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2013年 09月 29日

「半フリー契約」の働き③

 そして、1991年頃バブル景気は崩壊した。
 バブルの残照を引きづりながら、その深刻さがボデーブローのように国民生活に浸透していった。日本的経営が崩壊し、日本人の価値観を一変させる大きな転換期となった。その深刻さを実感するまでの1.2年、サラリーマンの多くはゴルフ三昧でカジュアル消費の時間をまだ謳歌していた。

 私にとって、また戦後第一世代にとっては、「終戦の日」につぐ価値観大転換の期であった。それは、景気の好・不況もコントロール可能なものとする経済学に馴染んていった必然だったような気がする。そうかどうかは、今だ不確実のままであるが……

 その頃(1990年・平成4年・バブル景気崩壊の1年前)日本政府は「国民生活審議会総合政策部会」において、日本的経営を支えた没個性の集団主義からのベクトル変換を示唆する検討をはじめていた。その結果を1994年(平成6年)経済企画庁国民生活局編『個の実現を支える新たな絆を求めて』を発表している。そのときすでにバブル崩壊から3年たっていた。そのことは2012.9.1のこのブログ「「自立」と「実学の関係」」のなかで私は触れた。

 〘突然ですが〙

 「山崎豊子・88歳死す‼」の訃報。
 日経10.1のコラム「春秋」。取材を積み重ねてゆくエネルギーは、なまなかではない。その厚みが、現実とフィクションのあわいをときに忘れさせる迫力。社会や組織の矛盾や暗部。つまり戦後日本の実相。
 「虚実皮膜」が醸すリアリティ。

  話は戻ります。

 「ゴルフ三昧でカジュアル消費の時間をまだ謳歌」していたその世代とは、戦後第一世代より少し若い世代。いや、戦後第一世代の一部も重なっていたようだ。その人たちとは、恵まれた大企業組織の枠に、エスカレーターで登ってきた部長クラスの管理職。当時年収1200万円組。
 日本的経営とは「終身雇用」「年功序列」「労使協調」の3つによって社員の生活を生涯保証し、安心の企業内組織社会をつくり、安定した働き手のモチベーションを図った、ということになっている。そのシステムを維持する条件として「①経済成長が持続」「②賃金の低い若い働き手が多く、年長の管理者が少ないピラミッド型社員構成」。この2つが特に要であった。
 ところが「好景気の持続は日本の実力とおもっていだが、それは幻想欲望から生まれた泡だった」「成長にもサイクルがあり、成熟期に入れば、成長は鈍化し、高額年収の管理者を保証する人件費が払えなくなる」そのことが白日に晒された。それまでの管理者といえば、若手社員の労務管理が仕事。 社員を画一的組織の檻に囲い込み、集団的団結力を醸し出す管理者が評価されていた。会社の利益創出の働きはしなくてよかったのだ。ところが1992年から月日が過ぎるにしたがって、ろくに働きもしない管理者に、なんで高額の賃金を払うのか、の合唱のオクターブが国の内外から高まった。特にホワイトカラーの生産性がアメリカに比べて1/2だなどといわれて。事実、その人件費が企業経営を圧迫した。日本的経営においては人件費は、生命腺であり、削減の対象外の聖域であった。それが各企業とも真綿で首が絞められるように経営を圧迫していった。

 元々、日本のサラリーマンの賃金構造は「若いうちは自分の仕事の生産性(会社への定量的貢献度)より低い賃金で辛抱し、結婚もし、子供もでき、家計出費が増え出すと、その支出に比例して賃金カーブは、その時点の生産性に関係なく上昇する仕組み。住宅ローンの支払い、子供の進学、などに比例して。老後の保証は手厚い退職金、公的年金の他企業年金で安穏。
 ───これが日本の高度経済成長をリードした大手製造業の経営モデルだった。
 そのシステムがあるとき御破算になる。働きの悪い高額取りの管理者(エリートの企業内「選民」は別として)が扶養家族の「悪玉」扱いになる。
 そして役目を終えた管理者たちの、社外放出がはじまった。人事部が秘密裏に社命でやった「人員調整」。はじめのうちは、関連子会社への出向。賃金の差は、元の会社が負担。そのルートは間もなく底をつき、「出向者の転籍」。下請け企業への「転籍、引き取り受け入れ、の推進・強要」。銀行などは、融資先への継続融資をちらつかせての「転職要請」。それも2.3年で底をつき、官民の管理者転職の人材銀行を頼るも、転職先はおいそれとなかった。求人登録されている条件は、よいところでも今までの年収の2/3。半分というのもざらだった。
 その時期になって本当の深刻さを知った年収1200万組は多かった。
 それでは、と「経営コンサルタントでもやるか」と、中小企業診断士資格を取り、いきなり自営でコンサルタントをはじめた人もいた。士業資格ブームともいわれ、社会保険労務士、税理士などを目指す人が増えた時期だった。

 私はその頃まだ、Jファームに在籍してコンサルを続けていた。
 中堅企業には、なんらかの義理で受け入れた年収1200万組の転籍者があちこちにいた。その人たちには共通する言動があった。「組織管理の規程がない。これでよくやってこられたものだ」とか「前の会社では◯◯◯だった」とか「こんな体制の会社でやってられるか」とか、口に出してその会社の課長クラスにいっていた者もいた。社長も私も出席した会議で、それに近い発言をする人をよく見かけた。
 「いつもああなんです。そうかといってなにもコトを起こしてくれるわけでもなく、困ったものです」と社長の愚痴を聞かされたものだった。

 「人員調整対象者を今だ多く抱えていた大企業」は、すでに窓際族に回されている年収1200万組の連中に「自立意識高揚の社内講座」を設け、夫人同伴の「これからのライフ設計」についてやっきになって本人たちの自立意識の促進を図った。ライフ設計には、お金はいる。「退職金」「公的年金」「企業年金」「個人預金」「個人の各種保険」「住宅ローンの支払い残高」「子供の学資も」そして「自分たち夫婦の老後の生活資金」などなど、世相は緊迫しているのに、本人たちはそれほどの危機意識はない。規程の退職金だってすでに払えなくなっている会社もでていたのに。後にでた「茹で蛙」との流行り言葉のように。
 「給料は年功によって与えられるもの」ではなくなった。自ら所属する組織(転籍・転職先の会社でも)に、貢献した成果によって支払われる時代になった、と。以降の人生を悠々と過ごし暮らせる〔族〕は、「人員調整対象者」の中にはいない。以前触れた〔選民〕といわれた東大卒、京大卒、博士号をもつ人だって、すべて生涯安泰でなくなった時代がやってきたのだ、と。(でもキャリア官僚だけは別だったが)。

 Jファームのマネジメント本部においても、「人員調整対象者のみでなく、これからもその会社に居残る団塊の世代の管理者たち、彼らにつづく若手社員に対しても、自立した一個の人間として生きる」をコンセプトとしたコンサルティング企画の研究をはじめていた。
 バブル期までの没個性の集団主義から脱却し、1994年・経済企画庁国民生活局編『個の実現を支える新たな絆を求めて』で示された方向性しかないと、私もおもった。これらのベクトルの示すスケルトンに、どう肉付けするか。社会性と商業性の両方が整合するコンサルティング商品企画。これは私というパーソナリティに相性のいい領域かもと知れないとの思いが浮かび、その後その方向で突っ込んだ。

 当時企画のファクター(キーワード)としたのは、以前から興味を持っていた。
 ①社会的存在としての自己と、他人が代行できない内的自己存在(深層の無意識領域にある魂のパワー)
 ②唯識の心の構造(知覚認識とあらやしき) 
 ③パーソナル・アイデンティティ(PI)の確立
 ④内的自我を起点とした社会的自我との統合概念と論理
 ⑤企業の使命とコーポレート・アイデンティティ(CI=MI・BI・VI)
    Mind identity 経営理念 Behavior identity 社訓・行動指針 Visual identity ロゴマーク等
 ⑥CIとPIの統合概念

 (余談)「もう一つのBI→Brand identity を連想すると面白いストーリーが生まれる……かも。

  過去のブログ・チャート参照

 ②は、2009.5.6の「阿頼耶識 あらやしき」
 ①③④⑥は、2009.5.2の「自主自立してゆくしかない時代」

 これらをベースに、以前挙げたA・H.マズローの「人間性の心理学──モチベーションとパーソナリティ」および1983年18版の日本生産性本部創造性開発委員会発行の「人間性と創造性の開発──やる気を起こす内発的経営への道」や、1993年モード学園出版局発行・高橋誠責任編集の「21世紀へのビジネス発想を拓く 創造力辞典」など、モチベーション高揚の発想法や心理学と、発展的ストーリーを感じる論理学に惹かれ、いくつかのコンサルティング企画をつくった。

 当時は、「個力を生かす」に類するビジネス書が、グロービス・マネジメントや当時滋賀大の教授だった太田肇先生が、この種の本を多々出版されていた。

 私は、Jファーム在籍中に、前掲のチャートなどをもって以前面識のあった大手商社の人事部長とか、関西では名のある大手製造業の人事部長のところとかを訪問し、この期にこの考えと論理は使えるか打診して回った。その人たちとはかなり共感してもらえるところはあった。人事畑の人だったから。
 でも、東洋的でしかも難解といわれる唯識の論理・特に「阿頼耶識」を、欧州を起源とする自己アイデンティティのコアにするのはむつかしい。五感を通しての「知覚認識」にしても、現代人にはもうかなり退化した感性だから。という意見が多かった。
「なんだかんだいっても、今日までの日本は、アメリカ的合理主義の恩恵も受けたし、多くのサラリーマンはその思考に馴染んでいる。特に商社の人事部長は、わが社の幹部は仕事柄海外との交流も経験してきたし、ビジネスのコミュニケーション・テンポは早くなってきている。そういう意味でも、古代東洋的思考回路への回帰は、懐古趣味といわれかねない」ともいった。
 そのなかで「CIとPIの統合概念」のチャートは、使えるといってくれた人は多かった。PIバワーが発展してゆくストーリーにしても、CIの基本になるものが、利益獲得より、社会への公的貢献、より顧客への役立ちなどにもってゆく方がこれからはわかりやすいといえる。われわれ世代が学習してきたプロセスで十分理解できるし、そんな流れで自己啓発し、自立してゆく時代と考えているサラリーマンも多いと思う、といっくれた。

 そんな感触をマネジメント本部の研究テーマとして話すと、「その話は分かるけど、コンサルの仕事領域ではなく、心理学者か、宗教家の仕事領域ではないの」などいわれたりした。そして「あんたは儲けることをどこかで卑しいことと、思っている文学青年だねぇ」ともいわれ、もともとコンサルには向かない人種呼ばわりされているようにも受け取れた。

 その後は「CIとPIの統合概念」を応用したコンサル企画中心に私はシフトした。
 コンサルファーム各社とも、コンサルの売れ筋商品は「総人件費を抑制しながら生産性を上げる人事制度づくり」だった。私もその流れのなかで、前述の私のコンセプトを組み込んだ企画商品を営業にPRした。でも営業の反応は鈍かった。でもなかに私のコンセプトに共鳴してくれていた営業マネージャーがいて、私を直接トップに会わせてくれるセッティグをしてくれたりした。
 そのなかには、私の思考に共感してくれ、800万円で売り込みにきていた人事制度設計専門のファームを断って、1200万円の見積もりを出した私に発注してくれた高炉メーカーもあった。そのメーカーが、そのファームを断った理由は、元々制度のパッケージモデルをいくつかもっていて、訪問するコンサルはカストマイズする情報だけを集め、老齢のライターがリライトする。だから安くできる。そのやり方が流行っていることをその会社のトップは知っていたからである。

 私は「人事制度づくり」だけでなく、開発営業のコンサルティングにも適用した。ところがバブル景気の頃のコンサルティングニーズは、発注する企業側が税金に払うより、社員教育に役立つ方がいい、というのが本音だったというコンサルもいた。確かにそうだったのかも知れない。

 確かにそういう思考を持ち出してからの、私の受注確率は落ちた。他のコンサルも苦しんでいた。でも私はノルマを割るまでの落ち込みにはいたらなかったが……。その時点でノルマを割って去る若いコンサルも多くではじめていた。

 その頃から「社会保険労務士」の活躍が目出しだした。ほとんどは、給与計算、労災申請などのアウトソーシングの受け皿だったが、人件費圧縮の情報と知恵の提供者という新しい役割が買われはじめた。最たるものが、事務系社員の「個人事業主への雇用変更」であった。その時期がいつからいつまでだったかの記憶は定かでないが、働き方は従来通り、ただ社員でなくなり「個人事業主になり」会社はその個人と業務請け負い契約を結ぶ。すると会社は「社会保険(健康保険)(失業保険)(厚生年金)」の負担義務がなくなる。これは総人件費に苦しむ会社にとってとても助かる知恵だった。後に大問題となる社会福祉予算ともおおいに関係していたことになる。すべて厚生労働省管轄の問題だったから。

 その後も、大手企業において「人員調整──年収1200年組の扶養者削減」はさらにあからさまとなっていった。私と心やすくしていた世界的に優れたマネジメントシステムをもつ家電メーカー直系の人材開発研究会社の大阪支社長が、関西の大手企業7社の人事部長との「人員調整戦略ミーティング」を企画した。3人のフレゼンテーターの一人に私も加わった。
 私は今までの研究成果を総括して、「人員調整リスト者の個々人の手持ちスキルを中小企業向けにどうトラスファするかのブログラムと、自主自立自覚の方法論」をプレゼンテーションした。
 その後の参加者討議で、「世の中の趨勢を早くからキャッチし、その準備を個人的にやってきた者と、いまだ会社だよりの者との差がはっきりでてしまった。力のある人はもうとっくにヘッドハンタンティングされ、海外のどこかの会社で、今までの何倍もの年収で受け入れられている。何の意欲もない者がいま残っているのが現状。その連中にはもうどんな手立てもないですよ」が、結論だつた。

 帰り際、一人の大手商社の人事部長が「ちょと時間あったら相談にに乗ってくれませんか」といってきた。
シティホテルのラウンジで小一時間話した。
 話の内容は、「関西支社だけで人員調整リスト者が現在200名いる。役員会から退職金の他一人500万円の予算をつけるから、アイデアを出して、実行せよといわれている。ついては御社のコンサルタントに、そのリストラ候補者をコンサルタント見習いということで同行させてもらえないか、そしてその人間に適した仕事があればインターン形式で実習させてもらう。さらに、その会社に気に入ってもらえば転職させてもらう。成功したら一人当たり500万円の報酬は出せます」どうでしょうか、会社で検討してもらえないでしょうか、ということだった。
 私は即座に答えた。「jファームでは、そのような斡旋事業はしないことになっていますから、ムリです」と断った。
 この会社でさえもそこまで切迫しているのかと現状の厳しさを知った。

 そんな大手企業のリストラ予備軍が、「それなら経営コンサルタントでもやるか」と、中小業診断士の資格をとり、自営で開業しはじめた者もでた。だれが顧客開発をどうするか、コンサルティング営業がどれほど難しいものか知らない。また中小企業が求める経営指導ということと、診断士試験で学んだものとのギャップの大きさ。中小企業経営者が納得して支払うフィの額とか、その価値基準とか。それらには大企業管理者出身の価値観とまるっきり違うものがある。その認識もなく、無頓着にコンサルをはじめた人も多くいた。

 その頃からコンサルタントファーム各社も、仕事の減少からコンサルタントの人員調整をやるようになり、[コンサルタント・エージェント]なる職業が登場した。元、どこかのコンサルティングファームの営業経験者で、すでに何社かと親しく付き合いのできる会社をもっている、コンサルティグ営業のプロである。もと同じコンサルテイングファームにいた者同士での連携がほとんど。
 営業にしてみれば、大事な自分のクライアントに紹介したコンサルタントがクレームでも起こせば、営業としての信用丸つぶれになる。だから彼らのクライアントに紹介するコンサルタントは、何が得意で何が不得意か、コンサルティング現場での捌きがどこまてでてきるかもよく知っているコンサルタントしか紹介しない。
 さらに、実行したコンサルがリピート契約の話が出た場合、仁義を知らない素人コンサルはエイジェントをとばして契約したりする。それは、営業とコンサルタントとの間の犯してはならない掟であったから。

 中小業診断士がコンサルをやる場合、中小企業診断士協会が各地域にできていて、独自の動きをしていたが、コンサル品質(診断まではやるが改善はやらない・できない)とか、自営で動く営業力には限界(コンサルタント自身が営業やると、受注を取りたいがために妥協した弱みが、コンサル本番まで尾を引き、作業請負屋になりさがる)の2つの要因で、まともなフィはもらえない。
 当時でも、Jファームの社長方針として「診断士、社労士などの資格を持っている人も、クライアントには決してそのことをいわない・明かさないこと」となっていた。なぜなら先にも触れたように、Jファームの提示するコンサルティング・フィは、診断士などと格段の差があったから。
 元々、2000年までの中小企業診断士の位置づけは、「国や都道府県が行う中小企業指導事業に協力する者」であったが2000年に大幅改正された「中小企業指導法」により「中小企業の経営診断の業務に従事する者」に変更された。それでも「経営診断の業務」とあった。
 当時から巷で「診断までしかやらない診断士」とささやかれ、やがてあれだけ華々しかった「資格ビジネスの旗頭」としての診断士は、ジャーナリズムからも消え、先に挙げた社労士に取って代わった。

