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2014年 01月 28日

アニメ「風立ちぬ」の3つの評価

 私の評価は、いたって個人的記憶からきた評価だった。2013.8.18のこのブログに書いた。
 今日は、その後何人かの批評を読んだが、興味深い3つの評価を取り上げてみたい。

❶ある大学の教授によれば、「風立ちぬ」のテーマは、「昔の時間と現代の時間」といっていた。どんどん時間のピッチ早くなってきた。その言葉には、効率重視のための時間/コストという意味が読み取れる。
 そのことについての私の連想は、次のように膨らんだ。
 ことに製造業においては「限界利益管理」という管理手法は重要な利益管理の一つとされてきた。その原理は、進化し今日に至っている。
 限界利益とは、ご承知のように、[売上ー変動費=限界利益]のことである。問題は変動費の中身である。変動費とは、その製品(単品)ができあがるために要する直接原価のすべてのこと。それには大費目(大くくりの経費項目)としての「材料費」「外注費」「労務費」の3つが要の直接原価として捉えようとしている。「材料費とは、その製品に使用する材料・部品のすべて」「外注費とは、その製品完成のために必要な加工等を外部の会社に依頼して掛かる外部支払い費用」、「労務費とは、工場でその製品製造に直接携わる作業者の該当製品製造に要した人件費/時間コスト。その作業者の総人件費を時間・分に換算したコスト。多種製品が混在しながらベルトコンベアに流れる中、その作業者は、単品別にどれほどの時間/コストを掛けたを調べ時間換算し、個別製品原価の把握に役立てる。→「個別原価管理」によるコスト改善→そのメリット、デメリット。
 というように、生身の人間も、無機質な「材料費」や「外注費」等と同じような、製品製造の直接原価なのだから、安い程いいということになる。工場作業者の総人件費には社会保険(厚生年金・健康保険料・失業保険料)や教育研修費・会社独自の福祉・保養費なども含まれる。
 工場作業者以外の社員は、変動費(製品製造の直接原価)としてでなく会社全体の経費・一般管理費として扱われてきた。ところが、バブル景気崩壊後は、事務系の社員も工場作業者と同じように、時間当たりの生産性が叫ばれるようになり、事務作業時間、企画立案制作時間、新製品開発時間、等々、時間当たりの成果が各社で問われるようになった。そして「成果主義人事制度」の導入となり、それでも全社総人件費と生産性の効率は悪く、人件費は、人材育成の投資という思想からから間接人員の人件費も変動費扱いされるようになった。そして、時間当たり生産性の上がらない社員は、部門を問わずリストラの対象となる時代になった。さらに、雇用調整のしやすい非正規社員の構成人員比率を上げた。
 その結果、「風立ちぬ」のテーマが現代を象徴するという評価であろう。


❷音楽家の千住明氏は、阿川佐知子のインタビューで、「風立ちぬ」とは関係のない自分の演奏会の話のなかで最近の聴衆者の反応として、緩いテンポのものを求めている傾向が感じられるといっていた。
 私は、その一因として、「成果主義人事制度」の弊害は、かなり以前からいわれるようになっていたことを思った。その弊害を一般社会現象として感じており、一般聴衆も同じ感じでいたのではないか。企業活動からは歓迎できない流とはいえ、経営者サイトはジレンマを感じているようだ。
 私も「成果主義人事制度」をいくつか手がけたが、基本的には、成果主義賃金は、27歳以上、本格的には32歳以上、45歳以上は年俸制、若い時代からブロジェクト型組織に参加させ、量的成果の会社貢献と、質的会社貢献を自ら選び、社会、時代における、自分の「売り」をどこに置き、今ならいくらで買い手のつくが、フリーの労働市場でいつも気に掛け、「これからの方向性」観察と、自己のバーソナリティなり、キャラクターと相性のいい自分らしい、フラットホーム。それをある人は、自分の力量にあったコンピューターのOSのようなもの、ある人は、乗せ替え可能な乗用車のフレームみたいなものといった。
 昔から、仕事の早いマン、ウーマンは、いくら忙しくても涼しい顔をしているので頼む方もなにやら頼もしく思ったもの。だからいつも彼や彼女のところに仕事が集まり、結果的に生産性が上がっていた。


