2015年 01月 17日
正式には「マックス・ヴェーバーによる支配の3類型」。 私がはじめてマックス・ヴェーバーのこの種の概念にであったのは、「ソフトVEマニュアル」日本バリュー・エンジニアリング協会発行の冊子のまえがきに載っていた「マックス・ヴェーバーによる3つの合理性」であった。2回目が「マックス・ヴェーバーの職業政治家の[責任倫理]と[心情倫理]」であり、3回目が今回の「マックス・ヴェーバーによる支配の3類型」であった。 1回目の「3つの合理性」も、2回目の「職業政治家の[責任倫理]と[心情倫理]」も今までこのブログで書いてきたので興味をお持ちの方は記憶してもらっていることでしょうが、それぞれのポイントだけ話し、のち今日の本題に入ることにする。なぜなら3種とも共通の臭いをもっているから。 「3つの合理性」は、 ①価値合理性 目指している価値と、自分の思考過程なり行動なりとの間に、論理的一義的かつ明晰な意味関連の存在。 ②目的合理性 特定の目的達成のために、いかなる手段選択をすべきかが目標となるから、問題となるのは、特定の手段選択と目的達成との間にみられる因果関係が論理的に明晰かつ一義的に捉えられること。 ③形式合理性(因果合理性) 単なる目的合理性にとらわれず、さまざまな事象を数理的に、できれば数学的にとらえることによって、的確な予測を可能にし、さらにはまた目的合理的に対象に働きかれて、目的を実現させるための能力を著しく高めるという結果をうみだすもの。 (注)ブログ筆者の解釈 「3つの合理性」 ①、自分が目指している価値(心情も含む)と、それを支える自分の思考プロセスは自分の行動に現れる。目指す価値を一元的ベクトルに絞るためには、論理的にも心情的にも綿密な合理的関連性を保持させること。その遂行を妨げるものを排除するため、社会的、政治的な多大な不利益も、覚悟する合理性。 ②、「なんのために」という目的のない行為は、この世にはないという立場の考え方(合理主義)。「なんのために」とは、大抵「特定の目的のために」となる。その目的達成のためにどのような達成手段(方法)が最適か(効率的か)をどうやって設定するか。幾つもの切り口を調べ研究し、そのなから選択する。目的と手段が決まれば、手段の実行によって「どんな成果OUTPUTをどのぐらいいつまでに出すか=目標を決める」実務ではその後PDCAが使われる。 「ここで問題となるのは、特定手段選択と目的達成との間にみられる因果関係が論理的に明晰かつ一義的にとらえられること」と書かれているように、この目的合理性でここが一番難しいところ。 まず「なんのために」という目的の対象をどの範囲でとらえるか。特定の、といっても「問題解決のための原因の事象なのか、改善のために押さえておかねばならない事象なのか、いずれにしても個別の事象(問題点など)を取り上げれば際限とのないモグラ叩きに陥る。共通する原因の個別事象をグルピンクし抽象化してとらる。抽象化過程で、個別事象に含まれる原因と抽象化された事柄の因果関係が論理的・有機的に絞られていなければならない。とはいえ、絞られる程度が狭ければ、活動成果は小さくなり、抽象度が高ければ、自ずと事象と目的の因果関係は複雑になり、目的達成の活動計画も目標設定もむつかしくなり、難易度は高まる。活動体の力量に合わせたレベル設定が難しいといっている、ともとれる。 ③、の形式合理性(因果合理性)は、目的合理性を支援し、一層高い効果を出そうという合理性である。数理を道具とした論理学を形式論理学といわれた(古くはアリストテレスによって組織された論理学でその後変遷し今日にいたる)。この論理学から導き出される答えは「蓋然性」。因果関係から見ての「確からしさ」なのである。哲学、数学、統計学などで使われた。「可能性」と「蓋然性」は別の意味をもっている。「可能性」は、あるかないかのどちらか。「蓋然性」は、高いか低いかとの曖昧さが残っている。