哲学から演歌まで  

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2013年 02月 27日

実はこのブログで、ひっくり返しを試してみたのだが

 平易でわかりやすい文章は、私の特技であったが、あえてペダンチックな文体にした。そうした理由と、結果の思いを今回は書きます。

 私のビジネス文章修行のスタートは、昭和36年29歳のとき。M自動車ディーラーの営業業務課長時代。当時大変評判になっていた岩淵悦太郎編著『新版悪文』から。
 
 散文でなく、あくまでビジネス文章としての心得だった。

①読み手は忙しいので、すらすら読めるように───
②枚数はできるだけ少なく。3枚までがよい。(当時はB5箋、手書き、今はA4ワープロ主流)
③センテンス短く、句読点多く。漢字少なく、新聞記事モデルで。
④改行はMAX5行以内に。
⑤含みの文章禁止。意味を取り違えられないように。
⑥小割りブロックにして小見出しつける。
⑦チャートなど入れて視覚的理解訴求。ロジカルな伝達なり、ロジカル・コミュニケーションの促進に役立てる。
⑧書き慣れの訓練。
⑨社外などへの公文は、様式の細部まで詳細配慮
 ・宛名(社名、所属部署、役職、氏名、などいずれもフル表記・省略禁止)
 ・社標準あれば遵守
 ・なければ、JIS標準で
⑩手書き文字は、美しさより正確さ、整然さ、読みやすさ、親しみやすさ重視。

 29歳より、62歳のJフアーム退職までの33年、スタッフ畑で毎日書いた企画職人のマナーと心得としてやってきた。勤めた3社のなかでは、いずれの会社でも読みやすさと早さで一番だった。退職後、個人コンサルとして上記の心得を守り、サービス業をやってきたと思っている。


 そして80歳近くなって、東北大震災というとてつもない災害を一人の日本人として遭遇した。作家であり僧侶の玄侑宗久さんの「今こそモード変換を」といった言葉に触発されて、20歳代の若者との接触を図ってみた。
 後で分かったことだが、その人たちは高級ノマドといわれる高学歴の連中だった。シェア・ハウスに集う会を訪ねた。
 私の一番の現場体験は、経営コンサルとして接した中堅企業の経営者や幹部、そして社員たちだったと自己紹介した。するとそのなかのノマドらしい女性が、「経営のハウツーとやらを教えてこられた?」といった。私はムカッとして「ハウツーを求める経営者の会社とは契約しなかった」といったものだ。
 後でのミーティングで感じたことは、大企業ですら大学教育に求めるものは、入社後すぐにも即戦力として働いてくれる「実学」という力量をという言葉と同じニュアンスの「ハウツー」に[下品な妙手]と嫌悪を抱いていることを確認した。そのことは私も同感だった。

 その後しばらくして休んでいたこのブログを使って、以前から考えていた、皮肉を込めた反転のひっくり返しを試してみたいとの思いが強まった。それは「わかりやすく読みやすい」を無視した読者にへつらわない文章ということでもあった。

 Jファームで学んだことに2つあった。1つは、ベーシックな知識をビジネスの世界で実用化できる知恵に変換すること。もう1つは、「なんでもかでも抽象的なこという評論家や学者の言葉には現実感がなく、企業経営には無益のもの」という考えがオーナー経営者には多々あると実感していた。要は具体的でわかりやすいものでないと現実世界では役に立たないと。それに近い考えをもって発言している政治家もいた。ところが「具体的こそ善しとする考えには、DOの指示をしたがるちぢこまった思考が習慣化しているところ」と教えられ、それに対し抽象的な思考には、方法を限定しない豊かな選択と、人間の発想の可能性を信じる自由があった。その発想に触れたとき私は、目から鱗の感動を覚えたものだった。確かに「目的」の抽象度を高めると、目的達成の選択肢は抽象度に比例して広がるが、現実との論理的距離は遠くなる。イマジネーション力がないとこの方法論は使えない。この発想は自分の力、イマジネーション力でイノベーションも、問題解決を試みるハウツー思考とは正反対のもだった。

 それでこのブログでは、ハウツー批判の皮肉を込めてペダンチックともいえる思考法であえて試してみた。もう一つの皮肉は、高級ノマドの女性がいった今の若者に何となく共通するシニシズムとしての「ハウツー蔑視」=「実学も蔑視」への皮肉も込めてこのブログを書いたのである。

 政治の世界で、政党の公約とみなされていた〔マニュフェスト〕も何人かの学者が指摘したように、本来のマニュフェストとは「共産党宣言」のようなもので、具体的政策を並べたものではないといっていた。ところが国民の多くが期待する具体的実行項目の公約としてマニュフェストが位置づけられるようになり、政党によっては、具体的施策をわが党は掲げていると自慢そうにいっていたところもあった。
 そしてポピリズム化したマニュフェストは、「実行できない政党のお題目」と国民の政治不信へと広がった。


 ところで、このブログのベタンチックな概念性が皮肉と取られず、嫌み感覚として表に浮きすぎ、読者数は伸びなかった。もともと読者数を求めてのブログではなかった。マイナーでよい、リタイヤした老体のたわごととして見られ、攻撃するにも値しないと思われるものだろうから現役の人が言えないことも書けるとも思っていた。
 それよりなにがしかの実用性があると評価してくれる人がおればいい。その人たちはどれぐらいいるかの方は気になっていた。
 そしてマイナーながら読者数は緩やかに増え、今日現在1979人になった。



 そこでこのブログに対する自分の評価・反省は、曲がりなりにも同じスタンスで書き続けたから分かったことでもあった。それを次に列記してみると────

■前号「混沌の今、どう生きる」の記事のなかにあった「今日、2013.2.20の日経新聞朝刊だけでもこれだけのことが挙げられた」のなかの、加地倫三著「たくらむ技術」の広告文にあった「かわいがられた方がぜったいトク」いう言葉。

これをこのブログに当てはめてみると、嫌み感覚が浮き立ちかわいがられなかったかと。


■政治の関連談話でよく聞くようになった「ケミストリー(chemistry)」という言葉。ここでは、「人[集団、状況]の性質:(人と人との間の)相性、つながり。という意味で使われていた。

これは今回の安倍総理とオバマ会談での安倍総理評価にこの言葉が好意的な意味で使われた。国家戦略の絡む外交においても、このケミストリーなくしてやり遂げられないと。それには表の相性と、報道されなかった熾烈な裏でのやりとり、この表と裏の明暗を、ケミストリーのパフォーマンスで自己演出しあう技。ウイットのユーモアも交えて───その先に発展するであろう互いの信頼と、目指す国益。

もう一つは、プーチン大統領と森元総理の会談。ここでプーチン大統領が北方領土問題で、持ち出した「引き分け」の意味と、両人のケミストリー。プーチン氏のしたたかさを語る元ロシア大使。

■つぎに「疑いの過剰反応はよろしくない」との元アメリカ大使の発言にBSプライム8のキャスター苦笑い。

このブログでは、疑ってかかることが「哲学することのはじまり」であり、リアルに生きる基本とも書いた。その考えに今も変わりはない。が、それを表の顔で発言したり発表したりするかどうかは別のこと。疑いの影を表に投影しながら、過剰反応しない。疑いももたないのは、幼稚。
このことで、かの有名なルース・ベネディクト著「菊と刀」(昭和24年)を眺めてみると、当時は当時としても今でも私から見て、日本人観察はかなり当たっていると思うところがある。ベネディクトは日本にきたこともなく、資料だけで書いたものと内容は疑わしいというアメリカ人もいるようだが、何事においても現状肯定して生きようとした日本人のお人良さは、あたっていよう。疑いをもたない国民につながる。
とはいえ、戦後の日本の経済発展を支えた思想に、現状を善しせず「現状否定」の精神で、改善していった足跡は今でも確かにある。後進国が日本語そのまま「カイゼン」といっている通り。ゆるい会話に慣れすぎると、疑うことも弱まり、改善パワーもイノベーション力も弱まる。要注意。

■「ノンポリ・オタクといいながら政治的事柄に強い関心をもつ、逆転のアウトサイダー批評家宇野常寬氏」

ノンポリと称しながら、従来の体制の枠組みを守り、利権で生きている輩に内心嫌悪すら感じるオーラを発するが、表だった過激の言動はしていない。その感性に同世代の若者が彼に共感している。「ノンポリのオタクが日本を変える時~」という番組をNHK・Eテレが組んでいた。
宇野氏は、先に若者意識を何とかしょうと、感性同朋の士のケミストリーを狙っているようにもみえる。

■「理性的認識と違った鋭い知覚能力をもつ《族》が確実に増えている」
実に高度なコンテンツを内包しているさまざまな媒体でも、いとも簡単に操作してその中身を取り込める《族》がいる。
紙媒体の漫画がデジタル技術とコラボして進化した。並行して人間の肉体への関心が高まり、五官による認識能力が高まった。それぐらいしか想像できない戦後第一世代としての私。
現在においても、30代と10代では知覚認識の感性や質的能力は違い、その実態を想定することは私にはできそうにない。

