哲学から演歌まで  

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2012年 10月 31日

3.11直後の私を「縄文・蝦夷文化・日本の深層」の本が直撃した。

 松岡正剛「千夜千冊」のホームページ番外録に、梅原猛著『日本の深層』縄文・蝦夷文化を探る───の一冊が、この時期に大きく紹介されたからだった。
 この本の初版は1983年集英社文庫から、その後1994年に同文庫より第一刷から第7刷まで発行されており、私が手にしたのは2008年10月の7刷であった。
 この時期に?と思ったのは、私の関心が高まっていたからかも知れない。

 私が、3.11の天災・人災に端を発した東北に寄せた思いには、この一冊の本の衝撃で三つの波動を生み、日々広がっていった。

 はじめに私を襲ったのは、福島原発1号機の爆発に関して、枝野官房長官の「今のところは人体に影響をおよぼすほどのものではない」「今のところ~」という胡散臭い再三の発言に、理由のはっきりしない生理的嫌悪が黒煙のように心の中で沸き立った。それに対する報道は、大衆操作とレトリックが目立ちはじめ、めまぐるしい早さでで負と正の情報が駆け巡った。テレビ・新聞はもちろん、書店に並ぶ本の流れ、新聞・週刊誌の広告欄、マスコミ各社は視聴率、広告収入の行方を見ての空気読み。私は理性的判断を失いかけ、冷却期間をおくことにし、資料集めだけはしておきブログに書くのは休んだ。2012.2.16まで。
 その間に出会ったのが「千夜千冊」の目次「1418夜」の『日本の深層』であった。
 梅原先生の東北への想いは、私の心の深層に呼応して「うかつにとっかかってはなるまい。私なりに発酵させる時間がいる」と思った。
 それは、東北の蝦夷(エミシ)の民と、北海道の蝦夷(エゾ)の民が、同族人種であるかないかの探索で、日本人の心の源流を証すのに欠かせないとの想いから、異種とされてきた学説に疑問をもたれ、その研究に没入された梅原先生。それは、梅原先生の出生の地が東北であったこととも深い関係があったと思われた。
 学者は、どの領域にせよ(哲学・宗教学・民俗学・言語学・歴史学、考古学~)実証の積み重ねで学問としての確立をするという習わしが古くからあるとは聞いているものの、特に古代史の資料などは、消されたり、捏造されたり、神話化、伝説化されたりしたことは、世界各国でなされたことである。時代時代の為政者が異種の民を統治するためには、征服がつきまとう。そこにはまつわらぬ民への殺戮が起こり、支配者と被支配者の関係性が種族ごと、国ごと、国家ごと、に形成される。
 それらの痕跡としての真実は、神話や伝説に化け、実証が非常に難しいのが、古代史であり、民俗学、考古学ではないかと素人の私は思う。この隠された、消された歴史の中に現代でも物言わず、ひっそりと哀しみを心の底に沈めて生きている日本人がいる。それを科学的に実証できないまでも、イマジネーションの世界で生きている。その想像力こそ「梅原日本学」の深い魅力である。


 2つ目は、2012.8.8 のこのブログ「アメリカの合理主義の典型に反発した想い出」のなかで書いた日本IBM社のこと。
 私が2つ目の会社に転職して3年目のこと。マーケティング企画職をやっていて気分が乗っていた時期のある日、オーナー社長が、「頼みがある。3年間期限付でいい、コンピューター部門をみてくれないか」と。当時でもまだコンピューターといえば「電子ソロバン職人のやる仕事」と社内でも蔑まれていた。だから社長は私にそういったのだ。とはいえ問題意識をもった中堅以上の会社では、業務効率化マシンとしてこれからの時代必須。業務標準化が決めてだと、経営者間でも話題になっていた。
 私としても、マーケティング企画推進上でも、これからは必須と考え、ときどき突っ込んでいたので興味もありその場でOKした。そのころその会社では、商・物流拠点を全国に展開途上だったのでトライの好機とみたからでもあった。国内のコンピューターメーカー、そのディーラーのスタッフたちと組んだブロジェクトは燃えていた。当時のコンピューター・ユーザー(主に社内のコンピューター技能者)は、マシンとしての信頼性は、IBMが一番だが、業務標準化の日本特有の問題など、契約工数を越えてでも人海戦術で応援してくれるのは、やはり国内メーカーということになっていた。
 ある日どこから聞いたか日本IBM社の広報スタッフと称する人が私を訪ねてきた。売り込みではなかった。
「このたび、わが社のハウスオーガンを出しましたのでご案内にきました」と。
 彼が見せたA4カラー版のしっかりした冊子の表紙の左上に∞の筆字のロゴがあり、その右に細い長方形の枠に囲まれた「無限大」とい文字があった。表紙のどこにもIBMの文字はなかった。裏表紙の左下に小さめのIBMロゴがあつた。目次を見ると、当時私が怪訝に思ったアメリカ合理主義を日本の企業に払拭してもらいたい意図の内容のものだった。

「私たちIBM社は、日本人のこころを研究し、日本人のためになる仕事をしたいとおもっています」

 そうはどこにも書いてなく、いいもしなかったが、そのためにつくられたハウスオーガンであることを私は悟った。とはいえ時代は下り、2009年発行の第58回日本エッセイスト・クラブ賞受賞の秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』GHQが東京に刻んだ戦後───焦土のただ中に立ち現れた「日本の中のアメリカ」、そこに現代日本の原点があった───。と書かれた帯。
 その本に書かれたアメリカというこの国のしたたかさを思い知らされる。やることが短期ではない、日本の文化そのものを30年60年もの時間をかけて操作する。そこにはアメリカならではの[性善説]と[性悪説]がリアルに併存していた。どちらも本当のアメリカとして。
 私は、当時ハウスオーガンに込められIBMの[性善説]を好感を持って受け入れた。

