月病」の原因だった。
 当時はそんなジレンマを越えて会社の使命に馴染んでいったのが、高度成長期の若者であった。その若者をささえ支援したのは、現場の班長・係長クラスだった。職場内教育=OJTや、後の職場内改善運動として「QC活動」=日科技連。今は世界共通語になった「カイゼン」の原点。
 これらから得られた、製造業中心の改善技術は、2次産業にも普及し、単なる技術を越えてソフトウエア領域、マーケティグ領域、経営戦略、マネジメント領域にまで発展した。そして「ジャパン・アズ・ナンパーワン」の最盛期を迎え、その後バブル景気は崩壊した。

 それは、バブル景気崩壊による、日本的経営の「肝」、働き手のモチベーションを支えた「年功序列・終身雇用・労使協調」=「唯一会社という組織内に残っていた日本人の共同体意識」の崩壊。正しくいえば支えられなくなった。中高年の生産性と賃金のアンバランス。

 そして「失われた20年」のデフレ経済。
 期せずしてバブル景気崩壊後間なしに、政府は、日本人の共同体意識をベースとした「もたれ合い社会」「よくいえば連帯共同体社会」「悪くいえば何でも生涯会社が面倒みてくれた社会」の終焉警告の報告書をだした。
 1994年4月28日・経済企画庁国民生活局から、「個の実現を支える新たな絆を求めて」が発行された。
 要は、「金太郎飴的集団主義の日本人から、個性・個力で働き・自力で収入を稼げる人種に変わるべき」といったのてある。言い換えれば一人ひとり自分の「根」=アイデンティティを確立して、その上で古い絆をすてて新しい絆を求めてくだい」といったのである。(このことは以前このブログに書いています)

 その後、経営書やマネジメント系の書籍に「個力の重要性」「個力の経営」などと「働き方が変わる」という部類の本が国内外から多く出版された。その延長の一つとして「成果主義人事制度」が流行り、一時、各社で多く導入された。成果を多く出した者は賃金を優遇、給与は与えられるものでなく自力で稼ぎ出すもの、へとシフトした。

 他方、経団連、経済同友会あたりからは、昔のように色の付いてない学生を定期採用し、各社で一から教育するというやり方は、これほど経費が企業経営を圧迫する時代、学校(おもに大学)は、企業にとって即戦力を身につけた学生を送り込んで欲しい。この要望はかなり前からあった。
 それに反し、大学は企業の予備校か、アカデミックの研究、各学問の新分野の開発、未来人材の育成、などが大学の本来の使命で、短期的企業の利益拡大の助っ人になるのが正しいとはいえない、と。

 その大学と、産業界のギャッブは、学生と会社への就職のジレンマとかなりの部分重なっている。他方、学生も父系も、この時代になっても安定した大企業への就職を志望し、お目当ての会社に就職できる大学を目指した。

 そして一部の学生を除き、「五月病」を軽い感情障害。その会社・職場の雰囲気と相性の悪さ、つきあえそうな人間がいなかった、という「快」「不快」で、連休を境に退社する人も毎年のように今年もそこそこいるのではと思えたりする。、


 世の中は多様化し、多様ななチャンスがどこかに埋もれている。清濁を飲み、虚実を操り権威を手に入れ、乱れた世を統治することを正義・使命とする人もいよう。あらゆる煩悩の呪縛から解放される信仰のの世界で清らかに生きようとする人もいよう。
 また経済活動を通して、社会に貢献しょうとする人もいよう。やはり雇用のキャパからすればこれが一番であることに違いはない。雇用確保の社会貢献からすれば。

 いつの世でも、体制という「長いものに巻かれて、その手のひらの中で生きる。それが分別のある大人の生き方とする人も結構多い」。私はそれだけは嫌った人間。憎まれたり嫌われても。

