哲学から演歌まで  

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2013年 01月 23日

亭主もつなら堅気をおもち……                                    

 あの反骨の炎の映画監督「大島渚が逝った」。
 私はテレビに映った小山明子の顔を見て、すぐ記憶に甦ったのはつぎの文句だった。

  亭主もつなら 堅気をおもち
  とかくやくざは 苦労の種よ

 この文句は、林芙美子の小説の一節とながいあいだ思い込んでいた。ところが本当は、昭和10年東映映画「旅笠道中」の主題歌の一節であったと知り、拍子抜けしたものの、女がやくざに憧れる心情の裏返しと思え、私の演歌の言葉のひと隅に入れていた。

 昭和30年頃だったか、コーリン・ウイルソン著の『アウトサイダー』という本がでて、安保闘争に挫折し、疲弊していた若者のこころをとらえたのがこの本だった。アウトサイダーの対意語としてインサイダーという言葉も流行った。インサイダーとは、体制に順応して、予定調和で平穏に生きることをモットーとした中央思考の人間たち。そんな[族]に変わっていった学生時代の友人たち。
 それに対しアウトサイダーとは、もう時代遅れになった既存の秩序や価値観を否定し、または破壊して新しい価値観や秩序を生み出したいとの志向の人とか人種を指していっていた。社会の本流(ここでは保守)に逆らうことが自分にとって損な生き方なのだが、やむにやまれず反体制的(反社会的とは違う)思考や行動を取っている人のことをいった。
 まさに世間からのはぐれ者、不定型な仕事で暮らしている人、職業でいえば作家や、映画監督や作詞家など、ウイルソンの唱えるアウトサイダーこそ当時若者の関心を惹いた「やくざ」であった。

 大島渚の訃報を伝えるテレビでの小山明子は、松竹を辞め独自の道を志す映像作家たちが稼ぎもない大島渚の家にたびたび集い「酒だ、飯だ」と叫ぶ。そんな当時の映像が流されるなかで「稼げるのは私ひとり。連日の撮影で疲れ切ってはいたが、酒を買い、若い男の胃袋を満たす手料理をつくった」でも苦労と感じたことはなかった、と。

 松竹時代の大島渚は「松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手」として1959年(昭和34)に『愛と希望の街』で映画監督にデビュー。社会性の強い作品を中心に、権力機構に虐げられる民衆に視線を向けた作品を多く手がけた。松竹を退社してからも大島渚は、イタリアのネオ・リアリズムを起源とするドキューメンタリー手法のながれを汲んだヌーヴェルヴァーグの映像作家として世界にも認められる映画監督となった。

 戦後第一世代の私たちにとって、映画は視覚から得る「知覚」の最たるもので、映画から得た刺激を無視して私たちの世代は語れないといえるほどのものである。
 私たちと同世代の読者には、釈迦に説法であるが、戦後のイタリア映画は、ロベルト・ロッセリーニ監督の1945年製作の『無防備都市』同監督1946年製作の『戦火のかなた』ヴィトリオ・デシーカ監督の1948年製作の『自転車泥棒』などの初期のネオ・リアリズムは、当時の社会の現実・民衆の姿を作り手の主観を交えず、生の映像でとらえ観客に示す。判断は観客に任す。映像に含まれた社会の現実を観て観客は考えるはず。これがドキューメンタリー映像の根本にあった。その精神を貫いたのが大島渚であったと私は思う。

 ニュース映画にしても、記録映画といわれるものであったも、たくさん撮られたフイルムから編集者によって選択されたシーンの映像が一つの作品に編集される。そこには作り手としての主張や主観は除きようはない。でもシーンごとの真実は生の映像のなかにある。例え、劇映画であっても、ドキューメンタリー映像の手法・技法のなかにその精神は生かされるはずと考えたのがイタリアのネオリアリズムであったと思う。
 そこでドキューメンタリーの手法をべースとして、撮る対象をその時代に生きた人間の内面にむけたり、政治とか権力とかも角度を変えて対象としようとした劇映画にも適用しようと模索した映像作家が多く現れた。これらの映像作家群の出現を「新しい波」「ヌーベルバーグ」と人々は呼んだ。思想的傾向とか、映像製作の技法の同一性などがあったわけではなかったが、時代を象徴する一つの現象として人々はそういったのだろう。映画会社の商業政策で勝手にヌーベルバーグ監督呼ばわりなどされ、随分迷惑した監督もいたようだ。