 私は学生時代から梅原先生には憬れのようなものを持っており、先生の志向はそりなりに知っていた。
 その冊子というものは、いたってアカデミックなもので、国内コンピュ-ターメーカーが考える企業PR誌とは全く違っていた。
 そのスタッフの開いた頁に「アイヌ語の研究」梅原猛とあった。
 現在手元に残っている冊子は4冊しかない。梅原先生の論文の載った冊子は誰に貸したか残っていない。でも、梅原先生の論文の載った号は確かにあった。
 残っている年号の冊子は、昭和55年4~5月号と、昭和56年1~ 2月号と、昭和56年3~5月の特別号だった。
 梅原先生が『日本の深層』を執筆されるに際して、アイヌ語を探索される必要があったことは前述の通り、でも、当時の私には、この3.11に絡んだほどの問題意識はなかった。

 今回残っている4冊の冊子の内、特別号のテーマは、「日本と中国」であった。

 目次は、

  1ページ  天城シンポジュウム(発起人:江上波夫、梅原猛、上山春平、中根千枝) 
  2      日本と中国(`80 天城シンホジウムテーマ)
  5      問題提起Ⅰ/礼と戒律  上山春平
 16      ビジュアル構成/唐文化の情熱と古代留学生  黛弘道
 17      問題討論Ⅰ/シンメトリックなものの変容  司会 梅原猛
 36      問題提起Ⅱ/集団構造の比較  中根千枝
 46      問題討論Ⅱ/「類」の原理と「場」の原理   司会 江上波夫
 72      自由討論Ⅰ/心の動きを大切にした日本  司会 河合隼雄
 94      自由討議Ⅱ/倭は華南とどうかかわるか  司会 尾藤正英
114      総合討議/  官僚優位を理想とする三国  司会 江上波夫
128      まとめ対論/ 文化の虚と実をめぐって    司会 梅原猛
139      資料/ 関連提起資料概要
143      シンポジウム後記
144      THINK(天城に集う人々)

 他の号もすばらしい内容だったが、特にこの特別号は、「今日的テーマがすらり並び、31年前すでにこんなことが議論されていた」ことへの驚きであった。私がこのブログに取り上げた記事ともいくつかかかわっていた。

 日本IBM社は、この冊子を何冊つくったか分からないが、原稿の中には、当時アメリカの大学現場を経験した出席者から、教員と学生の緊張感は日本の学生と比較にならないものだった、との話もあった。日本人の性善説的生き方の弱さ、アメリカ的性悪説のもつリアリティもちゃんと出席者から語られていた。

 それから半年後だったか、さすがの日本IBM社も費用対効果を考えざるを得なかったのか、丁寧な廃刊の知らせがあり、できればこの企画について感想がほしいとあった。私は感謝を込めて長い手書きの礼状を送った。後、礼状に添えて、新しくつくられたらしい「THINK」の楯と、コンパクトな和英辞典が送られてきた。


 3つ目は、

 この『日本の深層』の序章に書かれていた「日本人にとって故郷という言葉が一番ふさわしい東北地方である」「故郷の歌といえば、多くは東北の歌である」「東北は、雪と貧しさに悩まされたずうずう弁を使う人間が忍耐強く住む国である」「文化果つる辺境の地というイメージである」。
 そればかりか、この土地には蝦夷(エミシ)とよばれるまつろわぬ民が住んでいた。蝦夷はまつろわぬばかりか、日本人のほとんどがたずさわっている水稲稲作農業になじまないのである。蝦夷ははなはだ野蛮で未開でそのくせ傲慢で容易に大和朝廷に服従しないやっかいな人間であったのである。
 そのように蝦夷の住む国というイメージが、日本の中央、畿内における日本人の支配者の東北に対するイメージであった。
 東北は幾重かのマイナスをになって、そこに存在していた。そしてその章には、日本の歴史のはじめから背負わねばならぬ運命であるかのようであった、と。

松岡正剛は「千や千冊番外録で『日本の深層』を紹介する文中のかなで、
「梅原の数ある本のうち、今夜、この一冊を僕が取り挙げるのを見て、すでに数々の梅原日本学に親しんできた梅原ファンたちは、ちょっと待った。梅原さんのものならもっとフカイ本に取り組んでほしい、松岡ならもっとゴツイ本を紹介できるだろうに、せめて怨霊がすだくカライ本を選んで欲しいと思っているにちがいない。
 それはそうである。著作集ですら20巻を数えるのだから(中略)梅原猛・「千夜千冊」には、この「番外録」の流れからは、本書がやっぱりペストセレクトなのだ。
 本書が梅原にとっての蝦夷論・東北論になっていること、その梅原が今ちょうど東日本震災の復興構想会議の特別顧問になっていること、この20年ぼどにわたって梅原は原発反対の立場を口にしてきたこと、そしてなにより梅原が仙台や石巻の風土を血の中に疼くようにもっていること───

 そういう松岡正剛の胸の内を察するにあまりある文章が、この『日本の深層』の解説を書いた赤坂憲雄の文にある。
 明治以降の日本史、民俗学、においては、東北に住んだ蝦夷(エミシ)と、北海道や樺太に住んだ蝦夷(エゾ)とは別人種というのが体勢であった。理由は、言語学者の金田一京助や民俗学の柳田国男、なかでも金田一京助のアイヌが語る言葉のイントネーション説。また人類学では髭の濃さ、顔の骨格からして北方からの渡来人説などであった。梅原にしても、その説を覆す学術的実証はなかなか取れない。そこで梅原は、東北の蝦夷(エミシ)が北海道に渡り蝦夷(エゾ)とよばれるようになったとの大胆不適の仮設を立てたのがこの書であったと書いている。仮設というより予言書といえる書であったと。梅原は、アイヌ語のイントネーションのみならず、使った言葉に込められた意味、豊かな東北の自然の中で育まれた豊かな生活感、自然を対象とした信仰面からもとらえなおそうとしていた。

