哲学から演歌まで  

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2013年 08月 23日

藤圭子が昨日亡くなった

 私の2013.02.10のブロク[演歌」「怨歌」のものがたり]を多くの読者の皆さん、私と同じ[族]の皆さん、クリックしていただきました。本当にありがとうございます。感謝しています。まやかしの「絆」よりテレパシーの通い合う「絆」こそ大切な今でしょう、から。

 「演歌」が、このブログの一方のタイトルであったことと、彼女が岩手の生まれであったこともあり、私にとって「カスバの女」は彼女が唄うのが一番似合うと思ったものでしたから。
 それにしても彼女の訃報を伝えた多くのコメンテーターは、なぜこの唄の由来について触れなかったのでしょう。知らないはずはないのに。

 彼女の「影」の部分や、並外れた繊細な感受性について語った人は多かった。人種のるつぼニューヨークは、ジョン・レノンが反戦歌を唱ったところでもあると語った人はいた。演歌という旋律を越えたブルースだといった人もいた。

 私は、NHKの「アテルイ伝」の予告編で、主演の大沢たかおが、岩手丹沢の地での撮影を終わり、一人アテルイの首塚のある枚方に向かう列車のなかで「私はこれから、私の裏作業にでかける」とつぶやくシーンがあった。この「裏作業」という言葉こそ、五木寛之が、彼女の歌を「怨歌」と名つけた象徴的意味があると、私は思う。
 公然の秘密として「裏作業」という言葉をYAHOO!で検索すればれっきとした記事が今日も現れる。

 期せずして福島原発の高濃度の汚染水があふれ出し、手のつけられない状態で東電副社長がそのことを国民に詫びる会見をした。技術のトップとして。そのことは以前より多くの国民は知っていた。隠蔽していたことも知っていた。その原発プラントを海外に売りに行っている。「とんでない」どころか、海外のメディアは、アベノミクスの馬鹿さ加減にあきれている。ここでは書けないほどの内幕情報が世界中駆け巡っている。技術立国日本の誇りはどこに行った。
 先日は3.11当時の総理だった菅さんが、民社党内規約とやらで緊急対処のあり方責任が問われた。自民党三役の奈良出身の幹部が、原発事故で、だれひとり被爆者はいなかった発言。これらのことはみな繋がった事柄だと分かる。

 
 読者の皆さん、先のブログにも書いた五木寛之の「風の王国」を読んで欲しい。しんどい作品なので忙しい人は、松岡正剛の「千夜一冊」のなかの、松岡正剛の評論をよんで欲しい。インターネットで検索可です。


 彼女の原点は、岩手にあり、浪々の果て蓋をしてきた黒い情念がマグマのように澱となって、たまりに溜まって限界点に達した。一番確実で、迷惑の少ない方法で己の生を断った。 62歳と人はいうけれど、炎が燃え尽きたときが人間の最後なんだ。たとえ、天才と讃えた娘にだって分かるもんかと。彼女はその瞬間そう思ったに違いない。 


 私は今夜、彼女が唄った「カスバの女」のYoutubeを見ます、聞きます。その隣りに、同じ歌を唱うエト邦江が、男を惑わすあのボデーをくねらせ光沢の黒の衣装にちりばめたラメがミラーボールに揺れる。怨歌のワールドに欠かせない必須のもうこひとつのエロチシズム。そして映し出されるパサパサの砂塵が舞うアルジェの白い家屋群、外人部隊の男たち。。迷路に猥雑にあるカスバの酒場。そこに行き交う男と女。なにもかもシンボリックに見えてくる。

 涙じゃないのよ 浮気な雨に
 ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
 ここは地の果て アルジェリア
 どうせカスバの夜に咲く
 酒場の女のうす情け
 
 
 唄ってあげましょ 私でよけりゃ
 セーヌのたそがれ 瞼の都
 花はマロニエ シャンゼリゼ
 赤い風車の 踊り子の
 いまさらかえらぬ 身の上を
  
 
 貴方もわたしも買われた命
 恋してみっとて 一夜の花火
 明日はチェニスか モロッコか
 泣い手をふる うしろ影
 外人部隊の白い服


 そして青春のあのとき見たジヤン・ギヤバンの「望郷」。ペペルモコに思いを馳せます。
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by kuritaro5431 | 2013-08-23 19:24
2013年 08月 20日

