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2014年 08月 15日

日本刀の誕生から量産された太平洋戦争の軍刀まで (2)

 前号からのつづき

⑨先に書いた日本刀はなぜ砂鉄を原料として、割り木を溶鉱炉の燃料としなければならなかったかの問い、その謎がどうしても気になっていた。。
 私が集めた書籍・資料からも、公的資料館、代々木の刀剣会館にも確たる答えはなかなった。テレビの日本史座談会などで、その他の話題に混じって古代の朝鮮半島との貿易があった頃、鉄塊の輸入もあり、それに伴って鍛冶職人も渡来したとの話を耳にしたような気もするが定かな記憶はない。
 また一説によると、一時あった百済あたりからの粗鋼の輸入が、何かのトラブルで途絶え、それからは、日本で自前の溶鉱炉を考えるしかなかったからとの説も。
 シナにおいては、昔の奉天・今の瀋陽に巨大な露天炭鉱があった。満州事変の頃豊かな資源の満州と、新聞に報道されたものだった。広大な露天の棚から、一般庶民も石炭を採取し、冬にはペチカを炊いていた。その地は漢民族3/4のほか、満族、朝鮮族、回族なと少数民族が住んでいた。明、清王朝の時代から、歴代の王朝はこの豊富なエネルギー資源に関心を寄せていた。当初は陶器製造の燃料だったが、偶然に石炭の燃えカスで鉱石を溶かすと粗鉄の塊ができた。それに気づいたのが朝鮮族だったなどの話も聞いたような気がする。百済系のアテルイと坂上田村麻呂とは幼なじみ、アテルイの母の子守歌を共に聴いた仲間だったとの伝説も。そんなまことしやかな話までどこかで読んだ。朝鮮族はペチカでなくオンドルで家屋全体を暖めた。

 これならの伝説のなかで、一番信用のおける書籍を書店で偶然見つけた。それは小笠原信夫著「日本刀─技と美と魂」文春新書571であった。著者は1939年生まれ、早稲田大学卒、日本美術刀剣保蔵協会を経て、東京国立博物館勤務、刀剣室長、工芸課長等歴任。東京国立博物館名誉会員。
 この本の60頁に、かねてからの私の疑問の一部を晴らす短い記事があったのでその部分を引用する。

 「唐太刀から日本刀へ」との小見出しに、
 刀剣類ははじめ中国大陸、朝鮮半島から輸入され、やがて我が国で模倣して製作した経緯があり、それがいま正倉院宝物のなかに伝世している。これらの様式は一様でないが、切刃造(きりっはづくり)直刀(ちょくとう)の唐太刀が当時の最新様式であったとみられる。この片手で握る寸法の柄形式の直刀は平安初期まで続いているが、やがて両手柄用の鎬造彎刀(しのぎづくりわんとう)という日本独特の様式に変化完成いていく(写真省略)。その時期や過程があまり明白にわかってないのだが、平将門、藤原純友(ふじわらのすみとも)らの承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)(935年~)以前には成立していたものと推察される。
 それには蝦夷エミシと呼ばれた人々の用いた蕨手刀(わらびてとう)、立鼓刀(りゅうことう)、(共に明治以降の名称)様式が大きく影響したことは確実だろう。唐手刀は長寸で、柄には柄に木を嵌めているのに対し、蕨手刀、立鼓刀は短寸で、刀身と柄が鉄の友造りとなる。蕨手刀は、柄が棟方(むなかた)反って細くなり、先が早蕨(さわらび)のように丸くなる。中には柄中央に透かしのあるものもある。立鼓刀は柄が握りやすいように中央を細くしている。この蕨手刀が同じ友柄の長寸彎刀の毛抜型太刀に発展したのは容易になっとくできるが、長寸で片手用木柄の唐太刀から、短友柄の蕨手刀へ、さらに長寸両手柄の毛抜型太刀へと変化し、木柄の日本刀が完成したという変化過程はどう考えても適当でない。
 基本的には、片手柄直刀から両手柄彎刀に発展したもので、「断つ」(断ち割るから)、「切る」(切り裂く)への変化があったものと思われる。やがて毛抜型太刀は、衛府太刀(えふのたち)と呼称され、衛府の官人が佩用した。この様式は俘囚太刀(蒔絵銀造俘囚の太刀)ともいったので、蝦夷の俘囚鍛冶の他国移住があったこととあわせて考えなくてはならない。
 また、奈良から平安時代にかけて、衛門府(えもんふ)の衛士(えし)に徴収された板東(ばんどう)の地方豪族の師弟達などが通常佩用していた蕨手刀などが、一般化したものと思われる。横刀(おうとう)、蕨手刀、立鼓刀など後世の脇差しに匹敵する寸法の刀剣は、むしろ平時の武装的服装に佩用したものではなかったか。
 直刀時代の『令義解』(りょうぎげ)の「関市令」(かんしりょう)のなかに、粗悪品は売るなとして、横刀、槍、鞍、漆器などに制作者の姓名を記すべきと規定している。もちろんそのようなな作品は存在しない。しかし刀剣の茎(なかご)に作者の銘は、たがねで切る習慣は平安時代、一条天皇の永延(987~989年)の鍛冶といわれる三條宗近、古備前友成などからみられる。作風もさることながら、銘字の研究は大きな問題であって、刀剣研究で真贋を鑑別するさいに一番問題となるところである。とくに、初期作や晩年の作にみられる通常のものと変わった銘字や、弟子などによる代銘、二代三代の襲名についてである。この問題のむつかしさは、平安時代から江戸末期にいたるまでの刀剣制作を組織・工程・社会制度までも同一視でどうれつに論じてしまうことにより生ずる。さらに、父または師匠の名を襲名すること、弟子が代作して師の許可を得て代銘したもの、別人同名などが入り組んで加わるため、困難さを増している。」とある。
 著者の立場から、日本刀の鑑定に関する側面の謎が、私の取り上げた「三條宗近」においても取り上げられており、納得できた。