 それはIBMのハウスオーガン「無限大」に梅原先生が書かれた「アイヌ語研究」論文と符合する。

 さらに松岡正剛の魂を震えさせたのは「千夜一冊」の801夜の五木寛之の小説『風の王国』ではなかったか。舞台こそ違え底流に流れるアウトローを徹底的に擁護する精神は、藤圭子や山崎ハコらの暗い歌が好きな作詞家でもあるから風貌や優しい声からして情緒派に思われがちだが、とてもとても硬派の人。
 私は思う。『歎異抄』や親鸞の思想をあれだけ取り込みながら、教理で理解しようとせず、しかも自分の信仰心からでなく、他力の本願で生きている人。とてもとても私の手の届く存在ではないと────
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by kuritaro5431 | 2012-10-31 18:40
2012年 10月 25日

世界を五つの社会類型で観る

 前号で触れたもう一冊の本についてである。

 神学者・加藤隆著───武器としての社会類型論───世界を五つのタイプで見る 『「個人の自由」が何より大切なのは、西欧型社会だけ⁉』 

 この本の裏見返しに、───本文よりとして

 西洋人は「西洋的」以外の文明を理解できない
「ルカ文書」において提案されている「キリスト教世界」は、二重構造になっている。ここまでは、フランスの西洋人の先生方にも、すんなりと理解していただける。しかし、そうした「支配の二重構造」が「西洋的」で特殊なことである、と主張しても、西洋人の先生方にはどうもわかっていただけない。(中略)文明に、「西洋的」である以外の可能性があるなどということは思いもよらない。「西洋的」なことをうまく実行できない「非西洋」は、こんな簡単なことが分からない哀れな者たちだ、といった雰囲気である。トロクメ先生も、「西洋的」であることの相対性を直観的に理解してくださるが、それがどのように相対的なものかを有効に示すための指針は持ち合わせていらっしらない。そこで、それまでの知識に加えて、日本語・中国語の本などを含めて勉強して、諸文化の類型論を作成した。

 とあった。私はこの本の表紙の最上部に印刷されていた「武器としての社会類型論」。「武器としての~」に魅せられてこの本を出会い頭に買った。
 中国との「尖閣問題」。韓国との「竹島問題」。他国の民族意識を読み切れない民主党野田首相の胡錦濤への発言、その外交力。そこまで怒るとは想定外だった。「西洋的」合理主義に基づく科学とは、を知るアメリカからリスクもろくに理解せず、丸ごと買い入れた原発設備。3.11の福島原発事故を想定外だったといった。
「根」は同じだ。当時福島原発を開発したアメリカの技術者は、その原発の持つリスク・危うさを気にかけていた。技術立国日本と誇っていた日本。日本の科学者・技術者の中にも、科学技術の限界を知った人たちもいた。原発の安全神話は、肝心なところを傲慢にも無視した日本の為政者たちの「西洋的ものまね」だった。

 この本は、日本の政治家たちに発したこの著者の警告であった。世界の民族を甘く見るな。西洋的歴史は強い上位者が下位者を支配した歴史そのものなのだ。よく日本でも組織論で使われるガバナンスとは、下位者、民衆統治の思想である。価値観が違おうと国家は異民族も力で服従さす力こそ、ガバナンスとい意味であろう。
 力とは、武力のみではない。哲学も、思想やイデオロギー、学問も、学者も、社会システムも、情報操作はもちろん、法による禁止と容認。最も有効に機能したのが経済と金融の機構とそのシステム。社会システムと心の支配に、宗教は威力を発した。ことに一神教は。

 
 この関心事のきっかけになったのは、[族]という概念からだった。3.11以降の人間不信が起因していたことは間違いない。人間とは、[族]という群れ単位で生き、人類普遍の絆とか連帯、共感、感動など果たしてあるものなのかと。

 この本では、社会システム別の[族]の典型が示された。典型とは抽象化された本質を内包する姿で、必ずしも、その姿がそのまま現実に存在するものではない。

 この本に関して、私はこれ以上の感想を述べる見識も資格もない。
 そこで、まあわかりやすいと思える「五つの社会類型」が裏表紙に記載されているので、まだ読んで折られない方のために、著者の警告の肝の部分を紹介す。
 
①「上個人下共同体」(うえこじんしたきょうどうたい)型(古代西洋社会がモデル)
 上層の人間が下層の人間を支配。階級社会。
 上層メンバーは、自由な個人として独立している。
 下層のメンバーは、共同体的な要請によって全面的に拘束されている。

②「上共同体下個人」(うえきょうどうたいしたこじん)型(中国の伝統的社会がモデル)
 上層は臣の呂生き、下層は民の領域。
 基本はすべて民。民の中から臣になる者を選抜。つまりかいそうはあるが階級はない。
 臣の仕事は社会全体の管理。したがって彼らに自由はない。
 一方、民に対する共同体的拘束はきわめて弱い。
 支配はされているが、それなりに自由がある。

③「全体共同体」(ぜんたいきょうどうたい)型(日本の伝統的社会モデル)
 「場」のなかにいれば、すべての者は自動的にその社会集団のメンバーになる。
 団結することが重視され、メンバーに個人的自由はない。
 メンバー間は機能的関係で結びつき、本質的に上下関係は成立しない。