 そしてJファームも、ついに定年制が制定されることになり、私は9年在籍した「半フリー契約」の働き、を終えた。そのときの模様は、2013.9.3のこのブロク「選択した働き方(1)」の前段に書いた。62歳。
 一回目の職場で14年、二回目の職場でも14年、三回目の職場は結果的に「老後の生き方を探る助走としての9年」となった。

 Jファームの関西支社を去る日、振り返ると駅前第3ビルの9階が西日の照る新地の空に黒い影となって立っていた。
 その道路を渡った向かいに「お初天神」があった。いつの日かの昼休みに一人で行った境内に、右足のない鳩が寄ってきて、パンを投げてやると、群れ飛んできた鳩に攫われた。
 その瞬間「この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば、 あだしが原の道の霜 ………」の一節が浮かび蘇る。
 京阪電車への道すがら、土佐堀河を覗くと映画「泥の河」のお化け鯉、加賀まりこのいた屋形船、入れ墨の男の背が瞼に浮かぶ。

 9年間の思いが巡る。
 二回目の会社のおり、東京通いしたときの「住宅産業振興のコンセプト→インテリア産業のファッション化」「資格ビジネスの目玉にもなった、インテリア・コーディネーター資格制度」。住宅産業はファッション化では動かなかった。インテリア製品は生活雑貨だった。センスのいい雑貨でよかったのだ。
 サラリーマンの自立を考え→人間の自立とはを考え→物質文化でない東洋文化として佛教思想に、他力だけでなく自力はないものかと模索→禅と劍・武士はどう自立したのか。戦国の世の最高の専門職としての剣豪宮本武蔵、五輪の書。旗本並みの三千石では雇う藩なし。→ひょっとして曹洞宗は?と修証義の佛教なら読めるとあたってみるも自力みつからず→徳川家・浄土宗だった。
 問屋というイメージに、土管にヘドロを思い、→曖昧を嫌い、拒絶し、ピュアに思えたユダヤ系心理学者エリクソンの「自己同一性」に惹かれる→そしてアイデンティティ論に→河合隼雄先生の矛盾容認のアイデンティティ論に惹かれる……。
 悲しみ、無宿もの、弱者救済、日本的こころ、五木寛之、親鸞、歎異抄、悪人正機、こころ打たれるもどこかで弱さ、脆さ、戦うことを放棄した、諦観、演歌、→それかといって新自由主義的思想を肯定しているわけではない→とはいえまあまあの生活をするには自分でその分ぐらい稼がねばなるまいと思う→人類貢献のためのスパンの長い研究としてのアカデミズム、そのために選民としての学者に民衆は寄付するのが当たり前、その考えにはついて行けない。
 などなどのおもいが巡る。

 私は、多くの人が経験した「定年後のライフスタイルの落差」を少しも感じることなく、同じモチベーションを持ちながら自営でやる「福島マネジメントコンサルタント」(ホームページ)を立ち上げた。そして前後してJファームを去ったコンサル仲間、営業仲間がいつしか寄って、協働でコトを起こし蛇行しながらも結構やった時期もあった。

 その頃スタートさせたのがまぐまぐのメールマガジン「経営コンサルタント志望の皆さんへ」であった。

 
 


 
 
 
 
 
                     
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by kuritaro5431 | 2013-09-29 21:59
2013年 09月 25日

「半フリー契約」の働き②

 毎月5日、関西以西(関西支社・神戸支店・岡山支店・広島支店・九州支店)のコンサルタントと営業全員が集う「全体会合」が、関西支社の大会議室で行われる。

 名古屋以東の「全体会合」は、毎月1日、都内のホテルで行われる。そこでは、社長から「日本企業を取り巻く環境、それに対応しようとしている企業の経営課題、コンサルティング・ニーズの動向。わが社の今月の行動目標・これから先3ケ月の営業部隊と、コンサルティング部隊への活動方針などが話がされ、録画したテープが全拠点に配られる。各拠点のテレビの前には、拠点全員の名簿が置かれ、見た者はサインすることになっている。後日その名簿は本社の総務に送付される。社長方針は社長自らの原稿による上意下達。月1回の役員会での施策との齟齬がないよう社長自らが厳しくコントロールしている。その嘘のなさが社長と、管理されることをことのほか嫌うコンサルとの信頼の絆。営業社員も、同じ。

 「全体会合」は、10時開催。5分前には全員が着席している。日頃は、コーヒーもお茶も女子の手間を取らせないため、使い捨ての紙コップだが、その日だけは、喫茶店のウエートレスにコーヒーを頼む習わし。

 司会は、支社の総務マネージヤー。最初に新人紹介。(新入社員とはいわない)、今回は2人。
 私の前に1人紹介された。出身大学も、出身の会社名もいわず、「新卒後、◯◯系の大手製造業で、20年間設計の仕事を経験され、この度◯◯本部に所属されることになった◯◯先生をご紹介します」というような紹介。そのあと、自己紹介。
 私の番になり、「学卒後、流通業界で、経営戦略、商流・物流の改革に延べ30年のキャリアの◯◯先生です。マネジメント本部に所属されます」との紹介をうけた。
 私は、社長以下、40人近くいる会場で、緊張していた。みなしゃべることが本職の人たち。
「ご紹介いただきましたような、年数経験はあるものの、ほとんどは、個別企業の例外処理に精通したような経験です。その経験が汎用性のあるものに変換できるかが勝負と覚悟しております。諸先生方のご指導を切にお願いいたします」と挨拶した。
 あとで、上司にあたる本部長が、あれでよかったですよ。といってくれた。

 会合は、社長訓示からはじまる。「西日本では、小売業以外の中堅企業をターゲットとする、新設のマネジメント本部に期待している。これは、わが社のコンサルティング領域の総合化のへの挑戦である。国内系の経営コンサルタント会社がこれまでターゲットとしてきた領域で、わが社特有の外科的手法による経営改善には馴染みにくい企業体質の会社の多い階層である。ところが日本における株式会社の社数比率では、中堅・中小企業で80%を占める。この好景気で、株式上場を目指す中堅企業も増えている。一般の中小企業までは無理としても、中堅企業のなかには、将来有望な資質のある企業も多くある。企業の将来性は企業規模ではないが、その評価力は、今のわが社にはない。従って、わが社は、中堅企業をターゲットとしたわが社流のコンサルティング・ノウハウを探索し、確立したい」との話しが中心であった。

 社長訓示の後は、大阪と広島にある15.6のコンサルティング本部(コンサルタント7~10名の専門職集団)の本部長が、最近開発した「コンサルティンク・プログラム」=(商品企画)の「良さ」「売りやすさ」や、商品のメリットなどを、営業の皆さんに、けなげなほど必死で市内セールスしていた。また、手持ちの「プログラム」のうち、クライアントの評価が高く、リピートも多い「商品」の紹介も営業職一人ひとりのモチベーションに訴えようと、苦心のプレゼンテーションをしていた。

 私はその様子を見て、いくらよい企画でも、クライアントから見て魅力のないものは、営業も見込み客に紹介もしない。という厳しい現実を目の当たりにした。コンサルタント一人ひとりもそうだが、本部を束ねる本部長は、本部員一人ひとりのノルマ達成の責任を背負っている。それでいて、一般企業の管理者のような権限はもっていない。人事評価にしても、「ノルマ達成率」と「失点の有無」のみで本部長の出る幕はない。なのに各本部長は、社内でも、クライアントに対しても「成果」「OUTPUT」「役立ち」を出して、して、「いくら」の働き、とこころえているようだ。

 いつも12時かっきりに会合は終了する。
 関西支社のミーティングルームは4部屋しかない。コンサルルームの机も、30卓しかない。ミンティングルームを予約していない本部のコンサルたちは、その場で解散。遠方の参加者たちも皆、12時をもって解散した。

 マネジメント本部のコンサルたちも、なかなか全員揃わないので、昼食後2時から、本部研修ミーティングをした。
 研究テーマは、社長特命の中堅企業を対象とする「顧問型コンサルタルティング」の企画化・商品化であった。
 Jファームのコンサルティングは、「プロジェクト型・テーマ・コンサルティング」で、5人から8人もの理系のコンサルが役割を組んで、チームで契約する。高額な案件は、3年通しで3億円にものぼるものもあった。成果は、「フィの3倍だす」が、売りのトークだった。これを外科的コンサルテイングと呼んでいた。企業内に発生しているさまざまなムダなコストを外科的手法で切り捨てる、とい手法。それはクライアント側に、Jファームの専門技術者の誘導・指導に呼応できる技術者がいてできる仕事であった。
 それに対し、中小零細企業を対象とする国内系のコンサルタント会社は、概ね、「多問題・他課題経営相談型」の「顧問契約コンサルティング」であったといえる。なかには、相談だけで実践指導のない「精神論だけ」といわれたり、どことなく胡散臭さを漂わせる人種とみられたりしていた。カリスマ的先生といわれるコンサルタントが教祖的態度で「経営原理の格言のようなことをいい実践させる」。改善が進まなければ、「なぜいうた通りにしない!」と叱る。元々はそんな関係だったのだ。

 政府は、これでは日本の経営の近代化はむつかしいと、通産大臣登録の「中小企業診断員」(中小企業診断士の前身)の資格取得の促進を図った。この制度の創設は1952年(昭和27年)であったが、それぼとのインパクトもなく、休眠状態だった。1963年(昭和38年)中小企業指導法の制定と連動して、この資格が見直された。1969年(昭和44年)「中小企業診断員」を「中小企業診断士」に改称。これを機に、経営コンサルタントの唯一の国家資格(そこまでのものではなかったが)と、当時ホワイトカラーの管理職の間で大層話題になった。(この辺の経緯はYAHOO!「中小企業診断士」に詳しく掲載されている)
 その話題は拡大し、民間の資格取得カルチャーセンターが「中小企業診断士受験講座」をあちこちに開き、大繁盛した。資格ビジネスのはしりとなった。資格取得者の大半は、企業内の管理者としての自己啓発としてスキル磨きをしていたのだった。
 経営コンサルタントになった中小企業診断士の働きの場は、中小企業の経営者相手の「経営診断」と、通産省所轄の各地の「商工会議所」だった。商工会議所では、国家資格保持の経営コンサルタントとして、会員(地域の商工業者=主に中小零細の)からも信頼を得、国の中小企業支援施策の一貫としてのさまざまな活躍をした。
 その「中小企業診断士の基礎スキルは、財務診断におかれていた」。あやふやな基軸のない市井のコンサルタントより、経営成果が数字で現れる財務諸表。不確定要素はあるとしても胡散臭さはない。としたのだろう。
 国内系の老舗のマネジメント系コンサルタント会社も、わたしが昔受験した「日本マネジメント協会」にしても、コンサルタントの基礎スキルは「財務診断スキル」であった。その後日本経済は高度成長期に入り、成長戦略の柱になる「マーケティング戦略」重視に日本経済はシフトしていった。中小零細といえども。財務は、広義のマーケティング戦略の1パートと位置づけられる経営学も現れはじめていた。

 財務診断は、伝統的な会計システムによって正当な企業評価ができることは、いまも疑いはない。ただし、企業会計原則という厳しいルールを守っての話である。それと同じ業種でも、商品構成や、販売ルートが変わば、財務データーは変わる。税務会計一本でやっている中小零細企業では、その実態は、判定できない。
 当時からあった中小企業庁が毎年発行する「中小企業経営指標」にしても、比較的企業会計が整備されている中小企業からのサンプルデーターで、恐らく税務会計データーと思われる。「中小企業の財務指標」も同庁から発行している。調査方法は違うものの、個別企業の企業診断にもちい、その指標との差を、経営改善の指導基準に用いるのは無理がある。政府が使うマクロ的な指標には十分としても。

 そのことが理解できるのは、中堅企業以上だろうということである。大企業では税務会計(税務申告用)全社1本。実質的な経営管理に使う会計は、部門別、事業部別、またはさらに分化した組織単位の管理会計。
 当時から中堅企業が興味を持っていた「TKCの業種別の中小企業の経営指標」という分厚い資料があった。確か3万円だった。TKC会員の税理士が、顧問先の税務会計事務を請け負い、そこで蓄積した税務会計データーを全国集計して上・中・下の数字をだしていた。最近TKC全国会の税理士よるコンサルティングのCMが流れている。先だって、当時製造業のコンサルで、中堅企業のある事業部の「限界利益」「損益分岐点」を掴んで、事業部の収益改善をもくろんだが、直接原価の「労務費」が「一般管理費」とどんふりになっていて分解できず困ったことを思い出した。「限界利益分析」を使っての収益改善は有効な手段だが、変動費と固定費の仕分けがしっかりできてないと改善ボイントが絞れない。200億の年商の製造業でもできていなかった当時が思い出された。

 そこで、Jファームのマネジメント本部は、来年の「新春Jファーム・コンサルティング技術発表会」に本部を挙げて「J方式・顧問型コンサルテーション」のコンサル企画を発表することにしていた。
 新春の技術発表会は、恒例となり10年つづいていると聞いた。当時全国に40もあったコンサルティング本部が代表選手をたてて、コンテストに挑む。一位「社長賞・賞金100万円」二位「優秀賞・50万円」三位「商品化技術賞・50万円」他「アイデア・ロジック賞・20万円」「ユニーク・アイデア賞・20万円」などなど、その年年によってつけられた賞もあった。賞金は発表者に渡されるものの、本部全員で散財する習わしのもよう。
 来賓には、日本を代表する製造業の社長や、総合商社の社長ら10人がいつも選ばれ出席していた。
 いつも都心より少し離れたゆったりの高級ホテルを二日間貸し切りでホテルのバーも、施設のすべてをみんなに解放。そうしたこともやるJファームだった。
 後にいわれるバブル景気に向かってみなひた走ったいた時期だった。

 夏は本部単位であちこちにおったファームの保養所兼合宿研修所に、だいたい1週間泊まり込み、新春の技術発表会に備えた。
 保養所には、近くに住まう賄いさんがいて、食事の用意はすべてやってくれた。
 私がはじめて参加した合宿は「八ケ岳の別荘」だった。遠くに夏の富士山が見え、リビングには望遠鏡が据え付けられ、代わる代わる富士を望んだ。冬には薪ストーブを炊くらしく脇には太い白樺の割り木が積まれていた。

 食卓兼ワーキング・テーブルは、分厚い赤松の無垢の集成材。どっしりした同材の足。畳一畳半はゆうにある天板。だれの配慮か、その上に厚い透明のビニールシートが掛けられていた、(それにはちょっと不満だったが黙っていた)。
 そのテーブルの前に大型の白板を二枚立て、ディスカッションの要点を書き殴ってゆく。いつものやりかただ。こと改まった議事録はとらない。本社に提出する義務もない。参加のコンサルが思い思いノートしている。
 デイスカッションテーマは「J方式・顧問型コンサルテーションの確立」だった。
 そのキーポイントは、その企業の改革ポンイントをなるべく早い時間で見つけ・絞り込み「改革のストーリーを意外性と共感性、さらにはその経営者に感動を呼ぶ、初期アプローチをいかにやるか」であった。

 老舗の国内系のコンサルタント会社は、「経営診断=①財務診断からの経営分析〔生産性分析〕〔安全性(流動性)分析〕〔損益分岐点分析〕〔収益力の分析〕がベース。②に、経営トップの舵取り判断力。③に、人・物・金の管理力。④に、組織力など。①以外は、アンケート分析、階層別、部署別、ヒアリングが中心。それらを総して経営診断といっていた」。その経営診断で、その会社固有の経営課題見つけ、これぞという優先課題を経営者に提示し、共感を得た経営者とコンサルティング契約(主に継続的顧問契約)をし、最初に発見したその企業の弱点といえる「経営上の問題解決の相談相手・アドバイサー」となる。そのコンサルティグのコンサルタント側のメリットは、エンドレスに発生する問題に対し、長期の顧問契約が可能になる。その会社固有の問題把握者となり、リピート契約安泰の取引関係が築けたことにあった。

 ご覧のように、当時政府も重要視した、中小企業向けの財務診断は、個別業の経営指導には実利性の意味で問題があった。指標とする基準の取り方。それと①の分析を個別にするためにコンサルタントに多大の労力を要した。ある老舗のコンサルタント会社では、「経営診断」をやがて主たる稼ぎ領域として、有料化した。個別企業の弱点絞り込みでブレゼンをし、顧客開発するにはあまりにもコストが掛かりすぎたからである。
 そしてやがて経営診断で学習したコンサルティング・ノウハウを「経営診断」と名付けず、当時流行っていた〔中期経営計画〕にも適用したりしていた。中身はY社時代にT社に発注した〔中期経営計画〕でそのことが判明した。