 スペシャリストで生きるか。ゼネラリストで生きるか。
 クリエーターとして生きるか。
 そこには小説家や、画家、俳優、脚本家、演出家、プロデューサー、みな命をかけても悔いのない職業だ。でも小説家を例に取れば、芥川賞、直木賞は年2人づつ世に出ている。そのなかで何人生き残っているか。現存の作家で文筆家だけで食えている作家は何人いる。10人いないのである。それなのに、全国にあるカルチャーセンターの受講生は300万人とも。その中の1/10の人は、ほん気でメジャーな賞を狙っている。宝くじより確立の悪い。

 人間は生まれつきIQの高い人もいる。偏差値の高い人もいる。経験=キャリアで地頭を磨き他者に役立ち=利他を貫こうとする人もいる。生まれか、育ちかも影響しよう。、

 そんな諸々のことも含めて「連休という機会に考えてもらいたいもの」
 私は、薬だけでなく、毒でもコラボして「利他」&「自利」に役立つエネルギッシュな人。金銭的リスクは計算し、精神的リスクを恐れず、行動する人に憧れる。私は足腰が痛み、東日本の現場に立てない。それが一番悔しい。

 私が経験した現場は、2社のオーナー経営者の側近として、また、経営コンサルテイングを通して体感した、多様な欲望をもった経営者たち。


 そんな世の中に果敢に立ち向かう若者たちの出現を望む。
 それには、なにごとによらずとことん突っ込みのエネルギーと、バイタリテイが必須。それに自分なりのトータルな価値体系と大動脈から毛細血管にいたる論理性。=その思考で行けば、ロジカルシンキングも、ディベーも負けることナシ。



 
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by kuritaro5431 | 2014-03-30 09:12
2014年 03月 29日

「課題解決力」なんて言葉はない

… 間もなく新年度。ビジネス界に新たな思いで飛び込む若者の季節。
 できる上司から、できる仲間から、この言葉を使ったとたんに、あなたは「ビジネスパーソンとしては落伍者の烙印」を押される。そのことが分かっている人、無関心な人。それで人生の岐路が決まる。

「問題解決力」が就活で一番力になると採用側は見ていると、このブログに書いた。多くの読者の反応をもらった。入社した人はいま本番に立った。実務でのその力量は未知数だ。だが会社や組織は君たちに大きな期待を寄せている。しかし日々の君たちの言動は、多くの厳しい評価者の視線にさらされている。同期入社の仲間はみなスペークホルダーだ。そんな仲間同士の鍛え上げのなかで親友が生まれる。

 「問題解決力」と「課題解決力」という言葉を同意語に使う人をたまに見かける。私は、それだけで「ゲェ」とする。問題解決ストーリーのなかで「問題」という言葉と「課題」という言葉が何度もでてくる。同意語なら2種の単語を使う必要はない。読む人はその問題解決行動に参加し、行動を共にする人だ。その人はその2語の違いを理解しょうと迷うだろう。迷わすうような言葉は使わず、べクトルを絞るのがビシネスパーソンだ。

 「問題」と「課題」を辞書で引くと、分かったようで分からないところがあり、同意語におもわれる説明もないことはない。それはビジネス用語として使われる前提での説明ではないからである。

 私は、ブログに「問題点」とは、「あるべき姿」とのギャップと書いた。「課題」とは、「ギャップを埋めるためにやらなければならない事柄」と書いた。この捉え方は必ずしも一般的ではないところがあろう。そんなことより問題解決上は、はっきり別のものとする必要があるから、こう書けばみんなストーンと違いを理解してくれるはずと思ってのこと。

 それに「問題解決は」問題を課題化しなれけば解決できないというのが鉄則なのである。
 問題とは、現場のマイナスの拡散された現象のことで、そのまま問題解決の対象にできない。それを対象にして追っかけると徒労のモグラ叩きになるからである。
 そのマイナス現象の真因を掴めば、共通のマイナス因子が見えてくる。それをくくって問題解決の対象にする。それが「課題化」である。ではその課題化したものをどうやって「遂行するか」。そのマイナス現象をいかにプラスに転換、ポジティブ発想で捉えるかである。ここでの「遂行」とは、問題解決行動ではなく、「課題の遂行」のことなのである。勘違いしないように。
 計画書にするなら「◯◯課題遂行計画書」となるのである。