それが「可能性」というニュアンスで使われるようになり、この③でも、「~数学的にとらえることによって、的確な予想を可能にし」とある。今日の政治・経済の予測においても、数値を「可能性の判断材料として」テレビ、新聞などで使われる。数値は勘でなく科学的とのグローバルな認識の仕方と思うようになった。それに拍車をかけるように数値の「見える化」運動としてさまざまなグラフが為政者を支援してきた。 「有り」と「無し」は「1」か「0」のみであり、「中間」はなし、ということ。以前このブログに書いた「いろいろあったフェティシズム論」でマルクス弁証法は、「中間はなし」=「排中律」と批判し、中間の曖昧さにこそ人間らしがあるといった。 形式論理学が導く「蓋然性」は、確かに資本主義の複雑に進化した政治・経済のコントロールに貢献した。同時に為政者の恣意的道具として使われた光と影がある。 「マックス・ヴェーバーの職業政治家の[責任倫理]と[心情倫理]」は、 「責任倫理」を要約すれば、 「予測できる限り自らの行為の結果を考慮し、軍事力・警察力行使という国民にとって甚だ危険な選択でも、その責任を引き受ける態度」 「心情倫理」を要約すれは、 「自らの行為の価値を純粋に信じて、その結果は神に委ねて省みない態度」 「マックス・ヴェーバーによる支配の3類型」は、 「合法的支配」と「伝統的支配」と「カリスマ的支配」 ①合法的支配 制定規則による合法的支配。形式的に正しい手続きで定められた制定規則によって、任意の法を創造し、変更しうるという観念による。もっとも純粋な形は、官僚制支配。継続的な仕事は、主として官僚的な力によって行われるが、最高権力者は、君主(世襲カリスマ的支配)であるか、国民によって選ばれた大統領(カリスマ的ヘル(主人))であるか、議会団体によって選挙されるかである。 ②伝統的支配 昔から存在する秩序と支配権力の神聖性、を信じる信念に基づく。もっとも純粋な形は家父長制的支配。命令者の型は「主人」てあり、服従者は「臣民」であり、行政幹部は「しもべ」である。 ③カリスマ的支配 支配者の人(パーソン)と、この人のもつ天与の資質(カリスマ)、とりわけ呪術的能力・啓示や英雄性・精神や弁舌の力、とに対する情緒的帰依によって成立する。永遠に新たなるもの・非日常的なもの・未曾有なるものと、これらのものによって情緒的に魅了されることが、この場合、個人的帰依の源泉なのである。最も純粋な形は、予言者・軍事的英雄・偉大なデマゴーグの支配である。 専ら純粋に指導的個人に対して、かれの個人的・日常的資質の故に、服従が捧げられるのであって、彼の制定法上の地位や伝統的権威に基づいて服従がおこなわれるのではない。 簡単に言うと、 ①合法的支配とは、正当な手続きにより定められた法律により支配や権威の正当性が担保されるとするもの。 ②伝統的支配とは、昔からある伝統や風俗や風習、家柄、身分によってしはいや権威の正当性が担保されるとするもの。 ③カリスマ的支配とは、個人的資質(パーソナリティ)により大多数の大衆の心をとらえ、大衆的帰依による圧倒的支持と賛同を集めたカリスマ的為政者によって支配や権威の正当性を担保するものである。 このうちカリスマ的支配というのが厄介なのである。 アドルフ・ヒトラーや毛沢東などの事例を見ればわかるが、カリスマ的支配は理性ではなく、情的なものによる支配であり、心酔した大衆による熱狂的支持をもたらす危険がある。 (この文章の出所)2010年09月06日のブログ「なんだね マックス・ヴェーバーによる支配の3類型-「支配の社会学から」でした。筆者名前は確認できませんでしたが、今の安倍政権を考える上で大いなるヒントになったものですから掲載させてもらいました。
by kuritaro5431
| 2015-01-17 17:45
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