 私もいくつかの小企業経営者に、営業と同行して面談した。
 最初に会った経営者は「わが社の問題点は分かっている。なのに忙しいさなか、コンサルタントは「経営診断」をまずやってからという。診断してくれなくても分かっている。「問題解決の妙手が分からずいるんだ」「それをやって見せてくれるがコンサルタントではないのか」といった。
 他の零細企業経営者は「私とギャランティ契約をやらんか」「半年で売上か何%伸ばせたか。その率のギランティ契約を」ともいった。

 Jファームの社長が、中小零細の企業のポテンシャリティを判定する能力は今のわが社にはない、といった意味が分かった。

 話を戻して、「八ケ岳の別荘」では、深夜12時過ぎまでディスカッションが進み、Tファームから今年転職してきてコンサル歴20年のK は「コンサル業は天職だ。自分も、クライアントもそういう関係であることを認識しあい成立する職業だ」といった。Kは、j社長が「コンサルタントはサービス業である」といっていることを承知の上でいっていることは、参加のコンサル全員が知っていた。そして、今夜のテーマとも深い関係のある言葉だと、みんなピンときていた。そんな議論もでき、議事録も提出不要という社風がそこにあったことは事実。

 Tファームは、零細企業の時代から経営者の悩みごとの相談にのり、年商100億を超えるとTファームのカリスマ教祖から卒業するとみなはいう。Y社も小規模のとき教わった経営者の守るべき「掟」を教わった。「会社の金と社長個人の金は混同するな」これが一番だった。Y社長が私にいったことがある。
 ところが、年商400億を超えたある時期においての「掟」は、カリスマ教祖から教わらず他界し、継承した子息の今、年商150億。時代は流れてのことか。それとも何かの必然か。
 Jファームも、先の見えない必然のなかにいたのかも知れない。
 振り返っても正解は見えない。

 でも当時、そしてバブル景気が崩壊する時期まで、そしてその後も模索した。

 話は前後したが、命題の「J方式・顧問型コンサルテーション」における狙うクライアントへの手軽で有効な初期アプローチ法。その切り口、とっかかりをみんなで探索した。Jファームは、VEに限らず定量的分析から企業活動のさまざまなムダを見つけ、例えば、2:8の法則の上位2つを狙い撃ちし、8割のムダをなくす、というロジックで経験と勘によるアプローチより確かな効果を出していた。その定量的帰納アブローチは、理系人材の揃った大規模製造業では、科学的アブローチの基本として評価もされ、大量生産方式でアメリカにキャッチアップしていたその時期、歓迎されていた。
 ところが、同じ製造業でも、大規模製造業の組み立て用部品を人海戦術で作ってきた小規模製造業では、このアプローチはムリ。「J方式・顧問型コンサルテーション」が狙うクライアント層は、必ずしも製造業中心でなく、専門商社といわれはじめていた昔の問屋。また生産手段をもたないブランドメーカー(この業態は、婦人服からはじまり、紳士服など衣料へ、さらにデザイン性、ファツシヨン性を差別化の武器とする各種の企業、作り方や品質をはじめブランド・ロイアリティを重視するものなど多様化した)などが、業態のあり方、売り方の変革をもたらした。
 そういう時期を迎えていた日本経済は、消費財については、製造業より消費者、生活者に近い卸売り業や小売業が消費者ニーズやウォンツ(この頃から流行った言葉)をキャッチしやすい立場にあると、スーパーやGMSによる流通革命が起こる。そんな社会・経済現象の変化のなかで、流通業(百貨店・GMS・スーバー・ブランド専門店・各種専門店)が台頭し、それぞれ専門のコンサルティング・ファームも誕生していた。

 そういう意味も含めて、以前から述べている。財務重視の経営から、財務計画も内包した「マーケティングの経営へとシフト」してきていた。特に、Jファームが狙うクライアント層は、他業種他業態の階層で、経営上の課題は多様であった。

 そこで、八ゲ岳の合宿での議論は、
①「経営診断の基本とする財部分析のワーク負荷軽減の方法研究と、ヒアリングのブログラミンク化」
②「そのクライアントの所属する主な業種・業態の「官民の調査資料から、優先課題を事前にピックアップして、おいて、そのなかからいくつかの課題をトップヒアリング。一番関心を示した事項の改善アプローチ策を次回コンサルが、提出する約束」
③「カードINDEX法による拡散している問題を洗い出しと「問題の課題化」により経営者が優先する経営課題を選択する」
 この3つの案にに絞られた。いずれも、契約前の営業活動の一環として無料でやる契約促進活動としてであった。

 案③は私のものだった。
「問題課題の領域に拘らず、ランダムに、経営者に困りごとを打診。その結果、その経営者は「理念派」が「制度とかルール派」かを判別する。前者を「王道派」、後者を「覇道派」と仮定する。
 その上で「社長。半日1時から5時まで社長のこれぞ思われる課長以上の社員を10人集めてもらえませんか。彼らが日頃から思っている御社の、本音の問題点。これを順番に一言づつ発言してもらいます。その発言は私が板書します。発言のなかには、給料が安いとか、遅刻が多いのは自宅から遠いとか、問題にならない問題まででできます。それを私がポジティプ変換し、あなたのいっていることはこういうことですねと、リライトし、発言者の了承を取る。そうして白板に書かれた(私が書いた)俳句より短い1行1問題のことば60件ぐらいを、みんなで名刺大のカードに転記。そして真因のにたもの同士のカードを集め、模造紙の上に〔群〕して貼りマジックで囲む。その塊に、共通している真因を書き、その上に「課題」を書く。課題とは「~しなければならない事柄」を重層的に収束してゆく。「この活動は、わが社のやり方のほんの一例です。御社がよろしければ休日でも対応しております」と、申し出る。無料のプレゼンであることは、事前に知らせておく。

(注)この「カード技法」は、Y社のころ実践でよく使っていた。出入りのコンサルも使っていた。そんなことで使い慣れていたので、よい効果を出していたと自負している。定量でなく、ここで使ったのは全くの定性アプローチ。Jファームでは、内科的アブローチの一種といわれていた。「書くことが好き」「聞いた話を要約するのが得意」「書くのが早い」「いつも相手が言いたい核心に耳をそばだてて聞く」これは、私のパーソナリティで、これしか長所のない癖のようなものだった。好きだったから訓練も人一倍やった。己のコンブレックスが原動力となって。
 ここら辺の実務は、バブル景気崩壊後の1999年.5.10からスタートした「経営コンサルタント志望の皆さんへ」のメールマガジンのバックナンバー3号~9号に詳しく書いている。メールマガシンは、jファーム退職後作った[福島マネジメントコンサルタント](検索)のホームページの〔メールマガジン〕のなかにある。この原稿は、のち出版社・同友館より、「経営コンサルティング実務入門──プロコンへの道」として、2002年出版した。
 興味のおありの方、覗いてみてください。当時はこれくらいでもコンサル・スキルとして通用した。そうおもってみてください。

 この技法の原点は自然観察に開発されて有名な川喜多二郎博士のKJ法であった。名著『発想法』として重版されている。コンサルファーム各社はKJ法としてではなく、各社なりに方法と名称をアレンジして使っていたものである。

 そしてその後も、この研究は進めたが、マネジメント本部としてまとまったプログラムにはなり得ず、各コンサルごとに試考錯誤して成果を確かめることになった。とはいえ、翌年の「新春Jファーム・コンサルティング技術発表会」では、キリア一番の部長コンサルが代表で発表したが、選外で終わった。。

 その後私は私なりに、契約前の「J方式・顧問型コンサルテイング」の無料アブローチとして、他社のやる「経営診断」の代わりに「INDEX法」を手軽にやった。その目的は、クライアントの社長も一番気にしている経営上の問題を、幹部社員自ら気づき、問題点を「わが社の重要課題として絞り込んでくれた」「社長の命令でやらせたのではない。彼らがやってくれたのだ」そして、5~7つに絞り込んだ経営課題を社長が1つ選ぶ。
 その社長が選んだ1つの経営課題について、私はその場で、「課題遂行のストーリーを全員にプレゼンテーションする」。ここが成否の分かれ目、意外性のある改善視点と切り口。。そして彼らのモチペーションを高める。隠し味の情動的トーク。。そこで社長以下の共感が得られれば、次回放社時に、「コンサルティング計画書」と、営業からの見積書提出。経営課題=コンサルティング・テーマであり、コンサルティング内容は、[福島マネジメントコンサルタント](検索)のホームページの〔コンサルティング領域〕に記載のコンサルティング・テーマとなる。よくクレームの対象になるコンサルティング領域も、歯止めがきく。リピートのテーマももうでている。
 私は概ねこのやり方で、スキルにブラッシングを掛け、なんとかノルマの達成をしていった。






                    
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by kuritaro5431 | 2013-09-25 09:39
2013年 09月 22日

「半フリー契約」の働き①

 「定年まで後8年」。
 このままY社社長の個人的使用人まがいの働きはもうごめんだ。ますますその傾向が増してきていたから。

 1985年、後にバブル景気といわれる好況に突入する少し前。各社で「中期経営計画の策定」が流行っていた。Y社でもご多分に漏れず、そのプロジェクトがスタートしていた。指導のコンサルタントが私に「社長がもっとわしの懐に飛び込んでくれぇ、そういっとったといってくれ」そういったものだ。
 私が常務会などで提案する戦略課題には、東京での情報に刺激されてか「そうだ、その通りだ」といい「もうちょっとかみ砕いてくれぇ」といつもいう。私がその遂行策のおおよそを書きものにして社長に見せ、話し込んでゆくと、社長の本音とはぜんぜん違うことがわかってくる。本音の狙いが先にあり、それに辿る道筋を時代のトレンドの理屈で飾り、これからのリーディング・カンパニーらしく振る舞いたい。それが見えて嫌悪さえ覚える。

 その頃からぼつぼつ「60歳定年後が長い時代がやってくる」といわれはじめてはいたが、会社が村社会の連帯を繋いでくれるもの、「定年後も」とみな漠然と思い、その空気の上で安穏とゴルフ三昧を謳歌したりしていた。バブル崩壊で、日本的経営がもたなくなり、その結果どうなるなんてだれひとり予測できなかった。
 私もそうだったが、別の理由でまだ「自由な働き方への憬れ」を諦めきれずにいた。

 そんな気でいる私をよく知る家内が「経営コンサルタント志望者を募集しているよ」と日経の広告記事を指した。見ると、Y社で「物流戦略プロジエクト」の指導を受けたJコンサルタント・ファームだった。広告記事によると、大手製造業のコスト削減を主技術(ハードVEやVA)としたコンサルティングファームであるが、中堅企業からマネジメント系のコンサルティングニーズも増え、コンサルティング領域の総合化を今後図る。中堅企業でマネジメント戦略のブランニングや、プロジェクト活動などに携わった50歳までの実務経験者若干名募集、とあった。広告は、大阪駅前第三ビルにある関西支社からの出稿であった。概ね私の該当域に入るかとおもったものの、年齢制限を越えていた懸念があった。
 それよりもっと強い懸念があった。Y社でJファームの東京本社からきていたコンサルタントに「物流戦略3ケ年計画ブロジェクト」の指導を受けていた。ところがそのコンサルタントは、物流センターの現地も見ず、現状の商流・物流の実態把握もせず、机上でロジスティックシステム論を5工数もかけてやったものだからメンバーから不満がで、リーダーも降りるといいだした。クレームになった。私も社長の特命でブロジェクトの運営に関与していたので、コンサルタントに抗議した。その後、関西支社長が収拾にきたが、納まらず、コンサルタントはこなくなった。そのクレームの対応は私がやっていたので、Jファームへの応募は無理だとおもっていた。なのに家内が「経験が活かせそうなところなら打診だけでもしてみたら」とい、履歴書と業務歴を送ってみた。すると3日後電話があった。「2名採用予定でまだ1名の採用枠が残っている」「その枠に12名の応募者があり、書類選考で残った3名の面接を1週間後の◯◯日に、東京本社の人事担当常務が関西支社でやることになっている、予定が取れれば、常務は面接したいといっている」とのことだった。募集年齢を越えているがとの私の問いに「一応の目安ですから」と、いい問題ありません、といった。

 私は面接の日に、大阪駅前第三ビルの9階にあるJコンサルファームの関西支社を訪ねた。
 事務所のなかは通らず、革張りの立派な応接セットのある部屋に通され、待った。関西の大手製造業の役員クラスがやってくるのだろう、壁面には平山郁夫の日本画があった。
 約束の時間ぴったりに、常務が入ってきた。
 開口一番「お忙しい時間をいただきましてもうしわけありません」といい、名刺を差し出した。
 14年前、Y社の社長と面接したときとはまるっきり違っていた。Tコンサルタントファームの本社の雰囲気とも違っていた。
 その常務も元は経営コンサルタントだったらしく、知恵や論理と実践で世を渡ってきた者同士への敬意の念を表し、採用者側の傲慢さは欠片も見せなかった。言葉は凡て丁寧な敬語だった。
 一匹狼の組織からのはみだし者、どれほどの専門技量をもっているか未知数の雇用予定者に、これほどまでのあつかいをしてくれる配慮にただただ驚き、感謝した。この人と面接した応募者はきっとみなそう思ったに違いない。恐らくこの常務も昔そんな「社会生活不適応症」のレッテルを貼られた一人だったのだろうか。だから応募してくる人の深層のこころがわかる。私はそう思った。

 私は、Y社で「御社のコンサルタントから指導を受け、クレームの抗議をした張本人です。それでも今日面接してもらえるのでしょうか」とストレートに質問した。すると常務は即、「わが社は、そんなことで採用の可否を決める会社ではありません」ときっぱりいった。
 入社後わかったことだったが、そのクレーム事件は、関西支社のみならず本社でも「受け取ったフィを返却すべしとまで問題になった」事件であったことを知った。営業の何人かから「先生が張本人でしたか」といわれた。入社したその日から、コンサル同士は、役職関係なしのさん呼び。他職種のみんなは、支社長以下コンサルタントを役職抜きの◯◯先生と呼んでいた。
 その辺のJファームのマネジメン風土およびガバナンスや、コンサルの働きぶりは、2013.9.3の「選択した働き方(1)」、2012.10.8.の「今日は体育の日」にも書いた。

 話を常務との面接に戻すと、年収の話になり、Y社での年収より100万ばかり下がる700万になるがいいか。2年後に部長コンサルタント(マネジメントではなくJ社で一人前扱いを受ける呼称)になったら、年収1200万円確約する。それからがプロコンサルとしてのスタートになる。後は成果(月の有料稼働ノルマ7日×12ケ月=84日の達成率。もちろんいくらのオーバーか)で、年単位でボーナスなしの月割り年収更新。ただし、月ノルマを3ケ月割ると、コンサル職不向きとの〔黄信号〕。半年つづくと〔転職勧告・辞めたほうがいいですよ〕、ここまできて残ったコンサルはいない。クライアントにフィ返却のクレームを出したコンサルは理由を問わず即退職。次に重い掟のいくつかを聞かされた。クライアントの要請で資金調達の世話をした。労使調停の仲立ちおよび社員解雇の手伝いをした。過剰在庫処分の斡旋をした。クライアントからおかねを借りた。クライアントへの訪社日・コンサル実施日時を間違えた。コンサル個人の出版物でも、職歴にJ社在籍したことありと書き、他人の著作権侵害などで賠償をJ社が訴追されても本人責任、よくあると。などいろいろ。
 退職金制度なし。定年制もなし。現在70歳以上のコンサルで年収3000万円超の人、数人在籍。

 「わが社は、そんな環境やら、条件で働いてもらっていますが、了解していただけますでしょうか?」と、長い説明のあと問うた。
 
 私は、「それで結構です」と即答した。
 
 私は17.8年前、35歳の頃、今井◯◯著「転職のすすめ」を読み、何社か面談し、日本マネジメント協会の「経営コンサルサルタント募集」に応募して、最終面接までいき、理事長面接したときのことがよぎった。理事長は企業の財務診断ができることが、経営コンサルタントにとってどれだけ大事なことかと、いわれた。当時はそうだったのだと思う。
 いまでも、年商2.30億までの企業では、それがベースなのかも知れない。ただ今面接しているJファームは、中堅以上の企業を対象とした広義のマネジメント力強化のコンサルティングで、事業領域を拡大しようとしている。そういう意味では、Y社時代、東京通いで得た官僚の産業振興の手口とか、オーナーでない東京型の東証一部上場企業の経営者と幹部・社員のヒエラルキーのあり方。それに対し、関西に多いオーナー企業経営者との違い。さらに、いくつものタイプの経営者の清濁混在の、それどろではない宿業と思えるほどの欲望について、人間観察できたことは、今となって大変ありがたいことだったとおもえてくる。
 会社はだれのものか。株主のもの。オーナーのもの。労使で築いたもの、公共のもの。その会社が得た富は、どう配分するべきか。前述の価値観によってそれは異なる。

 そんな思いがつかの間して、
「それでは折角ですから、あなたのお考えの〔中期経営計画策定のプロジェクト活動スップ〕を白板使ってフレゼンしてみてもらえませんか。といわれ、隣りのの小部屋に移った。
 聞き手は、常務一人だった。

