哲学から演歌まで  

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2012年 11月 29日

蝦夷(エミシ)の英雄アテルイ  (その2)

 前号(その1)よりのつづきです。前号よりお読みください。


 私は2012年2月18日「劇団わらび座」によるミュージカル『北の燿星 アテルイ』を「東日本大震災復興支援公演」としての京都公演で見た。バンブレットによると、その時点ですでにロングラン公演もやられており、初演は2001年8月となっていた。

 つぎに挙げる文は、そのパンフレットに載っていたものである。

 この原作者コメント/高橋克彦は、「愛こそ世界を……」

 なぜ人間は限りない欲望を抱くのだろう。なぜおなじ人間の命を奪えるのだろう。なぜ相手の心を分かろうとしないのだろう。これは千二百年以上も前からそうだったし、今も変わらない。私にそういうやり切れない世界を変える力などないが、アテルイを描いたことで少なくとも人としての役割を果たせたような気がしている。自分に成し遂げられなくても警鐘を鳴らした。そしてそれを受け継いでくれたのがわらび座だ。これは決して東北の過去の苦難の物語ではない。小説と違ってわらび座の若者たちが演じてくれたことにより、アテルイやその仲間たちが今に甦り、現代と対面しいてる。アテルイたちの怒りや悲しみは今の世界に対するものでもあるのだ。それを私は逆に舞台で観て気付かされた。いつまでも変わらぬものはただ一つ「愛」だけにして欲しい。

 (原作『火怨───北の燿星アテルイ』吉川英治文学賞受賞作品)

 あらすじ────

 黄金を求める大和朝廷は蝦夷(えみし)を「まつろわぬ民」として征圧を企てる。度重なる侵略に、蝦夷は人間の誇りをかけて立ち上がった。その若きリーダーがアテルイだった。
 大和軍との激しいたたかいが続く。アテルイは今は征夷大将軍となった幼なじみの田村麻呂と岩手山の麓で一騎打ちの場面を迎える。ふとよみがえる遠い記憶。愛瀰詩。エミシとは母の愛のような広々とした大河の詩を意味すると語り合った日を。
 蝦夷の慟哭のような岩手山大噴火。敗走する仲間たち。その姿に、アテルイは決断する───。

 阿弖流為(アテルイ)とは────

 8世紀から9世紀にかけて、現在の岩手県胆沢地方に実在した人物。胆沢は蝦夷の中でも「水陸万頃の地」と呼ばれ、広大な平地が満々と水をたたえた北上川が流れ、水田と耕地が広がっている。そんな肥沃な土地であるがゆえ大和朝廷は再三にわたり戦いを仕掛けていた。丹沢の豊かな暮らしと文化を守るためにアテルイは首長として多くの村落をまとめ朝廷軍と戦う。

 坂上田村麻呂とは────

 758年誕生。平安朝初期、「征夷大将軍」に任命され、蝦夷の英雄アテルイと戦った知勇の武将。先祖は朝鮮半島から渡来した東漢氏(やまとのあやうじ)。田村麻呂が発願して建てられた清水寺(京都)では、処刑されたアテルイをはじめ、朝廷軍・蝦夷軍の分け隔てなく、戦いで亡くなった人々の供養がされている。811年死去。

(この続きの原稿が、読者の皆さんに失礼と思いながら途中止まりになってっていました)


 アニメーションの「アテルイ」と、このミュージカルの「アテルイ」の違い────(ブログ筆者)

 アニメーションでは、先に述べたように田村麻呂とアテルイとモレが連れ立って京へ向かって旅立つところで終わっているが、ミュージカルではアテルイとモレの免罪を田村麻呂が朝廷側に嘆願するも聞き入れられず処刑され、二人の首が京の町に晒されるところまでのストーリーとなっていた。ミュージカル仕立てなのにずっとリアリティのあるものになっていた。

 後日談─────(ブログ筆者)

 田村麻呂は、京都清水寺創建(平安京以前)のとき寄進しており、アテルイ斬首1200年を記念して「アテルイを顕彰する会」の運動によって清水寺境内に「北の英雄アテルイとモレの碑」が建てられている。
 また、枚方公園内に「アテルイの首塚」があり、今年の夏、岩手県の「アテルイを顕彰する会」の人たちも主席して記念式典が催された。そのとき田村麻呂の末裔に当たる石清水八幡宮の巫女が剣の舞を奉納した。