 先の朝鮮から送られてきていた粗鋼で造られた「蕨手刀」は、撫順産の石炭からできた粗悪なコークスを用いたものではなかったか、「蕨手刀から日本刀に進化していった時代に一番関わったと思われる奈良が、なまくらの粗悪刀の代名詞のようにいわれた理由を──小笠原信夫・同著『日本刀・日本の技と美と魂』の第九章に"奈良刀と切れない刀"で触れられている。」
 また近年、中国の「熱処理工程をもつ工場指導に立ち会った日本の品質管理技士が、その粗さに驚いた」との話も聞き、これもなるほどと納得した。
 (ブログ筆者・注)東北の蝦夷エミシの流れを汲むといわれるサンカ(山の民/ノマド)が使っていたといわれる、ウメガイという両刃のナイフがある。蕨て刀(わらびてとう)、立鼓刀(りゅうことう)、とのつながりは不明。明治以降銃刀法で両刃の制作・所持禁止となる。

⑩次に、日本と遠く離れたシリアの首都ダマスカスと関わりのあった「日本刀が絡む伝説」。GAINAX原作・庵野秀明脚本・監督のSFアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」。日本での発表・放送1994年~。
 平成25年7~9月、大阪歴史博物館で特別展「ヱヴァンゲリヲンと日本刀展」を開催。主催は、大阪歴史博物館・テレビ大阪・テレビせとうち・一般社団法人全日本刀匠会事業部。
 この特別展のコンセプトは、次のような2項で書かれている。
1,「エヴァンゲリオンとは」(EVA:エヴァ)と呼ばれる巨大な人造人間にのって、襲来する謎の敵「使途」と戦う少年達、そして彼らを取り巻く人間達のドラマを描いたアニメーション。1995年からテレビ放映がはじまった。当初よりマンガとメディアミックス型のコンテンツとして製作されており、後に派生した内容の物語が小説などでも展開される。またこのほかに、プラモデルやフイギヤー製作、ゲームやパチンコでもエヴァンゲリオンを素材とした展開が行われた。
2,「エヴァンゲリオンと日本刀」。昨年公開の『エヴァンゲリオン新劇場:Q』に際して企画された展示会で、岡山県にある備前長船刀剣博物館で開催。現代の日本刀制作者達によって、「エヴァンゲリオン」作品のなかに登場する武器や、、「エヴァンゲリオン」の世界からインスピレーションを得た作品を製作し、日本刀の魅力を多くの方に知っていただこうというものです。大好評を得たためこれまでに全国4カ所を巡回しています。
今回、TV版「エヴァンゲリオン」や新劇場版にも登場する「ロンギヌスの槍」や、「エヴァンゲリオン」の派生ストーリーである、「エヴァンゲリオンANIMA」に登場する「ビセンオサフネ」などの武器が実際に製作されました。
 とありました。
 私も2013年からスタートした「KYOTO CMEX 2013 コンテンツクロスメディアセミナー」参加から、コンテンツビジネスにも関心を寄せ、「既成概念打破の認識・知覚・感性・新しい論理のフラットホーム、それに必要な概念設計=コンセプト、その具象化・形象化のコンテンツ=内容を試行錯誤してきました。」上記のコンセプトを読んで、「年老いた一人の人間の観念+感性の思考か・イマジネーションか、と、思えたりして、私のコンセプトの定義との違いにとまどいました。

