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2015年 01月 05日

「阿頼耶識」の再考

…… 私は2009年5月6日に、このブログでははじめて「阿頼耶識」について触れた。
 このブログではという前のテストアプローチは、経営コンサルタントファームJを退職する2年前・1996年頃のことだった。そのときの概念設計にかかわるものを述べたのが2009年5月2日のブログ「自立してゆくしかない時代」のものだった。それはよくも悪くもブルーカラーもホワイトカラーも会社や組織に頼らず自前で生きる術を身につけてくれという時代の要請であった。
 管理者も労働者も集団連携でわが社の売上を拡大する=昔の藩益の確保と似ている。そのために学習したのが「集団で生産性を上げるハウツウ」ばかり。それでよかった。その辺のことは「自立してゆくしかない時代」の前文に書いているので割愛するが、「個人としての主体性」「自己アイデンティティ」をもてということだった。言い換えれば「もともと自分の中にある他人が代行できない自己の根の発見」。それを「PI=Personalidentitityを確立して世のため人のために役立ち真の自己実現の喜びを」のチャートで表現した。
 PIコアとして「他人に代行できない自己の根源体・実存的身体と精神が、他者に向かって、さらに広い世界に向かって有機的に発展する自己発動的論理を内在し、そのモチベーションを持続しうるもの」「それは深層の蔵のなかにいる無意識の自分」。
 次のページの「CIとPIの統合」(CI=CorporateIdentity)のチャートは、自己と会社(組織)の関係を、双務的契約とし、会社側は「経営理念」「経営方針」「経営目標」「部門目標」と演繹的ブレークダウン。社員一人一人は「PIの確立により、自己の根を起点として、内発的モチベーションを持続し、原状を常に否定し、あるべき姿を求めイノベーションを通し、新しい価値を創造していく。そして自己実現と、会社の社会的役割まっとうのための集団活動と融合させる。自己の帰納的アプローチ。
 次のチャートの、「これからの[集団的ベクトル]のあり方」では、従来のように個人としての社員も、会社も、共通目標を売上とか利益にせず、「顧客・社会への役立ちとし、役立ちの大きさに比例してリターンがついてくる」とした。またこれからは「文明的価値」重視から「文化的価値」創造へのシフトおよび復帰。健全なバランスへ。
 次の4つ目のチャートは、3つ目のチャートを現実化した「個と組織の統合」で、当時の経営者から支持されたものだった。

 そこで2009年5月6日に、書いた「阿頼耶識・あらやしき」の記事については、読者の皆さんの関心を呼び常に記事ランキングの上位に載り、今も3位にランキングされている。
 それで筆者の私は、その後考えさせられることがいくつかでて、再考することも迫られ今回この記事を書くことにした。
 この2009年5月6日記事の肝は、2009年5月2日の特にNO1のチャートを前提とした実存感のある「五角形チャート概念的試考AとB」、Aを主としてBで補としたもの。

 ここで平成24年10月に唯識佛教で歴史的にも大きな意味を持つ奈良の興福寺貫首多川俊英僧に、私が直接手紙でお尋ねし、それにご丁寧なお返事を貫首からいただいた。多川俊英著の唯識の解説は多く書かれており、何冊かの本から私は唯識を学んでいた。
 いただいたご返事の全文をここに掲載させてもらいます。



冠省
 早速ながら、「唯識のいう『阿頼耶識』の働きで、弛緩しているかに見える日本人のこころを心底からモチベートできないものか」というご質問でございますが、それには、阿頼耶識という無意識を意識化することが必要でしょう。しかし、唯識佛教では、「不可知」ということになっており、阿頼耶識の内容(過去における自己の行動情報──これを種子しゆうじ、とか習気しゅうけ、といいます──のすべて)を直接把握することはできません。不可知のものを手がかりにモチベートすることはできないでしょう。
 唯識佛教では、たしかに阿頼耶識中の種子から現実の行為行動(これを現行げんこう、といいます)が生起すると考えるのですが、「待衆縁たいしゅえん(衆の縁を待つ)」といって、さまざまな縁の和合がなれけばなりません。つまり、こうしょうという意識の都合だけで、阿頼耶識を動かすことはできないわけです。
 フロイトの精神分析では、無意識(抑圧されたもの)を意識化することによって精神状況を改善するのですが、この無意識と唯識の阿頼耶識しは相異するわけです。

 唯識佛教では「阿頼耶識縁起」といって、すべては阿頼耶識から生起すると考えるのですが、同時に、自己を明日に向けてどのように展開していくか、ということについては意識の働きこそ重要だと考えます。
 日本人の昨今の弛緩は、戦後長く続いた平和と良好な経済状況、そうした状況下では、一般論ですが、ほしいものは大体手に入る。小生は昭和二十二年生まれですが、中高生のころの家での役割は風呂焚きでした。風呂に入るにも、それなりの時間と労力とが必要でしたが、今ではボタン一つです。生活のすべてが大体こうした状況になれば、心が弛緩するのは当たり前ではないでしょうか。例え僅かなことでも、人間、手間ヒマをかけて仕上げた時、心に充実感を憶えるわけで、そこからまた、こころを掻き立てるような衝動も出てくるのではないでしょうか。
右、お答えになってないかもわかりませんが、ご返事申しあげます。近年、段々秋が短くなって、冬支度の頃です。どうぞ、ご自愛下さい。 敬 具
                                                       興福寺貫首 多川 俊英
 平成二十四年十月三十一日