 私は、最上段に表題を書き、左1/4に、大筋のINからOUTまでの活動の流れをプロック・チャートで画いた。「外部・内部の環境分析」→「外部・マーケットニーズ」「内部・自社の強み弱み」→「機会と脅威」→「戦略ターゲットの絞り込み」→「構造的戦略視点」→「中期経営計画の内容・戦略。目標・方策」→「年次展開へ」とした。
 目的と狙いは、「変化する経営環境を客観的(可能な限り定量的に、さもなければ蓋然性の担保できる定性情報で)に捉え、環境変化に構造的に対応できる企業体質に変革してゆく。そのための経営戦略計画である。3年先に進むべき姿を、幹部・社員と共有する戦略デザインである、と述べた。
 全体的アプローチの前半は、帰納80・演繹20くらいとなる。中堅企業で危惧されるのは、分析に役立つ分化した定量情報がないことである。なくてもやれてきたという先入観が経営者にある。定性情報にしても経験と勘による経営者の主観的判断の過信が変革の一番の弊害である。ロジカルシンキングだけで説得、共感は得られない。コンサルのパーソナリティで、「隠し味」を使い実行にもってゆき、契約をまっとうする。

 あくまで「中期経営計画」は、3年先をみすえてた「戦略デザイン」であり、実行計画ではないと私は位置づけている。中堅企業における実行計画は「年度計画」だと私はおもっている。大手企業なら毎年「中期計画」のローリングをやるが、中堅企業には、その人材もいないし、時間もない。経営者は「中期計画」をつくったことだけで満足し、フォローもしない。
 そんな経営環境の中で、jファームのマメジメント本部は、いかなる成果をだすか。

 そこまでのレクチャーを聴いていた常務は、一度も口を挟まず、質問もしなかった。
「いいでしょう、リアリティがあったから」とだけいった。
「採用したい本部の、本部長コンサルタントが海外主張中だから、帰国次第連絡させます」といい。
 その日の面接は終わった。
 その翌週、常務のいった本部長から、夜自宅に電話があった。
「この前はお会いできずすみませんでした。◯◯さんのこと常務から聞きました。近いうちにお会いできませんか」といってきたので、Y社長のいない、3日先を約束した。社長がおればこちらの都合など無視して、なんても言いつける人だから。

 本部長と約束の日、この前面接した事務所を訪れると「常務は、私さえよければ採用だ」といってきました。と白板のあった部屋に私を通し、そういった。二言三言話した後「きてもらえますか?」と問うた。
「よろしくお願いします」といい、採用は決定した。
 入社後分かったことだが、入社試験などいくらやってもコンサル向きかどうかわかるものではないので、フイリングが合いそうなら採用するのがJファーム式。見込みがなければすぐ辞めてもらうやり方とわかった。
「今日は月に一度のうちの本部の本部研修会議。全員揃っているので紹介しておきましょう」といって、一面のガラス窓に向かって教室式に一人用机が30卓も並ぶ大部屋(ここがコンサルタントが出社したとき使う部屋、個人用机はなし、私物を置くロッカーもない、と本部長説明)の横に4つ5つの小部屋が並んでいる。その小部屋の一つを本部長が明け「来月から入社の◯◯さん。紹介します」といってくれた。
 ミーティング中らしく、卓上は、灰皿山盛りでの吸い殻。煙っているものもある。みんな平気で議論にエキサイティグしている。白板には、殴り書きのチャートや文字が乱雑に黒・赤・青で書かれていて緊迫した雰囲気さえ感じられた。
 どうやら議論は、あるクライアントで進行している「支店長クラスによる経営会議機能の役割」についてのコンサルティングの勉強会であるようだった。
「新人といえども、特別の研修はやりません。こうしてみんなのなかで切磋琢磨するのです。新人だからとて先輩と同格発言がゆるされています」と本部長説明。コンサルタントルームの書棚には、Jファームが開発した技術書が沢山あり自習することが義務づけられています。先般のコンサルタントは、後輩から質問されれば答えなければならない義務が課せられています。しかし、質問のないものまで後輩に教える義務も・必要もないとされています。
 そのミーティングは、午後2時まで進み、2時から全員で昼食に出かけた。いつもいくらしい中華の円形テーブルでさっきの議論がつづいている。事務所に戻ったのは3時だった。今日はこれで。と解散し皆帰宅した。

 翌日Y社の社長室で、社長に「お話ししたいお願いがありまして」と、私が社長机の前に立つと、いつもなら、ミーティング机をさして自分も座って話すものを「なにかね」と社長机に座ったままいった。
「いろいろなことをこの会社で教わりました。感謝しています。私はもう52歳です。後がありません。これからの人生をもう一度チャレンジしたいのです」というと、その話をいついいだすかわかっていたらしく、「私に恥を搔かす気かね」と、いかにも用意していたことばのように、激怒していった。
 つぎに、ほっと顔をやわらげ「東京に転勤したかったたらそうしてやってもいいんだよ」といってきた。
 東京では、Y社長の下でよくやってるよ、と私を好意的に見てくれる人は多かった。ステークホルダーの企業の社長や幹部も。その雰囲気は重重社長は感じているはずだからそういったのだ。
 子飼いのY社の役員が、とことん仕入れ商品を値切っている姿を見て「商売人は、値切った分が儲けや。仕入れ先がわが社の将来に期待して、よろこんで値引きする。それが商売人の極意というもんや」「君はどこの会社から給料もらっているのかね」といわれたこともあった。
 新興の中堅企業といえども、こんな会社に勤める東大卒・京大卒はいない。関西では、関関同立がいいところ。支配する側の人間と、される側の人間は最初から決まっている、という真実が分かるような気がする。東大、京大、卒の選民のなかにも傲慢な支配欲の人ばかりでないことか分かったのも、東京通いで得た認識。
 私のような頭の悪い田舎者が、各分野の選民たちに抱いた劣等意識をバネにして、なんとか人間らしく苦しんだ年月だったのだ。人間らしい深い存在感のある経営者の元なら、私だって転職なんかしたくなかった。そんな経営者の元で終身勤められた人は幸せな人、それこそ選民とおもう。そんなこころの豊かな人とであえば、自分の愚かな欲望が、小さな小さなものに思えてくる。

 何万人もの社員を抱える大企業では、複雑な組織機能の上に、各[族]の人脈がシンジケイトを形成し、ヒエラルキーという「力の構造」を形成している。それは企業でも国家でもパワーの原理は変わらない。リンチ、処刑も、毒ガスも、込み入ったレトリッリックのロジックも、古代史よりあった。
 そんな手に負えない組織より、オーナー社長の理念と覇道の思考さえ変えられれば、その組織・企業は変身できるかもしれないとの思いで、中堅企業に入った(大企業に入れなかったから)。そしてY社では心ある友と協働して、オーナー社長の価値観転換のための多様なトライを試みた。しかし、それは不毛に終わった。当時だからと思いたい。21世紀になれば、歴史の必然によって変わる。と信じたかった。

 その翌日、当月末とした退職届けの日を待たず。Y社に出勤すると、私の机はぽつんと壁際に置かれていた。社長室に呼ばれ。「退職と決まった者が社内でうろうろされては困る。支払うものは支払うからもう会社にこなくていい」といった。
 私の退社を仲のよかったNIFの事務局長にだけにはと思い、その日に電話すると。瞬く間にその噂はひろがっていた。当日だけでも5人の人からの電話があった。経営企画室の壁際ではなせる話ではなく、ショールームの隅で電話した。
 私はその日に退社手続きをして、5時過ぎてから本社の各部に挨拶回りして帰宅した。

 帰宅すると、「Y社を退社してJコンサルタントファームに入るんだってねぇ。聞いたよその話」とか「◯◯さんならずっとそのほうが向いてるよ」とか「Y社が一番のステークホルダーとしていた床材メーカーの部長が、当時の仲間で親睦会を企画するよ。そのときは◯◯さん必ず出席してよ」とか、何人もの人が電話くれた。

 そして5月1日から、Jファームに出勤開始した。出勤はは10時。ほとんどのコンサルタントは、クライアントに出向き、コンサル・ルームにいるのは、新人を含め3人ほどだけいた。
 当面は、書棚にある、わが社の主技術のVEについて自習してマスターするよう本部長にいわれていた。マネジメント本部では、「ソフトVEが基本になるので」と「ソフトVEマニュアル」を読んでおくようにと渡された。
 その本こそが、2012.7.14の「漱石もマックス・ウエバーも現代を予言していた(1)」の記事に書いた、ウエバーの「3つの合理性」にであった本であった。
 



       
 
 
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by kuritaro5431 | 2013-09-22 07:57
2013年 09月 19日

選択した働き方(4・2)

 前号の続きです。

 初回の「インテリア振興対策委員会」は、本省の会議室だったと記憶している。配られた委員名簿には、聞き慣れた、日本のインテリアエレメントメーカーの社長や、企画問屋(主にカーテン、インテア小物のプライベートブランドメーカー)の社長。学識経験者、意匠系の一級建築士、インテリアデザイナーなどの名が連ねられていた。関西の業界の集いとは格式の違いのような権威あるもののように私には思えた。

 はじめに、生活産業局長の委員会設立主旨の話があった。廉価で快適な住環境の普及させ、国の政策の大きな柱の一つ。そのために廉価で安全な躯体を工場生産住宅として供給し、内装のファッシヨン化で快適な住空間を官民挙げて普及し、ハードもソフトも生活者に便利なシステム供給とあいまって、商取引の近代化(過当競争による製品品質の低下、安全性の低下など)も迫られている。。日本人のライフスタイルも、やがて欧米化し、家庭がコミニティの場になってゆく日もそう遠いことではない。新しいライフスタイルが若い主婦たちによって形成されるものと予測する。消費者に安心を、生活に快適を──を通し住関連産業の振興を図る。とのあいさつがあった。

 各企業の社長たちはそれぞれスタッフと共に出席し、分担されるであろうワーキングにそなえていた。
 初回は、活動の方法・スケジュールなどの説明と、スタッフを含めた名刺交換をし、解散した。


 その後は、各社から業界の実態ヒアリングする通産省外郭団体のスタッフの相手は、Y社では私になり、5回に一度ぐらい社長からのヒアリングとなった。私に会う時間では、ときに昼食時などに、私から社長の本音の話をききたがり、その代わり役所の業界への行政指導の方向性を教えてくれた。そのヒアリングで得た委員(社長)ごとの本音と、「報告レポート」をインテリアファブリックにおいては繊維製品課の例のキャリア官僚・事務官にあげ読み込んでいた。
 そんな影の業界指導をやりながら、本委員会では、委員ごとに報告書原稿執筆の担当を委員会事務局が振り分けていた。
 トータルインテリアデザインとエレメントデザインのファッション化については、インテリアの学識経験者や、建築士、インテリア・デザイナーが方向性と知識・実技の啓蒙企画を検討していた。
 私も、割り当てられた分野の原稿を書き、総合編集実務は、中小診断士のスタッフがやり、監修は学識経験者がやった。そして製本されて「インテリア振興対策委員会報告書」が官公出版として世に流された。


 それからというものは、どこでどのように官僚が指導し、関与したかは不明だが。各インテリア・エレメントごとの業界団体が東京に設立された。もちろん元々あったところもあったが、インデリブァブリックスはなかったので懇話会形式で設立し発足した。もちろん業界の自主団体である。Y社もその団体に加盟した。
 私の東京でのそんな活動は頻度を増し、他の住関連業界の幹部たちとも親交ができ、東京通いが増えた。

 それから3ケ月後、例のキャリア官僚事務官が、題目は忘れたが「◯◯に関するメモ」という文書を、日本インテリアファブリックス懇話会(NIF)の月例会議に提示した。それは長年この業界にひたっている者でも絞り切れてない課題を提示し、課題遂行のためになにをなすべきかが書かれ、彼の意見として述べた。その的確さには驚いた。さすがキャリア官僚だと私はおもった。元官僚のOBに聞くところによると、彼らは他の省からの出向であろうと、担当職務に真剣に取り組んでいる。出勤は10時、11時のときもあるが、帰宅はほぼ毎日12時を過ぎている。国会のあるときは、寝袋持ちで泊まり込み。彼らの代わりに業界調査する外郭団体のスタッフの報告はしっかり聞き、報告書もしっかり読み込み、「問題と課題」をしっかり掴んでいる、といった。
 その見返りにと、元官僚のOBはいった。「途中で出世コースから外れる者は、3回まで退職金付天下りが保証されている」といった。その仕組みを省の官僚を挙げて代々築いてきたし、これからも後輩のためにしっかり維持してゆく義務があると考えているのが官僚だ、ともいった。
 当時からすれば現在は随分やりにくくなっていようが、そのシンジケートはとてもとても強靱なものと聞く。

 それからのNIFは、彼が示した課題別の委員会をNIFのなかで編成し。委員長には、会員会社の社長がどれかの委員長になり、委員には、各社のスタッフが選ばれた。それをフォローする事務局もおいた。活動は討議方式で行い、議事録を事務局に提出した。どうやらその議事録は例のキャリアがみているようであった。彼には行政指導という権限はない。
 ところが、節目節目に、例のメモについて彼は触れる。
 当時知ったことは、省内には、大臣が発令する省令からはじまって、職制によって異なる公文が出されるらしい、課長以上でないと公文は発信できないと聞いた。本省の課長といえば、一部上場の大企業の代表取締役社長にダイレクトに電話できる慣例があるそうだ。
 従って、例のキャリア官僚のメモには、何の拘束力もないのである。ところがである。係長といえども、その業界にとって重要な役所リードの人選には口を出す。その影響力はすてたものではない。そのことを関東の企業幹部はよく知っている。だから例えメモでも重視する。先に述べた、業界と本省の官僚と繋がる人事に敏感なわけがここにある。
 NIFのメンバーは、市場では敵どうしである。老舗の製造業は新興のブランドメーカーという元彼らの代理店という問屋であった業態。「これからは、問屋はメーカーに近づき、メーカーは問屋に近づく2.5次産業の時代だなんて通産がいうもんだから、物づくりの大事さも技術も知らない問屋が、消費者に近い業態が消費者ニーズを先に掴み、商品企画して製造業に作らせ売る時代、とのぼせている」と老舗の製造業は、経営者から一般社員までそう思っている。そんななかでのNIF内委員会だからY社の社長が委員長の「取引の近代化委員会」にしてもステークホルダー同士の討論で、まともなルールが話し合えるものではない。

 何かにつけてそんな環境のなかではあったが、通産省が柱としていた2つの施策は、着実に進行していた。
 その一つは、「インテリアのフッション化の推進のための、通産大臣認定の〔インテリアコーディネーター資格制度の制定〕。もう一つは「日本のインテリアファブリックスの総合展示会として〔JAPANTEX〕を東京晴海で毎年開催」。いずれも業者対象のプロモーションではなく、消費者・生活者を対象としたものだった。
 「インテリアコージネーター資格制度」は、インテリアのオールエレメントを、生活者のライフスタイルや、パーソナルな感性に合わせ、トータルにバランスの取れたコージネートができるデザイナーを育てることを目的としていた。したがって、プレハブ住宅メーカーとオールインテリア業種(家具、照明器具、壁紙、カーペット、カーテン、インテリア小物)のタッグによる住宅産業の推進であった。〔インテリアコーディネーター資格制度〕制定は、ブレハブ住宅メーカーの業界団体の「住宅産業協会」がその任に当たった。

 そんななか、私はNIF内の委員会活動やら、〔JAPANTEX〕の準備と実行。また。〔インテリアコーディネーター資格制度〕の制定の準備作業など、専門職(東京で指折りのインテリアデザイナーや、一級建築士)の先生方と一緒にやった。私は、マーケティングまわりとか、インテリアコーディネーターは、どのような働きをして収入を得るかなどの分野を受け持った。
 そして2年。〔インテリアコーディネーター資格制度〕は発足した。マスコミでも話題になり、資格取得の講座があちこちにできた。そのころには〔JAPANTEX〕も軌道に乗り、消費者向けのプロモーション催事として定着していった。


 その頃、東京通いの仕事が一段落して、Y社長と一緒に新幹線で大阪に向かう車中で、「コンピューター室のアタマが2つできて混乱している。2年ばかり面倒見てくれないか」といわれた。
 転職登録票に、コンピューターシステムプロジエクトで仕事をした経験を書いていたから覚えていてくれたらしい。
 その後15年、コンピューターは、ハードもソフトも格段の発展を遂げていた。そのめざましい発展に私は関心を寄せていた。当時はキャパの小さい単能機を寄せ集めたハードで、マシン群を総合管理するOSも幼稚であった。その上、コンピュター・ユーザー各社はその業界特有の商習慣に縛られ、各社なりのやりかたで事務処理をしていた。同じ業種でも、得意先の業態が違えば対応を変えなければならなかった。得意先の業態比率が違えば当然売れる商品構成も異なり、売り方・作り方も違う。その会社の収益構造に大きな影響を与えていた。
 コンピューターを上手に使い、間接人員の生産性を上げようとすれば、作業の標準化がどうしても必要になる。それを阻害するものは、商習慣である。との疑問をもっていたからである。それは同時に日本的仕事観とトレードオフの関係に思えたアメリカ合理主義でもあった。日本人は働くことも「性善説」、西欧人は「働くことは苦で、性悪説」。