❸「テルマエ・ロマエ」の日本映画で大ヒットし、一躍有名になったヤマザキマリ(女流漫画家・46歳・イタリア在住)は、イタリアのベネチア映画祭に「風立ちぬ」がノミネートされながらなぜ落選したのかの理由を次のように述べている。
 イタリアの生んだ世紀の物理学者エンコ・フェルミ(1938年ノーベル賞──人類初の放射生元素の発見)。後、原子力核分裂の……。妻はユダヤ人であったためムッソリーニの弾圧をうけ、一家でアメリカに亡命。シカゴ大で世界最初の原子炉[シカゴ・パイル1号]を完成させ、原子力連鎖分裂の連鎖反応の制御に史上初成功した。
 私は、数年にわたってシカゴ大とかかわりを持ったきっかけで、彼と放射線・そして原子爆弾のつながりを知った。
 実は今年の夏、日本に帰国した折りに宮崎駿監督の「風立ちぬ」を見ている間中思い出していたのが、このフェルミという人だった。
 かたや飛行機のエンジニア、もう一人は物理学者、なんの関係もなさそうな二人。にもかかわらず、お互いに大好きで突き進めていた開発や研究(まあ、フェルミの場合は、見つけ出したものが破格にとんでもなかった……)が戦争という辛辣な運命に巻き込まれてゆくところは相似していると思えた。
 ベネチア映画祭で「風立ちぬ」が上映されることを知ったとき、フェルミという人物を生んだイタリアがこの作品の主人公をどう見るか、相対的にどんな評価がされるか個人的には興味があった。
 ちなみに、イタリアでは田舎でも、宮崎アニメの認知度は高く、私の周りにも沢山のファンがいた。普段アニメの類は決してみない家の姑すら舅から見せられた「赤い豚」を「アレはよかった」と繰り返すぐらい宮崎駿の作品は他のヨーロッパの人種よりも殊の外イタイア人は心にとどく何らかの要素があるようです。
 「虹の豚」に関してはアドリア海が舞台になっている理由もあったと思う。それ以外の作品でも高い評価を得ているのはやはり宮崎駿という作家であると同時に〈モノ作り職人〉として[妥協のない仕事]をそこに認めていることがいえそう。

 古代ローマの時代から、究極の人間技を発揮した完成度の高い創作品に感動したりすることが大好きなイタリア人。それは彫刻や絵画のような美術であったり、音楽や映画のような瞬間芸術であったり、またフェラーリやオリヴェッティのようなテクノロジー関連であったり、また、物理や天文学といった科学的発展への携わりも含めて〘センスと集中とファンタジーの生き物〙である《人間性が潔く確立化したものであれば、真っ向からそれを評価しようとする姿勢がこの国の人たち》にあるのです。
 宮崎駿のアニメーションが高く評価されるのは、こうした彼らの審美眼に氏の作品が十分叶っているからに違いありません。しかも「風立ちぬ」では、イタリアの誇りである航空機エンジニア・カブローニが日本人である「主人公」の憬れとして登場するわけです。
 そういう意味から、日本では様々な論議を醸した作品でありましても、先述のフェルミという存在の認識の免疫も含めて、イタリアではどう受け止められているか。今までのミヤザキ作品と向き合うとはワケが違う、という前フリは、日本での公開時からイタリアのメディアで伝えられていたので、今回の映画祭のプレミア上映に関しての記事を読むのを楽しみにしていました。

 しかし、この映画祭のタイミングで宮崎駿の引退が発表されてしまったため、イタリアの各メデイアは「風立ちぬ」の論評よりもまず、【まず、これがミヤザキ最後の作品だ】の【「生きねば」というコンセプト、ミヤザキ引退の理由が健康と関係のあらん事】などといった見出し一色状態。【中身もやはりサヨナラ示唆してくれた作品だったのか】という最後のフィルターが掛けられた内容のものが大多数で、これでイタリア人が得意とする作品に対する真っ向な容赦のないカメラも無い大胆な考証がなされなかった批判に全く辿りつけません。
 やっと一つの新聞批評がエンリコ・フェルを引き合いにだしたが、それも引退のネタを抜いた全体の1/3程度の記事の中の一行だけ【主人公ジローの立場は、われわれもよく知っている物理学者に思いあたるところだが】というような案配で書かれている程度。
 せっかくだからフェルミを連想したこの記者の見解をもっともっと読みたがったが……残念。
 まあ確かに、彼らにとって失うには惜しい貴重な文化人が制作をもう続けないといっているのですから、作品の内容よりも「ミヤザキ引退」が大事件であったことは間違いありません。なので今はただこの寂しさにやり場の無くなった騒ぎが治まり、イタリアのミヤザキファンの諦めが鞣された頃に、誰かが面白い「風立ちぬ」評を書いてくれるのを待つしかなさそうです。