 福島 丞 様



 と、このようなご返事を高僧から直接いただけるとは思ってもいなかった。高弟からの返事でももらえたらと思って出した質問状。大学の同窓であったせいもしれない。
 お礼の手紙を差し上げた。そして生意気にもちょっとさらなる私の疑問を添えた。

☆は、ほぼ私の想定通り。 ★は、さらなる疑問と、時代に合わせた活用はないものか。

☆1、阿頼耶識の内容(過去における自己の行動情報──これを種子しゆうじ、とか習気しゅうけ、といいます──のすべて)
★2、阿頼耶識は、唯識佛教では、「不可知」(無意識の世界なので知ることはできない)ということになっており、不可知のものを手がかりにモチベートすることはできないでしょう。阿頼耶識という無意識を意識化することが必要でしょう。
☆3、たしかに阿頼耶識中の種子から現実の行為行動(これを現行げんこう、といいます)が生起すると考えるのですが、
★4、「待衆縁たいしゅえん(衆の縁を待つ)」といって、さまざまな縁の和合がなれけばなりません。つまり、こうしょうという意識の都合だけで、阿頼耶識を動かすことはできないわけです。

 上記の点が、私がNO1のチャートのように、☆1、のような何世代もの自分の過去から繋がった遺伝子と、重なって刹那の刺激を生まれてこの方受け続け、変化ししつづけている他人が代行できない無意識の「魂」というか「固有の命の根」というかが棲んでいる「蔵」。これを私は阿頼耶識と理解した。その蔵にある命の根から生起する「空」に似た紐は、意識もしない、見えもしない、しかし「自己固有の論理の紐となって、無意識世界から顕在世界に繋がっているもの」だから濁世においても掛け替えのない自分が命をかけて責任を持って生きている。善人は善人として、悪人は悪人して。だからぶれない。意固地だけれど。
 その生きざまのイマジネーションが「阿頼耶識」という概念として私を魅力づけた。決して唯識が先にあったわけではなかった。

 それと、阿頼耶識というものに含む霊性が、「怪奇・妖怪」であったり「艶本」「枕絵」「春画」であったり「狐・狸・蛇・河童などの動物信仰」をも容易に飲み込む寛容と実存感が己のモチベーションを掻き立てる──に繋がる気がしたもので───

 それと唯識とあるように、形而下的認識の人間の部位機能としての眼・耳・鼻・舌、触覚の五つの認識器官による五識。その上に、知覚・感情・思考・意思としての意識六識がある。
 多川貫首もいわれるように、一番人間の認識行為に影響が大きいのは、現実生活における五識受信形態の変化ではなかろうか。社会的環境変化、として人口の多い社会的下位層の文明的豊かさは、価値観の変化、唯識のいう「能変」(変化、回転、転換)に似てる大きな変化を起こした。文明的豊かさを創り出すために経済的豊かさを資本主義経済論理で促進する。その促進で一番コストがかかるのが人間の労働コスト。時間あたり賃金となり、何かにつけて労働時間をかけないこと、短くすることが生産性の尺度となった。それは西洋・特にアメリカ資本主義が目指し、日本が追っかけた幸せのモデルだった。

 いいたいのは、古代ローマでも征服していった国の風土に合わせ、キリスト教のありようも変えた歴史もある。同時に征服と奴隷の歴史もある。またユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教3兄弟で、譲れぬ宗教原理で血で血を洗う。彼らにとっては生活そのものだ。

 この10年20年でめざましく社会的変化が起きたのは、理屈で仕組みや機能を知らなくていい、操作が面白くいつでも誰とでも繋がれる、コミニケーションできる情報通信機器があっという間に世界に広がった。機器をツールとして今までになかった情報(六識の知覚・感情もひっくるめて)も、刹那の交信で創生か破壊かのリスクを抱え能変している。

 そうであれば、コラボレーションでるものがあれば教理・原理に囚われず試してみて改善効果がでれば、唯識とは別のカテゴリーのものとして体系化し、社会に貢献する手はないだろうか、ということでもあった。ただし薄っぺらなハウツウまがいのものはご免だ。マイノリティであろうが、長いスパンに絶えられる健全な働きのあるものとして。

 とはいえ、「自己存在の魂の蔵としての阿頼耶識は、無意識なので意識化しなければ能動的働きはできない」といわれたことにはシヨックだった。衒学的論理であるにせよ、ひょっとしたら効力を発するのではないかと大いに期待し、何人かから肯定的反応を得ていたからである。