「今でしょ」林修の論理術

 今、彼の論理がなぜ受ける。

 遠い昔からの「今」。未来につづく「今」だからという「今」。世代を繋ぐ「今」。未来から見る「今」。
 人によって「今」をさまざまイメージできる。短絡的に考える人もいれば、深読みする人もいる。

 2012年頃からの流行り言葉に、「個人的な感想ですが」「私の個人的な意見ですが」といのと、「私は◯◯派です」というのもあるみたいだ。
 2つとも、語りの合間にときどき入れるのがカッコイイから。

 1対1のコミニケーションにおいても、1対多数のコミニケーションにおいても押しつけにならないからいいらしい。
 「◯◯系で」というのもある。なぜ今プラネタリュウム。宇宙には何億もの銀河系みたいな[系]があるそうな、宇宙の果てはあるのか無いのか?

「個人的感想です」というのは、もともとサプリメントのテレビ広告に、公正取引委員会が警告を出してから入れるようにとなったと私はみている(私の個人的感想ですが)。今は、どのサプリメントの広告画面にも、この文句が見えるか見えないか、視聴者が気づくか気づかないか、くらいに入る。入れなければならなくなったみたいだ。

 サプリメントは元々バイブル商法志向の強い商品で、広告媒体から受ける購買予備軍としての大衆は、いつも[大衆操作]という見えない危機にさらされている。と公正取引委員会がみているからであろう・
 バイブル商法というのは、ご承知の方も多いと思うが、1つは、[権威あるどこかの誰かがいっている(主に医学博士など)]というのと[広告主の創業者社長などが、私は◯◯という難病で長らく苦しんだが、あるとき神のお告げと思える啓示を受け、この商品の元になってる◯◯◯◯◯(最もらしいカタカナ語)に出会った]という類の2つがあるらしい。神のお告げとか、啓示に近い言葉で、購買予備群を洗脳するに近い行為なのでバイブル商法といわれれるもの。もちろんすべてのサプリメント広告がこの類ではないことも、周知の通り。

 もともと、アメリカのマーケティング協会の「マーケティングという言葉の定義」によると(歴史の節目節目で更新されている)「製造業とそれ以外は多少異なるも、製造者が購買予定者の心理を操作し買う気を起こさせるもの」という意が込められている。
 マーケティングの領域は、販売・セールス・広告という初期段階から、日本においてはバブル景気時代へ向けて領域は拡大した。ところが初期段階から一貫して広告は重要なカテゴリーとして不動のものだった。

 政治啓蒙で使われるプロパガンダも同様。


 話をバイブル商法に戻すと、日本のこの業態?は、化粧品や、健康食品の分野ではじまったといえる。この分野向きの商品が生まれると、はじめはほぼどの商品も単品販売からはじまり、競合商品の登場で、シリーズ化していっている、消費者からの注文の取り方やデリバリーに特徴がある。とはいえ他の通販業態にも類似はある。

 このバイブル商法と隣り合わせにいるのがネズミ講である。幾多が社会問題化し、今は厳しい法的規制下にある。

 ということで、バブル景気崩壊、デフレの長期化ともあいまって、大量生産・大量消費による日本の高度経済成長に貢献した商品広告。これに日本の大衆は操作されていることに無意識ながら気づき、[押しつけでないコミニケーションに、これまた無意識に靡いた]と私は推測する。


 [個人的感想です]とか[私の個人的意見です]とか[私は◯◯派]ですとか[◯◯系]とかにある《根は1つ》。

 世の中には、いろいろの個人としての[私]がいて、似たもの同士が[群れ]や[派]などをつくり、それらは皆何らかの《族》として群れて存在していると考えられる。
 その《族》は、生身の人間が集う集団であったり、見知らぬ者同士がネットやゲームのバーチャル世界でつながる縁で群れたりしている。また、同じ集団のなかにも、入れ子のようにいくつもの群れがあったりする。
 それはあたかも宇宙の果てまである「◯◯系」であったり、クラウドのような存在としての星雲であり、その1つの星が《私》に例えられよう。