 私はこのミヤザキマリの記事に深い含蓄をいくつも感じた。そして「深層の記憶」に関心をもっいた1つにあった、1945年ロペルト・ロッセリーニ監督作品の「無防備都市」をアメリカで見たイングリッド・バークマンは、夫も娘もほっとらかして、ロッセリーニのいるイタリアに飛んだ。そして大きなリスクも省みずロッセリーニの胸に飛び込んだ。男女の縁におおらかなハリウッドでさえ彼女の行動を非難し、以後しばらくアメリカ映画界は彼女を許さなかった。そしてバーグマンは、ここに書かれたイタリアで、彼女らしく「潔く真っ向から生き演じた」。
 民族の現場で生き、体感したミヤザキマリのパワーと感受性は、到底私の及ぶところではない。
 フランスの監督、アラン・レネの記憶。阿頼耶識の記憶。フロイトの無意識世界の記憶。
 81歳の私の体力は、もうほとんど現場に入り込み、こそで生きている人たちの苦痛も喜びも体感的にも、知覚的にも認識する術はない。虚実ない交ぜの氾濫情報を受動するのが精いっぱい。そして選別と選択しかできるコトはない。そのため体力維持に、はじめたプールでの水中歩行。







                
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by kuritaro5431 | 2014-01-28 07:25
2014年 01月 09日

職業としての政治家の倫理・「責任倫理」と「心情倫理」

 安倍政権の一連の動向に、考え込んでしまっていた私は、「双極性~」の記事を書くのに21日も思案にくれていた。その動向にさらに拍車がかかったのが「安倍総理靖国神社参拝」だった。それでも苦悶しながら何度も書き直し、なんとか書き終えたが、けりがついた思いにはいたっていなかった。

 その翌日の2014.1.8、BSプライムニュースで「安倍首相靖国参拝」問題が取り上げられた。「櫻井よしこ氏は国益論」を、「中野晃一氏は政治家の責任倫理」を互いに語った。櫻井よしこ氏はジャーナリストとして、中野晃一氏は上智大・国際教養学部教授として。

 このブログの記事では、私が一番関心をもった社会学者マックス・ウェーバー(ウェーバーについては、特に私個人としての思い入れがあったからでもある。このブログにも再三書いた)の唱えた「職業としての政治家の倫理」としての「責任倫理」と「心情倫理(信条倫理)」に絞って書くことにする。

 私なりにピックアップした「責任倫理」と「心情倫理(信条倫理)」の説を記述し、私の思いを随時間に挟むことにする。

☆ウェーバーは、『職業としての政治』においては、定式化した異なる2つの倫理観にもとづく人間の行為の類型である、としている。
 「心情倫理」とは、「自らの行為の価値を純粋に信じて、その結果は神に委ねて省みない態度であり、「責任倫理」とは、予測できる限りで自らの行為の結果を考慮し、その責任を引き受けなければならない、という態度としている。
 政治判断においては、ある目的に、しばしば道徳的に疑わしい手段(たとえば軍事力や警察力の行使など)の選択を迫られることがあり、こうした政治の問題において両者の緊張関係はもっとも先鋭化されると考えられている。よって政治家は、心情倫理的には容易に容認できないような手段の必要にせまられた際に、それを自らの責任倫理的な判断によって選択するか否か、という緊張に堪えて職務を遂行しなけけばならない。(蓮尾氏文より) 

☆ウェーバーによって定式化された、個人的行為を倫理的に方向付ける際に準拠される格率(倫理学でいう行為の基準)の、対立する二類型。
 「心情倫理的」に行為するとは、もっぱら当の行為自体の固有価値に定立し、結果を度外視した志操(固く守って変えない主義)の純粋さをもって自らを正当化せんとするものである。これらの宗教的定式化は「キリスト者は正しく行為し結果を神に委ねる」となる。(中野氏文より)

