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2014年 08月 09日

日本刀の誕生から量産された太平洋戦争の軍刀まで (1)

 前4シリーズで「フェティシズム」をキーワードにして3つの「霊性」を追った。洋の東西の古代人も魅せられたり憑依したキラーのパワー→日本的共同体の絆社会が醸した特有の「虚実ない交ぜ」の人間苦楽実存の物語───神話、伝説の物語文化→左の極限・右の極限、果てしない両極限───その「双極性」のなかに存在する黒白(こくびゃく)の、善も悪も相対化させる三次元の広大な相対的世界、無限の対意概念が存在する。概念のみにとどまらず心と体の詳細な機能をどこまでもリアルに捉えるリアリテイが子供も大人も、科学者おも納得させるリアリティを醸す作家もいる。それらをビッグデーター「京」をもってセグメントし、さらに垣根を越えてトータルな発展のために使うとしている人もいる。元日本最大のERPカンパニーも参加を名乗った。

 この大げさな命題を、私の至って個人的なインタレストで表題と付き合わせてみることになるが、おそらく私の「内奥にある自己嫌悪が増幅することになるのは明らかだろう。が、それを81歳の私はなんとかクリエイトの源泉にトランスファしてみせると苦悶している」。毎朝、寝床で四時に目覚め、昨日の苦悶が至福の時間となって、アレはこうすればどうか、コレはこんなアプローチはどうか、などイマジネーションとなってわくわくする楽しい時間となる。そして昼間はまた憂鬱の時を過ごす。今はただこのブログを書くために、周辺に満ち満ちたアンチテーゼ=対意概念の定義検索に時間を潰している。やがて抽象が具現化と実行のストーリー・物語となる。ロジカルシンキングは有効なツール。


 こんなおもいをひっざげて、本論に入ることにしよう。
 日本刀にまつわる話は、これまでに何度かこのブログに書いた。いろいろあるなかで、至って個人的なこことして、発達障害→社会適応障害の自覚と「自立へのもがき」→「脱出への手がかり」としての刃物だった。

 「私は、幼少の頃から心身が至って脆弱・病弱だったことから母方の祖母と母親の過保護・過干渉で育った。その理由は、私より一年先に生まれた待望の男児が生後半年で脳膜炎で亡くなった。翌年生まれた私がこれまた病弱だった。おそらく先に亡くなった嬰児の悲しみも癒えぬまに、病弱な私もまた自力で育たたずまた───という恐怖にも似たおおのきで日夜を送っていたものと、思春期になって知った。自我がふつふつと芽生えはじめた頃の私は、もう取り返しのつかない自分ができあがっていた。学力は低下し、意欲もなく、関わるすべての人(親も教師も友達も)を嫌悪し、まさに後に気づいた発達障害児そのものとなり、自己おも嫌悪するようになりそれは増幅していった。
 その頃の自分が、孤独の世界で唯一楽しめたのは、母方の曾祖父(祖母の父親)が長崎で蘭学を学び、田舎に帰り医者をしていたころ使っていたという錆びたメスや曲がったハサミを研いで見たり、村の鍛冶屋で打ってらった肥後守を研いだり、さらに石粉で磨いてみたり、鍛冶屋でもらった油を塗ってみたりしたことだった。
 中学一年の終戦の日は、家の向かいの江見国民学校が熊本士官学校の疎開分舎になっていて、なぜ二階に一人でいたのか思いだせないが、玉音放送を聞いた炊事当番兵が泣きながら手押しポンプの井戸端で米を研いでいたのを二階から眺めていた。私も理由もなく泣いた。
 翌日は士官学校の生徒をはじめ古参の上等兵やら全員が、校庭に小銃・機関銃などの兵器を並べ、銃に刻んである菊の紋章をエンピ(背嚢に付く小型スコップ)で、削り取っていた。皇国日本の象徴を付けたまま、MP(アメリカ占領軍憲兵)に渡すわけにいかなかったからである。
 私を可愛がってくれた古参の上等兵が、明日は供出する軍刀で孟宗竹を校庭に立ててスパッと切った。若い見習伍長も同じようにやったが、刀は途中で、グニャッと曲がって止まった。曲がった刀を石で伸していたが鞘には入らなかった。
 翌朝その上等兵が私を呼びにきた。軍刀を供出する前に山に行き思い切り雑木を切りまくろうと。私も仏壇の戸棚にあった曾祖父が長崎から持ち帰ったらしい朱鞘の平作りの脇差しを持ち出し、一緒に山に出かけた。雲一つない晴天だった。上等兵は、五センチもある雑木をこともなげにスパッスッパと切っていった。その行為を咎める村人などいない。私も習って、小枝を切ったが、胸がすくような手応えはなかった。
 三日後、熊本士官学校の一団は、それぞれ故郷に向かって旅立った。あの上等兵は、私に記念にと自分のしていた腕時計をくれた。防弾の文字盤ガラスは擦ると甘い香りがいつまでもした。
 その後の私は戦後のどさくさも絡み、旧制から新制へとかの転校や、農地改革で遺産の田畑が取られると、父は教員の定年を待たず父の郷里に隠遁し、家族全員自給自足も兼ね美作東北の果てに引っ越した。
 私は近くの高校に転校したものの、重症と自覚できるほどの発達障害・社会適応障害に縛られていた。躁と鬱が交互にやってくる〔双極性障害〕だった。
 その双極性障害がほぼ抜けたのは、立命館大学経済学部に入学してからであった。それ以後の話は、部活・映画研究部で曲がりなりにも機関紙に評論や論文を書く訓練をやり、当時は「議論はあくまで生産的であるべき」をモットーに、今思えばディベートの訓練をせっせとやっていたことになっていた。四回生で、梯秀明教授との出会いがあり、その後につながった。