 今日は12月31日。この記事を書きはじめた11月29日から1ケ月以上も過ぎました。書けなかったのです。
その理由は、11.29以降の政局の激変で、毎日のっぴきならない問題が続発し、3.11以降私なりにいろいろ調べた資料から、どうしても書きたかった[東北と蝦夷→そしてアテルイ]であったのですが、それ以上に緊急の今日的問題を置き去りにして書いていいものか? との自問自答が重く重く私にのし掛かり今日まで書き渋っていた空白の時間になっていたのでした。

 ・民主党の党内ガバナンスの弱さの決定的露呈→党員も準備不足の野田総理の解散宣言→選挙で惨敗
 ・「決められない政治の反動」と「期待政党なし→だが景気高揚を少しは期待して自民党」
 ・小選挙区の自民対民主の得票率 43%対27%。議席数237対27の矛盾。
 ・自民は決して国民の支持を得ていないといいながら、一方であれだけの国民の支持を得たのだからという
 ・自民は速効の景気回復、日銀券増刷で2%ターゲットインフレへと。金融論からしても非常に難易度の高   い政策。運用できる人材いるのか。GDPの成長と賃金が比例しなくなったのではなかったのか。
 ・旧い官僚組織、昔のリーデング企業の枠組みへの未練。
 ・使用済み核燃料の処理技術も未開発。それでいて原子力規制委員会の判断を越えアベノミクスは再稼働  もありきと。
 ・不安材料拡大か。

 でも、NHKの解説委員全員による討論会が深夜のテレビ番組であった。識者・若者別ではあったが「さまざまな格差」是正へのアプローチのそれそれの見解の番組もNHKであつた。田原総一郎の上記に類する番組もあり、ナイーブ過ぎると思える若者のなかにも元気のいい人たちも現れはじめているように見えだしたと私は感じている。



 ところで「蝦夷とアテルイ」のことについて書きたかったことは、今年最後のことでもあるのでおおよそのことを書きとめておくことにしたい。
 前号、前々号にも書いたように、蝦夷のことについても、縄文人の系譜についても確たる資料は残っていない。後、主流となっていった弥生人に同化したり、混血となっていったり、またひっそりと人知れず不定住(まさにノマド)を貫き生きていたり、幾つもの支流となって変容していったと思われる。
 そこには定住系の安定した弥生人より、豊かな自然の恵に生かされた元日本人系の平和だった営みをイリュージョンとして思わずにはいられない。それは梅原日本学とか、五木寛之著「風の王国」のなかで昇華されてきたものでもある。とはいえ蝦夷の血を引く人たちは1200年前の深層に沈殿させ忘れることなく暮らしていると思われる。それは歴史のなかの為政者に国家統一のために滅ぼされた悲しみの記憶であろう。
 梅原猛先生は、著書『日本の深層』の序章で、「出稼ぎの多いのはひとり東北に限ったことではない。北陸も九州も出稼ぎが多いが、故郷の歌といえば東北の歌である。(中略)」東北は、雪と貧しさに悩まされた、ずうずう弁を使う人間が、忍耐強く住む国なのである。」と。
 だから東北の人たちは、悲しみを沈めて演歌、縁歌、怨歌を唄い、原始共同体のようなパワーのある祭りを好みどこか覚悟を持って生きている。

 東北について書きたいことが一杯できたが。気になることが多い来年になりそうである。
 

 
 
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by kuritaro5431 | 2012-11-29 19:00
2012年 11月 27日

蝦夷(エミシ)の英雄アテルイ  (その1)

『日本の深層』のなかでも、大和朝廷に服従しなかった蝦夷(東北ではエミシ)(縄文人の血を色濃くついでいる原日本人系の[族])をまつわらぬ民と捉えられている。大和朝廷による蝦夷征伐にまつわる「蝦夷の英雄アテルイ」についてはそれほど触れられていない。この本では、東北にいた蝦夷(エミシ)と、北海道にいた蝦夷(北海道ではエゾと読む)は、歴史学者・人類学者・言語学者・民俗学者の間では北方からきた別人種とみなされていた。それに対し、梅原日本学においては、言語学的見地からみても同一人種とする説に大きなエネルギーが注がれている。
 私もそこに原日本人としての縄文魂の深層があることに強い関心をもっていたものの、東北の地で大和朝廷軍と戦った蝦夷の英雄アテルイにまつわる実話か伝説かないまぜの物語に強い関心を寄せた。

