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2012年 08月 30日

新卒ニート3万人───教育・就職 橋渡し欠く

 やはり気になっていたことが、日経8.28朝刊のトップ記事になった。

 記事の頭では────
 
 大学を今春卒業した約56万人のうち6%にあたる約3万3千人が進学も就職の準備もしていないことが27日、文部科学省の調査で分かった。大半が「ニート」とみられ、学校から職場へのスムーズな移行が難しいという若年層の課題が浮き彫りになった。ニートへの対応が遅れれば質と量の両面で日本の労働力の劣化を招き、生活保護受給者の増大が懸念される。抜本的な対策が急務だ。と───(なにをいまさらと、筆者は思う)

「教育・就職 橋渡し欠く」の記事では────

 文科省の学校基本調査速報によると、今春の大卒者は、昨年比1.2%増の55万9千人で、このうち35万7千人が就職した。就職率は63.9%で2.3%増え、2年連続で改善した。同省は、大企業志向が強かった学生が中小企業に目を向けた影響が大きいと見ている。(ブログ筆者:どのクラスのどんな中小企業かそこが知りたい)
 ただ就職も進学もしなかった約8万6千人の現状をはじめて調べたところ(ブログ筆者:遅すぎる)、就職や進学の準備をしている人は5万3千人にとどまった。残りの約3万3千人はどちらの活動もしていない。男性が1万8千人、女性が約1万5千人で、家事手伝いやボランティア従事者なども含まれるが、いわゆるニートが大半を占めるとみられる。
 全国に約60万人といわれるニートは高卒者や学校中退者が多いとみなされていた。大学の新卒者でも数万人規模に上ることが分かり、問題の深刻さが鮮明になった。(ブログ筆者:前号でも書いたように、すでに相当前から大卒者も対象となっていたことは各ジャーナリズムも指摘していたことだった)


 そこで「私はこう見ている」という私見を述べさせてもらう。

 ①就職や進学の準備はしていたが、という5万3千人の人たちへ

 前号で挙げた諸問題とは別の切り口から考えると、私が一番気になるところは、学生が嫌う「実学」という言葉のイメージについてである。これは私の関心事なので、後段で別途考えることにしたい。
 それと、「文科省」をはじめ「大学の就職課」「大学教員」「産業界」それぞれがもつ「実学」に対する考え方の違いからくるギャップ、不整合が学生と産業界とのアンマッチを生み、就活成果をにぶらせていると私は思う。

 ②2つ目は「戦後第一世代および団塊の世代との意識ギャップ」

 これは60万人といわれるニートを含め、バブル景気崩壊後の政治・経済・生活しか知らない若者意識としてつぎのことが考えられる。
(2012年大学卒業者の進路内訳として60%が正社員、自由業となっているので、一応この2つ目の問題からは除外していい対象としておく)

 ★意識ギャップ1
 戦後第一世代や団塊の世代の人たちは、多大な負の遺産を若者世代に残し、押しつけながら、日本的経営・バブル景気を謳歌した成功体験を「ポジティブ思考」こそ大事と、若者に向かってがなり立てる。今の若者のナイーブさ・無気力さを危険だ!危険だと煽る。このままでは日本は亡びると────

 ★意識ギャップ2
 この両世代に共通しているところは「いつも話がくどい」「長い」「書く文章も長い」「説教がましい」われわれ若者は今のままでいい、幸せだといっているのに「なぜどこまでもお節介をやくのか」……今や理屈ではなく両世代への嫌悪となって感情的拒絶にさえ発展し、根付いている。

(このギャップ1・2は、私そのものでもあることを承知している。だから私自身自己嫌悪さえ覚える心境でいる) 

 ★意識ギャップ3
 そんなドンカンな両世代に対して、口をつむぎ、接触もしたがらない────その結果、省思考→考えること面倒→政治のことなどどうでもいい→無投票層へ。その層を今まで文科省はニートの中心と見ていた。ところが高学歴層にもいることが分かり驚いた。


 先日、「田原総一郎と7~8人の若者を囲む◯◯熟」というテレビ番組があり、興味深く見た。(前回のブログで取り上げた若者クラス) 私が見かけたときは日本史の話だったが、若者たちは感度のいい反応をしていた。
 最後に田原氏が「これからの日本」という問いかけをした。やはり気になっていたことが一人の若者ではあったがでた。田原さんには悪いがとことわり、団塊の世代からの押しつけがましいメッセージへの嫌悪と、負の遺産の押しつけとも取れる若者の反応をここでも見た。

 そしてその若者はもう一つの発言のなかで「よき時代のような学べるモデルがなくなった」という言葉がでて私は驚いた。この言葉はバブル崩壊後にやたら流行った言葉だった。彼らが産まれる前からいわれた言葉をいった。
 やっぱり、模範解答としてのモデルなしには挑戦のしようもない思考に慣らされた若者がここにもいたか、という思いだった。


 就職や自営を目指すなら、どうしてもその活動を通して生むOUTPUT(成果)が問われる。個人としても集団としても成果が問われる。成果には、定性的成果と、定量的成果があるが、定性的成果のなかに価値の高いものがあったとしても、定量的成果を無視することはできない。それは定量成果の総合を表す「決算上の利益」である。
 研究職においてもOUTPUTは問われるはずである。

 就職や自営を通しての活動をするにしても、知識や知恵が必要なことは理解されようが、利益を出すための知識や知恵(高度な理論から通俗的なハウツウまで十把一絡げで)を「実学だ」と、若者たちは捉える傾向があるのではないか。すべてを嫌悪する風潮は健全でないと懸念するのであるが。


 ビジネスモデルの範となるものがなくなった日本において、集団(企業とかシンクタンク)とか、個々人で大小、形態別のビジネスモデルを創出してゆくしかない。
 そんなけなげなビジネスモデルも、「なんやハウツウか?」と嫌悪される対象となるのであろうか。



 次号で「実学」についてもう少し突っ込んで考えることにします。
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by kuritaro5431 | 2012-08-30 07:07
2012年 08月 26日

「沈む大学院」連載記事からの連想

 日経8.21朝刊に「大学開国」───沈む大学院────という記事が3日連続で載った。知の国際競争を支える世界トップクラス級の若者を育ててきたところで、理系、博士号離れが進んでいるとの記事。

 2日おいて読み直してみると、日本のトップクラスの知の若者の世界に限らず、階層の違うところでもなにか根っこの同じ「生命腺弛緩症候群」といえそうな、精神科医でも、心理療法士でも、臨床心理学ても手に負えない難病が蔓延しているという悪夢に似た幻想が湧いてくる。

 もちろん物理や化学を中心とする科学技術の世界では、選抜された英才の若者がノーベル賞を目指し、「無から有を生み出す魅力が醸す内的モチベーションによって世俗的欲望をかなぐり捨てリスクを恐れず生涯を賭けた」その足跡によって人類は進歩し、裾のに広がる多様な分野で需要も創出し、人間の生活を豊かにした。
 その流れは今後も厳然と存続するはずである。
 
 アメリカや中国、インドでは理学・工学の博士号取得者が急増している。海外留学体験を通じて知を磨きたい意欲満々の若者の映像がたびたび流される。
 でも日本の若者には総じて弛緩した表情が目立つ。

 大学院をでても就職できない。理学系は費用がかさむ。という学生の反応は結果の現象であって、そうなるまでに、多々政府の教育行政、大学教授の都合による現存する徒弟制度、理系×文系の理論と知恵の融合、実務家の経験と研究者がもつ体系的理論との融合、時代の要請とは裏腹に学生に他分野を学ばせる必要性を感じない教員は多く、その真意は研究を支える道具を失いたくないからとか。

 これらの教育政策は、一部の人間の思惑などによって長期的に取り組むべき日本の教育行政の行方は迷走し、失敗した。

 大学に残り研究者の道に進まず、就職希望組に向けられる産業界の目は「専門しかできない人材」と批判は手厳しい。それかといって、産業界からどんな人材(人間性とスキル)が欲しいかという見解も出ないし、まとまってもいないよう。
 もともと大学院に進む学生の多くは、学卒で希望する企業に就職できなかった連中が進む道となっているところからもきている。