■この一ヶ月、以前から関心のあった「虚と実」に思いを馳せた。
それは「表と裏」であったり、「リアリティとフィクション」であったり「現実とバーチャル」であったりした。そして昔から裏からの皮肉とか風刺に虚実の概念と感性が使われたようだ。
近松門左衛門の「虚実皮膜論」の原文には、「きょじつひにく」と仮名が振ってあるそうだ。

1994年の谷崎潤一郎賞の辻井喬著「虹の岬」の一文に、芭蕉の言葉が挿入されていた。
「虚に居て實をおこなうべし/實に居て虚にあそぶべからず」と。私は小説家であり詩人の辻井喬と西部百貨店社長・会長だった堤清二をこの言葉に重ねた。

■もう一つ興味深い言葉にであった、それは「伏水流(ふくすいりゅう)」
日本各地にある地下水脈の名水。永平寺では「冬期には雪がまんまんと降り積もり、清らかな水が地中深く蓄えられ、そのわき水で精進料理がつくられる」と。

表面的なストーリーの奥深く伏水流のように……と使われる言葉。

■これらの感性がクールジャパンの商品やサービスに織り込まれるかと思うと、なんだか希望が湧いてくる。
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by kuritaro5431 | 2013-02-27 12:13
2013年 02月 20日

混沌の今、どう生きる

 前号の続きである。

 そんな時期が過ぎて80歳近くなった2009年、このブログをはじめ、2011.3.11に「東日本大震災」が発生した。その衝撃で2012.2.16までブログが書けなかった。
 それまでの私のリアリティ観が一変したからである。
 それは「阪神大震災」とは本質的に違う、原発事故という人災絡みの大災害であったからだ。

 私は、2011.3.11から2012.2.16までの11ケ月間、波打ちくねる情報が落ち着くまで待った。3つき待ち、半年待った。冷静に状況を把握しようと、新聞、雑誌の記事を読んでは記事別のファイルをつくり整理した。テレビ、ラジオの情報もメモノートに書き込んだ(現在27冊目に入っている)。「NHKラジオ深夜便」で聞いた情報も、枕元にメモを置き、書き、不明のところは、深夜でもパソコンで検索し、メモカードに書き込んだ。(そのメモカードは一穴パンチでリングにつるし、150枚を越えている)。
 書店に行っては「関連記事」の本を買いまくった。

 その過程での関心事を今日までこのブログに書いた。

 重大な関心事「原発事故」と並行して起こった「世界的金融危機」、日本の国内問題としては「デフレ問題」「円の為替レート問題」「失業・雇用問題」「景気浮揚・経済成長対策」「エネルギー問題」「安全保障および外交問題」「消費税使途問題」「TTP問題」などなど──これら難問をシンボリックに解決しようと頑張っている「アベノミクス」。前号で書いた時代においては、これほど深刻に庶民の生活と政治は絡んでいなかった。政治への不信はあったものの、国民を怒らすまでにはいたっていなかった。
 ところが今日一日を考えるにしても、政治・経済を抜きにして「どう生きるか」の疑問は語れなくなった。

 これらの問題を、私は素人ながら自分の問題としてブログに書かざるを得なかった。元々これらの問題は専門的な知識や見識なくして書けるものではない。いままでは、その領域の学者や研究者、評論家などの識者がそれぞれの見解を各メディアを通して国民に流し、政府公報もほぼそれに沿っていたものだった。大抵の国民がそう思っていた。

 ところが福島第一原子力発電所の爆発後、官房長官は「今のところ人体に被害をおよぼす状況ではない」となんどもいった。私は疑わしい情報は、しばらく日をおいて正に振るか負に振るか様子を見ることにしいたので待ったのだ。待つ間、正より負の情報のオクターブがどんどん上がっていった。「御用学者」「電力村と政府・経産省との癒着」などなど2012.4.5の「どの人がほんとのことをいったかいずれわかる」の記事を書いた。

 若い人たちはどう感じているかと、私なりに彼らの動向を探ってみると、今は死語になっているらしい「ノンポリ」で高級ノマドという族がいて、シエアという新しい生活概念をもって生きようとしてる若者たちがいた。彼らは主に文系の大学院生であったり、後期博士課程の研究生や、特任研究員であったり、なかには准教授クラスの人もいた。
 彼らは、どのような生活感、現実感、リアリティを抱いて生きようとしているのか興味もあり、期待もしている。それらの集団は何らかのボランティア活動をやっていた。
 また、ゆるいルールで、名を名乗らず15名か20名程度定期的に集まって活動している集団があることは知っていたが、すべてがノマド族でないことを最近知った。4.5回彼らの集いに覗いてみたが、アカデミズムを求める集団やら、哲学の知識はいらないという庶民風の「哲学カフェ」やら、があった。なかには、出席資格40歳未満というところもあり、老醜の漂うさしでがましい世代お断り、とのメッセージをかかげているところもあった。
 私のブログを見てもらっていてか、東京のその種の集いの事務局から案内をもらったりして、中身の濃い活動記録やら、バックナンバー原稿など送ってもらったりしているが、この体調では東京までは覚束なく、残念で、京都での開催を期待している。

 先日、似たような集いがあり、出席した。
 テーマは、「大津波体験の映像と記憶」だった。終わる間際に「裏作業とい言葉ご存じでしょう。東北の方ですから」と尋ねてみた。するとだれひとり知らなかった。「NHK時代劇・アテルイ伝」の主役大沢たかおが、岩手でのロケが終わり「私の裏作業として、アテルイの首塚のある大阪の枚方までゆく」という台詞が予告編のなかにあった。私はその言葉をYAHOO!で確かめた。検索のトップに出たのは……であった。
 するとその会の幹事らしい人が、「根拠のない情報は私は信じない主義でねぇ」と釘を刺した。その会の趣旨は「原発反対」だった。
 ここでは「死」と「今ここに生きてる者のリアリティのありよう」を考えずにはいられなかった。

 史実は時の為政者によって消されるもの。だからNHKは「アテルイ伝」の前に、わざわざ時代劇と入れている。これはフィクションですよと。だがフイクションでないと真実は 語れないことがある。それこそ本当の記憶。画家であれ、映像作家であれ、小説家であれ、そこに作家たちの真骨頂がある。


 話を戻して、「深い知」と「広い知」。広く深い知がいいに決まっている。でもそれは「神の知」であり、人間のおよぶところではない。
 これだけ生きるためにのっぴきならない「知」とか「情報」の必要性に迫られる時代はなかったのだろう。
 何もかも縦割りに精緻になった。総合の「知」はだれが担うのか。

 この前ある人が、私の価値創造のために必要な知識と知恵と感性を持った人をネットワークし、私がプロデュースできるような人間になりたいといっていた。現にそれに近いことをやっている人もいると聞いたこともある。まさに異質の価値の統合によるコラボレーションである。2~3人のコラボレーションならともかく、さきに挙げたような矛盾に満ちた政治経済の難問をプロデュースして健全な方向にガイトでる能力ってどんな能力だろう。