 そこで日本刀の話になるが、謎の多い日本刀をザックリ「日本刀とは」とまとめてみると次のようになる。

①彎刀(平安時代中期以降)の「太刀」と「刀」。
 「太刀」は、上に反り、「刀」は、下に反る。「太刀」は佩くといい。「刀」指す、という。
 太刀も刀も、刃渡り二尺以上のものをいう。二尺以下一尺以上の刀を脇差しという。鍔のあるものをいう。
 一尺以下が短刀となるが、短刀には鍔はないので刀といわない。
 太刀なり、刀なりを「佩き」「指し」て、左の外側にあたる刀の面を、いずれも「表」といい、その内側・反対側を「裏」という。これは「脇差し」「短刀」も同じ。
「表には作刀鍛冶の名、号、国・住などが鏨で刻まれる」。
「裏には、作刀年月、依頼人、試し斬りをしたなら依頼人と執行人(歴代公儀御用の試し斬り山田浅右衛門)、首のない処刑された罪人を、土壇場(赤土の盛り土)に乗せ、一人、二人、三人、四人、と積み、三人を一刀で切断すれば「三つ胴裁断」の金の象嵌が入いる。最大「四つ胴裁断」あり。

②日本刀の定義は「玉鋼でつくられた剣」とあるが、古刀(慶長四年まで)、新刀(慶長四年以降明治まで)といわれるも明治以降の現代刀にはあてはまらないので、定義不明とも。
古代の日本は、コウクスが入手できなくて、やむなく「砂鉄を蹈鞴で炭火の低温溶鉱炉」となったとの説が主流。世界の剣で低温(炭火)作りは、日本だけと。

③古刀とは、すべて一体の鉄で作刀された。刀身に弾力を持たせるため、鍛える過程で火の粉を飛ばして脱炭(カーボン粒子を飛ばす)した。刃の部分は脱炭しない。それで折れず曲がらぬ日本刀となった。

④新刀は、刀身に軟鉄を、刃の部分にカーボーン粒子の多い鋼を「割り込み」抱き合わせた。この割込み技術には、異なる質の鉄を接着し、一体の刀にする技術が必要で、これを日本刀特有の技術ということにもなった。(これは後世、玉鋼が高価で使えなくなったことから、有名刀剣鍛冶の子孫の技術を継承してと、いう現代の日本の刃物屋、日本の打ち刃物屋の流れをつくった)。ここにも日本刀の亜流が絡む疑わしい謎も絡んで、歪んだ商業主義ともなったきらいがある。
 

⑤刃紋は、焼き入れ前に「焼き刃土」を刀身に塗り、刃になる部分には塗らない。そうしておいて焼き入れの水槽に浸けると、焼き刃土の塗られてない部分は、「鋼特有の変態(カーボン粒子が凝縮し、硬度を増す)現象を起こす」。そうしておくと仕上げの研ぎ工程で、鉄片で磨き上げると微妙な文様が現れる。それが刃紋である。流派、刀工によって千変の文様を醸し、武具でありながら鋼の工芸美を生み出した。
 治金工学では「熱処理」といい、固いだけでなく、粘り強さをもたせるため、一旦焼き入れた鋼を「焼き戻し」の工程が入る。日本刀の「焼き入れ」も同じ工程が入る。
(注)「経営計画においても、理想的な〝あるべき姿〟だけの計画では、臨機応変の対応力に欠ける。だからビジネスにおいても、「焼き戻し工程」を織り込んだプランニングが必要だ」ということ。同時にマニアル依存のマネジメントに警鐘を鳴らしているともとれる。アナログ的、アドリブ的対処は経験値=キャリアにおいてのみ形成される。