 大学側、学生側は、産業界や文科省の求める「実学を身につけさせ即戦力のある学生を送れ」というのも、大学は産業界の予備校かと根強い不満。

 産業界は、長い間集団主義(没個性)による大量生産方式の日本的経営で繁栄してきた。色の付いていない学生を、新卒で一括採用し、企業内集合教育+OJTで自前投資の教育をしてきた。ところが成果主義(個人で競わす)の経営に移行せざるを得なくなってから、集合教育は方針に合わなくなるし、教育に必要な費用負担も重荷になった。総人件費に含まれていた教育費は、人材育成の投資と考えられていた時代と違い、人件費は投資でなく経費と考えられるようになり、やがで製造原価の労務費と同じ変動費=低いほどよい、と考えられるようになりその範疇に入った。高度な戦略企画職とか技術開発職にまでそう扱ったわけではなかったにしても、その流れが日本人の労働観に与えた影響は計り知れなかった。

 義務教育の時代から、子どもたちは「正解を求める学習」に専念し、偏差値重視の教育を当時の文部省も、教員養成の大学も、父兄もみなその方向でひた走ったのであるから、こうなってしまったのもその結果といえよう。


 それより一番気になるところは、これからの日本において中間所得層の活力がポイントといわれているのに、ここでも同様な「生命腺弛緩症候群」が蔓延していることである。

 バブル景気崩壊前からあった労働省の「雇用促進事業団」のやっていた雇用対策のほとんどは「技能訓練教育」であった。「技能資格を取り就職を!」が中心であったように思う。ブルーカラーの人たちはそれなりの効果を出していたのだろうが、ホワイトカラー系の人たちへの支援フログラムは見当違いのものが多かった。修了したからとて再就職への効用はほとんどないとみなされていた。
 とくに、中間管理職層で───


 その後民間の事務系およびホワイトカラー管理者対象の「キャリア養成学校」が「資格・資格!」こそ確かな就職と高年収を、と歌い上げ、多くの民間専門学校が乱立した。当時20歳前後だった多くのフリーターたちはそんな学校の受講に群がった。下級クラスは簿記3級・2級から、上は司法試験・公認会計士挑戦コース。中間に中小企業診断士、社会保険労務士、税理士、などなど───
 そこに群がった当時の若者は今30歳を超えている。受講料だけ取られて今も非正規社員か失業者も多い。甘言にに騙され、問題意識も持たず、現実を知らず、自らの研鑽もしなかった結果でもある。
 金さえ払えば資格の取れるコツを教えてくれ、就職もでき高い年収が得られると思い込んでいた。

 ここで幻想した日本の若者に限らず、多くの日本人は「生命腺弛緩症候群」現象。私のブログに書きたかったこととどこかでみなつながっている。

 3.11で端を発した原子力発電問題で、東電+政府+原発推進派の自民党時代からの蔭の黒幕と御用学者、今だ国民の彼らへの不信、国会事故調新委員長人事と黒川旧委員長を排除した推進派の思惑。
そして科学技術の人類への貢献と、それを政局や、利己利得に結びつける人間たちへの不信。自民党員のだれの発言からも、政局に持ち込むための話に聞こえてしまう空しさ。
 これらのことと、「生命腺弛緩症候群」とは決して無縁ではない。

 9:1現象にみまわれているアメリカより危険な日本がある。


 最後に「唯識とフロイト心理学との差異」をインターネットで検索していたら、「近未来佛教~親鸞・唯識・臨床哲学・臨床心理学・臨床佛教・そして愛~」というのがあり、臨床佛教研究団体が結構な学識者も含めて存在していることを知った。
 また、あのオウム真理教の上層部でありなから唯一刑法の訴追を免れていて、別の教理の旗を立て活動を密かにやっている上裕史浩(氏)が、先日テレビ番組に出て「高学歴の理系の若者も混沌の世相のなかで自分を見失い、その悩みは深い。だから………」といい。「絶対神でない相対神」の教理を目指しているといった。

「漱石もマックス・ウェーバーも~」のところて゛姜尚中先生が「信仰とは自我を生贄に差しだして得られるもの」といわれた言葉が強烈な印象として残っている。
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by kuritaro5431 | 2012-08-26 11:19
2012年 08月 21日

私の考えた「自立」とは? (3)

 「自立」を考えた取り敢えずの結論として、


!、人間はどうあろうとトータル(経済・生活・精神を含めすべて)に今を固有に生きている存在なので、他者がどうであろうと、己は現時点を能動的に生きる。


2、自分を取り巻く環境は、つねに真偽混在の情報にあふれており、すぐ飛びつかず、ちょっと覚めて距離をもち、実証する。一端緩急のときは覚悟をもって即動する。


3、分析(帰納法)は、つねに何かの手段であり、その目的の真意を確かめる。


4、具体的な処方より、抽象的な示唆の方が多くの可能性を含む。しかし、己の訓練・挑戦(行)なしにそれは実現しない。


5、絶対神がいなくても「現世における善行(健全な精神の能動性)」が倫理となる。
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by kuritaro5431 | 2012-08-21 18:15
2012年 08月 21日

私の考えた「自立」とは? (2)

 「自分と社会」との関係のありようとして考えたのが(1)であった。

 (2)では、(1)の対の概念として「自分のなかの自分」を考えようとするものである。

 学生時代福田恒存が、この2つの概念の前者を「社会的自我」といい、後者を「個人的自我」といっていた。自我を2元論的に考えるのはためらっていたが、まあ論理的に整理もつきやすそうだったので私はその考えを支持してきた。自我という概念はとても素人では扱えそうにないやっかいなものに思えていた。とくに「個人的自我」はとても難しいものに思えていた。

 この2つの「自我」の扱い方、とらえ方によって今回のテーマ「自立」について大きく変わる、と考えた。
 私はこれからの時代(バブル景気崩壊後)後者の自我「自分のなかのの私」=「個人的自我」がキーポイントになると考えた。

 自立とは、「他者や自分を支えてくれた外側の力がどう変わろうとも、能動的な自分として生きてゆく」こととしていた私には、うわべの自分でなく、深層の自分のところで「能動的自我を育て、根付かせ、そこから成長させてゆく。海中のでっかい昆布のように岩場にしっかり根を張り、段々成長し、広い社会にてでゆく」。ここで思う「能動的自我とは、社会のなかで自分なりの役立ちを演じてゆける私の根源体としての純粋の自分」。それを「自分のなかの私」「個人的自我」とも≒考えた。

 その考えを示したのが2009.5.2付けのブログ「自立してゆくしかない時代」の後段に載せた「PIを確立して世のため人のために役立ち真の自己実現の喜びを」という概念チャートだった。
 そのチャートの一番下に「PIコア」自己の根が「私の深層にある健全で能動的な根源体、純粋の自分」として設定した。社会への役立ちが感謝となって自己根源体にフィードバックされ、それは善のサイクルとなって、私の命も、他者の命も生命賛歌のパワーとなる。と考えると、健全な自我を支える倫理観も、一神教のような絶対神でなくても成立するのではないかと───
 その根源体の私のイメージに符合したのがたまたま「阿羅耶識」だったのだ。
 
 
 こんな風に「自主自立」という概念を天の邪鬼の私が我流に構築したからとてなにになる。と識者はいわれることだろう。
 この考えを世に普及しようか、ビジネスマンに教えてあげようとか、心理療法の1つの方便として使えないかとか、というものではなかった。私というパーソナリティから湧く心象を私なりに論理化したブロセスをチャートや言葉で示し、ちょっとでも「阿羅耶識」への善の刺激にでもなればと思ってのことだった。 


 それにしても、「自我」という言葉には、東西を問わず、時代を越えてとてもとても複雑な思いが入り混じっている。
 私の入り口は、東洋的思想では「自我を越える」からはじまったが、この言葉そのものの出所も怪しい。「越える」の字か「超える」か、また「超自我」か、「自我の否定」という言葉もあったのか。
 自我という概念定義も「哲学から、その学派から」「宗教の一神教から、その代表キリスト教から、その他の一神教の各派から、多神教から、日本の古神道から、日本において自力の自我はあったのか、浄土真宗に見る他力と自我はどんな関係だったのか。
 また「精神分析からみる自我は」「心理学からみる自我、ユング、フロイト、エリクソンなどの自我は」「心理療法からみる自我は」。
 さらには、欧米においてキリスト教のキリストが絶対者として倫理規範を厳然とコントロールしていた時代と、「神は死んだ」とニーチェがいった以後の西欧と、などなど歴史的経緯をたどる力さえ私にはない。