 恐らくそんな商業主義に束縛されるのがいやで大島渚は松竹を飛びだしたのだろう。
 当時の新鋭監督たちはみな、映画の興業資本と興行権と絡む五社協定。独立プロを目指すも制作費調達の現実。それに台頭してきていたテレビへの観客移動。映像作家の苦悶の時代だった。

 その後の大島渚は、本来のドキューメンタリー精神を忘れず、テレビにその活躍の場を移し、たまには劇映画も撮り、いつかの『朝まで生テレビ』の番組で、「俺は怒ることを忘れた日本人に怒っているんだ」といったことが忘れられない。

 それこそ、大島渚が死ぬまでやくざだった証拠だったのだと。
 訃報のテレビ番組での小山明子の悔いのない顔が忘れられない。
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by kuritaro5431 | 2013-01-23 13:16
2013年 01月 17日

「ペンデング・タグ」があまりにも溜まった(2) 〔ヘーゲルのいう「無」〕

●「共通善」

 私はこのブログを通して「共通善」なるものを探していたような気がする。
 どこの国でも、性別年齢を問わず、人間だれしも持っている「輝くように生きたい」と深層で思っている因子のようなもの。
 あのサンデル教授も先日この言葉をある記事で使っていた。しかし「善」の定義らしいことはの語られていなかった。

 私のイメージしている「善」とは、勧善懲悪に含まれるような善ではなく、悪とも対等に戦える「パワー」を持った善。一神教をイメージする「絶対善」ではなく、悪の因子も内包した「相対的善」である。善の因子に実態があるかないか分からない。刹那に変化・流転している「気」のようなものを想像している。その人の心と身体を統合している命の「根源体」とか「核」のようなもの。
 以前このブログに書いた唯識佛教の心の構造の深層の心にあった「阿羅椰識」がフィリングとして非常に近かった。出逢いの動機は、40年も前になるか、NHK教育テレビで、フロイトの心の構造と、唯識のいう心の構造とがよく似ているとのことからであった。その説には幾多の見解があり、以前触れたのでここでは割愛する。

 その前に関心を持っていたA.H.マズローの『人間性の心理学───モチベーションとパーソナリティ』が下敷きになっていたことは事実であった。バブル景気崩壊前の「働く日本人」にはいたって有効であった。しかし、あのバブル崩壊後、3.4年でガラガラっと変わり、能動性のない日本人が増えるようになった。
 そこで私流(我流)のトランスファでありコラボレーションを思いつき、パーソナル・アイデンティテイの根本に阿羅椰識を置いた。そこを起点として自分にとってかけがえのない命の綱と外界を繋ぐ継ぎ手として「自己モチベーション」という概念を持ち込んだ。この考えには「自我」という厄介なものをどう扱うかという難問はあったが、まあ比較的取っつきやすいキーワードと考えた。仕事に取り組む姿勢にしても、キャリヤ形成にしても、前向きで積極的であれば、多様なイマジネーションが湧き、問題解決力もつき、経済成長の源といえるイノベーションにも役立てる。内的にも外的にも主体性のある自己形成ができる。よって狙う中間所得層への近道となる、と考えた。

 これを「汎用性のある共通善」とした仮説でこのブログを書き、発信した。
 今日現在のこのブログの読者数は、1.701名で実にマイナーである。ほとんどは毎回の「記事ランキング」から伺えるような若者が中心と推測。現在の政治とか社会システム、さらには自分のありようになんらかの矛盾を感じている層、[族]とみている。その読者においても必ずしも「共通善」という概念で串刺しにてぎる存在ではないと考えるようになった。 


●「共通善」なんてなさそう。そう思うようになった。

 私は「幼形成起熟」Neoteny(幼児の感覚で大人になっている異常者)の一種なのか?