 そんな矛盾を抱えながら社長の依頼を受けた。一つには、当時流通業界で話題になっていた「オーダーエントリー・システム」をやってみたかったからである。今は日常化しているシステムであろう。
 得意先の小売店から注文の電話が入る。すると受注担当(主に女性)が商品名と数量を聞き、「在庫確認し」あれば「出荷指示兼売上伝票」を入力する。もちろんその入力伝票には、得意先コード、営業担当者コード、商品マスターから引っ張った正規の商品名・色コード、標準売価・特値、原価などが端末の画面に表示される。受注担当者がEnterキーを押すと「支店の倉庫に[出荷指示票・納品書・受領書]が複写でプリントされる。倉庫が社外であればオンライン専用回線を利用」。その時点でコンピューター上の在庫は引き落とされる。(このシステムでの一番の難関は、現物在庫とコンピューター在庫=俗にいう帳簿在庫との誤差。しかもカーテンは切り売りされるので端反のm在庫あり)。倉庫では、ビッキングした商品に金額入りの納品書を添えて得意先に送る。
 支店事務所では、規模に合わせたそう大きくないオフコンで、売上処理と同時に、売上伝票出力。同時に、営業担当者別、課別、目標管理ファイルが更新される。当日の得意先からの受注受付は、16時までとし、以降は翌日出荷とした。
 それによって、「にちにち目標管理が実現する」。今までは単能機で支店単位の売上のみ集計し、電話で営業本部に報告していた。月末は、受注伝票枚数で売上高を推定して、営業本部に報告していた。それが、毎日16時30分には、各支店で営業担当者別・商品大分類別・売上・粗利の当月の目標達成率がプリントできるようになる。

 そのような構想を常務会に提案した。コンピューター・ルールに縛られる商売は、わが社の営業体質にそぐわない、とか。そんなに手品のようにうまく行くかなど、質問や反対もあったが、社長がその提案を了承した。

 システム導入は、メーカーの支援なくしてできるものではない。めぼしい国内系のメーカー3社に打診した。充実した体制を組むと約束してくれた富士通の支援をうけることで決定した。窓口になるディラーをはじめ、富士通直轄のSEを束ねる統括部長の指導を受けながら、紆余曲折はあったが、広島支店、福岡支店、名古屋支店、東京支店、札幌支店、最後に本社のホストと、大阪支店、本社流通センターのシステム構築を2年がかりで終えた。一番苦労したのは、どこまで例が処理をなくし、標準化できるか。オフコンの負荷をどこで軽減できるか、どこまで業務標準化ができるか、商習慣をどこまで変えられるかにあった。それは、NIFで取り組んだ「取引の近代化」そのものでもあった。

 そしてこのシステム化の私としての仕上げは、全社の年度経営計画と連動でる「支店別、課別、業態別、テリトリー別、個人別、主要得意先別、商品別、月別、などの目標設定と管理」のありかたであった。それがY社入社のとき社長が私に期待したことではなかったかと、思ったからでもあった。
 満足のゆくレベルのものではなかったが、概ねシステム化、省人化、自動化し、毎年の関係者が多大の時間を掛けていた目標設定ワークが軽減された。

 それからの私は、経営企画室長という役割のはっきりしない社長特命の仕事ばかりやるポジションに付かされた。中期経営計画策定のプロジェクトリーダーとか、本社では常時2.3本のブロジェクトがコンサルタント指導で動いていたので、社長が気になるのか、その他のブロジェクトにも私に関与させ、進行状況報告を求めた。そのとき、コンサルタント・ファームにもいろいろのタイブがあり、コンサルタント個人にも売りのスキルや態度いろいろと知った。

 そしてこの会社でも、自己実現欲求の限界を感じ、最後の選択を考えようとしていた。52歳。









                     
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by kuritaro5431 | 2013-09-19 21:36
2013年 09月 18日

選択した働き方 (4)

 1972年3月、私は大阪に本社のあるマネジメント系コンサルタント・ファームT社が事業部としてやっていた、人材紹介部署の紹介で、新興のインテリアファブリックス企画問屋Y社の社長と面談した。
 私に同行したのは、T社の部長コンサルタントで、Y社の担当コンサルタントでもあった。以前T社で「転職希望登録票」で申し込みをしたおり面識のあった人だった。
 その日はT社の本社に10時に出向き、同行してくれることになっていたコンサルタントから、Y社の現状と社長の将来構想や、創業者社長の人となりなどを聞かせてくれた。年商は150億円といっていた。そして「社長が貴方に関心を寄せたのは、先進と思われている自動車ディーラーにおける販売管理のやり方。これから流通業も問われるであろう事務処理(特に受発注)の効率化、システム化のようだ。問屋の役割がかわるから」といった。
 私たちが通されたのは、社長室の隣の白板のある、小部屋だった。
 同行のコンサルタントが私を引き合わせ、私は毅然と挨拶し、今井◯◯著の「転職のすすめ」通りに今日対応しようと、おくびにも「雇い乞い」はすまいと心に決めた。

 Y社長の開口一番は「登録票による希望年収は、なぜ今の年収の1.5倍なのかね?」だった。
 私は即答した「今より、所属する会社にも、社会にも、倍役立てる人間になり、私自身も豊かになるための投資にまわしたいからです」といった。
 すると「理屈は立派だが、君にそれだけの値打ちがあるのかね」といい、棚にあった5つ玉の算盤をはじいて見せてた。コンサルタントがいったように、河内生まれのたたき上げの大阪商人だ。昔の船場商人と違い、義理より損得で判断する。そんなところのある社長だ。よくいえば理念より実質だという大阪商人の合理主義、といった。
 30分ばかり会話して、社長は管理本部の常務を呼び「この人5月1日から来てもらう。いいだろう」といって席を立った。常務は、困った顔をして別室でコンサルタントと話し込んでいた。帰りに、コンサルタントは今のこの会社の給与制度にあてはめようがない、といっていた。でも、「ワンマン社長がいったことだ間違いないでしょう」といった。

 そして私は、京都三菱での一切の退社手続きをして、5月1日を待った。持ち帰ったものは3種。1つは、14年間に書き溜めた、7mm方眼のノート20冊、それと「事務機械化委員会」で作成した「現業が作ったマニュアル」10冊、それと「ビジネスマンの必須となる法律知識を研修で修得したノート」それだけだった。ノート以外に学んだものは多かった。特に、三菱重工という組織機能維持のためにやられていたさまざまな「社標準」。


 そしてY社の社長と約束した5月1日の8時30分にY社に入り、管理本部の常務にその旨を伝えた。
 常務は「毎月一日には、本社全員が集う朝礼があります。その場で社長が、あなたさまの紹介をすることになっています」といって、しばらく待つようにいった。あなたさまといった常務の言葉使いによからぬ予感を感じ、待った。1階下のフロアで、ラジオ体操の音楽が鳴り、やんだところで私は呼ばれ、社長の横に立った。

 その2階のフロアは、商品本部(商品開発・デザイン室)(商品群別自社ブランド商品の原糸調達(商社経由)と生産者への計画的生産発注)(各支店からの受給要望と、販売予想・在庫状況をにらんでの生産調整)(問屋機能としての取り次ぎ販売戦略と個別メーカーとの取引ルール、販売数量協定。その提携相手の多くは東証一部上場の内装資材製造業。この世界でのY社の業界内地位は、代理店で販売マージンが利益、他に協定販売量達成によるリベート)。営業本部(各支店の組織統制ーー今でいう企業内ガバナンス、そのなかには、各販売ルートの日々の実績把握と目標管理もあった)(専門店卸ルート───生業のカーテン、カーペット、インテリア小物の小規模前売店、寝具店、床璧装の一般住宅、業務用インテリア工事店)そのほかに(GMSルート)(百貨店ルート)(後に主となるホームセンタールート)(後に話題となるブレバブ住宅メーカーのトータルインテリアとしての壁装、床材、敷物、家具、カーテン、照明器具、インテリア小物、の一貫としての供給ルート)(一般住宅の増改築ルート)への営業戦略・中期計画、および施策・目標の設定など。さらに問屋からの脱却として各販売チャネルの組織化や物流のハード機能の充実と商流としてのソフト情報伝達機能の必要性がささやかれていた時代であった。
 上記組織の他に、常務会で方向付けした中期経営計画を、商品計画と営業活動分野でブリッジする部門として営業企画部があった。後のマーケティング部である。
 この段落は、Y社社長と面接前にT社のコンサルタントから聞かされた話だったし、また私がY社入社以後に認知したものも含まれている。

 読者の皆さんがおおよそY社のことを知ってもらった段階で、社長からの私の紹介に話を戻します。
「今日から3ケ月「T経営」から派遣される◯◯さん(私のこと)を紹介します。3ケ月の間「営業」「商品」まわりの実務を見てもらい、わが社のよいところ、改善すべきところを「報告書」にして常務会に提出してもらうことにした。みんな協力するように」との紹介であった。
 私は、やられた、と思った。それは給与制度にない私の要求に対しての、Tコンサルタントとの落としどころだったのかも知れない。

 その日から社長の弟の営業統括専務の預かり人事となり、私は動いた。福岡、広島、名古屋、東京の各支店をまわり、本社からの「営業」「商品」「販促催事」「各支店の年度計画」などどような系統で指示が出され、年度が終わったおりどんな検証がそれているか、それが知りたかった。また管理本部からの指示命令系統と実施はどうなっているかも、知りたかった。活動の詳細は割愛するとして、3ケ月後の「報告書」みな好評で、社長が一番評価してくれた。
 3ケ月が過ぎても社長からも管理本部の常務からも何の音沙汰もなく、そのままの勤務がつづいた。
 そして一年が過ぎ、名目はともかく、私が要求した以前の年収の1.5倍はくれていた。


 翌年の春の辞令から、ボストと役職もあたえられ、セールスプロモーション、広告宣伝、自社ブランド商品発表展示会の実施、見本帳の製作、業界記者へのプレスリリース、専門店ルートの全国販売キヤャンペンに連動したテレビ広告と大がかりな新聞織り込みチラシ企画と実施など5・6年やった。その頃は部署名も流行りのマーケティング部という名称になったが、実質は、セールスプロモーションにほんの毛の生えた程度の業務だった。
 まだ社長も若く、事業拡大意欲旺盛で、多くのコンサルタントとつきあっていた。Tコンサルタントファームは、創業間もない頃からのつきあいだったが、年商100億円を超えてからは、専門特化のコンサルタントファームを積極的に採用するようになっていて、それは成長のための投資と考えているようだった。
 中期経営計画策定のコンサルティングも、プロジェクトを組んで指導を受けたが、財務計画、物流計画も含んだ広義の「マーケティング戦略計画」というものだった。
 そんな関係で、商品開発計画から、物流戦略までさまざまなプロジェクトに私は参加した。そこで出会ったコンサルタントや、プランナーたちは、延べ15人を超えていた。以後の転職にどれほど役に立ったことか。

 その頃、通産省生活産業局において「インテリア振興対策委員会」なるものが編成された。
 主旨は、通産省の担当領域である工場生産によるプレハブ住宅と、同じく通産省担当領域のインテリアエレメント(家具、照明器具、壁装材、カーペート・塩ビ等の床材、カーテン、インテリア小物等)のトータルな組み合わせにより、住宅躯体は、工場生産でより安く、内装=インテリアエレメントは、トータル化とファッション化で快適な住空間を促進し国民に提供する。そして、インテリア産業の振興を図る。というものだった。
 (注)在来工法の住宅は、建設省の担当領域。一級二級建築士も、建設省系の許認可国家資格。

 通産省は、その施策を遂行するためにとったさまざまな手立てををつぶさに見た私は、官僚の制度や、若いキャリア官僚の凄さ、関東の企業が、各省の動向・官僚の動きに関西では見なかった敏感な反応に驚いた。そして通産省生活産業局は、外郭団体の「流通経済研究所」(だったと記憶)のスタッフを使って、関西においても、インテリア・エレメント・メーカーや、企画問屋の実態把握をやっていた。そのスタッフがY社の社長を訪ねてきたとき、社長の要請で私も同席した。後でわかったことだが、若いキャリア官僚(厚生省から出向の29歳の係長事務官)は、直接業界の経営者やスタッフに会うことなく、外郭団体のスタッフが収集したヒアリング情報の聞き取りと、報告書による、詳細な実態把握をしていた。どこの会社をリーデイグカンパニーとして選ぶか=振興対策委員に選ぶか決めていたと思われる。
 しばらくして、Y社長宛に、生活産業産業局長からの「インテリア振興対策委員」への参加の依頼状がきたと、社長から聞いた。社長が委員に指名されたことは、インテリア振興行政の蚊帳の外でないことだけは確かで、社長は喜んでいた。委員会ではいろいろ宿題もでようから、委員会に付き添い出席してくれと社長は私にたのんだ。私も物珍しさもあり、随行させてもらうことにした。

 (次号につづく)
 鬱陶しい詳細な話がまたつづきます。この種の話が嫌いな読者も多いと思います。そんな方は斜め読みで読み飛ばすか、またはバスしてください。







               
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by kuritaro5431 | 2013-09-18 16:07
2013年 09月 15日

選択した働き方(3・2)

 前号のつつきです。


 その段階で私のこの会社での旬は過ぎたかと感じるようになっていた。
 理由はいろいろあった。会社というものは、それぞれ善かれ悪しかれ創業者の思考の癖が会社の隅々にまで風土として反映してきているもの。いくら旧財閥系の伝統のある「組織の三菱」といわれる資本系列の傘下にいても、また若い頃、三菱重工という社風のなかで育ったとしても、ひとたびその人がオーナーとなって会社を立ち上げたなら、自己欲と事業欲を一体化しなければ、創業期の苦難を乗り越えられるものではないのだ。オーナーは、例え創業期を共にしたNO2の役員でも、成長過程で邪魔になれば切る。その残酷さが経営者には、必須だ。そのことは感覚的に今回の一連の改善活動をと通して感受した。
 ということは、会社というものは、まして創業者時代の会社というものは、オーナーの自己欲と事業欲が一体になった欲が醸す灰汁の強いエネルギー発露なくして成功はえられない。そのことを体感した。従って、私の全人格を賭したこれからのビジネスマンの自己研鑽の場にはふさわしくないとの思いが募ったから。
 高度成長期に突入する日本のどの企業においても、社員の個の存在など問題ではなく、どこまでも社業発展のために尽くす「集団の一員」としての社員以外必要ないという価値観が、まかり通っていた。とはいえ、オーナーの人間性によって繰り出される施策は、微妙に違って、それが積もり積もって健全で能動的な連帯の持てる社内風土、組織風土を辛抱強く築こうとしている会社もあったから。


 委員会活動が一応終了して、私は本部の企画課長になった。この時期が宇澤正太郎専務と一緒に仕事をした時期である。自販の元憲兵伍長が、今回の「事務機械化推進委員会」の功労者として私を昇格してあげて欲しいとの申し出を竹田社長にしたとの噂を流れ聞いた。そして翌月、十条にあるグループ1の総合拠点にある京都三菱自動車販売の営業業務部次長の辞令が出て、そちらに席を移した。そのとき34歳。

 それからは、システムのメンテナンスは課長に任せ、自分は、自販の宣伝部などから送られてくる、「マーケティング戦略と広告宣伝計画」とか「これからの消費者志向のマーケティングとデイラーの役割」などのレポートをむさぼり読み、汎用性のある知識を得、知恵に転換して生きる道はないか。使えそうな自販からの計画書の作られ方など、例の7ミリ方眼のノートにせっせと書きためた。転職を考える気持ちが強まるにつれて。