☆「心情倫理的」に行為する者は、ひたすら行為そのものに固有な価値をみとめ〈結果〉を度外視して、心情の純粋さをもって行為を正当化する。宗教的場面でいえば、「キリスト者は正しく行為し結果を神に委ねる」という主張がその典型を形成することになる。行為に随伴する悪しき帰着はその際、他者たちの無知や神の悪意に帰せられることになる。(熊野氏文より)

★「心情倫理」は、宗教的心情・信条と似ている。(信じる→信仰→絶対的価値へ)、 一神教3兄弟(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)こそ心情・信条倫理そのもの。ゆるやかな多神教の日本においても、厳しい戒律で一神・一佛を信じれば、「心情倫理」は格率する。神佛でなくても、流行りの「臨床心理教」「断捨離」も、カルトになり得、格率する。(ブログ筆者)

☆ウェバー用語。殉教などにみられる[価値合理的行為]の根底にある倫理で、「責任倫理」と対概念。、「キリスト者は正しく行為し結果を神に委ねる」というように、結果の成否よりも倫理的行為そのものに価値をおく、行為者の純粋さを重んじる信念本位の倫理。心情倫理とも訳される。(社会学小辞典)

★2012.7.14に書いた「漱石もマックス・ウェーバーも現代を予言していた(1)」の記事のなかの「マックス・ウェーバーの「3つの合理性」の①に該当する[価値合理的行為]。
 ①価値合理性
目指している価値と、自分の思考過程なり行動なりとの間に、論理的一義的かつ明晰な意味関連の存在。
 ②目的合理性
特定の目的達成のために、いかなる手段を選択すべきかが目標となるから問題となるのは、特定手段選択と目的達成との間にみられる因果関係が論理的に明晰にかつ一義的にとらえられていること。
 ③形式合理性(因果合理性)
単なる目的合理性にとどまらず、さまざまな事象を数理的に、できれば数学的にとらえることによって、的確な予測を可能にし、さらにはまた目的合理的に対象に働きかけて、目的を実現させるための能力を著しく高めるという結果を生み出すもの。
(注)この「価値合理的行為」および「価値合理性」は、1991年のイラク戦争におけるサッダーム・フセイン、イラク大統領の行為に該当すると、当時私は思ったものだった。(ブログ筆者)

☆カントは、『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785)において、手段か自己目的かによって「仮言命法」(仮説を立てて、いつも相対化して判断する方法。ブログ筆者注)と「定言命法」(その言葉を絶対視してぶれることのない法。ブログ筆者注)とを区別し、仮言命法としての「熟練の規則」と「怜悧の勧告」、定言命法としての「道徳性の(法則)という類別を提示した上で、定言命法の優位を強調した。「行為の本質的善は、その結果の如何に関わらず、その心意に存在する」のであって、「たとえ行為が結果を遂げなくとも、行為において自らを顕現させようとしている」ような「意思の格率」が「心情(心意)」だといわれるている。仮言命法に従い幸福の追求を旨とする経験的・実質的な目的設定としての「結果」の原理と、定言命法としての道徳法則に従う意志の自律に基づくア・プリオリで形式的な目的設定としての「心情」の原理とを、カントは対置としいるのである。(横田氏文より)

★「行為の本質的善は、その結果の如何に関わらず、その心意に存在する」のであって、「たとえ行為が結果を遂げなくとも~」云々の下りは、第二次大戦下の日本海軍の特攻隊、イスラム原理主義の自爆行為に近似の情動を思わずにはいられない。とはいえ、日本の特攻隊員のすべてが「靖国神社で会おう」といったわけではなかった。友とそう言って飛びたった若者でも神国国家日本の元首・天皇陛下への誓いであってのことだった。
また、「手段と目的」の関係においても、ウェバーの「3つの合理性」の②との絡みを思わずにはいられない。
(ブログ筆者)


 これからの記事は「責任倫理」を───

☆「心情倫理(信条倫理)」に対して責任倫理的に行為することは、その行為が不完全な人間たちからなる倫理的には非合理な世界のなかので行われることを考慮し、あり得べき結果にも行為者自身が責任を負うべきものである。。(中野氏文より)