  そこで本題の、私がイマージュする「林修の論理術」についてである。

 [論理術その1]

 世の中には星の数ほどの[群れ]や[族]が存在するなかの1つの[群れ]のなかにいる私(林修)という存在。
 決して私は、私を他者に押しつけたりはしない。どなたのステークホルダーでもない。
 客観的存在としてある多数の他者は、私が経験したことのない世界に存在している。それは極限から極限をもった球体とし存在しているみたいな姿で。そんななかのほんの1つとの存在としての私に過ぎない私。その球体のなかで、ある限定された条件下で。、プロットされた私がいる、と考える。
 これが客観的存在の球体のなかにある「私という個人的存在」。いかなる他者にも迷惑を及ぼさない私がそこにいる。

 [論理術その2]

 そのような自覚を持った私が、ある特定の〈群れ〉と1対多数で対峙のコミニュケーションをやる。どのような群れでもその群れは、一定の規範らしいもので共通しているかのようだが個別には異なっている。共通という幅のなかでの差違である。彼らを1の論理で出てきたような球体にプロットすると、その球体は、1の球体と違って随分こじんまりした存在である。
 そこで私(林修)と、その群れとの対峙が試みられる。私という押しつけがましくない私が、異種の群れとコミニケーションする。コミニュケーションできるはずという自信の上に術の仮説がある。成立している。
 そして1対多数のやりとりが行われる。流行りの白熱教室流のやり方ではない。
 私という限定された存在の私であることは確かであるが、私のなかにも多様な私がいるはず(平野啓一郎の分人論に近い)、その私がどれほどの異種と交信できるか。そのキャパシティを縦軸にプロットすると、空中に浮かぶ、ある長さと苔がまとう棒のような存在と私が認識できる。そんな私が見える。 
 そしてやりとりやら討論があったりしてその場が終了する。
 その先に、林修の論理術のミソがあると筆者の私はみた。林修は私という自分の能力で、つど族の違う群れと対峙して、どれほどの人が、なんパーセントの人が、個人的な私に共感してくれたか。押しつけでないコミニュケーションによって、聞き手の彼らの考え方をどの程度変え得たか。林修は自己評価している。そこが素晴らしい。


 私(筆者)は、経営コンサルタント時代、「考え方が変われば、行動が変わる。行動が変われば成果が変わる」といういわゆるビジネスマンなら成果=OUTPUTを出してなんぼの世界で生きてきた。このスタンスは、主に、バブル景気上限の時期以前のある期間のものとされる傾向があった。
 が、彼(林修)の、自分のやったことに責任をもつ自己評価=OUTPUT評価の真摯な姿勢が、今大勢の人に共感と感動を与え、受けていると思った次第。
 第二、第三の林修には、別のペルソナをもった、別の階層の人が現れるかも知れない。
(文中・敬称略)
 
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by kuritaro5431 | 2013-08-20 06:07
2013年 08月 18日

宮崎駿の「風立ちぬ」を観て (前号につづく記事として)

 今日気がかりでいた映画を観た。
 学生時代のように、しっかり見落とさないように観てやろうと、前から4列中央に座った。シネマスコープだったらちょっと困るか、と思っていたらスタンダードよりやや幅広のビスタービジョン・サイズ、今はそう呼ばないかも知れれないが、安心する。

 はじまると、画面いっぱい手書きの絵の具筆致がかすれまで見える。はじめからクローズアップでないアニメ特有の明るい画面での大写し。それはこれからはじまるドラマの大空に向かう若者の夢を象徴する。活動写真でないアナログ(CGでない)の絵が醸すおおらかさ。

 はじまって間なしに私の視覚に飛び込んだのが、二郎と菜穂子が出会う列車のデッキ。二郎がいるのは三等客車。菜穂子がいるのは二等客車(今のグリーン車)。三等、二等の内装も違っている映像。それぞれの客たちの表情や品位も違うシーン。二郎の帽子が飛び菜穂子が受ける。
 当時色濃く残るハイソサエティの人たちと、民衆の人。以後重要なシチュエーションとして貫かれる。