 今日、2013.2.20(水)の日経新聞朝刊だけでも、これだけのことが挙げられる。

☆原発ゼロ修正 米へ表明 首相首脳会談で
☆市場、緩和の姿勢注視
☆電子書籍、買いたい 20~60代 16.5%
☆起業を増やして経済の力を高めよう(社説)
☆論より実行の中国格差対策(社説)
☆世界の企業マネー動く 経営心理雪解けの兆し 成長投資市場期待
☆スマートTV 本格離陸
☆「独占は悪」
☆書籍広告 テレビ朝日ブロデューサー加地倫三著『たくらむ技術』7万部突破
  いい企画は「ゆるい会話」から生まれる/一定の「負け」を計算に入れておく/
  会議は煮詰まったらすぐにやめる/企画書はメールでフォローする/かわいがられた方がぜったいトク/
  ハードルはあらかじめ下げておく/ネットの悪口にこそヒントがある/仕事は自分から取りに行け/
  キヤバクラでも「修行」はできる/目的のためなら媚びていい/
☆書籍広告 京都大学大学院教授佐伯啓思著『日本の宿命』偽善栄えて、国滅ぶ。希代の思想家による反・民主主義論!
☆書籍広告 明治学院大学経済学部教授神門善久著『日本農業への正しい絶望法』5万部突破
☆日本の特許黒字1兆円に迫る 「知財立国」尚途上
  世界の特許収入ランキング・2005年1位アメリカ・日本4位/2011年1位アメリカ・2位日本/ただし日本の著作権赤字/
☆日銀総裁人事、来週提示へ/大胆緩和期待が先行/
☆訪中韓国人回復進む/1月23万人、震災後最多/円安ウォン高で拍車/
☆きょうのことば 「総原価方式」値下げ意欲高まりにくく (電力村)
☆ハーグ条約加盟承認へ/自公了承、今国会で/首脳会議で米に伝達/
(☆インターネットで選挙広告
☆レーダー照射
☆世帯収入共稼ぎで維持/妻の収入昨年最高に/働く女性増加/
☆75歳以上の高齢者医療3割負担に (経済同友会)
☆TTP反対派(自民党内議員連)決議文でクギ
☆書籍広告 トーマツイノペーション株式会社社長白潟敏朗著『社長、御社の「経営理念」が会社を潰す!』 
☆13兆円補正足踏み/成立25日以降/資材高着工遅れ/景気寄与ずれ込みも/建設、人材難が深刻/
☆書籍広告 雑誌『WEDGE』中国との知財戦争に備えよ
☆電力会社 値上げ圧縮案に反発必至
☆中国/国有企業に効率経営要求/評価から「売上の伸び」削除/供給過剰の解消狙う/改革進展に地方抜け穴/雇用維持との両立難題/
☆ユーロ圏、貿易収支改善/通貨安で輸出増/
☆ハッカー、中国軍の関与濃厚
☆スイス「銀行の守秘」揺らぐ/口座情報の提供、米と合意/独仏などスイス包囲網/脱税の摘発強化/
☆北朝鮮核実験「恩を仇で返した」と中国、住民反発広まる/政府批判に飛び火警戒/
☆アベノミクスのインフレ予想に投資家動じず
☆「中東原油の輸送拠点」バキスタン港湾開発権中国に/
☆「オンリーワン企業」快走/ライフスタイルの変化に対応/スマホブームに乗る/日本初ブランド海外へ/
☆三菱重工やIHI 海洋開発に活路/浮体構造物など大型プラント/
☆新興国開拓、技術で勝負
☆ヤマダとベスト電器 仕入れ統合
☆通販、TVとネット連携/衣料で新ブランド
☆経済教室 「働き方を変える」無駄是正へ有休取得促進/他国より長時間働いて生産量は多くない/有休買い取りも一案/
☆もろ刃の日銀物価目標/国債金利は上昇するか/信認維持がカギ/
☆為替市場の構造が一国の経済を左右する───学習院大学教授 清水順子氏(やさしい経済学)
☆パートの賃上げ、企業は慎重
☆無印、今や必須のブランド
☆個人マネーREIT(不動産ファンドの一種である不動産信託)へ
☆パソコン用HDDハードティスク市場をSSD(ソリッド・ステート・ドライブ)か゜浸食

 これだけあった。
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by kuritaro5431 | 2013-02-20 16:24
2013年 02月 18日

今をリアルに生きるとはどういうことか 

 2009.4.12にはじめたこのブログのテーマを今思えば、このことを追っかけていたのだった。3.11以降、特に感じるようになっていた。何かを掘り下げようとすると、しばらくたつと「この方向と思考ってリアルか」と自問自答していた日々であった。

 3.11以降めまぐるしいほど多様な方向性をもった理論や生き方がさまざまなメディアに登場した。それをそのときのプライオリティとして記事にした。それで今日にいたっている。途中から考えを変えざるを得ないものもあった。それは現代という混沌が抱える多様な課題と対峙せざるを得ないことになってしまったこと。それらのことを生活の外に置いては生きられないことへの私の危機意識だった。

 私が思う「リアル」というフイリングは、いくら思いつきやアイデアがよかっても「今もこれからもまあまあ食っていける稼ぎを産出する方法論が、自分の基本的考えと整合しているのか?」ということ。これが一番だった。



 53歳になって経営コンサルタントファームに最後の転職をし、やっと自分の本業らしいものに出会ったような気がして、一時は自己実現の可能性への期待に燃えた。ところが営業上の関係もあり、大半は自民党支持の経営者の考えに妥協し、その会社の発展への成果を目指すサービス職として稼ぎもした。そんな経営者の中に健全な思考の経営者もいて、その経営者と思いを一つにしてやった活動のプロセスが成果となってほぼ成功し、業績も向上した会社もあった。そしてそこの会社の社員共々に励んだ成果を真に喜び合えたこともあった。
 その歳になってやっと俗にいう「左翼」からは抜けた。とはいえ自民党も含め、しっくりくる政党があったわけではなった。
 そんな時期、「経営コンサルタントは天職だ」「神様仏様◯◯さまと経営者の皆様から敬愛されています◯◯先生をご紹介します」と、自社開催の講演会の前に、必ずそう自社社長を紹介する経営コンサルタントファームがあった。
 零細・小企業が日本の株式会社の80%といわれ、そのファームはその階層の会社をターゲットとして成長していたファームであった。そのファームから流れてきたコンサルタントとも、私は同じ本部で働いた。「カリスマ商法」とか「バイブル商法」とかいわれる一種と私は思い、私の「リアル」という感性から外れるものだった。また当時まだ日本が目指していたアメリカ性ロジカル・シンキングからしても、外れるものだった。

 その後私は定年制がないとの約束で入社したJフアームを、バブル経済崩壊でやむなく定年制を導入せざるを得なくなったJファームを退職した。それでも猶予を2年くれ、パートナー・コンサルタント制度を会社は設けた。コンサルタントと個人的つながりの強いクライアントをJフアームとして会社は繋いでおきたかった。入社時の約束を反故にした詫び、の2つの意味があったのだろう。
 退社組のコンサルタントを銀座の本社に数人単位で社長が呼び、詫びと労いの集いを銀座料亭で催した。そのときの社長は、あれほどシビアに成果と雇用をしっかり連動させていた365人のコンサルタントを統治していた人ではなかった。
 コンサルタントが60名のころも、Jファームのコンサルタントは年俸制だった。会社から電話で本社人事部長から本人直接に電話で翌年の年俸(ボーナスなしの12ケ月均等)の連絡を受ける。不服があれば交渉できるというルールだった。私が退職するまでそのルールは生きていた。
 当時からいた先輩のコンサルタントは「こんど息子が高校に進学する。この年収では足りないので上げて欲しいと社長に電話できた。そんなとき社長は二の返事でよし分かった、といって、月10万円単位であげてくれた」と。そんな時代もあったと。

 私が一番Jファームでリアリティを感じた社長発言は「コンサルタントたちが、Jファームのためになること50%、コンサルタント自身の信条で行う行動が本人にとって価値あることであっても、会社にとってマイナスの行為にあたるものが50%を越える場合、辞めてもらうしかない。といったことだった。大抵の会社なら、特にオーナー経営者なら、社長の価値観に沿わぬ行動をとった幹部なら、そのようなことが2~3度重なればまず陰湿なやり方で、追い出される。Jファームでは、何がプラスで何がマイナスかみんな明瞭に分かっていた。曖昧さがなかった。だから安心して思い切ったぎりぎりの「コンサルティング商品企画の開発」に打ち込めた。
 そして、社長はつねに「コンサルタントを疲れさすな、無から有を生む企画者だ。コンサルタントはわが社にとって価値ある商品(コンサルティング企画)を生む生産者だ」といっていた。だからクライアントに行かないときは、自宅での企画・研究・執筆自由。所在だけ秘書にいっておけば自由だった。通常は10時出勤。
 そんな反面、各コンサルタントのノルマは全員、1ケ月13日(有料稼働日)。理系コンサルタントの1日フィ40万円~45万円。文系マネジメントコンサルタント1日フィ25万円~30万円。
 ということで理系のコンサルタントのノルマ 1日/40万円×1ケ月13日として=1ケ月ノルマ520万円。それを一年12ケ月×520万円=6240万円。これは会社としての売上で、一般企業では、売上総利益・粗利益に相当。
 文系・マネジメント/コンサルタントのノルマ 1日/30万円×1ケ月13日=月ノルマ390万円。それを一年にすると4680万円。

 理系のコンサルタントは大手企業の製造業中心で、定量的成果の出せるコンサルティングをやっており、コンサルティングフィの5倍の金銭的効果に換算できる成果/OUTPUTをだしていた。だから高額のコンサルティング・フィが稼げたのだ。
 他方、文系出身のコンサルタントのやる仕事領域は、経営計画、マーケティング、マネジメント、利益管理、など定性(金銭に換算できにくい成果/OUTPUT)で、コンサルティングフィに対し、5倍としている定量的成果が証明しにくいところから、フィは安かった。

 上記のノルマおよびフィは、Jファームの当時のもので現状は不明/バブル景気崩壊前のもの。噂によると1日単価のフィは変わらないが、活動契約日数が短くなって、契約総額が小さくなっていると聞く。

 会社の売上・ここでは一般企業の一人当たりの損益分岐点は、理系文系総合で、コンサルタント稼働日数/ノルマ13日に対して7日としていた。月有料稼働7日を割ったコンサルタントは、かれが在籍していること自体、会社は損失を出していることになるということ。