☆責任論的に行為する者は、人間の不完全さを認め、予測可能な行為の結果に対して自ら責任を引き受ける。(熊野氏文より)

☆「心情倫理(信条倫理)」に対して「責任倫理」とは、行為が引き起こす結果を予想・考慮して、倫理的に悪しき手段を用いてまでも、(二枚舌・国民感情操作のブロパガンダなども含め・ブログ筆者)実現しようとする態度のこと。(橋本氏文より)

★私の(注)は、思い過ごしのイマジネーションか。アメリカのマーケティング協会のマーケティングの定義にしても、生産された商品を消費者が買いたくなるよう媒体やイベントを通して購買意欲を操作するというニュアンスを公然と含めている。政治においても独裁国家はいうまでもなく、民主主義国家・自由主義国家においても目的(ウェバーの時代に理想とした資本主義社会)達成・実現の手段として媒体をプロパガンダとして活用されている。その違いは為政者の自己目的か、大義目的のための手段かで別れるようが─。大義とは、本来人間幸福論的「善」が、「共通善」として国境を越えてあり得るか問われたものだ。そのことは、政治哲学のサンデル教授も話題にした。「責任倫理」においても、一つ誤ればオーバーシュートする危険を孕んでいる。政治とはそんなもの。制御と、バランス、こそ人間の理性というものか。それは国益のために秘密にしていた情報を何年後にオープンにするかにもその意志が含まれている。(ブログ筆者)

☆ウェバー用語。「責任倫理」は、信念倫理の対概念。特定の価値理念(特定の目的→すべての価値にではなく、あくまでも「特定の」。ウェバーの3つの合理性の②の、「特定の目的達成のために、いかなる手段を選択すべきかが~」云々の後につづく、目的と手段の関係設定に、ウェバーのある意味の健全性は感じるが)の規範性に自分の行為がかなっているかという意識のみに満足せず、つねに特定価値の実現のために、その現実的諸前提を冷徹に観察し、結果に対する責任をもって一種の倫理的命令とみなす義務感のこと。(社会学事典)

☆ウェーバーの『職業としての政治』(1919)のなかで対をなして語られている「心情心理」と「責任倫理」とは、第一に、当の理念を堅固に把持する立場と結果を重視して方策を練る立場という形式上の対照と(これは『社会学の基礎概念』の中の「価値合理的行為」と目的合理的行為」との対照と重なる)、第二に、キリスト教倫理と政治家の倫理という実質上の対照、を含意している。(中野氏文より)

★この見解は、まさに私も体験したVE(Value Enginering)=価値工学。1960年頃アメリカより日本に導入。価値(Value)=機能(FanctIon)/コスト(Cost)。目的は、対象となる商品やサービスの価値改善、または価値創造の理論と実践につながるもの。 V=F/cで表されるように、同じ機能でもコストが下がれば価値はあがる。同じコストでも機能が上がれば価値はあがる。コストが下がり機能が上がれば、一層価値は上がる。この理論の背景にウェーバーの3つの合理性があった。VEは、ものづくり産業の代表格の大手製造業において日本の高度経済成長を支援した。物づくり現場でのVEをハードVEといい、後に事務系現場においてもホワイトカラーの生産性向上にも適用されるようになり、これをソフトVEと呼ばれた。ウェバーの3つの合理性は、正確には、ソフトVEの理論的背景として日本では扱われていたように思える。
 コストに時間が含まれるとの認識は、日本の生産性向上に大きく寄与した。その背景には「テーラーの科学的管理法」があった。欧米では起点となっていた。「人間は本来働くこと=労働は苦であり、できれば怠けたい、サボりたいもの。だから働き方を管理することによって生産性は向上する」とした人間性悪説。効率化の概念は、仕事を段取りよく早くこなす、との意と解する。そうすることによって人件費コスト(労務費)/時間が下がる。この一連の流れは、西洋と東洋の宗教観、族意識の違いからきているところ大と私は考えた。日本的経営では直接原価としての労務費と、一般管理費としての人件費の区別もつかなかったから肝心の限界利益管理が甘くなり、個別原価はなおさらのこと。その次にきたのが「成果主義人事制度/成果賃金」。さらに「定期雇用/正社員」「不定期雇用/非正規社員」と。そして今、これからの賃金と消費/購買の関係。
 映画「風立ちぬ」のテーマは、昔の時間と、どんどん早くなる今の時間、といった人もいた。ある世界的な音楽家は、各国でも最近ちょっと時間の流れが緩やかになってきた、といった人もいた。手間の掛かる日本料理が世界遺産になり、その流れは確かにある。手間を掛けた職人文化と日本の美意識。また、サムソンとシャープのグローバルマーケットでの勝負はついていない。これらも含めて「責任倫理」を考えたい。(ブログ筆者)