 先のブログ『世界を五つの社会類型で観る』の本にも書かれているように、同じアジア圏で、しかも古代から交流のあった中国においても、コミュニケーション・ギャップは決定的なところで起こったりする。同じ漢字を使っても意味が全然逆だったり、対人関係、国交関係で謝れば、謝った方が賠償責任を持つ習わしとか、言語や態度という生活習慣の違いから自尊心まで傷つけることがある。と日中の民間交流の専門家はいう。
 これはいつも聞く、NHKラジオ深夜便「明日へのことば」でのその専門家の話だったが、日本人が書面で書く「手紙」という言葉は、中国では、「トイレットペーパー」のこことか。(聞き書きなので間違っているかも)。日本人と中国人が同席する席で、日本人が中国人に先に薦めることをせずタバコを吸いはじめたとする、中国人は馬鹿にされたと憤慨する。また、日本に滞在することになった中国人が、引っ越ししてきた挨拶に、土産をもって隣近所に挨拶に行った。するとどの日本人も、返礼の品を持って「こちらもよろしく」といってきたという。この行為は中国では、あなたとはお付き合いできませんという意志表示という習慣があり、その中国人はショックでしばらく落ち込んだとか。これぐらい[民族]かと[所属する・族]によってコミュニケーション・ギャップとか、勘違いが生まれるもの。それは当たり前のこと、だから「共通善」なるものは存在しない。ということがいわれる説が成立するようである。
 だから英語を世界共通言語にして、言葉のニュアンス違いからくるギャップを縮めようということも理解できなくもない。反面、言葉は国家統一の重要な因子なので、征服者が被征服者を徹底支配するため、征服者側の言語に強要統一した例は歴史に多くある。

 国内においても、価値観の多様化とかいうレペルを越えたところまで、さまざまなギヤップは複雑化し「格差」「差別」の要因となっている。それらの現代人の苦悩は、「哲学的アプローチ」であったり、「宗教的アプローチ」であったり、「心理学的アプローチ」であったり、また「医学的阿ブローチ」てあったり、で解決・改善の試みがなされている。
 また、政治や社会システムとは関係のない音楽や舞踊など言語とは別の文化領域で、国境・民族間の壁を越えて共感・共鳴のコミュニケーションも「善的」成果を挙げていることも事実である。日本における「明日がある」運動も、その典型かといえる。



●「東洋的無という観念の出所は近代西欧にあり」ヘーゲル(1770~1831)

 ずっと以前から気になっていたこの言葉がこの際浮き立った。
 1998年に購入した、鷲田小彌太著『哲学詞華集』のなかに載っていたヘーゲルのことばである。
 見開き1頁の短い文章なので、そのまま引用し、前述にまつわること、『世界を五つの社会類型で観る』の本にも書かれていたちこと、今外交問題になっている中国との関係、世界で最も旧いといわれる国家シナのこと、など考えを巡らしてみたい。

 (以下掲載文のまま)

 東洋的世界の原理は、共同体精神が権威として現れることにある。個人の気ままな振る舞いは、東洋においてはじめて権威のもとに抑制される。共同の観念は法律の形にあらわれる。しかし、主観の意志にとって法律は外から支配力をふるう権力であって、心情、良心、形式的自由といった内面的なものすべてが今だ存在しない。(「歴史哲学講義」) 注❶


 近代哲学は、紛れもなく西欧中心主義である。歴史も哲学も、中心がどんどん西に移動した。ギリシャ、ローマ、パリ、ロンドン、ベルリン。しかし、なにものも無から生まれない。歴史でもご同様。ギリシャの先はペルシャであり、その先はインド、そしてどん詰まりがシナと考えられていた。
 しかし、現実の文明史は、ペルシャ・エジプトから始まって、東西に分化し、イギリスからアメリカへという西回り路と、シナから日本へという東まわり路が交わって、世界が一つになった。
 西欧にとって東洋は遠い。そのどん詰まりは、さそらに遠い。シナの歴史、東洋的世界、アジア的共同社会は、個人が完全に共同体に埋没してしまった世界、非主体的世界である、という通念が成立した。日本人が抱いているアジア的な性格などは、西欧近代が植え付けた産物ではないか、と疑ってみる理由はある。
 ヘーゲルは、シナとともに歴史が始まる。歴史が伝えるところ、シナは最古の国家である。その国家原理が共同体であり、共同体と主体が無差別に融合している世界だという。つまり、ヘーゲルは、シナをいまだ人間の自我意識が発生しない無意識の世界、動物と陸続きの世界だ、といっているのだ。そして案外、シナ=日本=アジア的のヘーゲル的定義を、私たちは心地よく感じているのかもしれない。注❷


*ヘーゲル哲学の特徴は、「歴史」と「現実」が厚みをもって語られているところにある。いうまでもないが、マルクスの歴史観や現実意識の大半は、ヘーゲルからえた、といっていい。注❸

 (以上が掲載されている全文である)


 注❶「歴史哲学講義」に書かれたものを著者が要約したものと思われる。
「歴史哲学講義」とは、ヘーゲル死後、後世のヘーゲル研究者が、ヘーゲルの講義録をまとめたもの。日本では、ヘーゲル著・長谷川宏訳「歴史哲学講義」上下・初版1994年・岩波文庫あり。