 もう一つ、コンサルタントの稼いだ利益の配分の考えは、ファームによって違っていただろうが、Jファームでは、「コンサルタントに1/3・営業経費としての人件費・交通費などに1/3・全社としての一般管理費と会社利益に1/3」だったと聞いたことがある。

 もう一つ「生きるためのリアリティ」として、Jファームで学んだことは、「自分のノルマが埋まらないのは、自分の企画を営業部隊が売ってくれないから」ということが通らない会社ということだった。Jファームの会社方針として、コンサルタント自らが作った「コンサルティング企画と、営業部隊へのPRが下手だったからだ」か「クライアントニーズに不的確な企画だったのではないか」ということだった。そして、自分の作った企画を売ってもらえず、7日の稼働も割り、多くのコンサルタントが去っていった。

 クライアントは、コンサルタントに本音の苦情はいわない。担当の営業には本音をいう。数人のコンサルタントがプロジェクトとして入った場合、必ずいわれるのは「玉石混合だねぇ」と。だれが玉で、だれが石で、だれが石ころだったか、営業にはいっている。その噂はコンサルタントの知らないルートで社内に流れる。その結果が前述の結果になる。

 先輩・同僚のなかには「玉」といわれる切れ者も多くいた。私は到底「玉」に入れる力量はなかったが、「自分にとっても、クライアントにとっても、所属するファームにとっても、どこまでも《リアルであれ》との一念で、10年在籍した」ストレスやらいつ首になるか知れない強いリスクはあったが、3つの勤め先なかで一番満足するところとなっていた。

 このJファームの社風は、今流行りの「新自由主義」とか「自民党の綱領」と重なるところもないではなかったが、クライアントには徹底して「無駄を省くV=F/Cの技術と知恵を売りものにしながら」自らのファームが創出する価値を、競争による自由競争の推奨よりも、いたってパーソナルなコンサルタントの知恵醸成環境により、「固有の知の集団を作ろうとしたともいえた」。

 
 その後の私は、Jファーム時代信頼されていたクライアントの関係筋を対象とした自営のコンサルタント業をやった。退職組のコンサルタント仲間や、同じく退職組の営業職仲間とネットワークを組んでの仕事もやった。3~4年はみなよかったものの、以降は、あれほどの切れ者といわれた連中でも、クライアント開発には苦労した。景気のさらなる後退期でもあったことから、受注にまでいたらないとコンサルタントは丘に上がったカッパであることを思い知らされた。
 どちらかいえば企画職のコンサルタントの営業感覚と、物販でない営業のニーズ把握の難しさ、そのノウハウこそJファームであれ、多のコンサル・ファームの収益構造をささえていたものだった。


 これらのことを「リアルとはなにか」という切り口で評価してみると次ような気がする。

●外資系戦略コンサルタント会社では、新卒を採用して自社で基礎から教え(教育するというフィリングではない)価値ある成果を出すための、知識と知恵を体得させ、市場に放つ。後は実践学習でスキルを磨き、他者と違う売り物を築く。そうして自力で稼げるコンサルタントになる。

●国内系コンサルティングファームは、ほとんどの会社では新卒採用はしない。たぶん今でも。各職種経験者(この判定に各社流のやり方をもっている)を採用して、入社後特別に定まった教育はしない。そんなコストはかけない。教育したからとて実践力のあるコンサルタントに育つはずはない。各人が体験したスキルをどこまで自力で汎用性のあるスキルにトランスフアするか。
 その環境として、先輩たちが積み上げた豊富なノウハウ資料は自由に閲覧できる。ただし持ち出し禁止。それと各コンサルティング本部(10人未満の専門集団)内での月2回の定期ミーティングで、各人がつくったクライアントへのプレゼンテーション企画書の相互評価。すべてコンサルティング案件の「目的」「目標」達成のためにどこまで実践的なプロセスがロジカルにストーリー化されているか、上下関係なしの忌憚のないディスカッション。そして進行中のコンサルティングの経過報告。全員による問題・課題の出し合いと対策のデイスカッション。そんな環境のかなで汎用性のある自分の売り物がつくれず、ノルマが達成できなければ自分で去るだけ。

●Jファームでいえば、自分流の汎用性のある稼げる技術(ノウハウとかスキルとかいわれるもの)を形成するコツとして、まず的確な「目的」の設定。目的に一番かなった「手段」の選択。「手段遂行の合理的なプロセス設計──ステップ化」「ステップごとのOUTPUT見積」「総合成果としての/OUTPUT=目的の完遂」。ここまでを強烈に意識化し、より精緻な論理性をもってPDCAを遂行すること、だった。それにより「コンサルティング契約を履行する」であった。

●一番リアリティのない提案としていわれていたのは、市販のハウツウ・ビジネス書の知恵借りをした企画書だった。「1200円そこそこのハウツウ本などだれでも読んでいる。そんなもので経営革新にせよ、イノベーションにせよ、高額フィをいただける仕事ができると思うか」と切れ者の先輩はよくいったものだ。
Jファームの社長は、ノウハウ磨きのヒントはベーシックな本から探せとよくいった。その中には学術書の類も多々あった。そこら辺にヒントを求めると、現場との論理的距離が遠くなる。安易に正解を求めようとせず、苦しめとよくいった。

●他方世の中は、面倒な思考やプロセスを嫌った。「難しいものをやさしく話す、書く、それがプロだ」といわれた。私もこのブログに書いたようなコミュニケーションを、コンサルティング現場ではやらなかった。今回は一般受けを考慮せず実験のためにやった、ということである。マイナーでもその役割はあると思って。

●「目的から仕事をはじめると書いたが」なにごとにおいても「目的」がはじめからあるわけではない。「改善」にしても「革新」にしても、現状をよしとせず「現状否定」が前提てある。現状をよしとしないのは、現状に「悪因があることから」である。となると現状の悪因把握のステップがいる。~分析とか~調査というのはみなこの「悪因探し」の方法論である。
 これは「現状分析」「現象分析」で、さまざまな現象の事実を実証的に捉え、その多様な情報から一定の傾向とか法則などを見つけようとする帰納法であり、科学的事象把握の方法である。この結果の信憑性によって「目的設定の的確性」が規定される。だから一般的なコンサルティングにおいて、この帰納法的活動が重要視され、時に全体のコンサルティング工数の半分を占めることだってある。

●目的からスタートする工程は、「あるべき姿」を最上位において、それを実現するためストーリーであり、手段を下方展開する演繹法である。
 

 それらが私が現役時代に仕事を通して習得したの「リアル観」であった。

 しかし、3.11以降、今までのように帰納法が使えなくなった、「善し悪し」の要因が、多様に存在し、「反意語」的な価値や、「コインの裏表」のような存在であったり、「こちらが立てばあちらが立たず」というトレードオフの関係であったすることがらがあまりにも増えた。

 確かにそうなってきているが、今でも使えるもの、もう使わない方がいいものが混在し、選択を危うくしているところに現代おける「リアリティ」の危うさがある。
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by kuritaro5431 | 2013-02-18 17:49
2013年 02月 10日

「演歌」「怨歌」のものがたり

 五木寛之さんが「怨歌歌手」と名付けた藤圭子は、岩手県一関市の生まれ。
 幼いころから浪曲歌手の父親、三味線瞽女(ごぜ)の母に同行して、門付けの旅回りの生活を送り、自らも歌っていたという。彼女は成績優秀だったが、貧しい生活を支えるために高校進学を断念。17歳のとき「さっぽろ雪祭り」のステージで唄う姿がレコード会社の関係者の目にとまり上京し、歌手としてデビューする。
 彼女の歌声には、夜の世界の女の暗く陰鬱な響きがあり、岩手の悲しい歴史を背負って生きる女の怨み=情念があった。(ソースwikipedia)

 私は、3.11を機に、岩手に関心を寄せていたから、藤圭子の歌を一度じっくり聴いてみようと思い、彼女のCDと、彼女の歌も作詞した阿久悠著『清らかな厭世』(中身は見ず、タイトルに惚れ込んで、これぞ演歌の神髄と思い)一緒に買った。
 彼女のCDのなかに、阿久悠の作詞ではなかったが、六本木哲作詞・作曲の「聞いて下さい私の人生」を一番に聞くことにした。
 一人静かなところで聞きたくて、30年も前よく釣り友達と鯉釣りに行った琵琶湖湖畔まででかけた。

 もう散りかけていた湖畔の桜のある砂浜に車を乗り入れ、CDをセットした。前奏がはじまって間もなく、私はその旋律に情動を感じ、1977年(昭和52年)篠田正浩監督・岩下志麻主演の「はなれ瞽女おりん」で見たカラー映像が突如蘇った。雪のなか、父母の後を追う少女瞽女おりん。白一色の雪のなか、おりんの行く跡に、初潮の鮮血のみがモノクロのなかにあった。あの情動は、まさに〈情念〉の映像化。忘れずにいた。