 しかし、歴史が近代化してゆく過程でその時代に生きた人たちにとって「自我」はのっぴきならない避けては通れない概念であったことに間違いはない。


 高度成長期のさなかでは、多くの若者がA・H・マズローの名著『人間性の心理学』を支持したものだった。モチベーションとパーソナリティをベースにした心理学だったので、いつしか私の原点になっていたのかも知れない。


 阿羅耶識といえば、フロイトとの比較論がすぐささやかれるようになっているようだが、切り込みの視点が異なれば、比較の対象にすらならない面もある。

 私は、先にも述べたように、比較論とか、精神分析論とか、心理療法に興味をもっての阿羅耶識ではなかった。ただ唯識のこころの構造とフロイトの心の構造のスケルトンが似ていて、私のトランスファ・ロジックに使えないかと思ってのことだった。



 
 (注) 2009.5.6のブログ「阿羅耶識」の後段に追加掲載した
    「連帯と個」の概念的試案 AとBのチャートについて


  これは、バブル崩壊後間もないころ、いろいろ「阿羅耶識」という概念を幻想した遊びのイマジネーションでした。機会があればまともに再考したい私のペンデング・タグの1つです。



 (お断り) 
 今朝、8.23.6:00この原稿を読み返し、入力ミスの多さに自分ながら驚きました。いつものことですが。気になった方その箇所読み返していただければ。すみません。
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by kuritaro5431 | 2012-08-21 15:09
2012年 08月 15日

私の考えた「自立」とは? (1)

 今日は終戦記念日。
 この日に「自立」という言葉を想い起こし考えるのはとても重苦しい。

 戦前の日本人。戦争に突入した日本人。本土決戦から終戦を決断するまでの日本人。原発を投下された日本人。このあたりの事情をNHKが多くの特番を組み放送した。そのなかには今まで知られなかった秘密情報や秘話も語られた。
 終戦後、民主主義と資本主義をセットで受け入れた日本人。アメリカ文明と近代思想に憧れるマインドコントロールを仕掛けられた日本人。高度成長途上の時期の日本人。高度成長が最高になり物質文明が輝いたときの日本人。そしてその景気がバブルとなって崩壊し、わずかばかり残っていた日本の連帯と絆(悪くいえば他者依存による社会システム)も放棄せざるを得なくなった日本人。そして「自主自立してゆくしかない時代」と認識せざるを得なくなった日本人。その後幾多の経済危機に襲われて、失われた20余年のなかでデフレの恒常、GNPは高まり経済は成長しても、賃金は横ばい、一向に豊かさが実感できない社会を資本主義という経済システムのなかではじめて経験した日本人。デフレ恒常の時代しか知らない世代のシニシスズムの広がりとインスパイヤーの喪失。その親たち団塊の世代は、デフレ崩壊以前の経済を主導した経団連所属の製造業がやはり安穏な生活を保障してくれると息子にも薦める日本人。アメリカにおいてもほんの一握りの富裕層だけとなり、中間所得層がいなくなり、残りは貧困層=その現象を「9:1」といい、高い失業率はさらなる格差社会へと進んでいる。日本もすでにそうなっているのに省思考者の多い日本人。若者の多くは今が「幸せ」とパライト・シングル───
 
 そんな中、天災と人災がセットで襲いかかった3.11という不条理なできごとに否応なしに向かい合わざるを得なくなった日本人。
 経済はグローバリズム、政治はナショナリズムという構図のなかで、世界の覇者であったことを守りきろうとする勢力と、これからはわれらが勝ち取る番とする国家間で、国益こそ正義という巧妙きわまりない政治のレトリックが原発問題をも含めて民主党政権下で政治の不条理を知った知らされた日本人。その民主党が、ロンドン・オリンピックで「なでしこジャパンとアメリカと決戦の日」めくらましで消費税法案を3党合意で可決した。3党合意の旗頭自民党は、政党として必須の党内ガバナンスもとれない民主党を非難し、こまごました政策論議より長期ビションこそ必要なことと主張。ところが谷垣氏中心の今の自民党は、実にこまごました政策以前の政局目的のつっつきばかりやっている。ここにきて既成政党すべてに不信をつもらせた日本人。外交においては、オフエンスのないディフェンスばかり引くことばかりの野田姿勢。ここぞとはがりどんどんつけ込んでくる中国、そして韓国。それがもともとの中華思想であり、アジア圏韓国起源説でもある。それがあの広い他民族国家中国の国家統治・大衆統治の思想であり、長く日本の植民地としてあった屈辱への怨念晴らしの思想をもって国民統治をしようとするものでもある。どちらも引けばつけ込んでくる民族であることはわかっている。なのにぬるぬるするナマズのようにはっきりせず、いずれいずれと先延ばし、外交でタイミングを逸することがその国家にとってどんなに危険なことかわかっていないんではないかと。

 そんな時期、ロンドンオリンピックに向けた日本人の心は、一時的にせよ盛り上がりった。日本人が飢えていた同僚・隣人家族・地元の人たちから受けた支援に対する感謝。どの競技のメダリストもみな「感謝の言葉」を心と身体と涙で発信した。
 ヨーロッパではこれほどオリンピックに熱中する国はないと聞く。
 日本人は省思考者も含めて、混迷した現在の世相から抜け出したい光を求めている。
 選手一人一人が血の滲む想いのなかで挫折しかけ、一時オリンピックへの夢を諦めたこともあったが「みんなに支援され、助けられ、みんなのお陰でとれたメダル」とみないった。
 その選手たちの言葉は、原始共同体時代にもっていた懐かしい土の香りの残った「本当の絆と連帯のDNAのなごり」。そこにいたパプル崩壊以後に産まれた若者たちが発したパッションとインスパイヤーに日本国民は感動し。共感したのだろう。
 私は想う。自民党のポスターに使われた「絆」とか、「今の人たちは、世の中のさまざまな雑音や比べ合い、非現実的な目標に縛られ、自分のもっているものまで見失っています。アイデンティティや自分らしさを求めて苦労し、混乱する人たちが本当に多い。自我が錯覚だとしたら精神科医の商売あがったりですね(笑)」と自分の著書の広告のボデーコピーに書いた精神科医。この人たちとはまったく違っていることを前段で長々と私は書いた。のっぴきなららない変遷した現実のなかで、意識、無意識を越えて、他人が代行できない「個」として技と心を磨き、その上での連帯と絆だった。(笑)の絵文字などふっ飛ばすリアリティ、それはアイデンテイテイの確立と決して無縁のものではなかった、と思う。

 それをシンボリックに身体で表現したのが柔道の金メダリスト松本薫選手だった。あの闘志を臆面なく、顔前面に現し、相手に向かっていく姿。それを誰がつけたか「アサシン」と呼んだ。(「アサシン」とは暗殺者、アメリカでは政治家の暗殺者を指す)その後彼女のあだ名となった。
 帰国後彼女は3.11の被災地を応援の感謝に訪れた。理想の選手はだれですかとの子どもの問いに、即「ドラゴンボールの孫悟空」と答え、子どもたちを笑わせた。このセンスにも(笑)の絵文字をふっ飛ばす感性を感じ私は讃えた。そのセンスには「なでしこジャパンのメンバー」にも共通するインスパイヤーと覚めた目で見ている「対象」への適切な距離感をも感じた。


 私は「戦争前の日本人」から今日まで、幾多の政治的・社会的・経済的変化のなかでのっぴきならない状況下で「自分と社会」についての関わりを、この(1)で考えた。

 実は、この(1)の原稿を書く前に、あまりやらない下書き原稿を(1)(2)(3)と書いていた。ところがその下書き原稿を読み返すと気に入らない。書き直した。2回目の原稿も気に入らず今回3回目の原稿になった。
 すでに送信していた前の原稿を読んでくださった皆さん「すみません。みな書き換えました」。