 つぎに私の琴線に触れたのは、菜穂子の連れ添いの婦人が足をくじき、折れていると気づいた二郎が計算尺を添え木にして包帯を巻くシーン。これはこの映画にとってとても重要な複線となっているが、若い人の多かった観客は観たこともない道具だったに違いない。
 その後いくつものシーンに計算尺が登場し、当時の技術屋の魂を支えるツールであったことを彷彿とさせる。当時の航空工学といえば最先端を走るものであっにもかかわらず、アナログ式計算尺が飛行機設計屋の必須の道具であったことは、そう遠くでない過去と、進化してきたデジタル技術の進化をおもわせる。
 今はIT(通信主体)のデジタル。元は計算機だったコンピューター。確かに計算のためのコンピュ-ターは[京]というとてつもない計算能力をもつほど発達した。わずか50年あまりの間に。
 そしてまた回帰するかも知れないアナログ世界への憬れ。 


 前号のこのブログに、宇澤正太郎という零戦の設計メンバ一人が、私が以前勤めていた会社にいたと書いた。その人は長らく私の直属の上司だった。
 映画では、東京から名古屋に赴任した二郎が、板塀の工場だった三菱重工名古屋製作所にいた。宇澤さんはこんなところにいたんだ、とはじめて映画から宇澤さんの当時の仕事場を想像できた。
 計算尺の使い方を教えてくれた人だった。昭和35年頃はまだ電卓はなく、足し算は算盤、掛け算・割り算は手回しの機械式計算機。回して止めるたびにチンと鳴る。そんな時代計算尺はとても重宝なものだった。今もこの私の机の上に当時教わり使った想い出の計算尺がある。HEMMI vcctolosとの品名がある。小数点以下の答えにあまり拘らなければ、電卓で計算するよりいまでも早いかも知れない。
 当時私は、企画課で府下の自動車登録データーの集計分析をしていた。
 宇澤さんは、もうその頃使うこともなくなった製図板、T型定規、三角定規、を部屋の隅に置き、製図屋専用の小道具のあれこれをもて遊んでいた。映画にでてきたあの様子そのままの。

 小澤さんから見習って使った小道具に、ディバイダーという両方針のコンパスがあった。B4などの白紙に表計算の集計用紙を作るとき、今でも定規の目盛を使って鉛筆で記しをつけ、等間隔の列を作るのが普通となっているが、なかなかどうして気の済む等間隔の線は引けたものではない。それがデイバイダーを使えばcmを気にせず自由に寸法取りができる。私はちょうとした表作りにでも今も重宝している。卓上のトレーにはいつも入っている。そのディバイダーが映画のなかにも映っていて当時の製図屋にとっても必需品であったことが伺えた。
 その小澤さんが書く数字は、設計図に記された数字であろうスタイルのもので、どこかコロコロとしていて、きれいな整列をしていた。いつの間にかその会社で憧れる者が増え、いつしかスタッフのなかで定着していった。
 その小澤さんはもうこの世にはいない。役員を引いてからは、能面打ちをやっていた。本式のものだった。一度工房を覗かせてもらったが、檜の角材から能面打ちの鑿を使っての3次元の製作だった。個展もやるほどの腕前で、一度プロの演者がつけて踊り、それに応えうるものとの評価も受けていた。

 そのな小澤さんと繋がる「風立ちぬ」だった。小澤さんの訃報を聞いたとき、ご子息に「死ぬまで日本の技術屋を貫かれましたね」と手紙を書いた。


 この映画でもう一つ気がかりのことがあった。同じく零戦のエンジン・テスターだった竹田稔のことだった。この零戦開発にどのように関わったのかだった。映画では、いかにして飛行速度を上げるか苦心した過程になんども試作エンジンが爆発したシーンが映しだされた。そこで対比されたのがドイツの技術者との関わりだった。当時同盟国だったドイツも、日本から見れば西欧の合理主義一辺倒の国。機体の軽量化とエンジン質力の向上についての考え方は根本から違うと。
 エンジン・テスターという技術屋は映画には登場しなかったものの、迫り来る次期戦闘機の国際的開発競争で世界一の戦闘機を目指す日本の技術屋たちの心意気は一つだった。