④「資格共同体」(しかくきょうどうたい)型(インドの伝統的社会モデル)
 「資格」とは生来そなわっていたり、社会から強制的に付与されるもの。
 自由な選択はできない。
 メンバーであるために必要なのは、その資格をもっいるどうかである。
 それぞれの資格のあり方を自分の人生によって体現。
 さまざまな職能的機能が組み合わさって、社会を構成。

⑤「掟共同体」(おきてきょうどうたい)型(古代ユダヤ教社会がモデル)
 変わらない「掟」が社会を規定。
 「掟」を厳密に守ることにより、守ろう視する姿勢を重視。
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by kuritaro5431 | 2012-10-25 06:35
2012年 10月 21日

平野啓一郎氏のアイデンティテイ論としての「分人」

 平野啓一郎著───私とは何か「個人」から「分人(ぶんじん)」へ───『〈本当の自分〉はひとつじゃない』の読後感想を後日このブログで、と2012.9.28の『「族」と「縁」を考える周辺』に書いていたので、もうこの本を読まれた方も多いことてしょう。。
 ところが思わぬほどあれから日が過ぎた。

 その理由は、この本にあったのではなく、その時一緒に紹介しておいたもう一方の神学者・加藤隆著「武器としての社会類型論」──世界を五つのタイプで見る『「個人の自由」が何よりたいせつなのは、西洋社会だけ⁉』を読むにつけ、古代ギリシャ社会から一神教がいかに今日につながる西欧思想に色濃く影響していたかの知識不足を思い知らされたこと。もうひとつは、今日的政治問題とも根深い、五つのタイプの一つとしての中国の伝統的社会モデルのこと。さらに、世界を五つの社会類型にした典型のとらえ方は神学からのアプローチとして新鮮に感じられるものの、私の知力では畑も違いでもあり納得しずらかった。

 もともとこの2冊の本に関心を寄せたのは、9.28のブログの記事[族]と[縁]に関連していたからである。

 そういう意味で2冊目に読んだ平野啓一郎氏の「分人論」は、いたってスムーズに快く読めた。100%共感、同調できたわけではなかったものの、問題意識は70 % ぐらいは重なって「そうそう」とか「ここは100%共感」とかの箇所がかなりあった。
 日頃はほとんどやらないが、その本の余白にここに書かれていたことへの感想を赤ペンでどんどん書き込んだ。その時間は私にとってとても楽しい時間だった。

 2004.4.12からはじめた私のこのブログですでに感じてもらっているように、──哲学から演歌まで──という無限ともいえる多次元世界に関心をもつ人がこの世に大勢いて、幾多のインタレストにエキサイトする人ほど面白いと考える私のような人間もそこそこいるはずと思ってきた。
 昔の人は、本職以外に本職を越えるような趣味をもっていて、どちらが本職かわからない人もいた。それらの人は大抵、私のいう「ペンデング・タグ」を一杯もっていて、そのタグがタグを呼び関心事は広がってゆく。そのタグは、その時点における自分としての「あるべき姿」探しとなって広がってゆくという発想の人たちであると私は思ってきた。だから、その人の人間としての幅(平野氏のいう「分人」としての数)も増え、多様な人とも[縁]のもてる「社会的適応力のある人格が形成される」と平野氏はいっている。そういう平野氏の考えの特徴は、根底に一つの「私」などなく、ときどきに異なったタイプの人間と対面するいくつかの自分があり、それは多重人格でも何でもなく、みな本当の自分なんだというところである。その考えには掛け替えのない「個人」としての「私」などない。あると思うから苦しむので、人間はもっと柔軟に社会的適応ができる生き物なのだ。といっているように思え、私も賛同できた。
 神仏習合、多神教のなかで絶対者信仰をもたない相対的価値観のなかで生きた日本人。と思うところの私として共感した。

 ところが「私」および「個」としてのアイデンティテイを考えるとき、どうしても厄介な概念としての「自我」を考えぬわけには行かない。2009.5.2の「自主自立してゆくしかない時代」にしても、2009.5.6の「阿頼耶識(あらやしき)」にしても、この考えの私の着眼点は、本来日本人の心の深層にある無意識世界は、西洋的自我を越えるところにあった。といういたって日本人にとっては当たり前の常識的な観点に立った。
 昔の日本人が「自我」という認識があったとは思えないにしても、669年創建された法相宗「興福寺」には、3.4世紀ごろインドで興った唯識佛教の「心の構造」を佛教の基礎学問として、日本の佛教の各宗派を問わず学んできた見識があった。。その唯識の心の構造と、1856~1939 にウイーンで活躍した精神分析学者フロイトの「こころの構造」とがよく似ているといわれることは有名である。
 
 唯識も、フロイトも「無意識」の深層のこころを対象にしているといわれているからであろう。私は、心理学にしても、精神分析学にしても、また臨床哲学、臨床心理学についても学識があるわけでもないので比較できる見識はない。
 しかし、このブログでも取り上げた姜尚中先生の「自我」ついても、福田恒在の「自我」についても、はたまたこのたびの平野啓一郎氏の「自我」についても、すべて西洋的「自我」をベースに語られている。日本のすべてといえる佛教家が「日本の佛教の心は西洋的自我を越えるところにある」といわれながら、唯識のこころの構造ともし比較するなら、八識の内「自我」はどれに当たるのか。六識の意識としての[知覚][感情][思考][意思]に当たるのか、それとも深層の心に当たる「末那識」の[自己執着心]に当たるのか知りたい。「末那識」が「自我」に近い概念とすれば、それを越えた深層の心に「人間の根本心」としての「自己根源体」としての八識「阿羅耶識」があると私は考えた。