 そして藤圭子の歌がはじまった。

 聞いて下さい 私の人生
 生まれさいはて 北の国
 おさな心は やみの中
 光もとめて 生きて来た
 そんな過去にも くじけずに 
 苦労 七坂 歌の旅
 涙こらえて 今日もまた
 女心を ひとすじに
 声がかれても つぶれても
 根性 根性 ひとすじ演歌道

 さらに、二番も唄う。
 
 その後彼女の談によれば、自分はそんな暗い性格ではない。こんな歌は唱いたくないといって1980年一旦引退している。ところが翌年復帰しているが、その後は分からない。
 彼女の思いはどうあろうと、東北人の心情を唄ったことに変わりはない。そして懐かしい東北の原風景としての原共同体社会を、東北人も、すべての日本人も思い出したことだろう。天災・人災の3.11を機に。思いはそれぞれ違うとしても。ノスタルジーだけでこれから生きられないことも知っている。



 話を戻して───「はなれ瞽女おりん」の原作者・水上勉は福井県大飯町生まれの人。物語の舞台は東北ではなく北陸と思われた。水上勉の生家は、小浜から舞鶴に向かう国道から、噂の大飯原子力発電所に渡る[青戸大橋]を渡らず、反対側の道に入ったところと聞いていた。水上勉の父親は、村の墓地の入り口に住まう棺桶大工だたったと。
 北陸の地も、寒い北風が吹きつける貧しい人たちが住む地であったのだろう。生まれた赤子を断崖から落とし、間引かなければ食っていけなかった。水上勉の書いた民話のなかに、北陸でも座敷童伝説があったと書かれていた記憶がある。間引いた子の霊を祀ったのだろうか。
 この話も「怨歌」としの根は一つ。このブログの「掌編小説・首なし塚」のでどころはここだった。




 ここで一旦話は飛躍する。
 先日起こった「アルジェリア事件」。

 1937年フランス映画の名匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督が撮ったフランス映画の代表作。ジャン・ギャバン主演の「望郷」、原題「PEPE LE MOKO」。映画ファンでなくても知っている名作。日本公開1939年(昭和14年)、キネマ旬報・洋画の部・ヘスト1。
 この映画は、フランスの植民地時代パリで銀行強盗をやったお尋ね者のギャングの名前がペペ・ル・モコ/ジャン・ギャバン。彼はフランス統治下のアルジェリアの迷路のような暗黒街カスバに隠れる。彼は偶然酒場で出会った金髪のパリ女に惚れてしまう。ペペが「メトロの匂い」と表現した、パリへの望郷の思い。モコが射殺されたと刑事から聴かされ、パリに帰るために波止場に行った彼女を追って、ペペは警察に捕まることを知りながら街を出てしまう。波止場で船上の彼女に向かって叫ぶ「キャビー」という叫びは汽笛に掻き消されて届かない。映画史上に残る素晴らしいラストシーンは、日本映画にも多くの影響を与えた。
 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、フランス人特有のペシミズムを描いた代表的監督でもあったからだ。

 フランスと植民地アルジェリアの関係は、政治的にも宗教的にもかなり複雑な関係であった。1966年には、フランスとアルジェリアの共同製作映画「アルジェの戦い」(アルジェリア独立運動地下組織の戦い。指導者青年の死闘の物語。日本公開1967年、キネマ旬報・洋画の部・ベスト1)。1972年にはイタリア/アルジェリア共同製作映画「さらば外人部隊」カスバを舞台とした映画。などがあった。
 
 映画「望郷」では、遠い異国の日本人には当時のアルジエリアの政治状況は一般の観客には分かりようもなかった。男と女の切ない物語として受けとめてた。

 この映画「望郷」は、日本人の情動に強く共鳴し、演歌「カスバの女」、作詞・大高ひさを・作曲・久我山明・唄・エト邦江で世に送り出し大ヒットした。

 その歌詞は、

 涙じゃないのよ 浮気な雨に
 ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
 ここは地の果て アルジェリア
 どうせカスバの夜に咲く
 酒場の女のうす情け
 
 唄ってあげましょ 私でよけりゃ
 セーヌのたそがれ 瞼の都
 花はマロニエ シャンゼリゼ
 赤い風車の 踊り子の
 いまさらかえらぬ 身の上を
  
 貴方もわたしも買われた命
 恋してみっとて 一夜の花火
 明日はチェニスか モロッコか
 泣い手をふる うしろ影
 外人部隊の白い服


 この歌は、多くの演歌歌手に時代を越えて唱われた。(順不同)

 エト邦江、青江三奈、ちあきなおみ、藤圭子、八代亜紀、梶芽衣子、田端義夫、前川清、氷川きよし、などなど。


 今回のアルジェリア人質事件で、最後に亡くなられた、前副社長最高顧問の新谷正法氏の一年先輩で、昔一緒にアルジエリアに赴任されていたという日揮OBの方の話が印象的であった。
 日揮といえば、報道でご存じの通り、さまざまなエネルギー産業に関与している世界的プラント会社である。そのOBの方が「あの映画にてでくる、あのカスバの酒場で、日本恋しと、日揮の派遣社員みんなで、『カスバの女』を唄ったものだった」と。それがどれだけ励みになったことかともいった。
 私は、なんども見ていた「望郷」を、この記事を書くため再度見た。
 今、世界各国ではエネルギー問題が暗黒の人脈も絡んで、魑魅魍魎の世界を形成していると聞く。人脈の弱い一国の首相が、人命第一優先。テロによる暴力は許さないと、宣言してもその黒いパワーは厳然と存在している。
 ここでも、犠牲になるのは、表の社会から抹殺されても仕方のない人々ではなかったか。そこにも福島原発の事故直後高濃度汚染水で被曝して無縁佛となった人たちと同種の人がいたのではなかったか。その人たちの「怨み」が澱になり、地球のあちこちに堆積している。その思いを共有しいる此岸の人が唄うのが「怨歌」だろう。
 

 もう一面、この映画「望郷」と、フランス人ジュリアン・デュヴィヴィエ監督を思うとき、当時でも西欧人の大半は、ペペ・ル・モコとキャピーの関係を、理性では制御できない人間の性(さが)として厭世的ではあるにせよその情動を肯定的に捉えていたと思った。もともとジュリアン・デュヴィヴィエ監督自体そんなタイプの監督だったから。それはアメリカ映画にはない繊細な人間感情を肯定的に捉えようとするフランス映画の魅力であった。
 また、男女の間の感情と、理性が制御しようとした情念とは別。と思っているフランス人が大半ではないかとも思ったりした。男も女も、一人の相手に貞節を尽くすという考えが道徳的かといえば、それは相手の個人的存在としての自由を束縛することになり、社会的規範としての道徳性より、「個としての実存性=他人が代行できない自己と関わる相手としての異性が優先する」というおもいがあるのではないかと思ったりする。
 そう思えば昨年日本でも上映された「サルトルとボーヴォワール哲学と愛」のわけが分かるというもの。

 演歌とは関係ない話であるが、1958年のフランス映画、監督・脚本ルイ・マル作品「恋人たち」ジヤン・ヌモロー主演。当時ルイ・マル26歳。私も26歳・肉体も精神も燃えていた。その時期観た映画は、私の想う〈情念〉の極みであった。
 ────月と星がときを制する夜、あらゆるものは眠りに落ち、闇と静謐が時間の観念を忘れさせる。その刹那、恋の深淵に沈んでゆくふたりにとって瞬間は永遠の意味をもつ。華やかな上流社会にいる夫人が、すべてを捨て去り、ふと知りあった青年と逃避行に出発する。たった一夜の出来事で女は変わった、恋に日常の時間概念は通用しない。月明かりの情事は、風景を、男と女を、透き通るガラス細工のように映しだす。この美の官能に研ぎ澄まされたジャン・ヌモローの怪しい眼差し。
 その映像の背後に繊細でけだるいブラームスの弦楽六重奏曲第一番の曲がながれ、やがてすべり落ちてゆくようでいて決然とした響きを孕む旋律にいろどられ"恋"の極限に達する。
 その後私は、この曲がブラームスの弦楽六重奏曲第一番であったことがおもいたせず、それらしいレコードを買ってはみたが、みな違っていた。再上映されることもなかった。そして昨年、十字屋楽器店で再版のDVDをみつけ購入た。そして54年ぶりに観た。
 26歳のとのときのような肉体的知覚情動は得られかなったが、どこか無意識の深層に反応していた。その記憶は、脳のどこか、臓器のどこかなかわからなかったが、確かに呼応していた。(ソース上原徹)


 
 ここでもう一度日本の話に戻したい。

 歌謡曲の一部が「演歌」といわれるようになった説とか時期はいろいろあった。だがなにをもって演歌というかという定義らしきものはなかった。自然発生的にそういわれるカテゴリーがてきたとしかいいようのないのが実情のようである。別に学問的に演歌を研究しようというわけではないので定義はどうでもいい。