 お盆が過ぎた今日(8.18)も、書き足りなかった事柄がつぎつぎ湧き、1951年以降マーケティング用語として日本に導入されたCI(Corporate identity)という考えが、後「自分と社会」という概念に大きくかかわったこと、1940年頃政府も推進したCSR=企業の社会的責任(Corporate Social Resibilty)という概念も、企業という集団に所属する者たちに大きくかかわったことが思い出される。

 私自身の仕事にとっても、CIという概念を用いて企業を活性化させようとJ・コンサルファーム退職後自営でやったコンサル業の柱としたものだった。(福島マネジメントコンサルタントのURL「人と組織の活性化」チャートで)


 (2)以降については、戦後の近代化へ通じた「自分のなかの私」を考えるウエイトが増してきた、その流れを考えてみたい。その流れのなかで私が考えた「阿頼耶識」についても考えたい。

 

 

 
 
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by kuritaro5431 | 2012-08-15 13:06
2012年 08月 13日

掌編小説・習作   首なし塚

  村人が「首なし塚」と呼ぶ塚は、美作林野の県道から百メートルほど脇に入った地道の山裾にあった。夏草が伸び放題に繁り、もう何年も人がよりついた形跡はない。ただ残っているのは崩れた二段ばかりの石垣と、苔むしてころがっている五輪の墓標だけだった。
 安政の頃このあたりに代官所があり、処刑された罪人を葬ったところだ。今も梅雨どきの夜に、「ぎゃっ!」という声がが聞こえるという。暗くなったら村人は通らない。

 恭平は、連れ添いを亡くしてからは、子供たちが巣立ち、十年夫婦二人で暮らした京都の家に一人住み、近隣の者とも話さずひっそり過している。
 最近になって首のない女の解剖図の夢を見、魘されて深夜よく目覚めるようになっていた。その絵は、五十五、六年も前に見たもので、鳩尾あたりで胴が切断され、膝頭に刀傷のあるものだった。内臓が開かれ、肝臓や、膵臓とおもえる臓器が、赤や青、緑の顔料で詳細に描かれていた。下半身は、子宮が抉られぽっかり穴が空いていた。
 処刑された女の話を絵を見ながら聞いたのは、田舎で暮らしていた中学一年のときで、もうとっくにいなくなった祖母からだった。絵にあった女の膝頭の傷は斬首のおり、刀が膝まで届いたものだった。
 首領夫婦と首領の弟と三人で働く盗賊がいて、役人に追われこの地で捕まり三人とも斬首された。折しも、藩の重役からの依頼があり、その死体は試し切りに使われた。代官所の裏庭に赤土を三尺盛った土壇場に、首のない死体を三体重ねて手練の者が切断した。女を一番下に置き、首領の弟、首領の順に積んだという。手練の者とはいえ三つ胴裁断は容易なことではない。
 近江守助直の刀に、長柄を付け両足を開き切り下ろしたが、二つ胴切るのがやっとだった。二度三度と刀を振り下ろし、三体切断したときは、女の背は柘榴のように裂け、臓物が切り手の顔まで飛散した。そのとき首のない死体が「ぎゃっ!」と叫んだといい伝えられている。
 その刀には三つ胴裁断という金の象嵌がなかご(刀身が柄のなかに入っている部分)の裏に施されたが、所持者に災難がふりかかり後に寺に預けられ、女を供養したと。
 恭平はその刀が残っているという寺を訪ねた。処刑に立ち会った僧侶の三代目に当る住職も、もう恭平と同い年ぐらいの歳格好である。
 住職は、ほつれた緋の袋に入った刀をもってきた。刀の扱いは知りようもない身なので、もう何年も蔵にしまったままでいた。といい袋のまま差出した。
 恭平が両手で受取ると、ずしりとした重みが腕に伝わり、乾涸びた鼠の死体のような臭いが鼻をかすめた。
 赤い紐を解くと古びて褐色になっている白鞘が現れた。鞘には「近江守助直二尺二寸」と草書で書かれていた。
「拝見させていただきます」
 といい、恭平は刀身を鞘から抜こうとしたとき、背筋に冷たいものが走った。
 一気に刀身を抜き、掲げた。
 刀身にはいたるところに錆が浮き、想像したより幅広で、大切っ先は鋭利に天をついた。
 柄を左手に握り、右手の拳で左手を打ち、刀身を抜きにかかったが、容易に抜けなかった。住職に木鎚を借りてやっとなかごを抜いた。ひどく錆びていた。表銘に刀工、裏に三つ胴裁断の象嵌があり、それらしい文字が読める。金文字だけが浮いていた。
「いい伝えによると、この象嵌は偽りです。一刀で三つ胴は裁断しておりませんから」
 住職はそういい、試し切りを依頼した者の偽りを詰った。
恭平はもってきた打ち粉を刀身に打ち、なんども懐紙で磨いた。しかし長年の錆と曇は落ちようもなかった。
 血糊がついているはずもないのに、幾筋もの糸蚯蚓のような筋が這っていた。
 それからは、住職が古文書をもってきて、伝わる話を聞かせてくれた。

 人別帖によると、その女は若狭小浜の貧しい漁夫の家に生まれ、まもなく間引きのため浜に捨てられた。通りがかりの行商の商人夫婦に拾われ、おようと名付けられ育てられた。子のない商人は、天からのさずかりものとして可愛がり、山陰から若狭一帯を子連れで旅して廻った。
 おようが十四のとき、流行り病で高熱を出し、松江の養生所に隔離された。商人夫婦はおようをそこに預け、また旅にでた。半年後、夫婦が松江を再び訪れたとき、おようの行方がわからなくなっていた。奉公にでたという商家にはいなかった。やくざ者に勾わかされたか、遊廓に売られたものか、ようとしてその行方はわからなかった。
 それから五年、山陰一帯を荒らす盗賊の一味の人相書が配られた。そのなかにおように似た顔形があった。手配書によれば若い女が商家の下女に住込み、盗賊の手引きをしたと。
 それまで盗みはするが、人を殺めたことのない一味だった。ある夜の盗みで、追ってきた手代を首領の弟が匕首で差し、殺めてしまった。
 それからというものは、凶悪な盗賊として人相書が配られた。もう山陰で働けなくなった一味は、因幡街道から中国山脈を越え、美作に出た。
 その頃おようは、首領の弟に関係を迫られ手込め同然に犯された。そのことを知らない首領は、おようを妻にした。その後も首領のいないところで弟は度々おようを犯した。
「おようは、弟の子を孕んでいたんじゃと。その子が叫ぶんじゃと村人はいうとります」
 処刑された日は、朝からしとしと雨の降る梅雨空で、庭には大輪の紫陽花が咲いていたとか。
 御仕置場に連れられた三人は、半紙で目隠しをされる前、互いに見合っていた。おようが怨めしく弟を見たとき、その男は恐怖におののき泣いていた。
 首領は、腹の子を哀れに思いいたわるような眼差しをおように投げていた。
 子には罪はない、産むまで生かしてくれとおようは懇願したが、聞き入れられず、親子もろとも死んでいった。たとえ鬼子であっても生きていてくれさえすれば、自分のようにだれか拾ってくれると確信していたに違いない。
 この話は、処刑前に立ち会った僧侶におようが語ったものとして記録に残っていた。
「その頃、外科医はみな罪人の腑分をしたがっていた。まして胎児の死体は貴重なものだった。その胎児の姿は克明に写生されたそうな」
 僧侶はそういい、本殿に恭平を案内した。
 祭壇の脇には、いくつもの質素な白木の位牌があり、そのなかに当時僧侶が書いたという胎児の小さな位牌があった。
 恭平の曾祖父も蘭方医だったのでその解剖図をどこかのルートで手に入れていたのかも知れない。
 解剖図はその後田舎の家のどこからも見つからなかった。本当にあったものか、恭平がいつかの夢で見たものか、今となっては覚束ない。
 もう一度恭平が首なし塚に立ち寄ってみると、ころがった墓標の脇から胡麻粒ほどの小さい紫の花をつけた名もない雑草が一つ、胎児の命のように風に揺れていた。(了)
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by kuritaro5431 | 2012-08-13 19:22
2012年 08月 13日