 34歳から39歳の転職実行までの5年間。有給休暇を取っては、求人広告を見ては面接に出かけた。その数6社。そのなかに大阪の靱公園内にある「日本マネジメント協会」という経営コンサルタントファームがあった。募集広告には、銀行向けコンサルタントと、自動車ディーラー向けコンサルタント募集とあった。それに、三菱自販の管理者研修で、そのファームのコンサルタントに好感を覚えた記憶があったから。
 試験会場に着くと、会議室に案内され、コの字型に並ぶテーブルに、前から詰めてくださいといわれ座った。すでに5.6人がいた。予定時刻なり、コンサルタントが、黒板に「これからの日本のイノベーションのゆくえ」(記憶は正確ではないが)と板書し「これから30分自由にディスカッションしてください。だれかが司会してもよし、しなくてもよし。30分だれも話さなければそれで解散です」といった。
 さすがにみないきなり発言した。戦う議論はだれひとりしなかった。それそれの考えを主張していた。なかには精神論まがいの話をする人もいたが、概ねの人は、論理的に主張していた。
 それが終わってから、原稿用紙が5枚配られ、黒板にテーマが書かれ、「これについて30分以内に論文を書いてください」といい。試験官もコンサルタントも全員退席した。
 時間がきて原稿が回収され、個別面接の時間を待った。
 聞かれたことは、希望年収、不規則になる勤務を了承できるか。自宅からここまでの通勤時間などだった。
 得意とするスキルなどは聞かなかった。その日はそれで終わった。
 後日、封書がきて、20人の出席中、5名の方に2次のプレゼンテーションをお願いすることになりました。黒板を使いながらのレクチャーです。持ち時間20分。プレゼンテーションテーマを送ってくださいとあり、、日曜日の日時が指定してあった。
 私は「自動車ディーラー経営における付加価値とは」をテーマとして送った。
 その日には、コンサルタントが聞き役となり、私のレクチャーが終わるまでなんの質問もしなかった。
 レクチャーが終わってから、一人のコンサルタントが「付加価値という言葉は、どういう解釈で使いましたか」と問うた。今思えば経営学の定義による答えはできていなかった。「走るマシンというハードを売る小売業でなく、生活の行動半径を増やし、その人なりのライフスタイルをつくる道具を提供し、そのサービスの固有さが生み出す利益」というようなことをいったと思う。質問したコンサルタントは、「ほーう」といい、それ以上の質問はしなかった。
 それから1週間後、理事長の最終面接があります。と電話連絡があった。
 理事長面接では、いきなり「財務諸表が読めるかね」と、問われた。「損益計算書」なら分かりますが「貸借対照表」は読めません。と答えると、「損益計算書なんかセースル係長がやる粗利計算と一緒だ」「経営コンサルタントという職業は、どの分野をやるにしても、貸借対照表が魔術師のようにあつかえてなんぼの職業だ。
 「どかね、3年ばかり財務診断の下働きをやる気はないかね。日曜も深夜もやることになる仕事だがねぇ」と問われた。私は数字の扱いは得意ではなかったし、財務診断を基礎のする経営改善アフローチの時代は過ぎたのでは、と考えてもいたので、「体力がもちそうにありませんから」といって断った。理事長は「そうかね」とだけいい、面接は終わった。


 その後、今井◯◯著「転職のすすめ」とい本がでて、読みある種の感動を覚え、そのまま実践してみようと思った。今井さんという人は、アメリカに名から悔いて、アメリカの雇用問題に詳しい人だった。その本は私の転機を促した本だったが、今は私の本棚にはない。転職をしようかと迷っていた友人に貸したのかも知れない。書かれていたことのなかで、今でも明確に覚えていることは次に列挙するいくつかだった。

    ★転職は縁故に頼むな。
    ★自分の得意スキルがフリーのマーケットでいくらで売れるか、つねに検証せよ。
    ★役員以上と面接せよ。
    ★要求年収をはっきりいえ。
    ★なぜそこまで欲しい? と問われたら「生活レベルを上げるための自己研鑽投資をしたいから」と。
    ★履歴書にプラス「業務歴」添えてだせ。業務歴とは、会社に、社会に役立った足跡そのもの。


 やがて私は、コンサルファーム系の人材銀行経由で、14年勤めた京都三菱自動車販売(現在の年商1100億円)を退職し、転職した。39歳。



 この流れの「働き方の選択」は、IQが特別高く「偏差値力」も高い人が取る選択肢ではない。そんな人は、日本では、ゼネラリストしてキャリア官僚を目指すのが一番ふさわしい選択肢となっている。そうではない[族]はスペッシャリストとして地頭力で生きるしかない、いやその選択肢もある。関西でいえば、関関同立といわれる[族]。地頭力で役立ちを狙えば、文系でも、一匹狼で年収3000万円は稼げる。ただしそこにはいくつものリスクがあり、穏やかを望むライフスタイルの人には向かないかも。稼ぎ高の問題ではない。とはいえ、心の豊かさを維持してゆくにも、コストはかかる。そんな目的でほどぼに稼ぐ思考と論理と方法論にも適用できる、汎用性があるような気がする。
 選民としての学閥は、旧帝国大学の東大と、京大といわれるも、東京では圧倒的東大閥。京大系人脈の影は薄い。中央官僚の支配力は、関西では想像できないほど強い。それは省益中心の「霞ヶ関文学」や「東大話法」にみられる影の官僚の権力。そのパワーが日本の近代化をリードし、今日の繁栄?を築いたことも確か。

 ところが、そのエリート官僚のさらに上に、世界を股に掛ける飛び抜けた、モチベーションと知力を持つ人がいる。そのなかに少数の日本人もいる。昔より減ったという人もいるが。
 ハーバードの政治哲学のサンデル教授の「白熱教室」に参加する後進国の若者のモチベーションには目を見張る。これが「ハーバート・メソード」の魅力かと。日本式カリキュラムとの違いをいやに感じる。それにづつく、インド・シーク教徒の血を引く盲目の女性心理学者シーナ・アイエンガー教授の「コロンビア白熱教室」(コロンビア大学ビジネスクール特別講義)の[選択と偶然と運命の三次元連立方程式]。サンデル教授も、シーナ・アイエンガー教授も、「理性」のみでなく「人間の思考の多様性は感性が育む」という意味のことをいっていると思う。
 シーク教は、ヒンドゥー教徒と同じく輪廻転生を肯定し、カーストを完全否定。イスラム教(イスラーム)の影響も。もしかしてシーナ・アイエンガー教授の思想はそんな多様な価値観の遺伝子の一部を……と思ってみたり。

 一時、日本人の優秀な頭脳が海外に流出した。特許を生み出した「知」は、個人のものか会社のものか。バブル景気崩壊後、優秀な科学者が高額でヘッドハンティグされた。その付けがいま回ってきている。それなのに、特許の所有権は発明者に関係なく、会社に所属するという法にすべしの声。日本の集団主義、美しく懐かしい共同体社会の「絆」の肯定。他方グローバル社会は、必ずしもその価値観を世界のスタンダートとする流れには見えない。「個」の存在の肯定が、さまざまな価値創造のモチベーションとなっているから。

 その話は後日に回すとします。












 

 
 
 
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by kuritaro5431 | 2013-09-15 22:51
2013年 09月 11日

選択した働き方 (3)

 前号のつづきです。

 そこで、私は「営業業務改善」の決め手を、営業業務課がキーになり、経理部やサービス(ユーザーの車両整備や修理)部と即時連携の取れる事務連携体制(システムに近い機能)をつるくことにした。

 営業業課内でのヒアリングで一番困っていることの典型をあげれば「自社ユーザーが、他社の新車を購入する際、車両代金の未払い(主に未決済手形残高や係争中の債権の有無と額)、修理代の未払い(自社で修理した修理代金の未払い残高および他地区の三菱自動車ディラーで修理した修理代の未払いの有無)、自動車税の未払い(当時からトラックも、ディーラーが車両のの所有権を留保して割賦販売法に基づき割賦販売していた。その担保に約束手形を受け取っていた。車両の所有者はディラーであり、自動車税の最終支払い義務者は所有者であったから)。
 
 これらの確認を一週間以内にし、新しい車両を売った他ディ゛ーラーに回答すべし、という約束が業界内でされていた。2輪ディラーとは決定的に違う業界ルールだった。4輪自動車は動産でありながら運輸省陸運局にれっきとた公簿がある。公簿があれば不動産並みに所有権の設定もできることになっている。軽2輪・排気量250CC以下は、都道府県への登録で、公簿はない。

 以上のような状況から、これらの業務処理を一週間以内にするということは、4輪自動車を扱ったことのないディーラーでは至難なことだったのだ。だからおもちゃ屋といわれる理由があったのだ。

 私が思いついた決め手とは、A5の[車両販売原票](新車・中古車兼用・ただし中古車業者への粗売りは除く)を考案したことだった。いうならば、マルチINDEXカードだ。①のINDEXは「ナンバー・プレート・ナンバー」。これは下取りした他ディーラーが「所有権移転申請書」に必ず記入してくるナンバーである。車検証には使用者の名義が記載してあるが、必ずしも、売買契約者と同じではないこともあるから。②のINDEXは「注文書および割賦販売契約書に記載されている契約者のフルネーム。③のINDEXは「車台ナンバー」車台のフレームに刻印されている製造上の個体ナンバー。メーカーの保証・リコールなどに必須のもの。
 この3つのINDEXを「車両販売原票」の最上段ギリギリ並べた。
 ①の原票は「営業業務課」で、オール通しの「ナンバープレート順の8穴ファイル」で保管する。②の「契約者」をキーにするカードは、経理部が希望する情報を表下半分と裏面前面に前もって印刷したA4カードに、「販売原票」コピーする。そして経理部にその日のものを渡す。③の車台番号をキーにするカードは、経理部用カードと同じように、サービス部が希望する情報を印刷したカードに「販売原票」をコピーその日のうちにサービス部に渡す。
 経理部も、サービス部も、もらい受けたカードをそれぞれ②③のキーごとに、順にファイルすることにした。
 当時はまだ湿式コピーが主流で、乾式はZELOXのみで高額だった。ランニングコストも高くついたが、専務が決済してくれた。
 そして半年、1年と運用の試行を各部でを繰り返し、ほぼ軌道に乗った。その頃は少なくとも、上記の周辺の業務については、過度の残業から解放されていた。
 予期せぬメリットも生まれた。修理工場に入庫してくるユーザーを受付前にキャッチしようとサービスフロントに入ってくる車両のナンバープレートをみて、サービスカルテを抜き出し事前に用意し、ユーザーに対処しようとした試みた。そのためにサービスフロントにも、ナンバープレートをキーに使うカードをもう一種類渡し、サービスカルテとともにセットで運用した。
 当時ユーザーサービスの密度が話題になりかけ、回転式ドラムにカルテをフアィルし手動で回転させ検索する道具もではじめていた。


 そんな時期がひとしきり過ぎたある日、不良債権処理のベテランが、病欠することになり、臨時に当座の相談窓口役を兼務してくれないかと専務からの依頼があった。同期入社の同僚が、「是非やっとけよ、必ず将来役立つから」といった。そのこともあり、私は了解した。
 それについて2週間合宿の「自動車ディラーの法律知識と実務」という研修が東京のホテルであり、私は参加した。それは私にとって目から鱗だった。「契約という行為とは、どういうことか」「双務契約と片務契約」「約束手形・為替手形」「債権の取り立てにおける自力救済の禁止」「手形訴訟の効用」「悪質な債務不履行者に、販売した所有権留保の車両の引き上げにともなう所有権と占有権の問題」「内容証明と支払命令」「保証人と連帯保証人の違い」等々、2週間の講義をしっかりノートした。帰って下宿で毎夜3時まで復習した。実践は覚束ないので、会社顧問の行政書士と心やすくなり、いろいろ手ほどきを学び、セールスマンの個別問題に当たった。回収に出向く仕事はしなかったが。
 難問は、顧問弁護士に依頼し訴訟にまで持ち込んだ。私の役目は、セールスマンと弁護士のつなぎ役だった。弁護士費用を少なくするために。手形訴訟や、会社更生法訴訟の法廷にも立ち会った。
 当時使っていた「自動車割賦販売契約書(強制執行認諾条項付)」は、後私の手で作り替え弁護士の点検を受け以使用した。

 後の仕事、経営コンサルタントにどれほど役だったことか。

 その後、三菱重工から独立していた三菱自動車(生産部門を自工といい販売部門を自販といっていた)は、われわれデイーラーは、自販ルートと繋がっていた。
 その自販の「情報システム管理部」が、ディーラーの、事務処理の効率化、標準化の指導に乗り出した。指導に訪れた人は年配の旧陸軍中野学校出身の元憲兵伍長。中野学校は暗号解読の研究もしていたところでもあり、当時コンピューターに携わった人の中にはそのルートの人も多くいた。

 その頃の私は29歳になり結婚していた。

 そしてあるとき自販指導による「事務機械化推進委員会」(当時はどの会社でもそういっていた)が近々設立されると、社内告知された。京滋には、新三菱重工系の自動車ディラーが竹田稔オーナー傘下に、京都に2社・滋賀に1社あった。就業規則をはじめ、さまざまな社内規程やルールは統一されていた。
 そして、営業業務の改善実績もあったことから、私は、営業・車両部門の3社のリーダーになるよう本部からの依頼があった。例の同期入社の男が、「よい機会だぜひ経験しておけよ。必ずその時代がくるからとまたいってくれた」。コンピューターとはどのようなものか、全く知らない経験のない私は見当もつかなかったが、受けた。とても興味があったから。
 委員会は、「営業・車両分科会」と「サービス分科会」「部品分科会」「経理分科会」の「4現業分科会」と「アプリケーション・プログラム開発と、カード・パンチャーおよびコンピューター・オペレーション。これは委員会のなかの一つではなく。本社組織の1つであった。
 当時の本社(3社本部機能)は今はないが、烏丸御池の南角にあった。その4階にホールとはいえないまでも、本部の総勢が会するには十分大部屋があった。そこにIBMモデル360と周辺マシン群を入れるという。
 事務機械委員会が発足してからは、IBMのインストラクターが委員全員を対象に延べ10日間の研修を行った。私は毎日が目から鱗だった。0か1からなる二進法の話から、ビットとバイト話や、デジタル信号とアナログ信号の長所短所、CPU本体に内蔵するメモリーと外部記憶装置としての磁気テープや磁気ディスク。演算結果を外部にはき出すプリンター。それに演算するためにCPUにデーターを入力手段としての入力媒体の種類。当時はバンチカードが主で、紙テープやマークガード・マークシートも使われていた。
 外部記憶装置の磁気デイスクは、確かにランダムアクセスできるのでとても重宝だったが、なにぶん容量が5メガしかない大きなものだった。磁気テープは大量のデーターが収納できるがシークェンシャルの保存なので、検索はとても非効率。
 主流の入力媒体としてのパンチカードは、入力ミス防止のベリー(同じ伝票の二度打ち)は非効率だったし、カードパンチャーの健康管理は労務管理上苦労の種だった。腱鞘炎で。

 そんな研修を受けてから、われわれ現業側の分科会メンバは、ひたすら8Kの本体イメモリーで処理できるよう例外処理をなくしてコンピューターにいかに合わせるかに苦心した。何でという疑問を持ちながら。だが過度の標準化をやれば、実態の商取引と乖離し、運用する社員がついてこれなければ元も子もない。このレベル設定をどうするか。と、必要悪として残る例外処理をファンクションコードなど使ってどこまでコンピユーターはついてこれるか。できたとしても、入力操作は複雑になりだれでも入力できなくなる。

 その作業手順は、あの自販から指導にきていた元憲兵伍長から教わった。まず現在の業務フローを全紙の模造紙に(JIS基準の記号を使って)書き出し、もう一枚の模造紙にあるべき業務フローを作る。その二枚のフローを見ながらなんども議論しあい、標準化のアイデアを出し合った。
 どうしても標準化無理なものはファンクションコードを使うこととし、コンビューター室長と掛け合った。彼は、元憲兵伍長の紹介で今回入社した人だった。彼は各地方により違う商習慣など地ならしできる。それをやらなければ日本経済の近代化はなしとげられないといい、よく現業の分科会委員と口論にまでなった。

 この時代一番勉強になったことは、現場の商習慣は取引相手も含めどこまで標準化(取引モデルの省略化)できるか、ということであった。

 これらの作業は、修学院離宮の近くにある「関西セミナーハウス」に合宿してやった。1週間合宿しては、1週間職場に戻り、その繰り返しを半年続けた。そして合宿作業の仕上げは、10種類に及ぶ入力伝票・媒体の設計と伝票ごとの取り扱いマニュアルだった。入力操作は、コンピューター室がつくった。われわれのつくったマニュアルは、伝票ことの目的と、それに沿った適切な入力処理だった。そのために守らなければならない基本ルール。例外処理をしなければならない理由と、ファンクションコードの正しい選択。それは企業は「企業会計原則を貫く社会的責任があるから」と。
 業務を簡素化し無駄な作業を止めてゆくためには、例外の多い商習慣を改める必要がある。そうしないと、社員も、会社もつまらない残業からは解放されないと、啓蒙をかねで作成した。

 各種の入力伝票や、取り扱いマニュアルの印刷もでき。各社で説明会を実施した。
 本番スタート時には、竹田稔創業者社長の作った「社是」が、楷書風の書体でプリントアウトされた。
 IBM社からは、IBM社の経営理念理念「THINK」の楯が出席者全員に配られた。


 (次号へつづく)
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by kuritaro5431 | 2013-09-11 16:23
2013年 09月 08日

選択した働き方 (2)

 なによりも気になっていた福島原発の高濃度汚染水漏れと、オリンピック招致活動。日本に決まってよかった。安倍総理の「国家責任で万全の安全対策をとる」との世界に向かっての約束。実行性は高まったとIOCは受けとった。2020年に向かって。さらにそのさきの孫の孫の世代に向かっての日本の転機になることを期待する。ここにきて、東大話法の話題が一気に浮上し、そしてまた、証拠のない陰謀説という発言がいつもの人からでている。