 一般的には「昔にはあった人情とか、近代という時の流れに取り残されてしまった男への悲哀とか、そんな男に共感する女とか、神戸や横浜の港に立ち寄る外国船の船乗りとの一夜の恋と別れとか、情に飢えた酒場の女が男の嘘に騙されたとか、また叶えられぬ人の妻を愛してしました男の悲哀とか。これらのイメージを唄う歌を演歌といっているように思える」。

 それでは、この記事を書くにしてもよりどころがないので、ここでは一応「演歌の肝は情念」との私の仮説ですすめてきた。
 
 そうなると、五木寛之さんの思考とイメージにある、また、梅原猛先生のいわれる日本の故郷東北といわれるイメージを私は「演歌」「艶歌」「怨歌」と捉えてきた。
 私流にさらにシンボリックに絞るなら「曽根崎心中」のあの下りになる。

 ――この世の名残り、夜も名残り。死にゆく身を譬ふれば、仇しが原の道の霜。一足づつに消えてゆく。夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば曉の。七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の。鐘の響きの聞きをさめ。寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは。草も木も空も名残りと見あぐれば。雲心なき水のおと、北斗は冴えて影うつる、星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の、橋と契りていつまでも。われとそなたは女夫星。かならずそうと縋りより。二人がなかに降る涙、河の水嵩もまさるべし。……

 透明な情念の連鎖と、その韻律。
 湧きあがる内からの暗雲に耐えかねている。
 心の闇の連鎖を放っておけばとほうもない怪物となって地獄の底までついてくる。
 恐怖が津波のように押し寄せてくる。
 
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by kuritaro5431 | 2013-02-10 17:09
2013年 02月 04日

演歌は日本の知識人においても蔑視されてきた

 元々、日本において歌謡曲のなかにあった情念的感情の歌曲を「演歌」というくくりで呼ぶようになったのはそう古い話ではない。
 日本の知識人も、西欧哲学の影響を受け、近代化を図った。その過程で西欧哲学が「情念」という概念を中心的主題として扱わなかったことが、結果的に演歌を蔑視したことにつながったのではないかと思う。
 学生たちも、もの悲しい望郷のメロデー中心の歌謡曲より、黒人系のリズム重視のジヤズに傾倒していた。特に都会育ちの学生たちは。


 
 そもそも、このブログを立ち上げたとき、本来理性的人間が欧州側にいて、情動的に左右される人間が東洋・特に日本人にいた、との仮説からはじめた。
 日本人は、不便を気にせず、自然に溶けて、それなりに豊かに共同体社会生活で長いあいだ暮らしていた。それが近代において西欧的な物的に便利な生活に憧れるようになり、日本においても、近代化という名の下に物的に便利な道具を大量・廉価に生産し、その生活への「憬れという欲望」を合理的な制度・システムにし、豊かな生活を目指した。そして世界に希な経済成長を遂げた。

 その繁栄がバブルと化し、長いデフレ。そして東北大震災。理性的志向の延長にある科学の近代的産物としての原爆→原子力発電。現代の科学では、使用後の後始末(廃炉)の手段不能の科学の産物。
  
 アメリカは、原爆実験時に、非道な放射能被害を出したが、発言力もある良心的な科学者もいて、日本がアメリカより購入して原子力発電設備の管理についての科学的限界の懸念とコメントももらっていた。
 ところが、日本経済において電力エネルギーは、国策として安定供給必至のものとなっており、国力を左右する問題とまでなり、経済界も政府も、新しい基幹産業モデルが確立するまでは、保守系の製造業による経済モデルの元リーデンングカンパニーの発言が主流となっている。それに荷担する政党、経済学者、科学者、それを見越しての電力村の勢力は、震災前と変わらぬ体質。賠償責任の政府と国民の負担・総原価方式、現原発の活断層存在の執拗な否定、などなど、日に日に不気味さが増し、政局は巧妙さを増し世界的規模の利益・利権絡み、討論の攻防のティベートも、レトリックを越えるディベートの禁じ手さえ使われるテレビ討論が放映される。
 政府は「東北の復興なくして日本の再生はない」と唱っても、どこかで東北は2のつぎであるし、幼児の放射能被害にしても真剣とは思えない節がある。そのことを知っている東北の人。


 私は今回の記事で「表だった大和朝廷への反発はアテルイの処刑で終結した」ことになっているが、1200年前の怨みは消えていないと岩手県民は意志表示した。いやさらに1万2000年もの縄文文化(古神道をベースとして自然との共生の原始共同体社会)を日本の社会から抹殺した勢力への東北人の怨みは深いと、と考え、その情動がのちの演歌となってつながっているとの仮説を書きたかったのである。その情動の要を今回情念と位置づけたかったのである。

 確かに「演歌」でくくられる歌曲のなかには、理性ではコントロールしょうのない感情、感性を唱う歌曲以外の故郷を偲ぶ叙情歌に近いものも含まれるが、私は「演歌」の核は、五木寛之氏の名付けた「怨歌」であると思っている。

 梅原猛先生も『日本の深層』の序奏で「日本人にとって故郷という言葉がいちばんふさわしいのは東北である。もちろん東北人の出稼ぎが多かったためであろうが、出稼ぎのおおいのはひとり東北に限ったたことではない。北陸も九州も出稼ぎが多いが、故郷の歌といえば多くは東北の歌である」と。
「なぜ、東北が日本にとって、かくもなつかしい故郷のイメージをもっているのか。(中略)東北は、雪と貧しさに悩まされた、ずうずう弁を使う人間が、忍耐強く住む国なのである。東北を含めて日本人の大多数の人にとって東北のイメージは、雪と貧しさに悩まされた、"文化果つる辺境の地"というイメージである」と書かれている。
 
 東北は近代化の流れのなかで共同体社会が崩壊し、貧しい地方になり、そこをめがけて支援金付の原発設置を国策で行った。そして現在にいたっている。ほかの貧しい地方も同じである。昔のような不便だった頃の共同体社会にはもどれるなんてだれも想っていない東北人と思うが、古代史から抹殺された史料のなかに、本物の「ノマド」がいて、生きるために定住・混血のみちを選んだ人、明治以降も「山の民」「川の民」として全国にちりぢりにされた多くの人がいた。 その人たちの故郷もは東北なのである。

 その深い深い怨みの情動が、ネガティブなものからポジティブなものにトランスアァしようとする兆しがほんの少しではあるが見えはじめている。行き詰まった金融資本主義脱皮の小さな可能性としての、地域単位で起こりつつある、みんなが経営者の「協同労働」が期待されている。



 この記事を書くに当たって「演歌」のキーワードは「情念だとの思いを定め、西欧哲学で扱われていた記憶をたより、1992年出版の伊藤克彦・坂井昭宏編『情念の哲学』(東信堂)をめくってみた。一部前述と重複する部分もあるが、概略次のような内容であった。


 西欧の哲学では「情念」という概念が議論されてはいても、近代哲学の基本線はやはり「理
性の哲学」であり「精神の哲学」「意識の哲学」であった。それに対し、西欧では「情念」は、感性的、無意識的、非合理的なものであり、理性的意志によって抑圧され、制御されるべきものとされていた。
 いずれにしても、それは人間にとってどうにも厄介で、気まぐれで、手に負えないものでしかなかった。

 でも、ジャン・ジャック・ルソーは、「人間たらしめるものは理性であるにしても、人間を動かすものは感情である」と語っている。
 しかし、それはかならずしも人間を望ましい方向に導くとは限らない。情念を正しく導くためにどうしても理性が必要である。理性的意志による情念の支配ということが、近代的モラルの基本パターンであるといっている。

 こうした西欧哲学では、「理性」を最も人間らしい概念にポジショニングにし、「情念」はそれと最も遠く離れたポジショニングの概念としていたきらいが伺える。「情念」という概念は極の果てという感じ。ヘーゲルも思った「動物と陸続きのアジアのどん詰まりのシナそして日本」との言葉か思い出される。
 その「情念」とは、人間の理性的思考回路を経ずして、いきなり生の情感を司る器官や臓器・肉体そのものにまで外部から進入する受動感情。理性は主体的自我の働きで、その感情の侵入を防ごうとする観念であるが、情念は難なくそれを越えてやってくる。


 とはいえ、はたして情念は人間にとって、厄介で、やり切れないお荷物に過ぎないものであろうか。哲学者や科学者がさまざまな苦難や紆余曲折を経てようやくめざす真理を発見したと思った瞬間に、深い感動やおおきな満足を経験することはだれでも知っている。とデカルトもしばしばそのような感動や満足に言及している。そして、「私はこの方法を用いはじめて以来、この世において人はこれ以上のに楽しい、これ以上に清浄な満足を味合うことはできないと思われるほど無上の満足を感じたのである」という言葉を残している。そのような満足や感動がふたたびより困難な真理探求へと人を駆り立てるのである。