 注❷❸著者の内容紹介



 私の感想

ⓐ『世界を五つの社会類型で観る』を読んだとき、神父の著者がフランスで修行中、同僚の研究者神父に日本人にも理性を通して自己の内面を洞察し、自己アイデンティティをもとうとする者が増えている。と何人かにいったが、だれひとり理解してくれる者はいなかった。欧米人以外そのような理性的思考のできる者がいるはずがないと、いわれたと。
 その言葉以上に、今回改めて読んでみて、2.3日眠れないほどのショックを受けた。

ⓑ❷の後段で「~いまだ人間の自我意識が発生しない無意識の世界、動物と陸続きの世界~」をシナといい、「シナ=日本=アジア的のヘーゲル的定義」であった。これほど露骨な蔑視があろうか、と。

ⓒ西欧で「自我の確立」がなされたのは、ルネサンス(14~16世紀)ではなかったのか。それ以降を西欧基準で「近代」と名付けたのでは。

ⓓさらに、❷の最後で「(そのことを)私たち(日本人)は、心地よく感じているのかも知れない。」と。ぐさっと鋭利な刃が刺さる思い。
 まさに「無意識の動物と陸続きの世界」。言い換えると「森羅万象の自然と一体で暮らしていた縄文の時代の尾てい骨を残して暮らしていたアテルイそのもの」。テレビ「アテルイ伝」で描かれた原始共同体の「絆」は、確かに理性ではなく「情による連帯」であったのかも知れない。個人の気ままな振る舞いは許されない共同精神は権威となり、掟であっただろう。
 なのに、「アテルイ伝」のもつ原始共同体的なものに日本人は無意識に心地よいノスタルジーを感じているのかも知れない。

ⓔ確かに、日本は戦後の経済成長で、欧米の近代合理主義(民主主義と資本主義セットの)を学ぶことによって経済的・物的豊かさを得た。ところが西欧といわれるEU諸国も、アメリカも、世界を今後もリードするパワーを継続できなくなってきた。世界をリードし、モデルたり得た欧米思想が、これからの世界のモデルたり得なくなった。
 その根本には西欧では近代以降、自然も、経済も、人間の働く成果も、人間の理性→知→合理性(科学も含む)→なにごともコントロールできるという思想が主流となり、今も主流として生きているところにあると思う。

ⓕさまざまなギャップや格差は、矛盾をはらみ・対立し、新しい社会や人間の生き方の枠組みを変えていくだろう。その選択肢の一つに、西欧に蔑視された感性を内包するクールジャパンがある。

ⓖ政治においても、経済においても、社会と個人の関係においても、行き詰まれば変革のエネルギーが起こる。回帰ではなく、過去の遺産・伝統を取り込み脱皮するもの。
 過去の権益を固守したい人、「新しい酒は、新しい革袋に」という諺のように、人間の営みのベースとなるプラットホームを変えてゆく人、そのパワーバランスが問われているのか゜今だ。

ⓗ「共通善」という概念は、もてないかも知れないが、私がこのブログにとりあげた「加藤登紀子のこよなき健全性」の記事(「こよなき健全性」という言葉)は息長く多くの人の賛同を得たようだった。  
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by kuritaro5431 | 2013-01-17 14:09
2013年 01月 14日

「ペンデング・タグ」があまりにも溜まったもので (1)

 前号のブログは、11月29日に書いていて、その後筆が止まってしまっていた。
「蝦夷の英雄アテルイ」のつづきを書こうとしていたものの、12月以降割り込んできた「のっぴきならない多くのペンデングタグ」に攪乱され、扱い記事のプライオリティを見失っていたのが実情。

 このブログをはじめた2009年4月12日の「はじめに」の記事で、
「このブログでは、時系列とか、シーケンシャルとか、連続性に拘らず、その時「今の」関心事をランダムに取り上げるアドリブ的なものを良しとする」と書いてスタートした。

 としたものの、今、世界的に起こっている「金融資本主義の危機」を取り上げたり「アベノミクス」を取り上げたりして、また「アテルイ」の記事に戻るということは、なんぼなんでも取れなかったので、筆が止まっていた次第である。

 そこで今、私の頭の中で錯乱している関心事をここで一度「ご破算」にしてプライオリティを付けなおす以外ないと思い、今は「のっぴきならない今の私のペンデイングタグの主たるものを一旦吐きだす(ここに列挙して)ことにした。