 これ以降のこのブログ原稿は、梅原日本学をバックボーンにしながら、私が漁った資料・情報(あえてここではそうしておく)からの推測・憶測であったり、仮設であったりするものである。

 歴史学(ここでは特に日本古代史)においては、発見された資料(書き物や発見された物)に基づく実証性の積み重ねが歴史学の論拠であり、想像とか文学的推測は、特に嫌われる世界であることも、今まで以上に強く認識するにいたった。
 特に記紀以前の歴史的資料は実証性に乏しく、文学的推測の域をでないものとされている。言い換えれば弥生期以降の資料などは歴史資料として使えても、それ以前の縄文期1万2千年の資料は確証性が乏しいとされてきた日本史があるようだ。縄文後期から弥生時代にかけて、原日本人系の生き方を色濃く残したエミシと、その後弥生人と交じり合って定住型の生活に移行していった縄文人は曖昧となり、日本正史から薄れ、やがて大和朝廷により抹消されたとも考えられる。


 私は、3.11後間もない時、ひょんなことから久慈力著『蝦夷・アテルイの戦い』を読んだ。

 その本の冒頭の、「エミシの英雄、アテルイ謀殺から1200年」小見出しの中の文に、次のようなものがあった。

 今年、2002年は、大和朝廷による侵略と戦ったエミシの族長アテルイと、モレが斬首されてから1200年になる。このためアテルイを顕彰する長編アニメーション映画「アテルイ」(製作・「アテルイ」製作上映運動推進岩手県民の会)の上映、アテルイ没後1200年記念企画展「甦れアテルイ」(主催・アテルイを顕彰する会)など、岩手県を中心にさまざまな記念行事が予定されている。

 とあった。

 この本の初版は、2002年7月10日であることから、2011年3月11日に発生した東日本大震災の9年前に発行されていたことになる。
 また、長編アニメーション「アテルイ」のDVDがあることを確認し、すぐさま取り寄せたDVDとともに送られてきた案内パンフレットに記された日付けが2001年6月29日となっているところからしても、当然東日本大震災前ということになる。

 この物語は、震災後ミュージカルや小説でかなり有名になり、ご存じの方も多いと思うが、映画およびミュージカルに添えられていたパンブレットから、あらすじなど紹介することにしたい。

 DVD「アテルイ」のパンフレットより、

 日本の歴史上はじめて、私たち国民が「主権者」として迎えた21世紀。わたしたちはこの21世紀をどのような社会に創り上げることができるのでしょうか。この21世紀初頭にあたって子どもたちに、どのようなメッセージを贈ることができるのでしょうか。
 最近の子供たちを巡るさまざまなできことに、すべての県民がこころを痛めています。こうした子供たちの心の叫びを、私たち大人が全身全霊を注いで受け止めることが今こそ求められているのではないでしょうか。子どもたちの多くは、今、孤立し、さまよい、諦めや人間不信を募らせ、他者とのつながりと自分のしっかりした存在(居場所)を求めています。先生・友達・家族との気持ちを通わすつながりや絆を、真剣に求めているのでしょう。

 私たちは今こそ、21世紀の主人公としての子どもたちが、グローバル化した激動の時代を力強く、誇り高く、健全に生きていけるのかを考えなければなりません。特に岩手のように、社会的、経済的に必ずしも恵まれなかったというという地域性を考えると、子どもたちがもっと誇りと勇気をもった生き方ができるようなメッセージが、今こそ必要ではないでしょうか。

『自分の生まれ育った地域(ふるさと)を好きになり、誇りにおもえる子どもたち』
『自然や歴史・伝統とすすんでかかわり、岩手の地に生まれ育った自分に誇りを持てる子どもたち』『人間にとって自然の営みを大切にし、農業をはじめ自然にはたらきかけることによる「知恵」がいかに大切かを知り、「知識」だけでない「知恵」の豊かな子どもたち』。21世紀を素晴らしい社会に築くために、多くの子どもたちがこのように育つために、私たちはこのアニメーション映画「アテルイ」の製作上映運動を企画しました。