 西洋的自我は、主に福田恒在のいった「社会的自我」と符合し、ときときの対人関係を良好に連携維持する「外側の自我」。処世術的・世俗的自我。それは「内的自我」に比べて低俗などと決して思わない。処世術にしても、世俗性にしても、懐の深い人間形成に役立っだったり、佛教の世俗化として「大乗仏教があり」「プロテスタントの分業化」により資本主義社会の基盤がつくられた。
 そのことと、日本人のこころの形成に大きく影響を与えたと思える「私の魂の住み処としての阿頼耶識こそ、私としての自己根源体として扱えないか」。これが私が仮説し、試みた日本的自己アイデンティティであった。

 「社会的自我」においては、平野氏の唱える「分人論」はすばらしい。私の中に幾つもの分人がいて、そのウェイトとというか、構成比によつてその人の個性が決まる。人格も決まる。八方美人ではない。その人の個性に惹かれ人は群れ、私のいう[族]が生まれ[縁]によって人と人とのネットワークが形成される。それは人間関係においても、経済活動においても良好な社会共同体の小単位となる。

 もう一方、私の考える「個人的自我」は、日本人においては、西洋的概念の自我を越える、例えば唯識の八識の「他人に代行できない自己としての自分」を根にもって、その根と神経細胞のように八方につらなった有機体の「分人」と、生態的にも、合理的にも、形而上的にも、つながりうる自己アイデンティティがあるのがいいと考えた。その意味では、福田恒在論に近い二元論である。


 そう唱えたい私なりの理由は、バブル景気崩壊後どれだけ多くの人が血の滲む思いで自己改造を模索したか、過去の幸せだった思考スタイルを変えることがどれほど苦しいことだったか。一部の階層と、恵まれた[族]の人たちと、リスクを張って時代の流れを読み、必至で「二つの自我形成にエネルギーのベクトルを合わせたか。合理的にモチベーションを継続した者だけがまともに生き延びた」その当時その現場にいた私は、痛いほどそのことを知っているからである。

 当時でも階層を問わず、問題意識=ペデングタグを貼る必要もなく、過ごした今の若者世代の親たちは、中堅企業の内定を取り付けた息子に、大企業でなくてはダメだと止めさせ、子の気も知らず、息子をフリーターに追い込んだあげくパラサイトシングルで、40歳近い者もいるとか。
 さすがに今日の新聞では、親の意識の変化も見えてきたと報道していた。


 今、10月24日の朝5時26分、ふとなにかに気づいたように思え目が覚めた。
 古代から日本人には西欧人が意識したような「自我」という認識はなかったのではないか、持たなければならない必要がなかったのではないか。だから日本には哲学という学問は育たなかったと、私の一番尊敬する哲学者がいったのだ。
 3.11直後、日本の名もない民衆がとった冷静沈着な態度。渡航してきていた外国人に当たり前のように救いの手をさしのべた名もない日本人。昔から伝えられる話の中にも多々あった。車も通らない赤信号の交差点で、全員信号が青になるまで待っている。時の為政者の民衆操作がなかったとはいえないのに、民衆はいかにも内発的動機で動いているかのように一様に「為す事を為している」。
 古代でも、中世でも、近代でも、現代でも民を統治する為政者は、「一番厄介な〈個の欲求〉〈異民族の欲求〉にてこずった」。支配する階層としての[族]は、支配される[族]の絶対服従の掟がどうしても必要となる。その統治思想は、欧州から中国、韓国を経由して変化しながら日本に入っき、日本でさらに変化し、定着した。ところが西欧においてはそれ以後も一神教としての「絶対神」は必要だったのだ。その流れは、近代から現代にいたる人間の幸せのために「自然も征服の対象とし物質文明を謳歌する」資本主義社会を成立させた。

 その流れの中で日本は欧米思想をモデルに、一時期アメリカ・モデルの民主主義とセットの資本主義社会を成功させた。ところが、3.11の事件で日本人の底流にあった「無意識のこころにあった内発的な、何か? が表出」した。論理的にも、科学的にも、説明しがたい なにか である。
 日本も古代から大和朝廷による全国統一までにおいては、他国でも見られたように熾烈な統治のための征服と、土着豪族および不定住の民との命と魂を賭した闘いは、消えた・消された伝説のなかの記憶にある。

 私が早朝ふと気づいたような気がしたことは、弥生期の前一万二千年ともいわれる縄文時代に、遠くはユダヤから、近くは南方アジアから、北ルートとしてロシアや蒙古から、主ルートとしては中国・韓国から渡来人がきたとい伝説。日本人は弥生期を起源とする単一農耕定住民族といわれるが、そうではなく、多民族が混じったDNA。それが奇跡的な人種をつくったのではないかと思ったことだった。
 「ひとつの日本からいくつもの日本へ」という宝来博士の説によれば、本州日本人のミトコンドリアDNAタイプは、4.8 %しかないとしている。そのことも一つのヒントとなっている。

 もう一つの日本人の特徴として、時の権力者・為政者も座を降りた後は、貴族出身であっても、、市井の民の中に溶けたというところであったのでは。そして市井の中で「無常とか」「ものの哀れ」とか「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」とか「おごれる人久しからず」とかの厭世的とも思える心の向に、命を繋いでゆくしたたかさがあったのではと。

 これは早朝の、科学的根拠も、歴史的実証もないただの幻想であったのかも知れません。


 付録

 宝来博士の近隣国のミトコンドリアDNAタイプ

 [本州日本人]