 
 前号の続きをはじます。

 私が実質はじめて勤めた会社は前号に書いた、旧財閥系の自動車ディーラーだった。新設の4輪トラックデーラーとあって就職にあぶれていた京都のモラトリアムが多く受験した。2輪、3輪しか扱っていなかったディラーが、4輪トラックを扱うとあって、おもちゃ屋が4輪を扱うそうなと、先発の自動車ディラーや街のモーター屋に開業前からからかわれた。
 新設ディラーで扱うトラックは、アメリカのウイリス・ジープ社が特許保有のジーブ・エンジンをパワーアップして当時日本になかった3tトラックに積み、発売しようというものだった。ウイリス仕様のジープは、自衛隊用として新三菱重工が、すでに生産していた。
 販売職で採用されたのは12人だった。そのなかで一番年長の私だけ販売職に回らず、将来新車販売の下取りに入ってくるであろう他車車種の、型式別、年式別、車両の程度別、業者相場調査の役が与えられた。
 私はフリーターのときやった映画の動員の仕事。生まれて初めてやった労働組合事務所への飛び込み。その経験が多少役だったようだった。街のモーター屋をまわり、修理工上がりの店主に「私は自動車というものについてまったくの素人です。教えてくだい」と、お願いして回った。訪問したうちの半数は、好意的に対応してくれた。そのうちとくに親しく教えてくれる店主が5人ほどでき、主にこの人たちから得た車の相場情報で、私は、メーカー別、型式・年式(当時は前期・後期があった)別の標準相場。さらに該当車種の特性(主に性能・故障しやすい箇所・修理しにくい箇所・その修理費用の大小)などを小さい手書きの冊子にまつめ、新車のセールスに配った。
 私の上司は、スクーター(シルバーピジョン)の代理店(2輪のモーター屋)販売部の元マネージャーだった。私の作った相場冊子は、上司の指示でつくったものではなかった。当初の指示は、モーター屋を回って他車種の業者相場を調査してくれ、とのことだった。上司は4輪のモーター屋との取引経験は薄かったようだった。
 そんなことで、同期入社の仲間からもよろこばれた。
 そのころの私の生活スタイルは、会社での勤務時間と、退社後の時間、休日の時間を明確に区分しようといろいろ試していた。私的時間では、映画の動員の仕事で縁のできたATG系列館の朝日会館(当時は、東郷青児の壁画で有名)が運営していた「ATG友の会」の世話役をやったり、、会の冊子に投稿したりしていた。今みると、このブログ以上にペダンチックな文体で書いていた。その後の環境順応で、平易なビジネス体にすすみ、クライアントにあまり気を使わなくてすむようになった今、また戻ったのか、などと考えるこの頃。
 そのころ想い出深い映画に、「去年マリエンバードで」「処女の泉」「灰とダイヤモンド」「二十四時間の情事」「恋人たち」「甘い生活」など、邦画では「裸の島」「日本の夜と霧」「「不良少年」「「用心棒」「キューポラのある街」「切腹」「秋津温泉」「おとし穴」「人間」「五番町夕霧楼」「砂の女」「越後つついし親不知」などなど。
 そして、後輩の集う「映画部のBOX」を覗き、休日には映画部OBや、動員係で縁のできた男女が私の下宿に約束なしに寄ってきた。夕食は女性たちがあの銭湯のある路地の店に買い出しにいきつくった。メンバーには酒好きの者もいたが、だれも飲みたいとはいわなかった。そして、夜が明けるまでガツガツと争った。

 そして会社では1年が過ぎた。時々下取り車が入るようになり、荒物のまま業者売りする流れができてきていた。下取り予定車が現れると私が値踏み(査定)し、それに幾ばくかの上積みを新車係がして商談をまとめる。それは当時も今も変わらない。
 そうなると、同期入社の新車セールスと私は、同じ会社にいながら、お互いステークホルダーの関係になる。高い査定価額を設定してくれないと新車の受注はむつかしい、とて業者はできるだけ安く買いたがる。その利害である。
 そんなことがストレスになっていたこともあったか、春の健康診断でいままで完全陰性だったツベリクリン反応が直径3センチの陽性になっていた。そして新緑の5月、9度の熱が1週間続きレントゲンで左の肺が2/3白くなっていて、結核性肺炎の疑いありと、即療養所に入院すべしとの診断を受けた。入院して結核性とは誤診だったようだが、ストレプトマイシンをすでに打っていたので、秋までいたらと、医者にいわれ、そうした。
 療養所には重傷(耐性菌患者の)病棟が別にあり、病棟の西の端にある霊安室で、週に1度ぐらい鈴が鳴っていた。
 私は医者のお墨付きの身だったので、身の回りの世話一切付の外泊OKの極楽トンボだった。時々下宿に帰ると、いつもの連中が勝手に集まっていた。そして私も参加した。

 そして、嵯峨野で稲刈りがはじまる頃、退院し久しぶりに会社にでた。
 営業統括の常務が、「営業現場に絡む仕事は君には不向きのようだ。営業業務課(新車中古車の一車ごとの損益管理・個別のユーザー管理・車両の現物管理・営業分野のメーカーからの指示受け、その報告の実務の一切・車両登録業務の一切など)が混乱して、手を焼いている。なんとかして欲しいんだがやってくれないか」という話が、私の退院を待ちかねたように出た。
 私は後先考えず即OKした。その分野のことは何一つ知らないのに。不安はなかった。以前の仕事から外れればそれでよかった。そして翌月から営業事務の仕事を知るために、本社営業部の事務係の仕事を体験した。主にはセールスマンが顧客から集金してきた車両代金の手形や、保険料などの付帯経費の小切手・現金での入金だった。約束手形の知識も、小切手の知識もなにひとつなかった。経理部が入金(当然ながら企業会計で)処理するために作られた伝票に、貸方・借方の道理にかなった起票をしなければならない。それも何一つ知らなかった世界。横にいた年下の男子事務員に教わった。それだけで分かるはずもないから、「手形小切手の知識」とか「複式簿記入門」などの本を買い下宿で学習した。知恵に変換し再利用できそうなものは「ストック」扱いし、そうでないものは「フロー」扱いした。その区別だけは厳格に守った。どこかで読んだような気がしていたから。そしてストックすべき知識は、できるだけチャートなどにし、ノートに記した。
 そして1年後、本社の営業業務課係長についた。係長といっても、管理者層の薄い組織で若手早成しかなかったからだ。営業統括常務が、たたき上げでもう一人いた係長に「絶対まけるなよ」といって私の背中を叩いた。

 その時点では、私の仕事領域は特に決まらず、年配の課長のアシスタントのような仕事をした。営業統括常務は、私に命じた「業務改善の特命」は、別にあるグループ本部のオーナー社長(映画「風立ちぬ」で書いた・竹田稔その人)の了解も得ていたようだ。

 そして私はいよいよ「業務改善の特命」に着手した。営業業務課の事務方総勢12人は、忙しさに追われ夜11時までの残業は恒常化していた。みんなで集まってのミーティングなどできる状態でも、雰囲気でもなかった。
 私も、毎日11時頃まで事務所にいた。課メンバーのアイドリング・タイムを見計らっては、女子社員を含め上下の順なく、空いていそうな人から「今困っていることは何ですか。教えてください」と頼んで回った。聞いた話をA4のカードに問題別に書いていった。一晩で4.5人のヒアリングができた。なかにはなんのためにそんなことやるんだ、社員の不平封じか、社長の回し者か、という者もいた。私は、女子社員をめがけて「手抜きしても楽に回る仕事のやり方を考えたいんだ」といい、会社のためでなく、みんな楽するために考えたいんだ、といって回った。2週間もすると共感してくれる人も増え、1ケ月もすれば問題の核心らしきものも見えてきて、改善構想らしきものが浮かんできた。
 といっても、その知識は皆無だった。そこで走りだった「業務改善入門」から「業務改善の実務」やら「業務改善に必要な標準化」とか「業務のシステム化」とかの本を買い、主に下宿で読み込み、応用できそうな知識は、7ミリ方眼のノートに図やチャートで簡略し、記した。そのための知識は本のページに付せんをつけ、関心の箇所にカラーのアンダーラインをつけた。ここでも私は「私の力で知恵に変換できそうな知識をスットク扱い」とし「その他興味ある知識をフロー扱い」した。この分類は、後に私の選択した働き方に大きな影響を与えた。

 その頃、4輪自動車販売にまつわる営業まわりの事務機能のシステム化の必要性がメーカーでも話題になりはじめていた。今まで営業業務課も、営業現場主務の営業統括常務の管轄だった。それではと、専務(映画「風立ちぬ」で書いた・宇澤正太郎その人)がグループ本部からやってきて、営業事務機能の強化の指揮をとることになった。専務は営業現場へは口出ししないという約束で。

 専務は、後に述べる私の業務改善構想に賛同してくれ、バックアップすると約束してくれた。
 そして私は、「業務改善」「業務のシステム化」まわりの「講演」や「講習会」に出席させいもらい大筋の知識を修得した。


 〔お断り〕
 当初、1回の記事でまとめるつもりが(その2)になり、今これでは書ききれなくなり(その3)(その4)にまでいきそうな雲行きです。申し訳ありません。われわれ世代がひつこいといわれる理由がここにありそうです。
 なにごとにもOUTPUTを気にする私は、現場でのディテール対処が勝負とおもってきました。抽象的で、ペダンチックまがいを好む私でも、目的達成は現場でやる、と決め。実務では、演繹的アプローチは少なく、80%は帰納的アブローチでした。
 ディテールを書き込むと、「自分史」風になるのが嫌ですが、サマライズしながらリアリティを醸す文章力のない私です。ご容赦を───

 




                     



                     
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by kuritaro5431 | 2013-09-08 06:19
2013年 09月 03日

選択した働き方 (1)

 前号の最後に、次回は「弁証法再考」を書きますといっていましたが、話の流れでその前にこの記事を挟むことにしました。その理由は、「日本のジレンマ」のキーファクターに、ノマド、シェアという概念の働き方がからむこと。もう一つは「弁証法再考」で触れる予定の方法論と「働き方の選択」が深くつながっていたからです。


 1972年(昭和47年)といえば今から41年前。70年安保闘争後2年。
 1953年には3年つづいた朝鮮戦争が38度線の設定で休戦状態に入り、22年後の1975年にはベトナム戦争がはじまっている。1972年は、ベトナム戦争勃発の3年前に当たる。そして、日本的経営と後にいわれた「集団主義」が日本人にフィットし、高度経済成長の気流にのりはじめていた。

 1972年とは、私が実質初めての会社に勤務し14年勤めたのち、「自己実現のために自由」を求めて、人材銀行経由で転職した年、39歳。当時転職の「成功・失敗・可でも不可でもなし」それぞれ1/3といわれていた。
 転職した会社でも「自己実現の自由」は叶えられず、14年は勤めたが辞め、新聞の求人広告で2回目の転職、年すでに52歳。
 3つ目の職場(国内系・コンサルタント・ファーム)でやっと得られた「自己実現の自由」。自由は満喫できた。その代わり2年後の生存率25%。理系コンサルタントあがりのオーナー社長は、「コンサルタントの自己実現欲求の自由は、会社が許容できる限界まで認めると。それはコンサルタントが自己実現のために会社に与える損害許容度のこと。50%を限界とする。それを越えるコンサルタントは理由を問わず辞めてもらう」との掟だった。社長がいったコンサルタントに与える自由とは、コンサルタント・ファームの商品とは、高付加価値を生み出す「知恵」とか「ロジック」。それは各コンサルタントの全人格から醸し出される「クライアントへの役立ちのOUTPUT技術」。その技術の開発は、ゆとりのない環境からは生まれない。自由な環境からしか生まれない。との考えからきていた。各コンサルタントは自らの知恵で、コンサルティング商品を企画し、それを社内の営業部隊にPRし、取り上げてもらい、クライアントに提案してもらう。興味をもったクライアントが現れたらはじめて企画したコンサルタントが、営業と共にクライアントを訪問し、企画主旨説明。クライアントの感触しだいで次のステップへ。見込まれれば本格的プレセンテーション。さらにすすめば、数回経営者、役員、実行責任役員を交えて、有形・無形のOUTPUTへのプロセスと、期待効果など検討される。そこではじめてコンサルティグ・テーマが絞られた「コンサルティング企画書」を担当コンサルタントが作成し(ここでは本部長コンサルタントのフィルターはかかることになっていた)、、営業からのコンサルティング費用の見積書と共にクライアントに提出される。そのファームでのこの時点での受注予想率、約70%。コンサルタントの月有料稼働日数7日が最低ノルマ。大手企業向けの主技術に、ハード・VEを駆使した収益改善・コスト改善。これは理系のコンサルタント部隊。テーマによるが1日フィ40万円。他方、ソフトVEの他、マネジメント全般、マーケティング全般とか、顧問コンサルティングを本領とするコンサルタント部隊、これは文系出身者で構成。テーマにもよるが1日フィ30万円。そこに私はいた。
 その後、バブル景気が崩壊し、定年なしの雇用契約であったこのファームも時代の流れには勝てず、60歳以上のコンサルをシニア・コンサルタントとして役職を外して働いてもらう試行をしたが、このファームの特徴の「限度50」思想が有効に働く環境は崩れた。そして2年の猶予の後、定年制が施行された。創業者のオーナー社長が東京銀座の本社に、地域ごとの定年退職者を呼び、約束を破ったことを一人一人に詫びた。関西支社からの出席は私を含め5人だった。帰りの新幹線のなかで、40歳代からいた技術系のコンサルが、昔は、子供が進学するので年俸をあげて欲しいといえば、社長は「よし」といって100万円あげてくれたもの、といっていた。その名残りは退職日までつづいていた。年俸は、年度替わりの夜、本社の人事部よりコンサルの自宅に通告された。不服の者は社長との交渉権があった。
 最盛期には、コンサルタントだけでも700人?おり、一時は税引き後利益、国内系コンサルタントファーム一位のときもあった。営業拠点は全国・台湾・韓国にまでおよんでいた。


 「自己実現のための自由」なんて当時は一番かっこいい言葉だった。心理学者A.H.マズロー著「人間性の心理学──モチベーションとパーソナリティ」当時、現代の聖書とか死の直前に至るまで彫琢を施したマズローの畢世の名著、といわれた本。私は、このブログに「モチベーションとパーソナリティ」という言葉をなんども使った。当時の感動の残像だったのか、と読者は思いあたられよう。特に「モチベーション」という言葉は、[共通善]として位置づけられないかと3.11以降私は思案した経緯もお察しいただけるかとと思う。白熱教室のサンデル教授も、梅原猛先生も、[共通善]を求めるのが哲学の使命といわれていたから。とて、学者でもない私が俗世的概念を、[共通善]などと考えることははばかった。しかし、人間は自分でできることで社会、経済、他者に役立ってこそ存在価値があると思うOUTPUT思考。実務家や、市井の人には、共感してもらえるかもと思案していた。
 ところが、2012.9.20のブログ「[族]と[縁]を考えるその周辺」あたりから、[共通善]という哲学の夢はこの時代はたして、と考えるようになった。


 ここからしばらく、私というバーソナリティが形成される、社会に出るまでの環境などを語ることにします。
 
 私は、岡山県東北部のど田舎美作から、同年の者と2年遅れで京都の私大の経済学部に1953年(昭和28年)入学した。京大滝川事件で追われた憲法学者末川博教授がそのとき総長でいた。経済学部はマル経一色だった。当時の京都市内の本屋にはマルクス、エンゲルス系の本で溢れていた。それは、哲学、経済学、美学、芸術論、映画演劇論、に渡り、西欧の古典から国内外の現代のものまでに渡っていた。
 京都の学生は、どこの大学に限らず、そんな傾向の京都の町で学生生活を送っていた。特に貧しい下宿生活を送っていた地方出身組には。やさしい街だった。下宿住まいの学生が通う銭湯のある路地。そこに並ぶ小さな間口の生業の店。顔なじみになった古い京都弁を使うおばちやん。市内でも地域によって京都弁は違うと知ったもの。学生は、当時唯一のアルバイト家庭教師をするでなく、ほとんどは親の仕送りで餬口を凌ぎ、パラサイトだった。
 他方、NHKドラマ「八重の桜」の話にもでたように、京都には、洛中洛外に千を越える寺院のある「鎌倉佛教の聖地」。西洋文明を拒絶する勢力は強かった。でも新しい息吹は、よそ者が持ち込み、それを容認した。その一つに、前述の左翼と違う思想を英語力を使って近代経済学に繋いでいった流れがあった。しかし、皮肉なことではあったがそこには、「代々からの京都人」と「三代以上暮らして京都人になった人たち」が好んでいったところでもあった。彼らは、子供の頃から南座で歌舞伎を見、高校時代から洋画・邦画を観、3年間映画サークルでデイスカスしてきて洗練されていた。