① NHKBSプレミアム1月11日(金)に、『JINー仁』などで話題の俳優大沢たかおが『アテルイ伝』という3回連続のテレビドラマに出るということを知り、岩手県民の会製作の長編アニメーション『アテルイ』と、劇団わらび座のミュージカル『北の燿星アテルイ』の3本はどうしても比較しておきたかった。

 ミュジカルの『アテルイ』と、今回のテレビとラマの「アテルイ伝」の原作は、同じ高橋克彦であった。
 今日現在第一回目の上映が終わったところで、全体の比較は今はできない。3回観終わってからではブログの間が飛びすぎる。仕方ないが、第一回目の作品をベースとしての比較となる。

 比較したいポイントは、元(ゲン)日本人系(縄文系の血をつないでいる)の蝦夷(エミシ)が豊かな自然と調和して暮らしていたところを、奈良時代から平安時代にかけて大和朝廷が東北も支配したい野心をもち、、その覇権欲をどのようにとらえ描いていたかが観たかった。
 そのとらえ方は史実がないと理由から、また政治的配慮から多様な説の中に埋もれていた。現在放送業界では一番体制側にいる保守のNHKがどうプロデュースするかが一番の関心事であった。
 このテーマについては大和朝廷の話題にあまり触れず、ドラマ仕立てにされているのが前2作からみてもそうなるだろうと予測していた。
 ところかである。今のところの3作比較では、大和朝廷と蝦夷を鉢合わせさせるるシーンでは、野蛮な民であり農奴扱いされる蝦夷を撮り、大和朝廷側を否定的扱いで撮っている。

 深読みのせかい、原作の意図を汲んでか、特定の支配層の理不尽な覇権(国であれ、政党であれ、階層・階級であれ)の流れへの批判は秘められていたと観た。

 今年は古事記編纂1300年イベントが奈良で行われるようだ。これとの関係も注視したい。天皇制を否定する者ではないが。


②スクリューフレーションの予言
 2012年7月26日の「今この時点での私の[ペンデン・グタグ]」の記事のなかで「中間層の貧困化(screwing)とインフレーション(Inflation)を組み合わせた造語で、中間層の貧困化とインフレーションが同時に発生する状態を指す。すでに米国では、食料・エネルギー価額の高騰で中流家庭が貧困家庭に陥っており、日本でも起きつつある。
 今後、どのような政策をとれば中間層の貧困化を食い止められるか。いわゆるアメリカで騒がれている1:9現象。中間所得層なしで、1割の富裕層と9割の貧困層になっていること。
 このことについて論じていたのが第一生命保険経済研究所主席エコノミスト長濱利廣著『日本から中流家庭が消える日────スクリューフレーションショック』であった。。出版されたのが2012.7.30。たった5ケ月でこの問題の深刻さは、金融問題として世界を駆け巡った。

 アメリカの共和党の理念→政策と、民主党理念・政策の違い。富裕層を基盤とする共和党の利権が絡む政策の違いは大きい。大統領選挙での選挙資金上限規制。前回の大統領選挙と違い、互いが罵り合った選挙戦。巨額な選挙資金の大半はテレビの放映料に使われた。

 アメリカのなかにおいても、2012.10.25のブログに書いた『世界を五つの社会類型で観る』にかかる価値観の問題でもあり、また、キリスト教におけるカトリックとプロテスタントの違いも絡んでいるように思える。キリスト教における絶対神と深く関与しているように見える富の獲得と配分の倫理。支配する者と支配される者の統治(ガバナンス)の絶対性。
 日本においても古くからからあった「選民による支配」と「統治」。しかし両者共に一神教のような絶対神信仰ではなく、八百万の神がおわす森羅万象にすべての命が生かされているという共同体的関係性。自然は、脅威ではあるが生きとし生けるものに恵を与えてくれる対象であるという心は薄れたとはいえ日本人の深層に生きている。
 西欧の絶対神における自然は、人間のために富を与える対象であり、人間の幸せのために征服すべき対象である。征服すべき対象が神秘的なものであっても人間の「知」(広義の合理性)によってコントロールできるものとの考えが、神において保証されているとの信仰心が強固なのだろう。経済学においても、経営学においても、対象が例え曖昧であってもコントロールできるものとの前提で、資本主義経済は成立しており、それとセットの民主主義をもってアメリカ・モデルの「正義」があり、グロバル・スタンダードが築かれてきた。
 日本もその「知の合理性」の恩恵を受け奇跡的ともいえる経済成長を遂げた。その代償としてかなり欧米的選民主義に染まったことは否めない。
「選民主義」は、貧富の格差のみでなく、「官僚と民衆の格差」「企業の所得格差が企業間格差」「経営者の社会的使命感のあるなしの格差」「学閥による格差」「国立トップクラスの大学でも学部による格差」「博士課程大学院生でも高級ノマドのままでいる自立しない男の悲哀と格差」「日本トップの大学とアメリカトップの大学との格差」「日本のみでなくアメリカにおいても博士号を持ちながらも非正規雇用の現実」「中央と地方の格差」「田舎者とねっからの都会人との格差」「ポジ組ネガ組の格差」「実学を軽蔑しパラサイトシングルでいつまても幸せでおれると思っている負け組と、勝ち組者との格差」などなど数え切れない「格差」を生んだ。格差は「差別」を生んだ。それが資本主義社会の成熟であり、ものの生産による富でなく、金融のマネーゲームによる富の獲得へとなった。
 その流れがスクリュウフレーションを発生しているとのエコノミストも多い。