 2002年は「アテルイ没後1200年」「胆沢城築城1200年」の記念すべき年になります。
 7~8世紀、古代東北に暮らす「蝦夷」の人々は、遠く縄文の昔から受け継いだ自然界と心通わせながら、お互いのつながりや絆を大切に豊かな精神生活を謳歌していました。四季折々、ときには厳しい自然の猛威をふるいながらも、人々のために沢山の恵をもたらした豊穣の北の大地。争いを好まず、遠く大陸の異民族にさえ心を開きながら展開された交易の数々、「蝦夷」の先人たちは豊かで平和な暮らしを力を合わせて創り上げていたのでした。

 しかし7世紀中頃、大化の改新によって成立した新しい政権は、それまで大和朝廷の直接支配でなかった「蝦夷」の地を支配する政策をとり、侵略しはじめました。古代東北の人々は「まつろわぬ人」・「俘囚」・「蝦夷」とさげすまれ、「征夷大将軍」の名が示すように「征伐」の対象となり、10数年にわたって何万人もの朝廷軍と戦わざるを得ない状況に陥りました。豊かな自然に恵まれた北の大地、祖先代々、汗と涙で切り開いた農地を、親や子どもたち・同朋をいわれなき侵略から守るために、敢然と戦いを挑んだ蝦夷の勇者たち、789年(延歴8年)5万人を越える朝廷軍を打ち破った蝦夷の族長・アテルイ(阿弖流為)とその勇者たちは、何のために、何を願い、この大軍と戦い勝利したのでしょうか。しかし、アテルイとその勇者たちは「鬼」・「悪路王」として、その後の歴史の中での評価は逆転して伝えられ、今岩手で暮らす私たちや子どもにさえ、彼らの「熱い思い」がつたわってないのは本当に残念なことではないでしょうか。敵・坂上田村麻呂のすすめで、友人モレと一緒に和議のため上洛(注1)したにもかかわらず、斬首された悔しさや怨念を「辺境の地」・「日本のチベット」・「白河以北、一山百文」といわれた現代の東北、岩手のわたしたちが忘れてはなりません。

「地方分権一括法」が成立し、今新たな地方の時代がはじまろうとしています。 こうした時こそ東北・岩手の歴史を掘り起こし、中央権力の価値観にとらわれず、岩手を起点として未来につながる新しい、大きな価値観を見いだし、これらを子どもたちと共有し、全国に発信してゆくことは極めて大きないみをもつものと確信いたします。
 映画「アテルイ」はアニメーション技術をフルに活かして、子ども(注2)たちが生まれ育った岩手の地に深い理解と誇りをもつ、素晴らしい作品になることでしょう。
 今こそ多くの子どもたちに、希望と勇気をプレゼントできる映画を製作し、その上映運動を県内で大成功させ、全国に発信していきましょう。

 すべての県民の皆様のご協力・ご尽力を重ねてお願い申し上げます。2001年6月29日 長編アニメ「アテルイ」映画製作委員会より

 とあった。


 このパンフレットに記載されていた映画「アテルイ」の製作母体は「岩手県民の会」となっているものの、県民の会の組織・代表者など不明であった。名誉会長 当時の岩手県知事 増田寛也、代表委員および事務局は岩手県の行政・商工業・金融などを統治しているお偉方と見えた。

 2001年1月に、当時岩手県知事だった増田寛也知事は、「がんばらない宣言いわて」を出している。

「岩手県はまず、『時間・余裕と安らぎ・自然環境』など、これまで評価しえなかったものを大事にすることから始めたい。そのモノサシで見たとき、とかく『遅れている』といわれる東北、あるいは岩手県の地は『日本のあるべき美しい姿で、限りなき可能性を秘めた大地』という大いなる資産に変身する。
 従来の経済成長一辺倒を反省し、私は昨年、あえて『がんばらない宣言』を提唱した。一人ひとりが、より人間的に、よりナチュラルに、素顔のままで生きていけるような取り組みである。モノサシを変えれば、日本各地に大いなる資産は残っているはずだ。受け継いだ資産を浪費することなく、地域の幸せのために活用しなければならない」