 それが今いわれる「関関同立」のなかの2つ。

 そのころだから、そのころでもか、京都の人は、京都帝大=京都大学以外は大学でないとみなおもっているようであった。あからさまにいう人もういた。蛮カラの三高の学生が朴歯の高下駄にマントに汚れた角帽をかぶり、寮歌を唱って京の町を闊歩した。そんな頃を知っている町衆は、懐かしく思っていたのだろう。私のいた学生下宿にも三高上がりの人がまだいた。
 そんななかで、地方出身者は、京都は選民思想が色濃くのこる街といっていた。またある者は、洗練されて個人主義者の多いところといい、ソフイスケートなフランス人が好む街。といった者もいた。
 先のブログにも書いたが、私は1955年(昭和31年)卒業したが不況でもあり就職に失敗して、今でいうフリーターを2年近くやった。そのころプロリダリア文学系の同人を同じ大学にいた女友達に誘われて覗いたことがあった。当時同人のナンバー2らしき人がいて、ドストエフスキー論をしきりにぶっていたYがいた。彼を紹介した彼女曰く、彼は京大経済学部でで、山一証券の若手の出世頭であるが、サラリーマンという働き方が気に入らないらしく、高い報酬を放棄して、近々退社するらしいといった。
 会が終わって、Yの誘いで3人は近くの喫茶店でYの構想をきくハメになった。とっさにYが仕掛けた「場」とおもったが、彼女の手前もあり聞くことにした。
 Yは、構想を語る前に、「条件が飲めるならなら話す」と開口一番にいった。
 そして「人間という者は、生まれながらにして、支配する者と、支配される者に分かれるもの」。旧帝大族・そのなかで東大と京大こそが支配する側の人間」「その他私大出身者もふくめすべての民衆は従順に支配されることを運命とする側の人間だ」といった。どこかの国の統治の論理と聞こえだが、まあ一度聞いてみたらと彼女がいい、聞くことにした。
 Yが語った構想とは、「自分が書く小説は自分が生きている世代ではきっと世に出ないだろう。それほどの未来的なものだ。君たちには分かる術もないだろうから、君たちは私の生活環境を支援しくくればいい。その計画の詳細や、生活の糧を稼ぐ考えと、事業計画は私が作る。それを信じて実行してくれればいい、PDCA(この言葉を使ったは覚束ないが)はわたしがやる」どうかね。

 私はこれほど傲慢な話を聞いたことがなかった。私を紹介してくれた女友達はすでにかなり強いマインドコントロールにかかっていると知った。大学では「部落問題研究会」にいた彼女らしくないとおもったものだ。
 Yは、大正時代のエリート文人の旦那風の働き方、稼ぎ方を平成版で試みたのかもしれない。


 話をフリーター時代の私の話に戻すと、私は在学中の4年間映画研究部(製作はやらない学生自治クラプ)にいたので、映画部の先輩がヨーロッパ映画輸入配給会社・東和映画の宣伝部におり、前売り券販売の仕事「動員係」をやらせてくれた。
 その他先輩が世話してくれたアルバイトは、動員係以外もあり、その周辺で2年近く就職するまでのアイドリング期間を過ごした。結果的にそうなったともいえる。

 2004.4.15の「昭和32年頃」のブログ、と、その次の同年同日の「仕事のない日」のブログ。これは、学生生活の尾てい骨を残したモラトリアム時代(この時期はまだ使われていなかった言葉だか働き方に多大な影響)の私の記録。学生時代と明らかに違うはずの社会生活。研究職に残れる者は、IQとそれ向きの思考スタイルをもった者に限るから、大多数の学生は、大・中の企業か、地方の公務員。

 そのころの私は、コーリン・ウイルソン著「アウトザイダー」や、ボーヴワール著「第二の性」を読みながら、前述の映画部先輩が回してくれた仕事をした。3週間働いて2ケ月食った。その2ケ月を至福のときとして本来内省的な自分の時間にあてた。3週間働いて2ケ月遊ぶ。そのサイクルはつづいた。いま思えば個を発酵させようとしていた時間であったのだろう。
 今日は2004.4.15の話との重複を避け、当時いかにして配給会社初の封切り映画の前売り券販売によりる動員数の増加を図ったかの話をしたい。当時でも珍しかった若者の働き方の1つとして。

 ときは、1957年年(昭和32年)、上映はその年の初夏だったか。 映画は、ロベルト・ブレッソン監督のフランス映画「抵抗」だった、。今年リバイバルで上映した映画館もあったので、観られた読者もあろう。観客層は限られそうな政治的色彩の強い映画であった。東宝直営館の「京都宝塚劇場」で上映予定。劇場から渡された販促材料は、その映画のポスターと、窓口で販売されるものと同じの金券の束。販売手数料の代わりに渡す劇場招待券。そして貸与された自転車。日当320円。団体ならどこでも可。ポスターと前売り券を事前に預けてまわり、以後適当な時期に前売り代金の回収。お礼に招待券の枚数を見積もり手渡す。前売り券の金額は忘れた。学生300円、一般500円だったか、シニア割引きはなかった。
 このやりかたは、配給会社も、映画館もはじめてだったので、どこに預けて回るかも分からす、すべて私任せだった。いくら売れるものかも予想すら出きてなかった。私も、物売りに回ることなどしたこともなく、電話帳をめくって拠点単位で人数の多そうな名のある工場や病院の労働組合事務所を「東和映画動員係」という名刺をもって訪問することになった。一般企業は総務課を訪問した。そうした作業はほぼ10日間で60件ばかりになった。
 10日おいて私は60件をフォローした。すると思いのほか各組合事務所は好意的に対応してくれていて、結構売れていた。招待券がもっと欲しいという人もあり、私は10枚単位であげた。一巡して映画館に帰り報告するとまずまずと思っていた私の感触を遙かに超えて、みんな「スゴイ、スゴイ」といってくれた。
 そして私は5.6回の訪問フォローをし、招待券の足りない人は、裏口から入れてあげた。それだけ映画館の人が私のわがままを許してくれていたんだと思う。
 そんな各組合との良好な関係が好転とたせいか、3週間のノングランが終わった段階でで前売り実績は2500枚を越えていた。東和映画の先輩もよろこんでくれているとの噂が流れてきた。その先輩はもういない。
 その後その話が広がりり、東和映画系列でない河原町・京極界隈の映画館から相乗りさせて欲しいとの申し込みがつづいた。大阪に比べて京都の労働組合規模は小さい、そこそこのところは、私が皆押さえていたらしかった。
 東和映画の先輩も私の実績に免じて黙認してくれた。
 その後私は、5つの映画館を掛け持ちする動員係となった。アルバイト収入一気に跳ね上がった。
 1日350円×5社=1750円×月稼働日数15日として=26.250円 
 これで働かなくても3月は食えた。幸いか、不幸か酒が飲めなかったので食道楽せずにすんだ。
 当時、大卒の初任給は10.000円だった。
 この時代でも、組織に拘束されないで稼げる世界もあり、よいことはあるもんだとおもえた。しかも、使える金の多いのはいいと。
 ときには、映画研究部の同僚・後輩、東和映画で知り合った女性たちが管理人のいないわたしの下宿によってきて、わいわい語り、映画論や美学、哲学はギリギリ一杯の議論になった。
 現役の映画研究部の学生が集うBOXにもときに覗き、だべったもの。


 はじめ、1つの記事で収めるつもりでいた原稿が、収束の悪さから歯切れの悪い長いものになった。そして書ききれない不満が(その2)へとすすむはめになった。
 (その2)では、初めて体験した職場、旧財閥系の自動車ディーラーで、夢見た自分の将来の働き方。
 14年勤め転職を決意した経緯と、転職した今までと全く違う業種・台頭しはじめていたインテリア・ファブリックスのブランド企画問屋。核家族化の進展で求められる廉価で快適な住宅の供給。建設省は在来工法で、通産省はプレハブ住宅で、それぞれ凌ぎを削ろうとしていた時代。インテリア・エレメント(カーテン・カーペット・小物のファブリックス、壁紙、家具、照明)は通産省。通産省は廉価な躯体を工場生産=プレハブ住宅で、ブラス内装のファッション化で、やがてやってくる若い世代の我が家をコミニティの場とするであろうウォンツの先取り。通産省生活産業局の国家的プロジエクト。この流れに積極的だった転職先の企画問屋は、そのプロジエクトから好感をもたれ、プロジェクト・メンバーに選ばれた。その主プロジエクトの傘下に官僚主導で組織されたさまざまなサブプロジェクト。そこで活躍する東大卒のキャリア官僚の働きぶりのすばらしさ。関西では無頓着だった中央の権力構造。そこには、京都の選民京大閥も、東京では圧倒的選民としての東大閥におされ、以外にも影が薄かった。そして「躯体は安く、内装のファッシヨン化で住宅産業の発展」目論んだ通産省は、失敗した。その原因は、インテリア・エレメントの大半は、ウォンツ志向のファッション商品でなく、いたってベーシックなニーズ品、実用品と消費者は考えていたことが判明したから。ベーシックな実用品としてのセンスのよさを求める啓蒙促進にはなった。その結果、インテリアエレメントの多くは、トータルインテリアの旗を掲げた専門店から、売り場はホームセンターに移った。商品価格も下がったせいか、当時8000億といわれていたマーケットサイズは、拡大どころが縮んでいるとみる説もある現状。

 その辺の当たりを(その2)で書きたいとおもっている。それと、自分が選ぶ働き方にしても、社会環境の変化からの影響は相当受けるということも。


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by kuritaro5431 | 2013-09-03 09:33
2013年 09月 02日

実証主義の社会学と虚実を肯定した日本思想──日本のジレンマ

 社会学は対象領域を拡大し、連字符社会学が多様に発達した。この流れを今探ってみるのも大変興味深いことである。

 連字符社会学を調べてみると、確かに多様である。なかには互いに合い反発し合うものまでありそうに見える。懐が深いともいえるかも。下記に列挙してみた。

 ・医療社会学 ・エスニシティの社会学 ・音楽社会学 ・科学社会学 ・家族社会学 ・環境社会学 
 ・教育社会学 ・経営社会学 ・経済社会学 ・国際社会学 ・産業社会学 ・ジェンダーの社会学
 ・社会学の社会学 ・歴史社会学 ・情報社会学 ・スポーツ社会学 ・政治社会学 ・組織社会学
 ・地域社会学 ・知識社会学 ・臨床社会学 ・都市社会学 ・農村社会学 ・犯罪社会学 ・文学社会学
 ・文化社会学 ・言語社会学 ・法社会学 ・宗教社会学 ・労働社会学 ・老年社会学 ・軍事社会学
 ・経験社会学

 
 社会学とは、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を解明するための学問とある。その研究対象は、行為、行動、相互作用といったミクロレベルのものから家族、コミュニティなどの集団、組織、さらには、社会構造やその変動(社会変動)などマクロレベルにまで及ぶさまざまのもの。思想史的にいえば「同時代(史)を把握する認識・概念(コンセプト)をつくり出そうという学問である。とある。

 この文面を見ると、これまで私がのっぴきならない問題として関心をもった多くの事柄がここにある。
 変化する社会に追随し、環境順応してゆく人間。次のステップに進むために現れる矛盾や対立を越えて目指す人間の本性としてのロマン志向。社会の発展過程で階級が生まれ、格差が生まれ支配階級の腐敗が起こり民衆がやがて蜂起する。これを社会問題として捉える族と、人間の内省的問題として捉える族がいた。両方にまたがる問題として捉える族もいた。近代化が悪をもたらしたという族もいた。これらはヨーロッパを起源とする社会学の範疇であった。私が惹かれたマルクスやマックス・ウェーバーとも繋がっていた。ここでのベースは実証主義であった。

 その私は、日本的といえる「虚と實」に理屈を越えて惹かれるものがあった。
 それは近松の虚実皮膜論(近松の原文には「きょじつひにく」とのるびがあるという。これこそ日本的妙)であったり、いつかこのブログに書いた松尾芭蕉の「虚にいて實をおこなうべし/實にいて虚にあそぶべからず」との格言であったりした。
 そこには人間の実存なんて実証で捉えられるようなものではないんだ。よりリアルに捉えるにはフイクションという虚で綴る物語しかないんだ、といっているようであった。それは戦後劇作、映画作りに影響を与えたソ連発の[ドラマツルギー論]であったり[スタニスラフスキー・システム]に繋がるかと思ったりした。
 日本の小説のカテゴリーに「歴史小説」と「時代小説」というのがある。前者は実証主義・いわゆる史実を重視し書かれた小説。後者は、これはフィクションですよと宣言して書かれた小説。ここでも虚のパワーが人間のイマジネーションという創造性・クリエーションを発揮する。
 とはいえ、日本においても実証主義が厳然と存在している世界はある。歴史学の世界であり、考古学の世界であったりする。科学は実証主義の上に築かれている。近代においては特に日本においてもほとんどの学問はこの立場に立っているようであるから。
 
 最近話題の「歴史認識」の問題は、尖閣問題、竹島問題、をはじめ 靖国問題や第二次大戦が日本において起こった経緯にしても、古事記・日本書紀の問題にしても、また中東のシリア問題にしても現代の科学を駆使しても実証不可能な古代エジブトとユダヤ民族にまで遡る。中国や韓国と、日本の歴史認識の違いは、中華思想の領土意識にまで遡るだろうし、韓国起源説にまで及ぶ。私の取り挙げた、東北エミシにまつわる伝説にしても、実証主義で決着はつけられないところが多々ある。
 福島原発の放射能汚染問題にしても、廃炉技術の開発の可能性とその時期。科学に寄せる信頼と限界を族の違いと、立場の違いでその進路は分かれてくる。
 
 現実は混沌としている、だから少しでも客観的にさまざまな事象を捉えたい。その欲望が科学の発展を支え、戦後日本の高度成長を支え豊かにしてきた。工業生産も、経営も、マーケティングも。
 その背後には、人間に必要な富であれ、経済であれ、自然であれ、すべて人間のためにあるもの。それらすべてコンロールし人間に貢献させる。景気もコントロールできるととる価値観。
 それは有史のある時期、厳然と成立した価値観であり、論理であり、それが醸すさまざまな方法論は輝かしい栄光の国と、そこに住む人たちに幸せを与えた。


 話を戻して、「虚実の魅力」ついてであるが、連字符社会学のなかの「文学社会学」に近い気がする。哲学も大学では文学部のなかにあることだし。でも文学社会学を検索しても、現在作成中とだけ表示された。日本においてもその程度の扱いしか受けてないことを知った。

 そこで「虚実」について気になっていたことをこの間から追跡していた。
 虚実といえば、曖昧であることとも受けとれる。西欧的理性では一番きらわれたことではなかったか。
 もう一つは、西欧論理の「絶対・絶対者・一神教」に対して、「相対的・多神教・汎神教」というイメージを持っていることだ。
 その虚実感を肯定するか、それほどとは思わないか、全くに近い否定とするか。これは結構世代によって違う気がする。それはその現場に立ち会っているかいないかの問題でもある。体験は実証の知覚的確認作業だからではなかろうか。そう考えてみると、知覚確認した事象は、形而下といえそうで、その確認のしようのない世界を形而上といえそうである。死後世界があるかないかが典型的な形而上世界であるが、歴史上過ぎ去って実証のしようのないものも生身の人間にとっては形而上世界といえないか。無理なら形而上的世界としてもいい。

 もう一つ気になっていたことがあった。
 前述の虚実感が肯定できたとしても、戦後65年もの間、欧米的合理主義の恩恵を受けた日本人、知らず知らずのうちに骨身に染みている。特に、バブル景気を経験した世代と、そうでない世代ではまるっきり実感が違う。戦後第一世代と、団塊の世代とでも違う。それは身体的ともいえる知覚的確認が異なるからだと私は思う。そうなると、虚実感を肯定する世代の割合は、若い世代ほど肯定割合は少なくなって当たり前といえる。
 そこで虚実感肯定世代およびその他の肯定族は、実証的に戦争の悲惨さなどの記憶をを次世代に残そうというのではなく、日本的情緒的コミュニケーションで訴える。若い世代は経験則で理解のしようがないから世代ギャプ以上のギャップとなって世代間に沈殿する。過去の社会現象だけでなく、隠蔽された原発被害などでも、実証のないものは認めたがらない現象が現れ、過剰な被害妄想とか、それは◯◯学者のいう陰謀説と同じでしょう。という負の連鎖に繋がりかねない危うさもある。そんな現象が「日本のジレンマ」といえそう。

 そう思うが、若者からでしゃばるなといわれても、そのジレンマからの脱出を考えないわけにいかない宿業みたいな私。そのヒントはもしかして西欧の哲学にあるかと思い追跡した。
 そのヒントとは、ソクラテスの時代からあった「同一律」「矛盾律」「排中律」の原理のなかの「排中律」に目をつけた。「排中律」とは、ものごとに存在する「中央」「中庸」を排除するという原理。なんのためにといえば、ものごとの「中央」とは、妥協とか、曖昧が集まるところだからこれを除くという考え。日本的思考の「虚実感」に似ている。妥協して落としどころを見つけるにも似ている。これを排除するという説である。中央には、もう一つ厄介な日本的情念も存在し一層曖昧にしているようだ。
 それを排除したとする。そこに現れたのが、マルクスの弁証法的論理であった。昔を思い出す。この「同一律」「矛盾律」「排中律」の3点セットは、マルクスの弁証法的論理学が嫌った゛形式論理学であったからだ。形式論理学では矛盾に満ちた現実は捉えきれないと。弁証法的論理では、中庸も抱え込み現実の事象をとらえる。形式論理学のよいところとしての形式美も抱え込むと。今風にいえばコンテンツのない形式美とか、書字規範に忠実な書とかが含まれるということになる。

 日本的「虚実感」をも肯定してくれそうな論理が西欧にあった。私は今、ほのかな明かりを見つけた思いになっている。
 マルクスの弁証法的論理の活用については、次回「弁証法再考」で私論を書いてみたいと思っている。
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by kuritaro5431 | 2013-09-02 09:11