 真に具体的経験としては、人が理性的であることと、感情的であることとは別々に切り離されるべきものではない。また、感覚的であることと感情的であることも、深く結びついている。感覚と感情、情念と理性的という意味それぞれは、その深い層において結びつき相覆い(あいおおい)、相互浸透的な全体をなしている。両者を別の事態として切り離すことはできるが、じつは知らず知らず、作為によって分離しているのである。デカルトの『情念論』のなかの有名に言葉をもじっていうならば「感覚的であるその同じ心が感情的であり、すべての理性的意志は情念でもある」というべきであろう。
 このような根本的な経験の層にいたるまで掘り下げていき、哲学の根本的主題としての〈情念〉の諸相を徹底的に分析し、究明していきたいと思う。 (伊藤克彦)「まえがき」より


 この本の「まえがき」のつづきを、坂井昭宏先生も書いている。興味深い事柄が多かったのでピックアップしておくことにしたい。

■西欧の近代哲学が〈情念〉を哲学の中心におかなかったことが大きな歪みをもつことになった。その原因は、人間の精神を対象とする関係で、「客観的認識」対「情念」、「理性」対「感性」、と分割したことにある、と。そして前者は「科学的認識」で、後者は「道徳的価値判断の原理」としたこと、と。

■アキレスによれば、自己自身の印象を確かめる「情動的意識」は客観的認識にかかる知性とは異なる独自の存在領域である、として。情動的意識は「道徳と愛の起源」であると共に「科学的実在とは別個の実在」としている。
 
■さらに、パトラーは、道徳の原理を感情に求め、道徳を「急激な突発的怒り」と「動かし難い慎重な怒り」とに区別している。前者は、自己防衛、自己の安全を確保するための速やかな抵抗。後者は、社会的、道徳的、宗教的害悪にむけられ、つねに善悪、正邪、美醜、聖蛮、などの価値判断の感情と結合。それに属するさまざまな形態の怒りによって、われわれは理性の冷静な熟慮に基づいてなされる巧妙な不正や権利の侵害に対抗する、とある。

■この怒りは「理性的理解より先行し、かつ人間の道徳生活を可能にする条件である」といっている。

■ヒュームは「理性」と「感情」の対立に関して「何をなすことができるか」「何をすることができないか」は、因果的事実的真理の問題で、理性(科学)の判断に依存する。

■ところが「理性」は「なにをなすべきであり」「何をなすべきか」を決定することはできない。これは「情念」によらなければならない、と。

■さらに、ある行為や性格を美徳あるいは悪徳であるとする判断は、すべての人間に普遍的に備わっている道徳感覚が感じる「快不快」の感情によるといっている。


★ここまでの記述を通して、私が直感したことは、西欧的思考とは、「何でもかんでも分割(セグメンテーション)して考えるものなのだなあ」と改めて感じたことと。分割した内容をどこまでもロジカルに精緻に縦割りで思考する。それが合理的、科学的、近代的なことだったんだと。そのくせ、全体整合(トータル化)とか、総合性とかに悩んでいたのでは?
 それに比べて東洋人、特に日本人は、最初から感性的、情動的なとこはあったとしても、最初からトータルアプローチをしていたともいえる。

★でも戦後60何年の間、そんな情動的、情緒的な認識は、対象把握をどんぶりで捉え、なにもかも曖昧模糊にする悪い癖、としてきた。その思考を否定し日本はアメリカの望んだ「民主主義と資本主義」をセットでなし遂げた。

★そして長いデフレの末にやってきた「天災と人災セットの東北大震災」。東北の人たちの「道徳感覚=清らかな情念」を描いたのが、「アテルイ3作」であっったと思うが。



(注)演歌を語るにはまだ肝心なところが抜けている。ペシミズムと叶えられないエロチシズム。
日本ではどうだった。フランスではではどうだった。情念にまつわる物語など次回は拾ってみたい。
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by kuritaro5431 | 2013-02-04 20:36
2013年 02月 02日

NHK時代劇の「火怨・北の英雄 アテルイ伝」を観終わって

 先にこの4回連続の時代劇の感想であるが成功しているとは思えなかった。

 この作品を作るにあたって「NHK番組のみどろ」というNHKのホームページのなかで「火怨・北の英雄 アテルイ伝」ドラマのみどころ、があるので、この作品に関心を持たれた方このホームページを一応読んでみてください。原作者・高橋克彦氏(以前にも紹介し、私も観劇した劇団さわらび座のミュージカル「北の燿星・アテルイ」の原作者でもあり、同じ原作であった。岩手県釜石市出身)、脚本・西岡琢也氏、演出・佐藤峰也氏からのメッセージをどうぞとある。
 ノンフィクション劇としては扱えず、時代劇(フィクション)として唱われ描かれている、資料に乏しく、日本史観や現代の政治に対する思いの違う視聴者にどうドラマ化して見せるか。難しさをつくづく感じた。

 そのホームページの製作意図として「~東北復興支援の一貫とし、大震災後、復興に向けて誇り高く生きている東北の人たち」という言葉が入っているが、主旨は同様でも、岩手県民の会で作られた「アニメーション・アテルイ」と「ミュージカル・アテルイ」と、「NHK時代劇アテルイとでは、同じ原作者なのにそれぞれ趣がかなりと言っていいほど違う。
「アニメーション・アテルイ」は震災前の製作で、震災・津波・原発被害のメッセージは当然のこと入っていない。だが県民の会製作とあるもその組織や活動は不明。
「ミュージカル・アテルイ」は震災前から上演されていた。
 この天災・人災(原発放射能被害)後製作されたのはNHKのアテルイのみである。

 この3作品は、どれも原発放射能被害については、触れることなく「東北復興支援のキャンペーンの一環として」このドラマの上映・上演が日本人の絆の証のように進められている。「花が咲く」キャンペーンと同質に。そのこと自体を非難しているのではない。東北の人たちでは、日本の歴史から疎外された「怨み」と「怒り」がこのたびさらに深く深く沈んでいったのではないかと思うのみである。

 しかし、私は軽い脳梗塞の後遺症からか、足がふらつきすぐ疲れることで、遠出できなくなっていた。仕事において現場感覚の把握がどれほど大切かを知った私にとって、一度も震災以後の東北にはいれなかったことはこの上なく悔しかった。
 かといって、体調もよく震災以降の東北にはいれていたとしても、東北は広い。ちょっとの取材気取りで、東北の人たちがこころを開いて語ったくれるとは到底思えない。蝦夷(まつらわぬ民・エミシ)という血の流れを隠し、定住していた弥生人と同化し混血化していった人も多かったことだろう。むしろ表向きはそれが主流であったろう。日本人は単一の農耕民族との声にもあえて反論せず、ひたむきに耐えていたのが東北の人。と私は思った。関心のおもむくまま本や資料を探り東北に思いを馳せる。それしかできなかった。
 瀬戸内寂聴さんは得度されて以来、東北とは深い縁の人となっておられた。その寂聴さんが平泉で法話されたおり「なんでもいいんですよ。自分のできることでこの東北を思ってくだされば……」と。その言葉に私は救われた。東北を思う気持ち=イマジネーションは、微力=マイナーでもパワーになると信じることにした。

 だから寂聴さんには、飛び入りの支援者には語らない本音を、東北の人は語ったのだと思う。受け取った寂聴さんは、作家として尼僧として、東北をまた日本人を愛する人間としての「裏作業の糧とした」していたと私は思う。「裏作業の心情や過程」を作品にする人もいるが
寂聴さんは、東北の人と共に「心の底に沈めておく」ことで、東北の人との真の「絆と連帯」を得た人と思う。

 もう1人の作家五木寛之氏も、ずっと以前から東北の人たちにこころを寄せていた。
 表の顔は、どこか厭世的な雰囲気を感じせ、演歌の作詞もやり、NHKラジオ深夜便では「わが人生の歌がたり」という長寿人気番組をやり、「親鸞」を書き、優しい風貌を漂わせている。一般的には軟派の作家とみられている。ところがどうしてどうしてとてつもない硬派の作家である。
 YAHOO!で「五木寛之」を検索すると、1頁の中央どころに[801夜『風の王国』五木寛之 松岡正剛の千夜千冊]が表示される。それをクリックすると、松岡正剛氏の『風の王国』の素晴らしい書評の全文が現れる。蝦夷・アテルイに関心のある方必見です。東北を舞台に書かれた小説ではありませんが、国家制定のために動いた権力側の人間と、その権力に支配され、後々まで心の深層で「怨みに燃えた人たち」。「動物と陸続きのアジア人・シナそして日本人」と見ていた欧州の理性中心主義が蔑視した「情念」。ペシミズムの向うの見えない世界でのレジスタンスの炎が今も。それが五木寛之氏が感じた演歌ではなかったか。と思えたりする。そんな裏作業をこつこつ気骨にやっていて、『遠野物語』では聞き書きできなかった声なき声や、古神道とつながる原日本共同体時代の匂いを残す各地の祭りなど拾い集めた作業がそれであったように思える。そのストックされた「情念」が、フィクションとしての小説『風の王国』に秘められたのだろう。そのことによって東北の人たちは被害に合うこともなくいられた。だから東北の人たちは五木寛之氏にこころを開いたと私は考える。