 ここまでの段階で一番大事なスキルは、「課題化」された言葉を「課題」表現するところである。
 問題現象を分析して、課題化までの作業で得た資料を添付する場合もあれば、計画書の「背景」に「はじめに」代わりに書く場合もあるが。いずれにせよ、「◯◯課題遂行計画書」として機能さすのがこの計画書の目的なのである。

「課題化」までもってきた言葉を、プレゼン対象者、またはワーキングメンバーにいかにリアルに活動の必要性を訴え、その気にさす「端的な言葉」として課題がつくれるかにかかる。
 これからはじまる、広い意味でのイノベーション。実務の中から湧く変革へのわくわく感が豊かなイマジネーションを呼び、新鮮なアイデアの呼び水になるような言葉が欲しい。

 このようなスタンスで日常の行動も過ごして欲しいもの。

 以上の理由で、間違っても「課題解決力」なんて言葉は御法度。


 最後に付け加えると、「問題」と「問題点」の違い。
 「問題」には、いろいろなレベルのものが存在し、自分たちの身の丈に余るもの、物理的等で解決のしようのないものも含む。
 ところが「問題点」とは、自分たちが積極的に手を伸ばせば解決できる問題のこと。


 若者たちの輝かしい未来を祝福し、応援します。

 (注)私も過去、そう言っていた時期があっとた発見。よく言えばそれだけ時代と共に言葉に対する緊張度が高まった?

 
 
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by kuritaro5431 | 2014-03-29 06:26
2014年 03月 17日

デジタル解毒ックス

 米他智彦著『デジタルデトツクスのすすめ』PHPを読まれた方、ご存じのタイトルである。
 「デトックス」とは「依存症」のこと。ここでの「デジタル」とは「スマホ」のこと。

 以前このブログにも書いたように(2013.8.8「アメリカの合理主義の典型に反発した想い出」)、私は1969年(昭和44年、38歳のとき今からたった45年前)にIBM360ーモデル20の導入に立ち会った。
 そのときのマシン群は、本体(CPUメモリー8K)、外部記憶装置として5メガのデイスク(直系50センチ、厚さ25センチほど)1機、磁気テープ2機。カードリーダー1機、ドットプリンター1機。オフラインのカードソーター1機。それに入力用のカードを専用の入力伝票よりパンチするパンチマシン10台。これだけが元本社会議室(立席なら40人は入れた)がコンピーター室に当てられた。機械群が設置されたところと、パンチャールームは区切られていた。
 CPUメモリー8Kでは、大量のバンチカード読み込み負荷に耐えられないので、事前にソーターで並べ替えCPUの負荷を軽減させていた。

 なぜこの記事にこんな話をもちだしたかったかというと、たった45年でデジタルマシンは、劇的な小型化をとげ演算マシンから、通信情報マシーンへと大衆化した。在来機能のコンピューターは、情報処理機能を加え、オフイスコンピューター(オフコン)として存在し、さらにビッグデーター処理に大型高速コンピューターが新しい役割をになって確たる座を確立した。
 私は、約半世紀で①「通信情報マシンとして大衆化」②「オフコンの事務作業の効率化に加え、広義の経営情報処理機能の進化」③「ビッグデーターの活用ニーズの拡大等により大型高速マシンの登場」と、3つの分野でそれぞれの役割をもって棲み分けられ発展した、と見ている。

 この記事で取り上げるのは①のカテゴリーにおけるマシンと人との関係である。
 ところが、③のカテゴリーマシンは、超専門の技術者向けのものなのでここでは割愛するとしても、②のカデゴリーのものは、1970年代も現在も、システム開発段階での関与者の発想は、基本的には同じと思えるところがあるので触れないワケにはいくまいということ。
 ①のマシンが市場に存在しなかった1970年代においては、マシン(コンピューター)と人(開発者とオペレーターと加工情報の利用者)との関係は次のようなものだった。