 日本人固有のタイプ────── 4.1%
 韓国に多いタイプ────────24.2
 中国に多いタイプ────────25.8
 アイヌの人々に多いタイプ─── 8.1
 沖縄に多いタイブ────────16.1
 上記5集団以外のタイプ──── 2.1

 [韓国人]

 韓国人固有のタイプ──────40.6%
 中国人に多いタイプ──────21.9
 アイヌの人に多いタイプ──── 1.6
 沖縄に多いタイプ─────── 17.4
 上記集団以外のタイプ──── 18.5

[中国人] 

 中国固有のタイプ───────60.6%
 本州日本人に多いタイプ─── 1.5
 韓国に多いタイプ───────10.6
 アイヌの人に多いタイプ──── 1.5
 沖縄に多いタイプ───────10.6
 上記以外のタイプ───────15.2

 日本人は、原日本人系(縄文人)と渡来系の二重構造の中の混血であって、その混血が今でもまだ続いているという。アイヌと沖縄の人々が、人類学的にもDNA分析でも、縄文人に近くて近縁関係にあると証明されてはいるが、文字系列の違いから少なくとも一万二千年前には、別の集団として存在していたという。

 縄文人に近いとされているアイヌの人々と沖縄の人々に多いタイプの割合が、24.4%、韓国では19%、中国では12.1%である。そこに何か日本人の国民性の違いの秘密を感じたりします。

 アイヌや琉球の人々の価値観は、自然との共生にあるといいます。そういった人たちが日本人の原点であり、一部であるということを認識する時代がきたように思います。日本の中には渡来した文化だけでなく、アイヌや琉球といった多様な文化、価値観があったのです。過去に本土の日本人の多くが、自分たちの価値観でアイヌや琉球の人たちを差別してきたけれども、今、そのことを反省し、自分たちが大切にしているものだけでなく、他の人たちが大切にしている価値観を認めあうことが必要だと思います。

 縄文時代のベースがあり、弥生時代から続く武家社会を経験した上で、西欧の列強とまで戦った国ですから、こうした経験や歴史こそが、実は日本という国における最大の財産かも知れません。

(この文章は、「日本人の起源を探る」インターネットのシリーズから、宝来博士の資料を引用したものです)








 
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by kuritaro5431 | 2012-10-21 09:17
2012年 10月 08日

今日は「体育の日」

 Jコンサルファームにいた1989年頃の「体育の日」を思い出す。この日はコンサル日程を入れてはいけないことになっていた。

 親の葬式でも仕事が入っていたら仕事を優先する連中も、この日は会社やクライアントとのしがらみを一切断ち切って「正味個人的自由」を満喫できる日だった。

 経営コンサルタントの大半は、既成の価値観をもつ組織からのはみ出し者、はぐれ者ということをファームの経営者はよく知っている。今の組織にも帰属意識をもっていないことも知っている。

 そんな流れ者を統治するために「自分のやりたいこと原則自由。ただし、会社に及ぼす害が50 %を越えると辞めてもらう」これがJファームの鉄則だった。

 月13日以上の有料稼働(中堅・中小企業対象で1日30万円、大企業では1日40万円~45円)をライアントとのクレームもなくつづけられる限り上記の範囲内でかなりの「自由が保障される」組織だった。ノルマは年間156日以上稼動しておればそれに比例して年俸は上がる。役員でないコンサルでも年俸2000万円以上の者も何人かいた。
 他方、どんなに過去実績があろうとも、月13日の累計ノルマ未達が3ケ月も続くと黄信号が点りはじまる。
 大型白板に、支社全員のコンサル日程掲示板が表示されているから営業の連中も、他の本部の連中も、コンサルの秘書の女性たちも、無言のままコンサルごとの動向をじっと観察している。
 営業部隊にしてみれば、辞めさせられるかも知れないコンサルの企画を売っても自分の業績評価はマイナスになるだけ。

 クライアントからのクレームはコンサルにとってとても怖い。社内で噂が広がって辞めていったコンサルは過去大勢いたからである。

 黄信号が赤信号に変わったら、月一回の支社定例会議(本社から社長と人事担当常務出席)(本題は社長の、時代・時期の微妙な方針調整の話・職業柄コンサルはよく順応していた)(各本部からコンサル商品開発状況の報告と営業部隊へのPR)
 その会議が終わった後、赤信号のコンサルがダイレクトに人事担当常務から個人面談され「ぼつぼつ自分の実力が発揮できるところに変わったら」といわれる。そしていつしか本当になる。

 そんな厳しい環境でストレスを跳ね返しながらコンサルは生きていた。厳しさと引き替えに「ある種の自由があった」。
 そんな緊張関係のなかで、付加価値の高いコンサル企画が商品化され、クライアントの現場で通用する「説得と共感」の捌きが磨かれ、プロコンサルタントが生まれると。決して会社が教育したからとて育つものではない。それが一貫したJフアームの方針であった。

 そのために、一般企業と違う無宿者(帰属意識のない)、流れ者(働く場の不定住)、個人主義的自己実現欲求の強い連中を束ねて、付加価値の高い生産性を上げるために、経営陣はかなりこまやかな神経をコンサルに使ったいた。入社してまもない能力未確認の時期でも、ベテラン・コンサルと同等扱いの態度で接してくれていた。

 *コンサルタントそのものが商品である。
 *コンサルの力量とは、かなり個々人のパーソナリティから生まれる全人格的なものである。
 *Jファームの基本技術VEについても、個人ごとに応用して使ってもかまわない。
 *コンサルタントは天職ではなく、サービス業である。

 というところがあって、日常のコンサルタントはなるべく疲れさせないように配慮され、仕事のない時間、仕事のない日は自宅ででも休むことOKと。所在さえ秘書に伝えておけば。そんな環境をつくらずして付加価値の高い企画が生まれるはずがないと考えていたようである。