掌編小説・習作  書斎机

  厚さ三センチのタモの集成材を使った天板は、十数年の歳月で飴色になっているが、塗り込みが足らなかったのか、ところどころ木の目に汚れが染みている。
 以前、インテリアの会社に勤めているころ書斎机をつくった。
 それまでにいろいろ既製の机を探したが、オフイス用のものか、社長か役員が使うようなものしかなかった。別注しようかと、インテリア・デザイナーに相談すると、自分でつくったらどうですかといわれた。
 日曜大工は多少のものならやっていたが、机という大物は手掛けたことがない。果たして材料の調達から、組み立ての接着部分がうまくゆくか。既製品の裏を見ると、金具とビスを使って足と天板を締め付けている。木工用の加工マシンだからできる仕事である。こちらが扱えるのは、せいぜい鑿と鉋と鋸。足置き、引き出しの面板などは同質のタモで、手摺に使うものを製材所で挽いてもらい使うことにした。六センチと九センチ、四メートルの角材である。
 インテリア・デザイナーを通して発注してもらった。卸値で安くしてもらったが、製材所の加工代と合わせて五万二千円かかった。
 その部材に合わせて私は日曜日図面を引いた。塗装は、組み立ててから考えることにする。
 一週間後帰宅すると部材が届いていた。天板は想像していたより立派で気に入った。とても重く持つのがやっとだった。四メートルの角材は図面の長さに合わせて取り敢えず鋸で挽き、割りは近くにある製材所にたのむことにする。
 休暇をとって製材所に角材を持ち込んだ。足にする部材は二つ割り、閂など横に渡して使う部材は三つ割り、引き出しの面板は四つ割りにしてもらった。面板は幅が足らないので、ボンドで横に繋ぐことにした。三つ割り、四つ割りの材料は挽いたあと撓った。集成材は、狂いのある木を抱合せバランスを保たせている。それが狂ったのだ。デザイナーからそうなると聞いていた。撓った方に水を含ませ、一晩置くと戻るが、乾燥してくると請け合えないといっていた。私は乾燥してしまわないうちに組みたてようと目論んでいた。
 日曜ごとに組立の作業をやった。ガーレージでやっていると、通る人ごとに買うより高くつきますなあ、といわれたものだった。
 ほぞの加工は鑿でやり、しっかり噛み込むように墨を生かして掘った。釘を一切使わずボントで固定させるためだった。タモは堅く、鑿はなんども研ぎ直さなければならなかった。 
 そんな作業に興味があるのか、幼稚園にいっていた下の娘が、日がな眺めていた。
 延べ七日間かかって組み立ては完了した。 さて、塗装はどうするか。できれば透明の漆にしたかった。日曜ペインターをテレビで宣伝している大阪に本社のあるAペイントの消費者係に電話して聞いてみることにした。
「素人では漆は無理です。一刷毛で端から端まで塗らないと斑ができます。それに漆はかぶれます」
 といわれた。
「ご来社いただくと、いろいろご相談に乗れますので一度おいでになりませんか」
 ということだった。
 訪ねてみると、女子社員が対応にでた。ショールームにある商品は、壁や門扉に塗る塗料や、床に塗るていどのものしかなかった。デザイナーから本式の塗装は下塗り中塗り上塗りと塗料を変えて塗るものだと聞いていた。その旨を告げ尋ねると、それは塗装職人用になります、四リッタ-缶しかないという。
「一缶いくらぐらいするのですか」
 と尋ねると、
「ものによりますが、一万円を越えます」
「小分けしてもらえないんですか」
「缶は一度開けると商品になりません。それに職人用のものは小口になっておりません」
 事務的な返答だった。
「あなたの会社は日曜ペインター推進のPRをしきりにやっているではないですか。それなのに対応できないのですか」
「素人でもできるペイントの啓蒙です。あなたのご希望の塗り方は素人では無理です」
「なんで三度塗りが素人にだめなんですか。それほどマニュアックなことでもないでしょうに!」
 私は馬鹿にされたようで腹が立ち、語気を荒らめた。
 話を聞いていた年輩の社員が対応にでてきて、
「よろしければお近くの塗装店を紹介させていただきますが。店によってはご希望の量を小分けしてくれるかも知れませんから」
 と丁寧にいった。
 少し気が納まって、京都の代理店という店を聞いた。
 帰り道、日曜ペインターの啓蒙といっても、ホームセンターなどに並べる商品の売りのバックアップに過ぎないのではないのか。そう思うとまた腹が立ってきた。
 翌々日Aペイントの代理店という店を訪ねた。せせこましい店には、ショールームにあったものと同じ商品が並んでいた。
 店主らしい男に、希望を告げると、
「そんなものはない」
 とつっけんどうにいわれ、あたふたと店をでた。
 A社のプロモーションは見せ掛けだった。なにが日曜ペインターの啓蒙か。聞いてあきれらあ、とむかついた。生業の塗装店など問題にしていないキャンペーンだったのだ。
 話は振り出しに戻り、デザイナーにそのことを話すと、
「そんなものですよ。マスの売上をねらってのことでしょうから」
 私のもの知らずを指しているようでもあった。
「いい店紹介しますよ。親切な人がいます」 会社の帰り寄ったその店は、親切に素人のやれる塗装のやり方を教えてくれた。
「床に塗る塗料をお使いなさい。いまの商品はよくなっていますから充分ご希望に応えられますよ。サウンド・ペーパーを最初にしっかり掛け、刷毛塗りをしてください。乾いてから広めの巾木を添え木にして、ペーパーを掛ける。また刷毛塗りをします。それを五回繰り返してください。そうすると、下塗り中塗り上塗りしたものに劣りませんから」
 その店で必要量の缶を買い、刷毛、サウンド・ペーパーも買った。三千円で済んだ。
 後日いわれるように塗つてみたが、なんとなく自分が描いていたできあがりには及ばなかった。
 そんなにして塗った書斎机は、それでも自分ですべて仕上げたというよろこびがあり、今日も私の前に居座っている。できれば後々までこどもにも使って欲しいと、昭和五十六年七月と制作日を入れている。(了)

  
 
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by kuritaro5431 | 2012-08-13 19:02
2012年 08月 13日