 CPUのメモリーが高価で小さかった時代の②のシステム開発は、プログラムボリームを最小限にするために、企業別の手作りのものだった。
 業務システムの開発目的は「現在の業務手順を標準化して、コンピューターで処理できるようにし、開発投資はかかるが、継続的未来でのコストを削減(事務作業時間=人員)する」であった。この仕事をやるのは、上級SE(システム・エンジニア)といわれていた。現時点の業務をフローチャート化し、改善箇所を発見し、「あるべき業務フローチャート」を作成する。あるべき業務レベルが高いほど、改善効果は高くなる。ところがそのレベルが高いほど現時点との変革が大きくなり、達成のリスクは大きくなる。そのリスクは、社内の「変更反対派勢力」だけでなく「取引先の賛同」も得なければならない。成功する高さの判定ができるSE能力が求められる。
 当時は、コンピューターメーカーおよび代理店は、個別企業の業務の癖までにははり込めず、ユーザーの判断に委ねていた。

 前述の「システム開発に立ち会った」と書いたのは、営業全般の業務改善のプロジェクトが編成され、そのリーダー役をやったことだった。やったのは、「あるべき業務フロー」の営業部門との擦り合わせだけでなく、処理ステップごとの入力伝票の設計、ステップごとの業務処理マニユアル、磁気テープのファイル・レイアウト、プログラムチェックのファンクションコードなどだった。
 もちろん、コンピューターの知識、業務改善の知識の教育をかねて三菱自販のインストラクターが月2回3泊4日の合宿をやってくれた。
 そしてそのインストラクターは、私たちのプロジエクト成果をIBMのSE(コンピューター上の基本設計者)に渡してくれた。この段階でわれわれが設計した方法・手順では複雑すぎてマシンに乗らない。もっと簡素化、標準化が必要となんどもいわれたものだった。
 そんなとき、プロジェクトのメンバーは、その緊急に集まって解決策のこまかなアイデアを出し合って、ときには深夜まで話し合った。
 そしてその案をIBMのSEにもっていき、すり合わせた。
 そうやってIBMのSEからプログラマーに渡され、プログラミングされ何回かのテストと実行を繰り返しシステムは完成された。SEは建築の設計士、プログラマーは大工さんと聴かされた。
 私たちは、IBMのSEには時に会ったが、プログラマーに会うことはなかった。
 自社のコンピューター室長との連携は時に必要だったが、マシンオペレーターとは、話すことはなかった。聴いても専門用語は分からず、コミュニケーションは取れなかった。
 その後、カード入力がなくなり、各職場に画面付の端末が配備されるようになってからは、端末のオペレーション指導は、コンピューター室のオペレーターとなった。

 そんなことで、当時は分業化された社内外の専門職と「業務処理のトラブル解決」でなく「業務改善」「標準化」を通して格好よくいえば、「業務の近代化」「事務処理のイノベーション」と燃えていた。
 私個人としては、システム開発は大変面白かったが、システムノ維持、トラブル解決は面白くなかった。
 入力端末のオペレーションにはまったく興味なかった。

 その後会社を変わって、その先でマーケティング部門や経営企画をやり、3年期限付きで、大阪本社、東京支店、広島支店、福岡支店、名古屋支店、札幌支店の全国商流・物流のネットワークシステムを構築した。そのころになると、CPUメモリーの容量やデイスクの容量も拡大し安価になった。そのために、なにもかも手作りのアブリケーションの時代は終わった。少々ムダでもパッケージ化できるものはパッケージにしてつなぎあわせでーー。となった。その最たるものが超大型のERP。一時は華やかに騒がれたが、カスタマナイズのコスト高、でその後は業務別アプリケーション・パッケージをERPと呼ぶソフトハウスも見かけるようになった。
 