 だから「体育の日」でも、5人以上チームを組み申請すれば1人3万円の「体力増進費」が支給されていた。主旨に添えるものなら企画はなんでもよかった。

 関西支社在籍の60名ぼどのコンサルは気心の知れた他本部のコンサルとも組んで一緒に何組かやっていた。

 私は毎年組んでいる仲間と「一泊船宿に泊まって若狭の乗合船を貸り切って鰺を釣る」組に参加した。全員で12人いた。
 古くからこの釣り宿と付き合いがあるという大手企業相手の「経営戦略本部」のS本部長が毎年世話役をやってくれていた。
 小浜駅前で全員揃い、小浜港から東にゆき、途中の釣具屋で餌や仕掛けや氷を買い、峠を越え海岸に降りると小さな漁港があった。4艘の漁船が係留され、鴎が防波堤に並んでいた。こじんまりした湾内には、牡蠣筏らしいものが5~6体波間に浮いていた。

 船宿では、船頭の、おかみさん、母親らしいおばさん、父親らしいおじさん、みな素朴に大声でよくしゃべる。昔からのたたずまいと見える住まいにはテレビと電気ポット以外便利なものはなかった。別棟の宿泊施設も飯場の簡易建物並みのつくりである。3部屋に分かれて泊まることになっていた部屋に荷物を置き、夕食のため母屋に戻った。板間に長いテーブルが置かれ4つの古めかしい大皿に、ハマチや、サワラの刺身、サザエが山ほど盛られていた。以前は漁師だった船頭の父親が近くで調達したものだと船頭はいった。
 おばさんが毎年つくる烏賊の臓物の塩からはビールによく合った。、
 たわいもない話に船頭一家が加わり笑いこけていた。
 明日の天気予報をテレビで見てから別棟で明日の段取りをSから聞くことにし、Sの部屋に全員集まることにした。
 
 新規に参加した人には、「この釣り船で鰺を釣る流儀」という以前Sが作ったマニュアルを「船の上で互いの糸や竿が絡まないための統一行動」との説明をした。竿、リール、仕掛けのこの船での使い方は、常連組のメンバーがマンツーマンで教えることにした。
 Sがいいたかったのは、この5月ここに1人でやってきたおり、船頭より鮃サビキという鮃の釣り方を習ったが、その日は釣れなかった。今日はだれかと一緒に挑戦したいといった。
 そして「この沖の岩場の鮃は大きいもので80㎝。小さいものでも40㎝はある。だいたい1回の乗合船出航で1.2枚は釣れているそうだ」ともいった。
 鮃の餌になる鰺は15㎝ぐらいがいいがそれがなかなか釣れない。手頃な鰺がきて鮃が底にいたら必ず食う。大きな鮃なら20㎝の鰺でも丸呑みするそうだ。ところが飲み込むまでには時間がかかる。焦ってはいけない。竿がしなってからでもすぐ合わせず、道糸を送り込んでしっかり飲み込むまで待つ。それがコツだそうだ。
 Sは興奮してもうすっかりその気になって目をを輝かせ同調者を募った。
 挑戦者は私を含め3人でた。

 その鮃釣りとは、鰺釣り用のサビキより太い糸、丈夫な針でまず鰺を釣り、釣れた鰺を餌にしてそのまま底まで降ろし鮃を釣ろうという釣り。
 サビキとは、4メートルほどの幹糸に、6.7本の枝糸がついており、その先に鯖皮とかハゲ皮とかの小さいぺらものの疑似餌をつけた針がつながったもの。できあがったものを釣具屋で売っている。最上に撒き餌カゴをつけ一番下に錘をつけて釣る釣り方。

 Sは用意していた鮃サビキを1人に3本づつくれた。

 その話はそれまでとし、毎年恒例になっている参加者各人の釣り談議の披露となった。
 瀬戸内の小島で竿を使わない投げ釣りをした話。山村の雪の谷川でイワナ釣り、囲炉裏端で串に刺し焼いた話。土佐堀川で「泥の河」にでてくるようなお化け鯉を投げ釣りで狙った話。私は、5月のある寒い日、京都北部にある深泥池で釣り友達になった2人と、瀬戸の洗堰上流で3本の竿を立て産卵前の大鯉を狙った話をした。
 連中はみな50歳を過ぎており、幼少の頃を懐かしがっている様子だった。

 その場では、申し合わせたわけではなかったのに、仕事の話をするものは誰ひとりいなかった。やがてビールもまわってほろ酔いになり、てんでに自分の寝床のある部屋に散った。

 朝起きて母屋に行くと、おかみさんやおばさんが12人分の弁当を作ってくれていた。手作りの味の佃煮だと、塩辛いがこの時期でも船の上は照り返しで汗をかくのでちょうどいい、といってくれた。
 そして7時に全員乗船し湾の外に出た。
 私は久しぶりの潮の香と舳先がはじく潮の飛沫を快く顔に受けた。ポイントにつき船頭がアンカーを下ろした。皆思い思いに仕掛けを投入した。
 遠くに大飯原発が見えた。霞んだかなたに大型の貨物船がゆっくり進んでいる。当時は原発の危機など考えもしなかった。
 船上では、ときどきもつれた仕掛けを船頭が解いてくれる会話ぐらいで、皆黙々と仕掛けを上げ下げしていた。一時一斉に竿がしなりだし、ぱたぱたと20㎝そこそこの鰺が釣れた。

 12時になり、おかみさん、おばさんの作ってくれた弁当を広げた。素朴で質素なものなのにこの場にとても似合い、どこか懐かしい匂いがした。皆、おいしいといって食べた。
 30メートルほど先を10頭ほどのイルカの群れが飛びながらゆく。その前の年も見た光景だった。