掌編小説・習作   肥後守  

 肉厚の刃をした肥後守は売っていない。私が小学校四年生のころ、鍛治屋で作ってもらったものは研ぎ痩せてはいるものの、いまも健在である。
 小さいころから道具類に興味をもっていた私は、昔から家にあった金槌や鑿を手入れしたり、研いだりしていた。ことに刃物には自分の弱さを切り捨ててくれるみたいな魅力をもっているように思えていた。
 当時はまだ田舎には鍛冶屋がいて、火床の炭を鞴で熾し鉄を打っていた。男は貧乏ひげを口とあごに生やした小柄で痩せぎすの貧相な風采をしていた。五十は過ぎているように見えた。風采とは違い敏捷な仕事振りに私は興味をもっていた。その仕事場を覗くのが楽しみで二時間も三時間も見ていたものだ。
 ある日頼まれものと思える肥後守の材料が五、六十本仕事場に置かれていた。その一つを取り上げてしげしげ見ていた私に、
「ぼーず、肥後守が欲しいか」
 とおやじが聞いた。
「だれももっとらんようなものが欲しい」
「だれのものよりよう切れるものが欲しいか」
「ぶ厚い刃のものがええ」
「よしわかった。いつか作ったろう。わしの刃物の切れ味は村一番じゃ。だれにも負きゃせん。ヒマなとき作ったるけん待っとれ」
 私はワクワクした。羨む太一ちゃんや、常ちゃんの顔が浮かんだ。
 ある日鍛冶屋を訪ねると、
「きょうはヒマじゃけん作ったるで」
 とおやじが迎えてくれた。
「よう切れる刃物にするにゃあ出雲で採れる堅い鋼を入れるのがコツじゃ。それを柔 い鉄で巻く。研ぐとき楽じゃけんなあ」
 そういいながらおやじは仕事場の隅から小振りな材料を拾いだした。
 それからは、私のためにやってくれる仕事がうれしくてたまらず、座り込んで一部始終を見た。
 火床に入った鉄が真っ赤に焼け、ヤットコでつまんで金台で打つ。チンチンカンカンと連打された鉄はだんだん形になってゆく。鋼の部分ができてゆく。胴の部分も同じように打っていたが、形が整ってから縦に割りを入れ、その部分に鋼を抱かせた。
 また火床に入れ真っ赤になるまで焼いてから金台で打った。細工は器用にやっていた。小刀の形になった。
 その間三十分はかかっただろうか。
「こんどは焼き入れじゃ」
 そういってもう一度火床に入れ鞴を掛けた。鉄の色合いを見て火床からだした小刀を一気に水槽に浸けた。シュンと湯煙が立ち、瞬時に鉄は冷えたようだ。
 おやじは黒い鉄片を土間に投げた。
 十分ほど立ってから、
「焼き戻ししとかんと刃こぼれするけん、もう一度火床に入れる」
 その時間は短かった。こんどは真っ赤になるまで焼いてはいなかった。
「これでてきた。後は鞘に取り付け研ぐだけじゃ」
 自然に冷めるのを待つらしく、また土間に投げた。
「ほーず、鍛冶屋の仕事が好きか?」
「おもしろそうじゃけん。焼いたり叩いたりしているの見てると。おっちゃんの器用さには感心させられる」
「えらそうなこといいよって!」
「むかしからあったんか、この鍛冶屋」
「昔はな、刀も打っとったそうな。爺さんの代に」
「じゃからおっちゃんうまいんじゃ」
 そんな会話がひとしきり済んでから、おやじは刃を鞘に取り付け、足で踏む回る砥石で研ぎにかかった。
 表を研ぎ、裏を研ぎしばらく砥石は回った。
 待切れない私は、
「ちょつと見せて」
 といって小刀を受け取ると、さっきまで黒かった刀身は白く輝いていた。私が望んだだれも持っていない厚味のあるものになっいた。
 にっこり笑っている私の顔を見て、
「これでええか」
 とにこやかにいった。
「うれしい。大事にする」
 それから台付きの砥石で研いでくれた。はじめは荒目の砥石で研ぎ、順に目の細かい砥石で研いでくれた。
「ほい。仕上がったぞ」
 おやじの差出した小刀を、私は両手で受け取った。
 見るとさっきより輝きは増し、くっきりと鋼と胴の区切りが刃紋のように浮いていた。青みかかった刀身は、興奮していた私をゾクッとさせた。子供なりに妖艶ななにかを感じていたのかも知れない。
「竹を切ってみてええか」
 そこにあった竹切れを見て私がいうと、
「切ってみい」という。
 竹切れをつかんで小刀を入れると、巾二センチの竹がスパッと切れた。
「よう切れるわ」
 私はぴょこんと無言で頭をさげた。
 早く太一ちゃんや、常ちゃんにこのことを知らせたく、ポケットに小刀をしまい鍛冶屋をでた。
 振り返ると、一本杉の下の鍛冶屋の煙突からもう夕餉の煙りが立っていた。
 太一ちゃんの家に向って走った。太一ちゃんはいなかった。常ちゃんの家にゆくと、常ちゃんは竹とんぼを作っていた。
「どうじゃ、この小刀」
 私は誇らしげに小刀を見せた。
「どないしたんじゃ、それ。見せてみい」
「鍛冶屋で作ってもろた日本に一つしかないもんじゃ」
 手に取ってしげしげと見ていた常吉は、
「こりゃすごいもんじゃわ」
 羨ましそうにいった。
 女竹(おなごだけ) をつかんで切った常吉は、
「よう切れるなあ」  
 私が鍛冶屋のおやじにもいった同じことばを吐いた。   
 私は家に帰り、母親に小刀を鍛冶屋で作ってもらったことを話すと、
「そりゃあお礼にいっとかにゃならんわ」
 といった。
 日暮れに母親は礼にゆくといって鍛冶屋に行ったが、
「なにも受け取りなさらん」
 といって帰ってきた。せめて手間代だけでも受け取って欲しいと頼んだらしいが、熱心なぼんにほだされて、といったという。
「お前、よっぽと気に入られているで」
「あのおっちゃんええ人じゃで。むかしは刀打っとんさったんだって」
 私の話を聞いた常吉は、村長をしている父親を通して、私と同じ小刀を作ってくれと頼んでいた。ところがおやじは断わったそうだ。
「がんこ者じゃから気がむかにゃ頼まれもんもやらんそうな。金ならだすいうて頼んだそうじゃが、断わりよった」
 常吉はあんな偏屈おやじに気に入られたんかと憎まれ口をついた。 
 それを期に私の工作の腕は上がり、工作展でいくつか入賞をした。
 今も工作に使っている。障子張のときも欠かせない、濡れた紙でもよく切れる。日本刀に塗る丁子油 を塗り、私の生涯のなかで大切なものの一つになっている。なによりも肉厚の刃の掛け替えのないものとして気に入っている。(了)
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by kuritaro5431 | 2012-08-13 18:17
2012年 08月 12日

名著『大工道具の歴史』の復刊・そして今の私 (2)

 目次はできるだけ不連続がいいと思って書き出したブログだったが、妙に今回は連続してきた感がいなめない。

 私がはじめて出会ったコンピューターというマシン。そこに感じたアメリカ的合理主義。当時先端を走るIBM社。人間性悪説のテーラーの科学的管理法を地でゆくようなコンピューターによるセールスマン行動管理。システム設計というなにか新しい価値を産んでくれそうな期待と、それに向かった頃のわくわくした楽しさ。アメリカ的合理的にシステムをつくるということは「楽」をもたらしてくれる。そう思ってやった。
「業務の標準化」=古い価値観・習慣にとらわていたことも知らずやってきた今までの仕事の仕方。これをご破算にして、近代的な風を職場に持ち込み、くだらない残業やっても給料があがるわけでもない職場生活から解放されると思った。=ところが、本当はコンピューターが処理でるシステムに業務習慣を改めることだった。コンピューターが主体、人間が副。

 そう感じだたしたらその想いは止まらない。私のこころの底に眠っていた実に非効率な工程で生産されていた日本刀→その素材→日本人の労働観→日本の技術→そんな仕事観が産んだ鉧が刀鍛冶以外の大工道具づくりの村の鍛冶屋にも供給され、日本の大工道具を産んだ。

 そして今「モノ離れ」した若者が今以上に日本の購買力を低下させる時期が本当にやってくる。このまま放っておけば───
 もう一度人間の生活にとって必要な「モノ」とは何なのか考え直すときではないだろうか。そうすれば、というイマジネーションが……。近代という効率概念と、人間らしいぬくもりのある生産の融合が。



 これから挙げる数々の大工道具に秘められた日本人の知恵は、この本に書かれたものに加えて、今はなき私の郷里美作の家の向かいにいた大工さんから聞いた話も加えている、


 さて、大工道具の一番に挙げたいのが「曲尺・カネジャク」である。「曲り金・矩・マガリガネ」「差し金・サシガネ」とも呼ばれ、元は玉鋼(今はステンレス)でつくられた⎾型をした縦約50センチ、横約25センチの定規である。
 ⎾にした形を表目といい、⏋にした形を裏目という。大工さんが出入りするホームセンターなら「裏目角目付」のものをちゃんと今でも売っている。
 私も、30年も前のモノをもっているが、このブログを書くにあたって今のモノをホームセンターで購入した。
 日曜大工の好きな人でも、裏目の目盛りがなぜ付いているかご存じない方も結構多いんじゃなかろうか。まず素人が裏目を使うことはないから。
 実は裏目とは、表目(例えば一辺30センチ四方・昔は一尺四方といったもの)の対角線の寸法を「裏目の一尺」といいわれているものである。
 今回ホームセンターで買うに当たって確かめると、裏目付の曲尺は6種類のうち1つだけしかなかった。というより、今もちゃんと売られていた、というべきか。プロの大工さんでももう使っていない。使うとしても、往年の宮大工ぐらいか。
 買った裏目付の曲尺は、一番高かったがそれでも2500円だった。他は1000円未満で裏目はどれにもなかった。買った裏目付曲尺はちゃんと包装してあり、使い方の図解入りマニュアルまで入っていた。

①直角に墨をつけるとき。表目
②直角を確かめる、隙間がなければ直角。表目
③勾配線を引く。(表目の長い方10に対し、短い方を垂直にして4にすると、4寸勾配)
④等分割。材料の幅を図らなくても、例えば6等分にしたいなら、6で割れる数に曲尺を合わせ印をつければよい。
 以上は、表目だけで日曜大工派でも使える方法。