 前号のブログで、ドイツも含めパイロットの「居住性と安全性」と「総合性能」とのトレード・オフの問題。宇澤さんと竹田さんから聞いた「零戦はパイロットのことより性能を第一義と考えた」とのことについてどうだったのか。映画からは明確な回答は得られなかったが、機体の軽量化と。滑空速度と操縦性能。これにに必要なエンジン性能としての加速性能をことのほか注力していたことは事実のようだった。

 これらのなかで零戦の開発に身魂を注入した技術屋の姿勢は、その技術がどう政治に使われるかより優先するというような宮崎駿のスタンスが問題視されていたことは確かであった。


 そこでこの映画全体を振り返ってみると、当時の日本のハイソサエティと民衆という階級社会の問題。西欧の合理主義と日本イズム。そしてけなげに没頭した技術屋のロマン。ここでは大空に羽ばたく若者の夢。
 ここまでストーリーが進んだこの映画をみている私は、さてこの映画はこれからどう収束されるのか不安になっていた。二郎と菜穂子との関係が段々親密さを増し、あの頃一世を風靡した[不治の病、肺結核と、高原の療養所の切ない愛の物語]。上原謙と田仲絹代。大ヒットした「愛染かつら」「三百六十五夜」に繋がりかねない情緒性とあちこちの映像に現れはじめる叙情的風景のシーン。(注)確認すると「三百六十五夜」は、1946年・昭和21年、小島政二郎の長編恋愛小説で、映画は1948年東宝制作・上原謙、山根寿子、高峰秀子でした。

 「涙もろい」で家族から定評の私は、きっと号泣するだろうと出しなに妻がいっていた。ところが前述のことがずっと気になって涙どころではなかった。
 
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by kuritaro5431 | 2013-08-18 19:13
2013年 08月 15日

戦後第一世代という世代

 この世代(昭和6年~昭和13年・当年81歳~75歳をおおよそとして)を私が勝手に「戦後第一世代」と呼んでいる。戦時中、特攻隊にはいかなかった今の後期高齢者。

 昭和7年申年生まれの私と同い年に、
 石原慎太郎、大江健三郎、開高健(芥川賞3人男・多少前後あり)、五木寛之、小田実、大島渚、仲代達也、萬屋錦之助、有馬稲子、岸恵子、渡辺美佐子、山本直純、富田勲、神津善行、小林亜星、船村徹、青島幸男、平岩弓枝、江藤淳、奥田硯、稲森和夫、立石孝雄、船井幸男、などがいる。

 一人一人にはそれぞれのドラマがあり、そのドラマと私とは切れない縁もある。

 父の弟の一人子一人息子で昭和3年生まれの特攻隊の生き残りの従兄がいる。当時中学を卒業すると親に内緒で予科練(海軍飛行予科練習生)を受け、通っていってしまった。周知の零戦にも乗り、特攻隊で散った仲間の生き残りである。帰還後は、教員になり、今はひっそり美作東北部の生家で生を繋いでいる。とはいえ脳梗塞で不随となり、車椅子で入退院しながらの暮らしである。弟のいない従兄は、幼い頃から私を可愛がってくれたものだ。

 私は、昭和28年京都の私大を卒業後、2年ばかり今でいうフリーターの仕事をしていて、初めての就職先が今の京都三菱自動車販売だった。創業者竹田稔は、戦時中三菱重工名古屋製作所で零戦のエンジン・テスターだった。専務に小澤正太郎がいて、その人も戦中同じ職場で零戦の設計メンバーの一人だった。二人とも今は鬼籍の人となってる。
 二人からよく聞いた話に、アメリカの戦闘機は軍人とはいえパイロットの居住性、安全性を優先していたと。それに比べ零戦は性能一辺倒の開発だった。だからあの素晴らしい性能の戦闘機となったと。