 それ以後、このオフコンの世界とは接触がなく、進化の実態には薄くなった。


 そしてこの記事の本命としての①のカテゴリーにおれるマシンと人間との関係についてである。
 言い換えると「スマホ依存症」についての思いあれこれである。

 まず②のカテゴリー・マシンと付き合った当時の若者や私たちは、すくなくてもマシンの構造とか機能・性能にそれなりの関心を持ち、「アメリカ的合理主義に振り回されてなるものか」という立ち向かう気負いのようなものはあった。当時の電話機のように、マシンをブラックホックスとして決して扱えなかった。
 その理由に、アメリカにキャッチアップしていた日本の経済成長があったから。戦後その時代まで多少の景気の浮き沈みはあっても、GNPは上昇するものとの楽観があった。ところが、その上昇志向は1993年辺りのバブル景気の崩壊。つづく石油ショック。さらに2008年のリーマンショックと経済成長は失速した。でもはじめのうちは景気はやかで戻るものと多くの日本人は思っていた。ところがいつまでたっても景気は戻らず「失われた20年」というデフレ経済に突入した。これは想像を越えた衝撃となって日本人の思考まで変えた。
 後にこの転換期を、何歳で通過したかによって価値観が大きく違うことが表出した。そのことを外に置いての
「スマホ依存症」は考えられないと私は今思う。

 その後、「産まれたときからそうだったという世代」と、「定年前のその時期に遭遇した人」と、「働き盛りに遭遇した団塊の世代」と、「30代に雇用形態(正規・非正規)の変更に遭遇した人」とでは、現在の生活観=ライフスタイルや思考スタイルが全然というほど違うにいたっている。
 人間というものは、その時代の環境体験に如何に左右されるものかつくづく思う。混迷の時代に信じられるものは自己体験が醸す経験による実証。この場合の実証とは、科学のいう実証より、主観的体験という意味合いが強いように思う。

 米田智彦氏の著書『デジタルデトックスのすすめ』によると、日本人の底流にある「絆文化」「人との日常的つながりをこよなく大事にする習慣」「個人プレーより集団でコトを遂行する習性」「共同体社会の日常的和を尊ぶ心根」などをよくも悪くもと、挙げていると、私は解釈した。
 そしてそれは「絆の途切れへの恐怖」から、いつの間にか慣れ親しんだ、いつの間にか使い慣れてしまった
スマホが情動をもった絆の証となった。それは同時に絆が切れる脅迫の道具と化した。と著者はいっていると思った。同時になんでもできる便利な携帯パソコンでもあった。

 パーソナルコンピューターは、1970年頃マイクロプロセッサーとしてエンジニアや一部の愛好家に使われるようになり、やがて小型化、安価なものとなって普及しはじめた。はじめは通信機能はなく、他機種と互換性はある個人情報処理機として、オペレーションの容易さ、さらにブラックボックスの中身を気にさせない肌感覚の情動性が操作者としての購入者を虜にしたといえる。
 さらに、通信機能を備えるようになり、一層小型化し、演算、情報処理より、絆のツールとして本人の知らない気づかない憑依性までもつようになった。

 憑依性さえもつスマホは、物事の認識のありかたまで変えてきたと私は見ている。意識的認識から、あらゆる現象を、知覚的に捉える。意識という脳を使わず、感覚認識がストレートに脳に集積され、何らかの整理をされ収束されたり、判断・意思決定されていく。その認識は、読書で1字1字を読んでゆくような認識ではなく、
PDFリーダーのように、現象を映像的に認識するものと私は思っている。だからさまざまな事象の認識速度は恐ろしく速い。ところが素早く大量の情報認識する能力は高いが、価値体系とか、思考のアーキテクチャーには弱いのではないかと思えたりする。またロジカルシンキングには弱いのではと思えたりする。

 そこでそれらのことについて米田智彦氏は、結果的にそのようなトレーニングをしてしまった結果、考えることを嫌う人間になってしまったのではないという。

 なにごとも「ザックリ」ととか。
 「わかりやすく」とか。
 「長文が読めなくなった」とか。
 「こむつかしい長話」を特に嫌うとか。

 彼らにとって、スマホで検索できる情報は、スマホが使える人間は皆知っていることなので、ザックリ、ワカリヤスク、簡潔にコミュニケーションすればいい、と思っている。さらにツイッターでの応答は、ほんの2.3行。しっかり思いや意見を述べることより、接触してきた相手とつながりを持ち続けたい、即返事しておかないとのけ者にされるから、との恐怖から、と述べている。
 そして、便利なことと、幸福であるコトとは一緒ではないのではともいっている。
 