 つぎは裏目の説明。
 まず裏目は、外側の目盛りを角目(かどめ)といい、√2倍の目盛。
 裏目の内側の目盛りを丸目(まるめ)といい、円周率(π3.14159)倍の目盛。
 これは素人が使えるしろものではない。
 裏目の目盛りの考案は、すばらしい大発明である。いつ、誰がとは一切不明だが、大変な天才だったことは間違いない。この裏目をつけた曲尺は、中国はもとより、ヨーロッパにもない日本独特のものである。日本の無名の天才の発明したモノである。

 さらに、表目と裏目のついたサシガネとブンマワシ(今のコンパス方式。一枚の細長い板のはしに適当な孔をあけ針や筆を入れ書く方式)を用いて、木造建築の部材を作図する方法。墨曲(すみかね)の術あるいは規矩の術と称されるもので、そのなかでも重用されるものがサシガネであるから、サシガネの術とよばれている。
 木造建築は、柱、梁、桁、隅木(すみぎ)、垂木、などの部材が、水平にあるいは垂直に、また屋根の傾斜にそってななめに配置され、互いに立体的に交わる。お寺や神社の屋根に反った棟木が、二方からきた桁にビシッと納まっているところである。そのために、切り口や削り口を間違いなく作図して、その通り加工しなければピシッと組み合わせることはできない。それがサシガネの術である。


 つぎは、今でも身近な道具、ノコギリを取り上げてみよう。
 今売られている鋸は、両刃片刃を問わず、先から手元まで鉄の厚さは一緒である。つい30年前は、鍛冶屋の打った鋸が売られていた。先に行くほど薄く、手元にくるほど厚く作られていた。例えば柱などの角材を挽いたことのある人は、鋸が途中で詰まって動かなくなったことをなんども経験されているだろう。そうならないために、柱の1/3は手元の厚いところを使って挽く。刃が厚いので鋸はよく通る。1/3が過ぎれば先まで一杯使って鋸を挽く、そうすれば最後まで鋸は詰まることなく挽き通せる。鋸の刃は、交互に左右に傾いており、真ん中に針を流すと、滑らかに通り抜ける。
 手打ちの鋸は、下手な者が使うと腰が抜ける。団扇のように左右に曲げると、ポコンポコンと音がする。腰が抜けたときである。そんなとき、鍛冶屋の打った鋸なら大工自身が金台で叩いて治したものだ。そうして大工は道具と対話していた。
 もちろんここでも砂鉄から取れた鉄が使われていた。



 つぎにカンナを取り上げよう。
 鉋は、用途によって幾種類もある。大工だけでなく、箪笥や仏壇を作るさしもの大工、桶屋や下駄屋や、日本刀の鞘師も鉋を使った。それぞれ用途によって鉋の台や刃の形状が違っていた。
 ここでは、日曜大工にも使われる鉋の話に絞ることにする。
 概ね、荒鉋と仕上げ鉋がある。荒鉋は、柱や板の荒物を仕上げる前にあらかた削る鉋である。いずれも神経質な道具手である。
 鉋は樫の木の台と、刃からなっている。
 台は、刃より前の部分が削る対象物より少し浮いていて、刃の出る後ろが2センチばかり対象物に接し、一番うしろの部分がまた対象物と2センチばかり接する。その他はすべて対象物より浮いているのが一番良好な状態とされている。対象物の木材を削れば、台は少しずつ減り良好な状態を保てなくなる。仕上げ鉋はシビアーな状態維持が要求され、荒鉋はそれほどでない。
 刃は、フラットな裏に銑鉄が、表に玉鋼が施されている。刃は先に薄く、元に厚くなっている。先ほど焼きがよく入っており、新しいうちはよく刃こぼれする。使い込むにつれて刃こぼれは緩くなってゆく。刃は、台に向かって斜めに彫り込まれた穴に納まるよう作られている。
 一般的な鉋は、本刃を抑える押さえ刃が本刃と抱き合わせに二枚挿入される。削る木材の逆目をおさえるためである。
 また、刃裏はべったりでなく、先の部分を糸状に残すのがよいとされ、その状態を維持するために、ときおり刃を金台で叩き起こしてやる。
 研ぎにしても裏は砥石ではなく、フラットを保つため、金板の上に金剛砂を盛り、その上で研ぐ。
 そんな細やかな鉋とのやりとりの中で、最良の状態を維持し、美しい檜や杉の姿が現れる。
 鉋とのやりとりについてもまだまだ話はあるが、これ以上詳細に語るのが目的ではない。
 その他金槌、鑿、斧、など多くの大工道具は、さきに挙げた砂鉄人夫の労働に支えられていた。

 また茶の湯に使われた釜は、鉧から取れた銑鉄で吹くと、世代を越えて生きながらえた。でも今の鋳物師の技術ではクラークが入り、歩留まりが悪いと。





 話はまったく飛躍するが、今回のオリンピックの閉会式で期せずして2人役員が挨拶に込めた言葉。

 ☆インスピレーション
  創造的作業過程などに突然ひらめく考え。なにかやろうという気持ちを起こさせる力。霊感。

 ☆インスパイヤー
  感化。啓発。鼓舞。また奮い立たせたり、ひらめきや刺激をあたえたりすること。インスプレーションの動詞化。


 
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by kuritaro5431 | 2012-08-12 14:34
2012年 08月 10日

名著『大工道具の歴史』の復刊・そして今の私 (1)

 半世紀も前に、村松貞治郎著『大工道具の歴史』を読んで、日本のものづくり技術を支えた日本の大工道具に込められた数々の知恵に感動した。

 その本はとても大切にしていたが、いつのまにか行方知れずになっていた。いつだったか感動の復元欲求に魘されて血眼になって書棚を捜したが出てこなかった。書店に問い合わせると、廃刊になっいた。その後、古書店を覗くたびに捜してはみたものの、出会えなかった。

 その本と出会った私の記憶のなかには、50年も前に感動した数々の和鋼でつくられた道具類の姿が合った。インターネットのアマゾンで他の本を検索していてホット現れたのが、その本であった。新品798円、とあり再版されていたことがわかった。(新書ー1973)とあり、私が読んだ時期は39年前の勘定になり、記憶とは10年も違っていた。

 当時確かその年毎日新聞賞を受けた本だった。
 今回著者の略歴を調べてみると、1924~1997 建築史専攻、静岡県島田市出身、旧制八高→東大第二工学部 建築科 出身であった。


 私は即その足で、いつもゆく京都駅南の大型書店に検索したプリントをもって買いに行った。窓口で在庫の有無をすぐ調べてくれ、あれば係の店員が5分もしないうちにもってきてくれる────そして私はその本と39年ぶりに再開した。料金を払い、店内の椅子に座り懐かしく眺めた。当時と同じ岩波新書だった。
 帯に「ご要望にお応えしてアンコール復刊」とあり「職人の誇りが育んだ磨き抜かれた機能美」とあった。

 表紙の裏の折り返しには、

 大工道具の歴史
古墳時代の遺跡からも、ノコギリ、カンナ、などの工具類が出土する。古代の大寺院群から一般の民家にいたるまで、その建築を可能にしたのは、人知の粋というべき道具類であった。
代表的な大工道具をとりあげ、それらに秘められた来歴、建築史上で果した役割を語り、人間とモノとのかかわりについて根本的考察を試みる。

 とあった。

 村松貞一郎は、40年も前「人間とモノとのかかわりについて根本的に考察する」というテーマを提示し、2012年の今を予想していたかのようである。

 私がなぜ当時感動したかが、この本のはじめに書かれているので原文まま転載させてもらうことにする。


「はじめに───この本の目的」

 文化財を守れ、自然を守れ、美しい環境を守れ、という声の高い中で、道具、とくに職人の道具は、声なく急速に滅びつつある。
 道具を手にして物をつくるということが、機械や装置による工場での大量生産と一緒にされて、これもまた生産第一主義の元凶と目されるための現象であるとしたらたいへんである。
 ものいわぬ道具のためにいわれなき無実を陳述しなければならない。
 たとえそうでないにしても、現実に亡びつつある道具をそのままにしておいてよいのか。それはたんに古い生産様式の時代に属する遺物ではない。物をつくる、生産する、という意味が、資源の大量消費、産業公害の激しい発生の中で根本的に問われているとき、道具を見直し、その歴史を検討することによって、われわれはその問に対する何らかの解答をうることができるのではないか。
 新しく、手に心に再び道具を持ち直してみる必要はないだろうか。そのためにも、道具を忘れてはならないし、ましてや、亡びさせてはならないと、私は、思っている。
 古くから日本の生産のための道具の王座にあった大工道具も、いまだ健在の一面もあるにはあるが、全体として亡びつつあり、変質しつつある。
 その大工道具の歴史をたどり、道具のもつ現代的意味を考え、そうして再評価と保存の機運の醸成に、少しでも役立ちたい、というのがこの本のねらいである。