 私は3.11以降の情報収集の中で次のような情報も見聞きした。

 1つは、1988年(昭和63年)東京から首都機能移転問題がテレビで扱われ、その際、当時サントリーの社長だった佐治敬三氏(大阪商工会議所の会頭)が「仙台覇都などアホなことを考えている人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲(くまそ)の産地。文化的程度も極めて低い」と発言した。この発言は、特に東北地方で大きな反感をかった。熊襲とはご承知の通り、九州南部にいた反朝廷派勢力のこと。この発言で、企業メセナに熱心な企業としてのサントリーは、ブランドイメージを大きく失墜し、東北・北海道・九州から反サントリーの凄まじい騒動が起きた。その感情は澱のように長く残り、2004年(平成16年)の東北楽天のプロ野球参入時の宮城球場でのサントリービール扱い拒否にまで市民感情は膨れ上がり、サントリーはエントリーを断念した。

 2つ目は、民主党鳩山内閣の折り、岡田外務大臣の決定により、中国の習近平中華人民共和国副主席(当時)を「天皇特別会見」として実行した。当時幹事長だった小沢一郎氏の働きは大きかったといわれている。宮内庁長官をはじめ、各方面からの激しい非難があったが、小沢氏は乗り切った。識者から「岩手出身の人だから、朝廷について考えもちがうのだろう」といった人もいた。

 3つ目は、3.11の震災後しばらくして、雑誌『世界』の5月号に「ルポ・被災地を襲うギャンブル」「人災としてのギャンブル依存」の記事か出た。
 それは、日本国中で今一番パチンコ店出店の多い仙台。この時期なのに繁華街は煌々と明かりがつき賑わっていると。多くの被災者が「こんなに苦しいとき、息抜きするぐらいしかやることない」と、配られた義援金でパチンコをやっていると。パチンコは、風俗営業なので、許認可は警察となっている。
 ルポライターは、ギャンブル依存症は、スリルを楽しむ「アクション型」と、辛い現実からの「逃避型」に大別できるという。ギャンブルは逃避型と相性がいいと。辛さを紛らわすためためパチンコは自然なことだが、「連続逃避」の果てのギャンブル依存症の恐ろしさは麻薬と同じと語る。
 奈良・薬師寺が読売新聞社とやっている「まほろばの会」は、東北支援の義援金募集をし現地へ送金していたと、その会場で聞いた。だが、通常ルートで義援金を送ると、パチンコ資金にも流れていることを知り、その方法は止めたと。
 これもまた悲しいことだが現実であった。



 話を戻すと、3作品の主役アテルイの表情・イメージは「怨みの炎に燃える」とはほど遠く、柔和でおだやかな主役たちであった。ただミュージカルの案内チラシに使われたアテルイの[面・つら]は、東北のどこだったかの神社に保存されているという「まさに野蛮でまつろわぬ民の頭[悪路王]そのもの[面]であった。はじめの段階で紹介した久慈力著「大和朝廷を震撼させた 蝦夷エミシ・アテルイの戦い」の本の表紙にも、この[悪路王]の写真が装丁に使われていた。

 このような古代史から、現在の原発問題まで複雑で難しい問題の絡む材料をモチーフとして東北復興支援イベントに取り上げるのは大変な難しさがあると感じた。なかには一歩踏み込めばタブーと偏見、差別の世界に触れかねない。
 古代史に付いての見識のある人(その人たちもそれぞれの立場での見識であろう)、原発事故問題にしても(揺れる政局絡みの立場・大企業と小企業との立場の違い、欧米合理主義の立場、科学の限界を知る学者の立場、電力村・御用学者、テレビ局ごとの立場)、などなど多様で、「大和も蝦夷も同じ人間」という情緒的テーマでは到底カバーしきれない現実の生々しさを内包しているモチーフである。フイクション仕立ての興味本位の時代劇には重すぎるテーマと思えた。

 地震国日本において古代からの日本人が対処した自然との接し方、西欧的自然観でなく、厳しいが自然に生かされ、恵を受けているという日本人の自然観。現代に生きる東北の人にとって重要な精神性である。そのような人、そうでなく西洋的合理主義に染まり、日本経済や、生活のありようを先導してきた人もいる。
 今の政治は、長かったデフレ経済を、アベノミクスによって抜け出そうとしている。国民は期待している。成功への道は狭い限られた条件下でのことだが、その可能性にみんな賭けているところがある。
その反動として5%の選民が国民をあれこれ操作するような時代に向くことは健全とはいえない。

 これらの認識を前提としてドラマを作ってほしい。中途半端な歴史観でなく、フィクションであっても本流を示すこともできると思う。

 それは、五木寛之の『風の王国』は同種のカデゴリーに入る小説と思われるが、スゴイ作品とはいえ極めてマイノリティである。テレビドラマともなると、脚本担当の西岡琢也氏のいうようニューシネマの西部劇風のエンターテーメント性を持ちながら深読みする人には、それなりの見応えがあり、現代への警告なり提言があるといいのになどと思いながらながら、この時代劇を見終わった。

 一番気になったところは、3回目までの方向性と、4回目(最終回)の方向性があまりに違っていたところだった。
 4回目のシーンのいくつかに、「大和朝廷軍は途方もなく強い。勝てるはずがない」というような台詞が聞こえた。体制になびくことへの肯定のメッセージと聞こえた。
 アテルイが津軽の首領に、蝦夷の族を匿ってくれるよう頼むシーンがあるが、あれは高橋克彦氏が1992年~1994年に書いた「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」を題材にして書いた『炎立つ北の埋み火』他『炎立つシリーズ5部作』だろうと推察した。でもその誌の真偽は史料として認められていないようだ。


 私は3.11の関連課題として、上記の他、アテルイとモレが処刑されたという胆沢の野山を思わせる河内の地は探しようもなかったが、アテルイの首塚のある大阪の枚方公園を昨年訪ねた。公園内に盛り土された小山があり、太く茂った楠があった。その根元にアテルイの墓石があった。墓石まで質素な石段があり、登れるようになっていた。
 当日はアテルイ死後1200年祭が催され、大阪に住む岩手県民の会の皆さんやら、岩手県からきた役員の人たちも参加して、田村麻呂の末裔という石清水八幡宮の巫女が剣の舞を奉納した。その巫女は普段は石清水八幡宮にいるとのことだった。
 NHKの時代劇「アテルイ」では、話に出なかったが、他の2作ではアテルイと田村麻呂は幼な友達で、幼少の頃は蝦夷の里、胆沢の野山でともに遊んだ仲だった。田村麻呂が騙してアテルイとモレを京に連れてきたとはなっていない。田村麻呂は朝廷にアテルイの命を懇願した。ところが、虎をまた野に放すようなものと公家たちは許さず、処刑となった。田村麻呂はせめてもと胆沢の野山と似た河内の地を処刑場に選んだと。
「ミュージカル・アテルイ」では、処刑前に市中で晒し者にされ、処刑後は生首を市中に晒された。

 でも、岩手県の人たちは、田村麻呂を悪人扱いしていない。
 京都の清水寺は、平安覇都以前からあったお寺である。奈良の興福寺や薬師寺と同じ法相宗である。あの唯識のお寺であった。その清水寺創建のとき、田村麻呂は寄進している。その縁で昨年のアテルイ1200年忌に岩手県民の会の懇願で、境内にアテルイとモレの石碑が建てられた。また、田村麻呂は、今でも皇室との関係は良好な人物として、鎌倉期に隆盛していた東山の知恩院の北隣にある「青蓮院門跡」別名「粟田御所」の飛び地「将軍塚」に田村麻呂と陶像が埋められている。その高台から京都市内が一望できる。今、田村麻呂はどんな思いで奈良がら京に都が移された頃の京都を想っていることだろう。

 あれだけ大和朝廷に燃えるような怨みまで抱いたその征夷大将軍田村麻呂に、なぜ東北の人たちは親しみさえ感じるのか。そこにはアテルイと共に生きたかったことが叶えられなかったことを共有した悲しみがあったからだと私は思う。



 NHKの「アテルイ伝」では、「風の縄文Ⅱ 久遠の空──姫神」に収録されている「神々の詩」(縄文語で唱われている)と同じかと思えるほどの旋律が聴けた。それは喜多郎の「古事記」とも似ていて懐かしささえ感じるものであった。

          神々の詩   縄文語 崎山 理

  A-ba, naa-nga MAPO 私はなまえがマポです。

  A -ni, nono to, aya to, ine to, ye to 私に祖父(祖母).父.母.

  oto si bu-i-bu-mu 兄(姉)と弟(妹)がいます。


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by kuritaro5431 | 2013-02-02 12:33