 私たちの世代は、とっていいのか。私はというべきか、分からないが。パソコンにせよ、スマホならなおさら使いこなせない。オペレーションに慣れずじまいできたから。
 しかし、私としてのパソコンの効用の一番は、百科事典代わりに「知りたい単語の本来の定義」が検索でること。本格的な検索は、『哲学・思想辞典』とか『経営大辞典』その他、できるだけ本格的な事典類から検索することにしている。それらをできるだけ揃えるよう心がけてきたものだった。

 その目的は、「異種の概念や感覚を組み合わせ、新しいコンセプトとかコンテンツとかの創出願望・欲求の顕在化」としている。
 具体的には、言葉の概念の衝突、対意語の増殖とか、活字や映像の衝突とか。

 
 最後に「デジタル解毒ッス」の療法として、複雑で難解な対象でも、逃げず、できれば複雑なまま飲み込み幾つものペンディングタグをぶらさげて、答えを外に求めず、悩み抜き自分で考えること。それを習慣化すること。

 












                 
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by kuritaro5431 | 2014-03-17 16:16
2014年 03月 08日

小説 村のお宮

 毎月一日に国民学校全校生徒が村のお宮に詣でるようになったのは、僕が二年生。大東亜戦争がはしまり敵艦轟沈の写真が教室の入り口に掲げられるようになったころからのことだった。
 いま頃そんな時分の夢をよく見るようになった。
 このときは、軍服の教練の先生が先頭に立ち、校長先生、教頭先生、各担任の先生につづき生徒たちがすすむ。最後に女の先生が追ってきた。若い坊主頭の素足に草履の先生が、羊の群れでも監視するかのように、後になり先になりして生徒たちを見張っていた。
 江見神社は、出雲、伯耆、鳥取、大原、江見、三日月、姫路、大阪、京都、奈良につながる出雲街道の道中にある。その街道から脇に入り、坂道を登ったところのお宮だった。現在の美作市江見、当時は英田郡江見村。
 石の鳥居をくぐり、檜と杉の大木が左右にある参道を十段ほど登ると草野球もできる赤土の広場が鬱蒼とした鎮守の森のなかにあった。
 もう神主の叩く太鼓の音がしていた。
 軍服の士官がピピッィと笛を吹き、先生たちは前に横隊に並び、生徒たちは、両手を前に伸ばし間隔を均等にして敏捷に縦隊を組んだ。
「よーし、これから戦地で戦ってくれている兵隊さんに武運長久の祈願をする!」
 と士官がいい、校長先生の挨拶があった。丸い黒縁の眼鏡に口髭の校長先生は、どこかもの哀しく、弱々しかった。
 また太鼓が鳴り、士官が、
「カケマクモ カシコキ……」
 と祝詞の導入を誘うと、全員が唱和した。

  カケマクモカシコキ
  イザナギノオオカミ
  ツクシノヒュウガノ タチバナノ
  オドノ アハギハラニ
  ミソギハラヘ タマイシトキニ ナリマセル……

 その声は深閑とした森のなかに響いた。
 七十四年もまえの記憶である。
 なん度祈願に行ったかもう忘れたが、祝詞の途中までは妙に覚えている。

 その当時の児童の服装といえば、学習院初等科の帽子・制服に似ているとはいうものの、生地も仕立ても粗末なものだった。それでも顎紐の付いた帽子に、江見国民学校の真鍮の校章がついていた。丸襟に真鍮ボタンの付いた草色のドンゴロスの幼年服に半ズボン。靴はなにを履いていたか思い出せない。
「欲しがりません勝つまでは」といわれだした頃だったから。