 私がこの企画に寄せた関心は、奇怪なビジネス・モデルではなく、「中世ヨーロッパのキリスト教諸国が、聖地エルサレムをイスラム諸国から奪還するために十字軍を派遣した。十字軍は長い苦戦となった。そのとき折れず曲がらぬダマスカス鋼で造られたダマスカス刀が活躍し、勝利した。その話であった。」
 調べてみると、ダマスカス鋼なるものは存在せず、古代インドで発祥したウォーツ鋼がシリアに流れ、シリアで加工されダマスカス鋼と呼ばれるものになった。ウォーツとはインドの地名で、サンスクリット語でダイヤモンドの意。その後ダマスカス刀の工法伝承は途絶え、作刀法不詳となった。再現テストした学者によると、幾種類かの鉄・鋼を多層で鍛え、ランダムに練鍛すると、面妖な模様が現れ、素直に折りたたみ練鍛すれば正目の文様となることがわかった。世界ではじめて生産されていた合金だったのだ。
 その話がいつごろ日本に伝わったか知れないが、2.3年前、熊本の日本の打ち刃物師で、刀鍛冶の子孫と名乗り、日本刀の作刀法(新刀以降)の鋼割り込みの技法を使い、安来鋼の「青紙スーパー」や、多層の鉄と鋼のランダム練鍛による妖艶な包丁が京都の打ち刃物屋に並ぶようになった。とはいえ、日本刀練鍛法における異種の鋼を練鍛だけで接着させる技術は、材料に砂鉄から製鉄した玉鋼を使うのと同等程度の難易度を要すると現存の刀鍛冶は話す。
 話題なった熊本の打ち刃物師は、娘さんが大手広告会社で外国人マニア向け通販企画をやっいた経験を生かし4ケ国語のホームページでナイフのカタログに掲載したことろ、閑古鳥が鳴いていた鍛冶場が一気に活気づき、生産は半年待ちになったとか。
 
 京都三條の古い打ち刃物店で、「タマスカス鋼の柳刃包丁は、いくらからあるの、と聞くと、3万円からといった」「値段が高くくなるにしたがって?」と聞くと、合金の種類が増えるとの、接着難易度の高い鉄を使い、妖艶さ、面妖さを増すからです」といった。産地は、福井、新潟の燕市などといい、顧客の好み、鑑識、刃物店と鍛治師との固有の連携で、特有のブランド力を醸しているようだった。

⑪最後は、日本刀の命といわれる「良質の砂鉄から玉鋼を造り──これが叶えられなくなった安来鋼はどうしたか」、これが私の最大の疑問だった。

 そこで永年伯耆の鋼を研究した今の日立金属(株)が開発した「総称安来鋼」。
 刃物鋼は「紙」と呼ばれる。

 そのランクが

 青紙スーパー
 青紙2号
 白紙3号
 白紙1号
 黄紙3号
 黄紙2号

 青紙1号もあるが極めて希。
 一応高級な順番に並べましたが、刃物は、硬さと粘りなどの配分がありますので、値段だけじゃ何ともいえません。これは、炭素鋼、合金鋼系ですが、他にステンレス系の銀系、ATS34などがあります。
 白紙、黄紙は基本的には不純物を極力低減した純粋の炭素鋼で、焼き入りが難しく、鍛冶職人の技次第で切れ味がよくも悪くもなりやすい。不純物の少ない純粋の炭素鋼です。
 青紙はタングステンやクロムや炭素の化合物(公金炭化物)を含む硬度のある鋼種で、白紙、黄紙に比べて高価。摩耗しにくく長が切れする。