 そして今年零戦をテーマとした宮崎駿の「風たちぬ」。国内外から賛否両論の評論を受けている。早く見に行くつもりでいたが、体調悪くまだ観ていない。

 終戦後68年目の広島、長崎への原爆投下の日。マンガ「ハダシのゲン」が見直され世界各国で翻訳されている。
 昨年まで広島に原爆投下されたあの時刻、比叡山麓にある拙宅の裏の寺の鐘が鳴っていたのに今年は鳴らなかった。そういえば戦後第一世代だった住職が亡くなられたと聞く。

 世代が違うと体験が違う。体験が違えば価値観も違う。

 妻もギリギリの戦後第一世代。岡山市の焼夷弾空襲をもろに受けた体験者。妻の母親が幼い妹を背負い逃げる途中、妹に焼夷弾が直撃し、妹は即死。母は背中に大火傷。亡くなるまで傷は残っていた。妻の戦争の記憶である。


 この7月25日『「老人優先経済」で日本が破綻』 注意! 高齢者は読んではいけません! アベノミクスが若者世代に押しつけた罪!  と衝撃的な本が出た。著者・AERA経済記者・山下努・ブックマン社。

 私は「自称中道左派」と問われれば答えることにしているが、現政権の政治家はこの私の話も、以前このブログに書いた「蝦夷(エミシ)の英雄・アテルイ伝」の話も、「原発奴隷」の話も、「やたら陰謀説が多すぎる。国民をを惑わすような根拠のない話は禁物だ」だと、片付けることにしているらしいことは知っている。そしてそう思う人は偏りのない人と多数の人が思っていることも知っている。


 後期高齢者、すなわち戦後第一世代の人間たちへの福祉政策が、先の「NHK日曜討論」のなかで、政府側と国民側・現場側での討論があった。
 政府側の見解として、今後は世代を越えて高齢者も[負](税収減の福祉予算)の負担=マイナスの配分も受けてもらうしかないと、とのこと。

 後期高齢者福祉は、介護保険枠から地方行政としての市町村に予算を渡し、施設介護から在宅介護へシフト。[自助・共助・公助]と左寄りにウエイト変更させて進めるとのこと。
 市町村の自主的裁量でアイデアを出し、民間の力も活用して株式会社も含め幅広い福祉活動を望むというものだった。
 ケアマネージヤー・ルートに詳しい識者の発言では、実態は必ずしもそうなっていない。この流れに名を借りた営利志向の医療機関もかなりあると。介護ビジネスも成長戦略の一つとするアベノミクスは分かるとしても、現状では施設介護でないと病院の収益には繋がらないという矛盾を抱えていると。


 われわれ戦後世代としては、なるべく後期高齢者健康保険を使わず、自力でやれることはやる。われわれなりに在宅介護のありよう、あり方を総合的に考え実行性のあるものにすることが[自助]に繋がる社会貢献といえそうである。


 [共助]については難しい問題がある。私は100歳になるまで母が美作の地で気ままに暮らしたいと言い張り、知らぬ土地に行けばすくぼけたという話はよく聞いた。頑固な母のしたいようにさせることが母にとって最もいいことだと考えた。親戚、隣近所、民生委員の人たちの親切に甘えて過ごした。極端に過疎化していった美作は、まさに老老介護の共助だった。向かいが老健という公助に恵まれた地の利であったが、公助では充たされず、共助には限界があった。
 私の友人のなかには、定年後は田舎に帰り、老いた親の面倒みるのが当たり前と、ある者は熊本に、ある者は彦根に帰り退職金で家を建てた。ところが私の場合、どんどん人口が減り商店もスーパーも店じまいしてゆく過疎地では、母も帰ってくるなといったものだ。
 そして限界の時は母が100歳のときにやってきた。100歳までひとりでよく頑張ったと思った。
 そして京都に発つ朝、老老の人たちから花束を渡され、手を振り別れた。行く者も送る者も最後の別れと分かっていた。
 