 村から出征兵士が出るときは、その家の門に、金の梵天のついた日章旗の旗竿が二本クロスに立てられてられる。そこを潜って白の割烹前掛けに「国防婦人会」の襷を掛けたおばさんたちが忙しなく出入りする。そのなかに僕の母親もいた。
 村に残る男衆たちは、赤紙[召集令状]がくるたびに、一人ひとりの出征兵士のために日の丸の旗に寄せ書きをし、国防婦人会からは[千人針]という晒しの胴巻きに、赤糸のごま粒ほどの結び瘤が五ミリ間隔で一面に並んだ布を渡す。それが習わしだった。
 その晩は、村人が大勢集まって、出征兵士の歓送会。当の本人は息付くヒマもなく歌や太鼓と酒にまみれ朝を迎える。
 朝になると、戦闘帽にゲートルの出征兵士が、隣組の長老から
「銃後の守りは心配せんと、お国のために悔いなく戦ってくれ。武運長久を祈る」
「山本平太郎君バンザーイ」
 先頭に日章旗を掲げた加藤要。彼にも赤紙がすでにきており、五日後には送られる身。つづいて腹に抱えた大太鼓を叩く安原真二郎。彼にも近いうちに赤紙がくるとみんな分かっている。今は掛け替えのない村の消防団長。
 それにつづく今回の出征兵士、山本平太郎。
 ラッパと共に行列が動き出す。

    〽勝ってくるぞと勇ましく
     誓って故郷(くに)を出たからは
     手柄立てずに 死しなりょうか
     進軍ラッパ 聴くたびに
     瞼に浮かぶ 旗の波

 隊列は、バスも通る木組みの土橋を渡り、姫新線・美作江見駅に向かう。
 汽車がきて、万歳三唱してその日も一人戦地に村の若者が送り出された。


 村のお宮は、夏祭りには賑わった。
「環越し(わごし)」もその一つだった。竹の笹と、茅の葉を縄状に練ったものを大きな環にして鳥居の内側にくくりつける。その環を潜ると、その一年無病息災でいられる。
 田んぼの稲は昼間は蒸し返り、夕暮れになると涼しい風が稲田を渡る。そんな夏こそ豊作の年。クーラーもなく、どの家も障子開けっ放し。団扇と蚊帳と蚊取り線香の夏。 
 夕日が山の端に沈みかけるころ、お宮の太鼓に誘われて、村の老若男女がゆかたに下駄、団扇を持って、隣近所誘い合いお宮に向かう。参道には今と変わらぬ夜店が出て、綿菓子や、射的、金魚掬い、風船釣り、リンゴ飴もあったっけ。
 その頃の夏の宵を思うと、いつも小川の草むらの螢が瞼に現れる。でも、螢がでるのは確か五月頃。夏祭りは土用の丑の日だったから勘定が違っていた。


 秋の祭りが過ぎ、家々の軒下に干し柿の縄のれんが吊される。
 十一月が近づくと、各字(あざ)の男子児童たちは、子供たちだけで行う「亥の子」の行事の準備に取りかかる。
 亥の子の行事とは、十一月初めの亥の日に、国民学校の児童が、直系二十センチほどの御影石(ちょうどカーリング競技の石ぐらい)の胴に溝があり、そこに胴巻きの鉄が巻かれ、その胴巻きの鉄にロープを通すリングが八ケばかり付いていた。それに三メートルほどのロープを八本通し、八人の子供が亥の子石に繋がれたロープを持って石の周りを囲む。
 一斉にロープを張ると亥の子石は浮く。
 さらにロープをしゃくり上げると、子供の背丈ほど石は宙に浮く。浮き止まったところで、今度はロープをしゃくり降ろす。ドーンと地を打った。
 そんな調子で字の家々の門先で亥の子石を五、六回づつ搗いて回る。舗装もなかった門先には、二、三センチの穴ができた。その家の繁栄と、家族の無病息災を子供たちが祈った印となった。
 その晩は、各家々に提灯が提げられ、子供の一団がくるのをどの家も待っていた。
 子供たちは搗き終わると祝儀がもらえた。さつま芋の蒸したもの、あめ玉、金平糖、金一封もあった。
 それが、子供たちだ゜けでなにもかも取り仕切る「亥の子の行事」だった。