 3時頃Sの鮃サビキの竿がしなった。
 船頭が、
「大きいぞ。道糸を出せ‼」と吠えた。
 15分ほどのやりとりで鮃が浮き、船頭がタモで救って甲板に投げた。大きな鮃だった。70㎝はあると見た。

 その後はちらほらと鰺が釣れ、鮃はこなかった。
 4時になり、皆竿や道具をしまい、船は徐々に速度を増し、港に向かった。
 西の空の鰯雲に淡い夕焼けが映えていた。
 少ない釣果の者でも、そこそこの鰺20匹は釣っていた。
 あれだけ今日を待ち望んでいたSに鮃がきたのはよかった。
 母親の葬儀より仕事を優先したのはSだった。当時は話題になったものだった。

 帰り道、ラーメン屋に全員立ち寄り麺と少々辛いつゆをすすった。
 海の照り返しもまだあったか、皆頬骨を赤くし、肌の出ていた首筋や手の甲は焼けていた。

 この穏やかな顔も、明日から厳しいストレスに晒される。


 そんな想い出にひたった「体育の日」。近くの小学校の運動会会場から、私の知らない軽快な曲がスピーカーから流れてきて、子供たちの弾んだ声がとりどりに重なり合っていた。
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by kuritaro5431 | 2012-10-08 14:36
2012年 10月 01日

「チャイナ+1」と「ビルマの竪琴」

 チャイナ+1とはご存じの通り、今日まで中国が日本の消費財生産の製造工場の役目を担ってくれたが、急速な経済成長によって工場労働者の賃金が上がり、日本の完成品輸入の価額が高騰してきた。これでは困る日本は、中国以外の国でも製造工場の役割を果たしてくれる国が欲しかった。その国を〈+1〉と呼ぶようになっていた。

 〈+1〉と目星をつけた国は、中国と隣接するベトナムであったりミャンマーであったりした。最近では日本で売られている衣料品をはじめ生活雑貨などでMADE IN CAINAについでMADE IN VETNAMとかMADE IN MYNMARが増えてきた。

 ところが今回の中国との尖閣問題の軋轢からチャイナ+1の流れを加速せざるをえなくなってきた。

 チャイナ+1の一つミャンマーは、政治体制が不安定であったり、重なる自然災害などで日本のすすめてきたこの流れを加速さすことは容易ではなかった。だがこの流れの中に新しい芽が育ちはじめていることを報道を通して知った。
 それは、グローバル経済で勝ち残っていくためにあらゆる製品が際限のないコスト低減を求める流れへの変化であった。コスト低減は製造コストに占める労務費のウェイトにあることは明らかで、各輸入国は人件費の安い国からの輸入を求めて移動してきた。人件費が安ければ品質についてそこそこであればよいとする輸入側の事情により生産発注されてきた。合弁会社による現地生産においても同様。

 ミャンマーに見られる変化は、生産発注を受ける側の意志が主体的に働きはじめていることであった。
 一つは、賃金が高い安いというより、生産技術や加工技術を丁寧に教え育てくれる国を優先的に選択。
 二つ目は、品質とは細部の仕上がりに対する信頼。
 と考える価値観を共有できる国の選択。この2点は、ミャンマーがこれまでの日本から学んだことであった。
 長く国民や国が栄えるためには「安かろう」だけでなく、「心のこもった品質の製品をつくる心」だと。

 その心は、ミャンマーがビルマといわれたころからのつながりが思い出される。

 1947年から1948年まで雑誌「赤とんぼ」に連載されたビルマを舞台とした物語。これを1956年市川崑監督が映画化。

 物語のあらすじは、戦時中ビルマで戦った日本軍の話(竹山道雄・新潮文庫を参考にした)

 ビルマで戦っていたある部隊は、隊長が音楽に造詣の深い人だった。つねに全員で合唱し、それによって隊員の士気を高め、団結を強めていた。なかでも水島という上等兵は楽器演奏がうまく、自分で竪琴をつくり、伴奏をしていた。
 ある日ビルマの案内人につれられてきた村で、イギリス兵に囲まれた。取り囲まれたことに気づかないふりをして唱いながら逃走をはかった。ところがあちこちから英語の歌詞で彼らの歌に唱和する声を聞く。こうしてこの部隊は歌によって無血降伏した。徹底抗戦をつづける別の部隊の説得に水島は遣わされた。隊員たちは任務が終わったら部隊に帰ってくるはずの水島を待った。ところがいつまでたっても水島は帰ってこなかった。ある日隊員たちは、水島にそっくりのビルマ僧を見る。

 実は、水島は自分の任務を終えたあと、仲間たちのもとに急いでいた。道ばたに無残に捨てられた日本兵の死骸や骨をみて見て見ぬふりをして日本に帰ろうとしていた。ところがイギリスの兵たちが日本兵の供養をしてくれている姿を見た。水島は敵兵でさえこうして死者を弔ってくれているのにと、自責の念に駆られる。

 そして国に帰る日本兵たちの明るく楽しげな様子と、裸足でビルマを彷徨う水島がいた。


 現在ミャンマーの民族構成は、ビルマ人約70 % 仏教徒90%。

 
 さらにミャンマーの人が品質とは細部の仕上がりと思う心に、日本人としての佛教のとらえ方、細部にこだわった日本の伝統工芸、浮世絵、日本画、日本文学などが色濃くつながっていするように思える。


 そしてその感性はクールジャパンとか、日本の家電メーカーの復活、さらには日本経済の復活のにつながるものと信じている。
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by kuritaro5431 | 2012-10-01 08:28