③公益資本主義
 2012年11月1日、B Sプライムニュースで原丈人(はら じょうじ)氏(主に情報通信技術分野でベンチャー企業の育成と経営に携わり、シリコンバレーを代表するベンチャーキャピタリストの一人。アメリカおよび日本の政府にも積極的提言)からこの種の話をはじめて聞いた。そしてそのとき氏の著書『21世紀の国富論』が紹介された。私は番組終了後、その足で書店に飛んだ。
 実は、2008年8月17日同テレビでこの話は放映され大きな反響を得ていたことを知った。この本の初版は平凡社から2007年6月20日にでており、すでに重版されていた。
 
 前述のスクリューフレーションの根本問題にも関係する「健全な資本主義のありかたを示唆する」ものとして強い興味をそそられた。さらに、今年に入ってPHP研究所発行の雑誌「Voice」2月号に、原丈人氏が同テーマで「日本初、新しい中長期投資の仕組み」の論文を載せている。

 興味のある方は氏の著書『21世紀の国富論』読んでもらうとして、ここでは私が強く惹かれたところを要約して紹介させてもらうことにする。ここで取り上げられた金融資本主義のモデルはアメリカのものである。

㋐会社は株主のものである。(これが大前提となっている)
㋑株主は1株当たりの純利益率を高めることを絶対視する。金融によるマネーゲーム利益を求めて。
  ROE(株主資本利益率)=利益/株主資本(資産ー負債)×100(%)
㋒CEOとは、株主のために奉仕し、その結果によって成果報酬を得る者。
㋓株主は効率的に利益を得るため短期的利益を求める。マネーゲームの必然。CEOは、自分の任期中という短期間に、株主に利益を与えないと更迭されたり、報酬が下げられる。
㋔CEOは、本来の企業の社会的使命としての長期的投資をともなう(長期継続的活動を通して、社会的貢献の大きい価値創造)製品やサービスの開発より、株主が喜ぶ1株当たりの短期利益をいかに最大にするかに努力することになっている。
㋕アメリカでは、1936年~80年代はじめまで、CEOの報酬は上位50社で、約1ミリオンドルで推移していた。ところが80年代半ばから急速に上昇し、08年のリーマンショック直前には、14ミリオンドル(1ドル100円として)14億円となった。
㋖それに比べ、30歳男子従業員の平均年収は、12%落ち、CEOの報酬ばかり上がる不思議な現象が起きている。それがアメリカの1:9現象の原因である。アメリカ経営陣の報酬と、従業員との所得格差は、現在600倍。日本は現在10~15倍。
㋗ということで、主たる株主たる機関投資家(大口のプロの投資家・だぶついた資金を運用で利益を上げる投資家)と、CEOの利益が同調している。 

 私は思う。日本の国民は、会社は株主のものというより、「社員のもの」「得意先」「仕入れ先」「応援してくれているみんなのもの」という意識はまだまだ残っている。でもグローバル・スタンダード=アメリカ型資本主義(上記のような価値観を持った)に段々近づいている気がしてならない。本来GNPが成長すれば時差はあっても賃金は上がるものというのが経済学では常識であった。それがここ20年の日本のように横ばい、または下落ということはなかった。20年の間にGNPが高度に伸びたときもあったのに。
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by kuritaro5431 | 2013-01-14 14:05