 その日に備えて六年生と五年生の男の子たちで、お宮の物置にしまわれている亥の子石を取り出して水洗いし、金具類を菜種油で磨き、安全を確認した。ロープも大丈夫か確かめる。手入れが必要なときは、子供たち自身で鍛冶屋に行き、また雑貨屋でロープを新調する。それが何代も昔からの習わしだった。その仕来りは、綿々と引き継がれていた。書いたものなどなかったが。
 当日のスタート場所は、お宮の境内の下の一画だった、児童が三十人は集まれるちょっした広場だった。
 その中央に、高さ四十センチほどの砂山がつくられる。その砂を河原から調達するのは三年生、四年生の仕事だった。笊(ざる)やバケツで採取した砂で砂山をつくる。
 砂山一面に小菊の花を指し、頂上に大輪の白菊を置くのは、二年生、一年生の仕事だった。その日の二年生、一年生は、昼から二、三人づつ連れだって、菊の植わっている家々をまわり、二、三本づつ菊の小枝をもらってくる。村人は心得たものだった。竹籠はすぐに一杯になった。
 砂山ができ、小菊を集めた児童が集まったのは、予定の四時だった。
 四年生、三年生が鋤簾(じょれん)で砂山を整え、その砂山に、二年生、一年生が各家々からもらい集めた小菊をみんなで砂山に差し込んでいった。
 砂山の頂上に指す大輪の白菊は、お宮の宮司の育てた白菊をもらうのが習わしで、六年生の大友健二がもらい受けてきた。
「さあ、これで準備はととのった。みんな御幣を持って六時に集まろう。不慣れな一年生の面倒は上級生がみてやってくれ。夜は冷える。厚着でくるように。解散!」
 と大友がいった。

 そして六時が近づき、子供たちは、おなご竹に御幣を指して、三々五々集まった。
 御幣は三年生以上はみな自分でつくった。一、二年生の児童は、おなご竹の調達から、鋸、肥後守の使い方、半紙を切っての御幣の作り方やらは、父親や、上級生が手ほどきする。そしてやがて自分で作れるようになる。
 全員が集い、いよいよ行事のスタートだ。
 子供たちが一番燃えるときだった。
 大友のかけ声で、上級生が八本のロープを掴んだ。亥の子石の中央に、へそといわれる穴があり、その穴に大友が御幣をさした。
「これでいくぞー。それ!」
 大友のかけ声で、八人は一斉にロープを張り、力一杯踏ん張った。すると「亥の子石」は宙に浮いた。さらに三人の六年生が駆けより、亥の子石を抱きかかえ、八人プラス三人で、砂山の頂上を目指し走った。
 緊張が漲った。
 亥の子石は、無事砂山の頭上で止められた。
 これからみんなで大輪の菊の頭上、どこまで高くしゃくり上げられるか。その年の子供たちの力を占うものだった。
 金輪の近くのロープを持つ者、なかほどのロープを持つ者、一年生の児童も、一番端のロープを握った。
「そーれ」
 と大友が一段大きな声で叫んだ。
 そして高々と宙に舞う亥の子石。高ければ高いほど、打ち下ろされたときの衝撃はつよくなる。美しく飾られた菊の砂山が破壊されることになる。
 その破壊力は、昔村人を苦しめた疫病であったり、天災であったり、また人災であったりする魔物退治のパワーになると、先人達が考えたのかも知れない。
 その年の亥の子石は、思いの他高く上がり、美しい菊の砂山を一撃で破壊した。さらにその場で三、四度搗き砂山は崩された。
 その勢いは、今思えば、上級生達の出征兵士への生還の祈りと願いを思う得体の知れない不穏と不安。そして怒りにも似たパワーだったか、と思ったりした。

 子供たちの「亥の子歌」の合唱がはじまった。

    〽 亥の子の夜うさ
      餅つか者は
      鬼産め 子産め
      角が生えたら
      蛇産め
      繁盛せい
      繁盛せい

 そしてその晩は、夜遅くまで子供の歌が村に流れ、威勢のいい石搗きの音と、子供たちと村人達とのやりとりの声がして、夜は更けていった。(了)








                
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by kuritaro5431 | 2014-03-08 18:30