☆しかし対立は? 両者は必ずしも対立するものではなく、行為の純粋性とその責任を引き受ける態度を同時に求めることは決して不可能ではない。おそらく、行為そのものの価値を問うこと、そしてその結果にどう対応するかということ、その両方をつねに考えることが政治の問題、あるいは、そのほかあらゆる社会の場面において求められるであろう。(蓮尾氏文より)

☆「責任倫理」の実質をなしている政治家倫理においては、形式レベルにおける「心情倫理」と「責任倫理」とが相補的なかたちで両立しなければならないとウェバーはいう。すなわち、「結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間──老若を問わない──がある地点まできて、『我ここに立つ、他なるあたわず』というなら、それははかりしれないほど人のこころを打つ。その限りにおいて心情倫理と責任倫理とは絶対的な対立ではなく、むしろ、二つながら相俟ってはじめて、『政治へのベルーフ(プロ能力・ブログ筆者注)』をもちうる本物の人間を形成するような相互補完関係にあるといわれるのである。ここで要請されるのは、目的(結果)を状況の中で手段や随伴結果と共に考慮して(「責任倫理」)、ある決断に至ったとき、その決断をあくまで貫徹すべく、もはや状況が決断を動揺させる事態になろうとも、頑・・80 として初期の目的を揺るがせにしない(「心情倫理」)、という「心情倫理」と「責任倫理」との相互媒体な倫理なのである。(中野氏文より)

★、『我ここに立つ、他なるあたわず』を思うとき、ゆるいなんの縛りもない集い、「哲学のことなどなにも知らなくていい」という「哲学カフェ」も多い。そんな突っ込みの薄いサロンなどから生まれようのない精神とも思える。悩みに悩んだ末の境地であろう。凡人が到達てきる境地ではない。私が「漱石もマックス・ウェーバーも現代を予言していた」記事を(1)(2)(3)(4) も書いたのは、姜尚中氏の著書『悩む力』が発端だった。
2012.7.14から今日まで70もの記事を書き悩み続けた。そして81歳になった今なお悩みつつけている。「正解のない時代だから、多様な生き方があっていい」「悩んで生きる人も、現代を深刻に考る人も、気楽にお笑い番組で時間を消費するもよし、人それぞれ」「ことさらわれわれの力で及びようのない政治や経済に立ち向かったり、体制の裏や陰謀を掘り起こしても、われわれになにができる? リスクの少ない生き方の選択肢はいまでもある。という流れもある。日本では、IQ、偏差値、の高い[選民自覚]の人たちが狙うコース。ところがそれにブラス地頭力と、眼力の違うスゴイ・モチベーションの[若者族]が他国にはいる。サンデル白熱教室はそれを世界に晒した。お笑いのコンテンツも変わった。視聴者はノンボリばかりでなくなった。
「頑・・80」という野田氏のことば? 「頑」の意は、肯定、否定の両方のニュアンスがある。肯定的には「自説を曲げず反骨を貫く」。否定的には「忠告をしても聞き入れない」「頑固」がある。80は、「80歳にして」という意味か?。[8]という数字には謎めいたものが西欧にも日本にもあるようだ。政治哲学のサンデル教授も、人間の持つ、ここでいう「心情」を「感性」という言葉で大切に扱うと語っていた。(ブログ筆者)

☆もちろんこの二つの格率は、絶対的に対立するわけでなく、むしろ心情倫理性を備えた責任ある態度こそ、結果さえよければという単なる結果倫理に堕すことのない、真の責任倫理性だということができる。とはいえ、ある目的を成就するために道徳的には疑わしい手段を不可欠とするような場合、この二つの格率の対立は深刻なものとなる。そして、実相は、つねに緊張を強いるのである。。(中野氏文より)