 京都にきてからは、美作の老老の友によく電話していた。ことさらのように元気な声をだして。
 母の在宅介護が私の京都の家ではじまった。客間を母の部屋として介護保険を使ってのリースのベッドは助かった。訪問介護は私が30年来世話になっている中型病院の院長にお願いして週一回の看護婦の訪問を受けた。訪問中の看護婦は携帯電話で院長といつも連絡を取っていた。
 
 そんななか母の終末はどこで迎えるか思案した。そのときいくつかの介護施設を訪ねた。大抵は医療機関と併設されていて、終末は安心してお任せいただけます、とどの医療機関もいっていた。一件の病院が終末病棟の現場を見学させてくれた。それはひどいものだった。極度の痴呆(今は認知症)老人は檻の格子のなかにいた。そこまでいたらない人も老醜漂う大部屋のなかにいた。いま思えばなぜその病院がそんな現場を見学させてくれたかの意味が分かるような気がする。
 そのころから設備の行き届いた高額のマンション風の終末医療が流行りだしていた。なかには今までの住まいを売り払い、その資金でその施設に入った人もいた。入居してすぐ亡くなった人も、終末までの期間を見込んだ高額の契約金は一切返らなかった。なかには倒産した老後施設があり、帰るところを失った悲惨な老夫婦もいた。

 そんな見学をしていたある日、訪問介護にきてくれた看護婦が、院長と携帯電話で「脱水症状が現れています」といった。看護婦は在宅で毎日の点滴は無理なので入院しましょう、ということになった。そしてその日看護婦の車で病院に搬送され入院した。その日から大部屋での点滴がはじまった。向かいのベッドには、植物人間と化したふやけて太った白い肌の婦人が、延命治療の流動食をビニールパイプで胃に流し込んでいた。
 私は院長に延命治療はしないようお願いし、院長は了解してくれた。
 私と妻は毎日交互に病院を訪れた。なにもすることはなかったが、点滴の針が痛いと勝手に外す母を監視した。岡山市にいた実姉と姪がよく見舞ってくれた。
 入院して2週間目の深夜当番の看護婦が危篤状態に入りましたと当直医師に伝え、医師はハートモニターを私にも見せ、「今夜かも知れません」といった。
 そして明け方の2時15分、1900年ちょうどに生まれ、101歳の年を母はまっとうした。

 
 私は今考える。父が亡くなったのが87歳。母が亡くなったのが101歳。私は今80歳。父まで生きて後7年。母まで生きたとしても後21年。振り返ればあっというほど短い年月だ。
 でも私は死に対する恐怖はみじんもない。それは学生の頃思い当たった「人間の意思はその人のパソナリティによって決まる」と。私はそんな性格なんだ思っている。

 とはいえ、戦後第一世代の人たちは、日本人が古来からもっていた「情による絆」を肌身につけていた。今もかなりの人がどこかでその心情のなかで生きている。
 ところが、戦後68年の時間のなかで、西欧的論理による合理性を背景とするアメリカ文明により日本は世界に類を見ない経済成長をどけた。そのことにより多くの日本的良さが失われた、とする人たちと、いやそうでなく西欧文明の恩恵を受けた人たちもまた多いのではないかという若者世代もいる。
 経済と政治、経済と国民の生活、国民の生活と政治。これらがのっぴきならない状態で複雑に絡み合う「正解のない時代」になった。それは経済中心とするグローバル時代。良くも悪くもそうなってゆく必然のなかにいるのかも知れない。
 若者のなかには、戦争の悲惨さを知らないわけではないが、戦争がもつ効用について相当の経済効果があるとの意見に、50歳代のキャスターですらめをぱちくりさせている。それでいて彼らは右翼でもない。

 
 そんな意味も込めて「哲学から演歌まで」とこのブログのタイトルとしている。
 哲学とは西欧文化文明のこと、演歌はなにもかも曖昧がいい情念の心、「和」のこころ、一神教でない八百万の神を敬う日本人古来の心のこと。
 その演歌は、若者に嫌われる代表格の感性。
 でも戦後第一世代には、次世代を担う若者を理解し、彼らとバランスを取りながらたくましく生きたいと思っている者もいる。
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by kuritaro5431 | 2013-08-15 19:56