 といっている。

 増田寛也氏は、東京生まれの建設官僚出身だったが、宮沢賢治ほか岩手の文化人から影響されていたこともあったようだ。この映画製作にどれほど関与したかは不明。

 
 上記、映画のPRパンフを見る限り、いくつかの疑問を私は感じた。
 ・(注1)DVDでは、アテルイとモレが田村麻呂と一緒に京に向かうところで終わるが、文中にもあるアテルイとモレが京で謀殺されるという最も肝心なところなしで終わっている。
 ・(注2)アニメーション技術を駆使しているというも、子供の観客を意識してか、まろやかで気の優しい甘いマスクのアテルイとして描かれている。「鬼」とか「悪路王」とはほど遠いつくり。
 ・3.11以降に見たせいもあるが、県民の意識操作のような政治的意図を感じずにはいられなかった。製作時点であの福島原発の人災が起こるとは想定されていなかっただろうし、以後の東京電力の東北人に取った態度も、これほどとは思っていなかったであっただろうから。


 この記事は、(その2)にづつく───
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by kuritaro5431 | 2012-11-27 21:37
2012年 11月 19日

『日本の深層』からとほうもない虚実のイリュージョンが浮かぶ

 原日本人とは? との入り口に立ち、しばらく探ってゆくと、夥しい学説や、伝説が、それこそ「無限大」に広がり生半可な情報収集から収束できる代物ではないことを実感する。
 それぞれ専門分野の研究者が唱える説は、どこかで整合したり、否定し合ったり、征服者と被征服者との虚実ない交ぜの織物のような記録であったりする。本物の記憶は、悲しいことだがイリュージョンの向にしかない。

 原日本人といっても、2万年も前に日本列島に渡来した日本人にしかみつからない日本国有種としてのDNA・Y染色体(父系)パプログルーフは、縄文系日本人の40.4%がこの型という説あり。2012.10.21の記事に書いたコトコンドリアDNA(母系)では、縄文人に近いとされるアイヌ、沖縄の人々におおいタイプの割合が24.4%という説あり。古代より多種のDNAがすでに存在していて、大和朝廷誕生以前から混血人種であったであろうことを思わせる。

 謎多い伝説的存在説もあるが、応仁天皇(201年)が大和朝廷の事実上の初代天皇と記紀に書かれているところからもそれが大和朝廷誕生の定説となっているようである。
 大和朝廷(ヤマト王朝)誕生の地論争も謎の多い伝説ではあるが、この記事では主題と離れるので省くことにする。

 主に、大和朝廷(これも渡来人)の支配力の拡大と、原日本人との支配と被支配における被支配者側の痛ましい運命の悲哀。阿久悠の本の題名『清らかな厭世』という言葉に秘められた日本の深層を想像してみることにしたい。


 私の調べた資料では、大和朝廷は南(九州方面)から北に向かって大和朝廷に反抗した勢力を征服していったとある。
 その対象となったのは、それ以前から住んでいた原日本人といわれる曖昧な謎をもった混血種族となっている。私は、その人たちが実在したと想像のなかで確認した。
 南から征服していった大和朝廷のそれらしい資料を漁ると、現熊本県周辺にいた「熊襲」(くまそ)、古代には薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に大和政権に反抗した隼人(はやと)もいた。隼人は後大和政権に溶け込んでいる。また、後に大和朝廷の協力者となり統一されていった大分、広島、岡山、富山の「佐伯」(さえき、さいき)一族もいた。古代海部の傾倒をひく水軍の末裔として、西九州から瀬戸内海沿岸から、五島列島一円、別府温泉では湯泊船と呼ばれ、別府の春の風物詩とまでいわれた「家船」(えぶね)という漂流漁民もいた。ずっと後の幕藩体制以後陸上生活を余儀なくされ消滅している。
 古代奈良吉野地方や茨城県にいたといわれる原日本人系の「くず」(葛)→クズ→(屑)などと表記された族は、かなり大和朝廷を手こずらせたが、最終的には完全に服従させられている。
 さらに古代出雲においては、大和朝廷の政略的成立との謎が蠢く歴史がある。出雲系邪馬台国から、天照系大和朝廷への王権の移行。縄文と弥生を結んでいった出雲があり、以後大和朝廷正史から邪馬台国──卑弥呼は消える。本来出雲国+伯耆国はそれなりに独立した律令制をそなえていたと考えられ、その弱体化政策のため2国分断をやった大和朝廷。荒ぶるヤマタノオロチ退治伝説も、奥出雲に強い勢力をもっていた砂鉄採集豪族を滅ぼした話として有名である。鉄を制する者は国を制すると考えられ、以前このブログに書いた砂鉄→和鋼・玉鋼→日本刀につながる。