☆ことに政治の領域あっては、善き目的の実現は、倫理的に疑わしい手段おも要求し、副次的な悪しき結果を招来しうる。政治が権力をともない、権力の背後には暴力が存在する以上、政治にとって決定的な手段は暴力そのものであるからである、とウェバーはいう。問題のこの場面では、心情倫理は無力となる。心情心理に行為しようとする者は、なべて、この世界の倫理的非合理生に耐えることができない。心情倫理が求めるものは魂の救済であり、それは政治によっては充たされず、他方、暴力によってのみ解決しうる類の政治的課題を前に魂の救済は危うくなるからである。
心情倫理が安易な免責、安価なロマン主義と結びあうとき、人はむしろ心情的には動かされない。しかし、だからといって、政治に心情が不要であるわけではない。人が心情的に動かされるのは、かえって責任倫理に従って行為する者が、『我ここに立つ、他なる能わす』 と語るときである。それは結果に対する責任を心底から引き受け、しかもその心情において純粋であるとき、心情倫理と責任倫理は結合し、保管死合って、政治を天職とする真正の人間を構成するすることになる、とウェーバーは説く。(熊野氏文より)

★「魂の救済」は、宗教の仕事であり、音楽・文学やアートの仕事でもあった。過去の成果にも見ることができる。その成果へのプロセスは、安易な免責、安価なロマン主義を越えた創作者のみがなしえたものであった。
それは、政治という形而下世界を越えた形而上世界へのつながり、「生と死」、「命の継承」をイマジネションできる人間の能力でもあったといえないか。
それかといって、人間の生の営みの中で遭遇する「問題の場面においては」「優しさ、慈しみ、助けあい、絆、神仏の願(がん)へのすがりなど」は形而下世界(この世)では無力といわざるを得ないようだ。

☆ただし、心情倫理は無責任な態度ではなく、責任倫理は無信念ではない。心情倫理は、自己の良心に従う責任を引き受け、責任倫理は、断固たる態度で行動するという信念を引き受ける。この2つの倫理は、必ずしも対立するものではなく、「意図の純粋性」と結果を考慮する「責任」を同時に引き受けるような「心情ー責任倫理」の立場もあり得る。しかしウェバーは、およそ善い目的を達成するためには、道徳的に正当化し得ない政治手段に訴える必要があると考え、悪魔との結託を覚悟する責任倫理を政治的に優れた実践理念とみなした。(橋本氏文より)


 ウェバーが1905年に提唱した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の思想は、西欧近代を他を凌駕する資本主義として発展させる原動力となった。宗教倫理と合理性の理念は、マルクス主義との対峙となったが、その後西欧では資本主義と民主主義が融合して発達した。さらに資本主義は経済力を軸としてアメリカが20世紀の覇者となった。
 そして第二次大戦後の戦後処理(戦勝国と敗戦国)の幾多の矛盾のなかで、日本はアメリカ版の民主主義と資本主義に馴染み、未曾有の経済成長を遂げた。
 ところが、資本主義の転換期といえる、バブル化した景気の崩壊と、長期化したデフレ経済期を迎えた。そして政治・経済・安全保障・外交交渉など無関心、無知だった日本国民は、グローバル化してゆく環境変化について行けず、馴染めず、国益・国家・国境・安全に対する対応思考の欠如を露呈した。そしてさらに2度に渡る大震災と、予想もしなかった原発被害。大多数の国民は、懐かしい共同体社会の連帯と絆のDNAに呼び覚まされたかのように一斉に情動した。民主党政権の政治、そして今政権の政策展開と実行をつぶさに見聞した国民は、資本主義経済の隠された影を体感した。
 その影の正体は、ウェバーの「悪魔との結託を覚悟する責任倫理を政治的に優れた実践理念とみなした」に起因していると私は知った。巨大化したパワーの流れは、世界規模でバランスを崩しかねない危機を感じるも、多様化した価値観は、マクロ・ミクロのあらゆるところで統合できないジレンマに晒されている。
 今は、情動に流されず、自己能力でできる限り冷徹に、さまざまな環境を観察し、個体としての自己存在も、善悪混濁の社会でさまざまに起こる事態をバランスよく泳ぐような術を磨き、生活、命の継承がより健全であるように悩み、越えてゆく。それが私の「願・・81」の願いと思うことにする。








                 
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by kuritaro5431 | 2014-01-09 17:27