「道具もまた自然」

 自然を守れという。自然に抱かれて人間性を回復せよという。では、とばかりに排気ガスと騒音をまきちらして高速道路を突っ走り、山や森や海辺の自然の中に乱暴にとび込む人が如何に多いことか。理不尽な話である。矛盾した所行である。
 そんな無理をおかさなくても、われわれには自然の懐に抱かれる方法がいくらでもある。悠久の太古に還る方法がある。
 その1つに道具を使って物をつくることがある。いやつくらなくてもいい、無心に加工するだけでもいい。モノ(物)の手ざわり、材質、質感が道具を通じて確かめられる。そうして道具は、人とモノとの対話の通訳者になってくれる。例えばナイフで木を削る。堅い木、柔らかい木、素直な木、癖のある木、香りの木、同じ削り方でも削り方によっては、意外な抵抗をしめす。そのモノとの対話の中に、われわれは、自然にふれ、太古の人間に還ることができる。
「人間は道具をつくる動物だ」といったのは、有名なベンジャミン・フランクリンの言葉だといわれる。人類学的にもヒトのの出現は、たとえどんな原始的なものでも、なんらかの加工がみられる道具と火の使用をもって立証の方法とされたいる。
 いいかえれば、道具は人類の出現とともに古いものである。その道具をもってモノに働きかけ、語りかける。そこにも自然があり、太古の人間性への復帰があると私は考える。自然は、マイ・カーやごった返す週末列車の彼方だけにあるのではなく、道具箱の道具を手にして日曜大工をはじめた。そのあなたの作業の中にも呼び戻されているのです。ナイフで鉛筆を削る。その行為の中に、甦ってくるのです。
 (ブログ筆者注:加藤登紀子のCDのなかの「スマイル・レボリューション」の詩の一節ではないけれど、この本が書かれた頃は、まだ穏やかな土の匂いのする日本。電化製品はもう十分であったが原発はなかった。でももうその時代ではなくなっている。昔には還れないが、われわれには、先人の知恵をもらい受け、生かせる知恵はまだもっている)

「ナイフを取り上げられた子どもたち」

 デパートの文具売り場で「ママ、この鉛筆削り、手で回すんだよ」と、さも驚いたような子どもの声を耳にして、こんどはこちらが驚いた。実態はついここにまで至ったか、とっさに思ったからである。
 二、三の負傷事件があった。過保護ママと無責任教師たちの共謀によって子どもからナイフは取り上げられてしまった。(中略)
 子どもたちは、幼い感性をもって木を知る機会を失わされた。モノとの対話、自然の懐に抱かれる契機が奪われた。現代の大人たちが将来の子孫に対する罪業として、この事実は、環境破壊、公害に匹敵する大きな影響をもつものではないか、とわたしはひそかにおそれている。
 (ブログ筆者注:確かにその頃はそうだった。私の子どもの頃は「肥後守・ひごのかみ」という折りたたみ式の和式小刀をみんな持っていて、鉛筆削りはもちろん、竹とんぼや、水鉄砲も肥後守。工作には欠かせないものだった。
 その頃京都の名のある刃物屋でも「肥後守」と名のる小刀はあるにはあったが、なまくら金で研いでも刃がつかなかった。買いたがった客は、昭和一桁世代の男たち。ほんものの肥後守を知っている世代だ。
 その後バブル景気の頃だったか、その名のある刃物屋にいってみると、まあまあまともな肥後守がでていたので一つ買って研いでみた。割り込みの表示も刀身の背にあった。刃の部分に銑鉄を割り込ませているという表示である。もっていた金剛砥石、中砥の混合砥石、青砥、仕上げ砥石の4ステップでまともに研いでみた。裏はフラットに、表はかまぼこ型に。割り箸を切ってみるとスパっと切れた。でも子どもの頃の感触には及ばなかった。それでもまあまあ満足し、日本刀の保存に塗る「丁子油・ちょうじゆ」(菱の実に似た種を絞りつくった油。和鋼によく合った。何百年たってもねばらずさらっとしている)を塗った。甘い香りが漂った。これならと、2本追加を買って、二人の嫁いだ娘の孫宛に同じように研ぎ、丁子油を塗って送ってやった。
 本物が出たのはそれから5年もしてからだった。真鍮のの鞘に、駒⏋カネコマの名が打たれたものが。それは子どもの頃からの肥後守のトップブランドだった。兵庫県三木市が産地である。さらに詳しい話は後ほどに) 

 「モノとの対話の通訳者」

 消費は美徳、とまでいわれている大量生産・大量消費の時代が現代である。ありあまる物質の氾濫の中にわれわれは生きている。物質はわれわれの消費の前面にあるだけでなく、背後にも大量のゴミ、廃棄物として堆積して、われわれを圧殺しょうとしている。もちろん見境のない資源の浪費がその前にある。
 たしかに物質はありあまっている。(ブログ筆者注:その頃すでに)しかし今日のわれわれほど、モノから疎外されている人はかつてなかったのではないか。モノを知らないのである。モノとの心のこもった対話を失っているのである。何でできているのか。どうしてつくられているのか、さっぱりわからないモノ(材料というべきかもしれない)に囲まれて、われわれは生きている。
 こうしたえたいの知れない材料に囲まれた部屋にいて、フトそれに気づいたときの、名状しがたい恐怖感を経験した人も多いと思う。火災などの報道に接して、われわれの理解を絶した人命が被害の大きさに驚くことが多い。そういうわれわれもその場に居合わせていたら、有毒ガスにでもまかれてわけのわからないまま死ぬ。ということも大いにありうるのだ。
 それは自分が手にし、加工し、語り合ったことのない材料だからである。親しいモノになっていないからである。
 日本の木は幸いにして昔からわれわれ日本人の多くにとって、たんなる材料でなくて、モノとしてであった。鉛筆を削り、大工さんが建てるのを目にした家に住み、工作で木と語り合ってきた。だから日曜大工で棚板一つ吊るにしても、このていどの重さの雑誌をのせるとしたらこのていどの厚さの板で、どれくらいの感覚で腕木を配したら撓わないかが、感覚的にわかる。(中略)
 繰り返すようだが、材料と対話し、それをモノにするための、その通訳者になってくれるのが道具である。
 そうした多くの日本人にとって、もっとも親しいモノであった日本の木との対話の歴史の有能な通訳を果たしてきてくれたものが木工具であり、大工道具である。


 この本の書き出しはまだつづき、グァム島のジャングルから横井さんが生還した話に続いていく────
 
 モノや道具から疎外される現代人は命を繋いでゆくことの危うさを、気づかないまま内在しているようだ。

 次号は、この本の肝、カネザシ、ノコギリ、カンナ、ノミなどの大工道具に秘められた知恵と魂に触れることになる。


 駒⏋の肥後守を手に入れてから私は、町内の地蔵盆で子どもたちに竹とんぼをつくってやり、作り方を教えててやった。子どもたちは「とんだとんだ」とはしゃいだ。
 九十にも見えるおばあさんが、京のわらべ歌をうたってくれた。

 
 トンボやトンボ
 ムギワラトンボ
 シオカラトンボ
 もちざお持って
 お前はささぬ。
 ひなたは厚い。
 こっきゃ来てとまれ
 ひかげで休め。

 トンボ、トンボ
 この指とまれ
 くるくる、パア。
  
 こうもり来い
 火いとらそ。
 落ちたら玉子の
 水のまそ。

 
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by kuritaro5431 | 2012-08-10 13:19