 多川俊英高僧からいただいたご返事によると、意識化するためには「、「待衆縁たいしゅえん(衆の縁を待つ)」といって、さまざまな縁の和合がなれけばなりません」とある。
 初期の段階で阿頼耶識に関心を寄せていたとき、「縁」とはなにか、「縁起」とはなにか調べてはみたものの「待衆縁」を理解するにはいたらなかった。

 取っつきやすい大辞林でどういっているか、「縁」①人と人を結ぶ、人力を越えた不思議な力。巡り合わせ。②親子・夫婦・親戚などの間柄。③知り合いの間柄。交わり。縁故。④関係。つながり。⑤関係のできるきっかけ。⑥[佛教]結果を生ずるため間接的原因や条件→因。
 同じく大辞林での「縁起」①物ごとの吉兆の前兆。兆し。②社寺の起源・由来や霊体験言い伝え。③事物の起源や由来。④[佛教]因縁によってあらゆるものが生ずること。

 平凡社哲学事典では「縁」については述べられていないが、「縁起」について次のように述べられ、分かりやすい。
 「因縁生起」の略である。佛教においては、一切の存在はことごとく相対的依存の関係の上にあり、その関係性そのものを因縁といい、その関係作用を縁起という。その作用を定式化していえば、`これあるときにかれあり,これ生ずるときにかれ生じ,`これなきときにかれなく、`これ滅するときにかれ滅す、となる。それが縁起(あるいは縁生)の定式であって、さらに略して縁起というのであり、これが佛教のすべての根底をなしている。→因縁。とある。

 次に、岩波哲学・思想辞典をみると「縁起」について長々と原始仏教時代から、[近代の縁起解釈論争]まで各派によって幾多の変遷があったことが述べられている。
 「縁起」は、ばしめに、ゴータマ・ブッタの悟りの内容を表明すといわれる根本教理の一つ。その原意は「縁ょって生起すること」であり経験世界を構成する精神的・物質的な要素としの法(ダルマ)が、他の法に依存して生起をさすという道理をさす。と
 いかにすればひとは苦悩から解放されるかという人生の普遍的な回答という性格を持つ縁起は、【原始仏教】→【部派佛教】→【大乗仏教】という佛教思想史において特に重要視され、様々な解釈と議論をもたらした。と書かれている。
 【原始仏教】の時代に、六識(眼識から意識)も登場している。【部派佛教】では、業の因果説が私の関心を呼ぶ。【大乗仏教】では、初期の般若経をベースとした「空」。竜樹(ナーガールジュナところ)は、縁起を佛教の根本教理として重視した。ところがかれの縁起解釈は、縁起や因果を諸法の作用間の関係と見て、ここの法の本質を認めた説一切有部の解釈と鋭く対立していた。
 このように般若経をべースとした縁起説が、必ずしも普遍のものではなかった、ともいえる。でも、今日では、玄奘漢訳の般若心経が、親鸞の創設した浄土真宗以外すべてで、唱えられている。
 瑜伽行派(ゆがきは)は、アサンガ(無著)以降、すべて<識>のみであるという唯識説を定着させ、主観と客観を誤って分別する識(=心)のもつ基本的な性質を依他起性(えたきしょう)───筆者注・意識に頼らなければのところ───すなわち他に依存する性質と呼んだ。これは「縁起する性質」言い換えた術語に他ならない。また<識>は、潜在的アーラヤ識(阿頼耶識).自我意識としてのマナス(末那識).それに眼識から意識までの顕在的な六識として転変すると説かれるが、この場合変転をあらしめている<識>の性質が依他起性.つまり縁起という性質である。アーラヤ識と、マナスおよび六識とが相互に因となり果となって転変することは、後に「阿頼耶識縁起」と呼ばれる。

 このように瑜伽行派の唱える唯識佛教においても、歴史的変遷の中において確たる普遍性があったとは思えない節がある。一神教が絶対神であるのに対し、相対的な多神教の佛教において、日本において、ばしめに、ゴータマ・ブッタの悟りの内容を表明すといわれる「根本教理の一つ」とみなされているところにもうなずける。

 私は、「他人が代行できない自分。その根源が<根>が、無意識世界の己の魂の「蔵=阿頼耶識」に棲んでいる。無意識の記憶装置のかで───意識はなんら関与することはないに、命の、魂の根源が刹那の刺激を<識>を通して変化し続けている。

 まだまだ書きたいこと、調べ不足のことが山ほどある。愛用している権威ある岩波の「佛教辞典」に載っていることとの関連はあまりにもくどくなりすぎるで書けなかった。

 それにしても、私がたてた仮説の希望は、一個の生命体としての己が「死ぬまで形而下的世界で生きるために」こころ・身体、肉体、を上げてあらゆる識の感度を磨き、阿頼耶識→末那識→意識→五識・五感を根こそぎつなぎ、生きること。八識のつながりは生態的であり、うねる螺旋のような昇華へのベクトルをもっているはずと思いづけている。


















               
 
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by kuritaro5431 | 2015-01-05 18:38


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