 さらにその古代には、遠くエジブトにいたユダヤの13民族がエジブト人に迫害され、全世界に離散した。ある伝説によると、そのなかの一つゆくえしれずの民が日本に流れ着いたと。
 今年、ヨーロッパ古楽を歌う岡庭矢宵(Vocal)と編曲海沼正利によって日本に紹介されたユダヤ人老婆の歌『セファルディ・ユダヤ──魂の紡ぐ歌』は、悲惨なユダヤ民族の魂の震えだった。
「私は彼女の驚くべき声を聴き、それはまだ私の体の内にこだましている。彼女は魂の底から歌い上げ、それは聴く者の心の中に染みわたってゆく。その素晴らしい声と魅力的な個性で、彼女はこのラディーノ(セファルディ)の歌の、新たなる世界を生み出した」と紹介している。
 伊勢神宮に祀られている八咫の鏡の裏にはユダヤ教聖書の一節がヘブライ語で書かれ、歴代の天皇でさえ見られないとされているとか。また伊勢神宮の参道の石の灯籠には、今でもユダヤのマーク(現ユダヤ国旗)が歴然とある話。
 先の岡庭矢宵氏によれば、ユダヤ老女のメロディには、どこか日本人の私にとって懐かしいものだったと日経新聞の文化のぺージで書いていた。

 その後大和朝廷の勢力は、北へと拡大してゆく。
 そして東北の蝦夷(えみし・さらにその昔は毛人と書かれた)との大和朝廷本州最後の制覇の大山場「蝦夷征伐」が行われる。長い闘いの末大和朝廷に征服された原日本人系の縄文人の血(DNA)を引いた種族は、全国に飛散した。以後渡来して弥生文化を形成した種族と混血となったり、依然採集狩猟不定住の生活を守った者、山の民として頑固に暮らした者などに分かれていった。

 この話は、現在の東北、奥州平泉文化、これ以降の、またそれ以前の東北と深く関わっていることは事実。でもその史実は明らかではない。
 なかでも一部被差別部落とかかわるサンカ(「山窩」「山家」「三家」「散家」など)地方によってさまざまに呼ばれた不特定の人々ののっぴきならない生きざまともつながっている。ところがこの説は1902年(明示36年)から1971年(昭和46年)に生きた小説家三角寬の創作的色彩も色濃いいともいわれ真偽のほど明らかでない。史実をベースとする歴史小説としては難しい。フイクツョンも許される時代小説としても、時代考証は必須の面から、突っ込むと被差別部落人権問題に及ぶ。だからこの問題を突っ込むことはタブーとなって今日にいたっている。
 ところが、どこの国にもあった国家形成にいたる覇権→統治(ガバナンス)→征服し行く者・される者の飛散と哀しみが、強烈な民族の種族の部族の記憶となって「深層の心の奥に澱のように記憶されている」それが梅原日本学の『日本の深層』であることに間違いはない。

 前号で挙げた民俗学者柳田国男の『遠野物語』。そしてこの『日本の深層』などなど、深い哀しみを内奥に沈めて生きた悲しい原日本人の魂の叫びが聞こえてくる。
 他国における征服者は、原住民の信仰対象となる宗教心になじみながら征服していった国家もあるが、大和朝廷の征服課程はどうだったのかと思ったりする。原日本人は自然崇拝の古神道だったらしいが、聖徳太子は、律令制のバックボーンに佛教を導入した。律令制そのものが統治(ガバナンス=他民族をまとめる掟)であるのだから。

 
 それこそ、『日本の深層』にある、日本の故郷ととしての東北、そして北の歌。
 演歌に込められた運命とさえいえる東北人の「清らかな厭世」を思わずにはいられない。

 このつづきは、私が3.11から響き寄せられた東北人の魂の叫びとして受け取った感性を綴りたい。
 小林秀雄の言葉「文学は走り去る哀しみである」が身に染みる。
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by kuritaro5431 | 2012-11-19 08:22