 と、日立金属(株)のホームぺージにありました。


 青紙に関する私ごとを少々。
 五年ほど前に東寺の「終い弘法」を覗いたおり、裏門近くで旧友のDIYアドバイザーに逢い「その先に名のある刃物専門の骨董屋がでてるよ」といい案内してくれた。ジャの道はヘビだ。おやじとも旧知のなからしい。京の宮大工が使ったというすっかり研ぎ痩せた鉋や鑿をならべていた。見ると、鉋の糸裏、鑿のべた裏、の諺通り、痩せてはいても研ぎ手のぬくもりが伝わってくる道具たち。片隅の小振りな紙箱に無造作に2.3本の肥後守が寝転んでいた。その中の一つを取り上げてみると、真鍮の鞘に「登録商標 肥後守定 駒⏋」とあり、カネコマとは肥後守の最高級ブランドであることは子供のころから知っていた。もう出会うこともなかろうと諦めていた刃の厚み4ミリはある「大」の本物。刀身には「青紙割り込み」の鏨がある。
 「いくら?」と聞くと。「一万円」といった。旧友が取り上げていた赤樫の台の仕上げ鉋。「これいいものだよ」とはいうもののひどい研ぎやせの刃。「これ買って合わせて八千円でどうー?」と掛け合ってくれた。
 とても気に入った買い物となった。
 家に帰るなり、粗砥、合成中砥、青砥、本山の仕上げ砥石、の順で念入りに研いだ。髭が剃れるほど刃が付いた。くすんでいた真鍮の鞘も石粉で磨いた。すると鞘の裏面に「笹に虎の絵、元佑作」の銘があった。日本刀に塗る丁子油(ちょうじゆ)をガーゼに浸ませ塗った。年に一度の障子貼り、濡れた紙もよく切れた。地蔵盆のテントでこどもに竹とんぼや水鉄砲をつくってやり、肥後守で鉛筆を削って見せ、削らせた。
 一昨年、和洋のナイフがブームになった折、肥後守の産地、播州三木市のホームページを開いた。「肥後守永尾駒製作所」のホームページに、四代目永尾元佑鍛冶の写真が載っていた。カタログに「笹に虎」が代々の印とあった。
 私は尋ねごとを兼ねて、四代目永尾元佑さん宛に手紙をだした。三日後ご本人から電話があった。写真の印象よりお歳の声だった。「今はもう息子が継いでくれています」「三木では全校児童が肥後守をもって工作しています」「私の銘は、ひごもりさだ といいます」「お尋ねの安来の玉鋼と青紙は別物です。あれは後世日立金属が開発した鋼です」「私の先祖は刀鍛冶ではありません。鍬や鎌の農具をつくった鍛冶屋です」「息子が毎年京都高嶋屋で展示販売の催しをやっているので、その際ご案内します」「あってやってください」とのことだった。
そして今回「肥後守永尾駒製作所」のホームページを開いてみると、四代目元佑さんの写真も「銘」も記されてなかったが、最高級品としての肥後守・笹に虎は健在だった。

 もう一つ私が家宝にしているいつか書いた「金槌」。65年も経ってもへたらない、青紙の鏨はないがキット青紙だ。フラット面を金剛砥石で研いでも容易に降りない代物。


 終戦の日、江見国民学校の校庭で、士官学校の見習い伍長が孟宗竹を校庭に立て、切り込んだが途中で止まりグニャと曲がった。なまくら刀だった。古参の上等兵は、スパッと切った。上等兵は玉鋼の古刀や、新刀は買えなかったとしても、青紙割り込みの軍刀はもっていたことだろう。
 昨年、整骨院のリハビリ待合で、90歳の立命館大学の先輩と同席した。京都法政学校の時代かと聞くと、もう大学になっいて学徒動員で出兵した。角帽に学生服、ゲートルに木銃で「かしらみぎ」、ざくざくざく。満州からシナに渡って、南方に行った者も多かった。学徒動員兵は、軍刀を下げていた。「ガチャンポン」とみんないっていた軍刀を。どんな刀だったかしつこく先輩に質問したが、記憶がないという。ただなんどもみんな「ガチャンポン」といっていたことを繰り返すだけだった。


 この記事の最後に2014.7.10に聞いた「政経伝論」解説メディア のビジネス編。

 そのときのタイトルは「ヒットメーカーの憂鬱」
 
   幻冬舎・見城徹
        ×
    作詞家・秋元康
        ×
     尊徳編集長
   の動画対談・放談

 自己嫌悪の中で懸命にクリエートとするクリエーターの憂鬱と厭世。
 カテゴリー別のバックナンバーあり、ご存じでない方必見を。













              
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by kuritaro5431 | 2014-08-15 13:33


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