⑥日本刀の焼き入れと、「折れず曲がらず、美しい」は、刃紋だけでなく、刀身の地肌(板目肌、梨地肌、銀筋流し、などなど)であり、刀身の厚み、反り具合いなどもまた、刀鍛冶の流派・刀匠の美意識によって形成された。
 萬屋錦之助が演じた「子連れ狼」の拝一刀がもっていた実戦本位の重く太い肥後の「同田貫・どうたぬき」もあれば、公家がもっていた戦闘には使い物にならない華奢な細身の太刀もあった。
 そこには日本古代からの朝廷と、武家と、鍛冶職人、などの階級社会と経済構造もあったはず。
 これらはみな日本刀の素材・砂鉄からつくられた鉄「玉鋼」であり「銑鉄」と切っても切れない関係があった。
 「鉄を支配する者は国家を支配する」と、素戔嗚尊スサノウノミコトが出雲の斐伊川の上流(現在の奥出雲・吉田町・横田町)に棲む八岐大蛇を成敗し、同体からでた太刀が、天叢雲剣(あまのむらくもの つるぎ)(草薙剣(くさなぎのつるぎ)とされ、出雲の国の神話と、大和の国の神話とつながり、ヤマトタケル日本武尊がその太刀で熊襲を成敗。この話は記紀神話の謎に繋がる。
 戦後の日本においても「鉄は国家なり」といわれ、高度経済成長にかかせないものだった。
 私はこの話に興味を持ち、Jコンサルファーム時代に、出張の合間をみて、奥出雲の吉田町・横田町を訪ねた。そこには、伯耆の砂鉄を支配した一族の記念館があった。そこには与謝野晶子も逗留したとの短冊もあった。野蹈鞴時代から里蹈鞴の時代まで良質の玉鋼、銑鉄を境港から各地に供給したところであった。(この話は以前、このブログに書いたのでここでは割愛する)。
 その後、日本固有の砂鉄からの製鉄技法は、安来の日立特殊鋼・現在は日立金属に引き継がれている。安来市内には日立金属によって維持された蹈鞴製鉄の資料・模型。当時の生産物など展示されている。
 そんなわけで、この地方で古代から産出された良質の鋼をいつしか、「安来鋼」といわれるようになった。
 ところが砂鉄からの製鉄で良質の玉鋼をつくるということは、金を精錬するより高くつくことになり、いわゆる「安来鋼は変遷する」その研究と技術は、企業秘密であり、国家秘密の技術であったかもしれない。
 その件は後ほど────

⑦それと日本刀の作刀全行程には、多くの職人が役割分担・分業化し、徒弟・世襲も交えて技術、美意識・誇りが長い歴史のなかで継承されてきた。
 「刀の拵え」(刀身の彫り師・一般には焼き入れ後、鍔師、柄・つか師にしても多様な部材が工芸の粋をもってつくられた、鞘にしても太刀と刀は違い一振りごとに刀身に合わせ狂いの少ない朴の木をもちてた、鞘は塗り師に渡り漆工芸がシンプルにそしてときに華やかに粋に、小柄にしても蒔絵とと象嵌を凝らしている、研ぎ師によりよく切れしかも刃紋と刀身の地肌の美が完成する、そして完成した太刀や刀を包む刀袋、拵え刀は錦の袋、白鞘は無地の袋と決まっている、その袋は白い房のついた白い紐で蝶蝶結びで房を垂らす、などなど、日本刀→日本人の美意識→魂は、細やかな儀の所作と繋がっている。拝刀するときの所作も定められている。)。
 これらは、このように幾つもの部品に別れ、それに刀匠の流派が絡み、職人間における主従関係、依頼者の権力、権威、制作資金の出所なども複雑に絡みながらもそれなりになりたっていたと思われる。
 納得のゆく完成度と美意識は、依頼者の厳しい要求と批評眼、日本の美に精通した刀剣鑑定士もいた。それに挑戦した各部位の職人技と心意気。たった一振りの刀のために投入した血を吐くほどの訓練と、加工のために費やした時間。時間コストを越えて創出された物の価値。
 現在読者の皆さんの宅、ことに田舎に故郷をもつ人は、刀タンスか、仏壇の下に刀が二振りや三振りはあろう。ところが重要刀剣でない限り、また刀に心得のあった祖先を引き継いでない限り、大抵鞘のなかで錆びている。そこそこの名のある刀工の作であっても、錆びた刀は値打ちはない。研いで作刀されて当時の姿が再現されれば文化工芸品として評価される(値が付く)。深い錆は研ぎ降ろしても消えない。深錆でなくても錆を降ろせば研ぎ痩せする。作刀当時の姿でなくなる→評価は下がる(安い値となる)。そう錆びていない刀の普通の研ぎ料ご存じてすか、1寸1万円です。刀は一般的に二尺三寸だから、23万円というのが相場です。本研ぐぎ(刃をつける)は、寸・一万二千以上でしょう。すると二尺三寸の刀で27万円以上といわれるでしょう。
 バブル景気の最中、京都四条のど真ん中に「常信」という名刀「虎徹」や「一竿子忠綱」などを委託販売していた由緒ある刀剣店があった。鑑定書はあるものの真贋の程はわからなかった。そのなかには、拵え付で立派に研がれた刀剣便覧にも載っている刀が30万、40万で売られていた。無名のもので気に入ったものが20万でも買えた。だから研ぎ代は現代のコストで、刀の相場は、込み込みでと妙なものだった。それは本研ぎの工程に荒研ぎから、中研ぎ、仕上げ、さらに刃紋と地肌の美しさをだすために最後は鋼の鉄片を指で半日も磨くことを知っていたから。
 私がはじめてIBM360モデル20に出会った1969年、生産性向上とは時間コストを下げることとイコールだったことへの疑問だった。宮崎駿の「風立ちぬ」のアニメのテーマは、「戦前の時間と、現在の時間との落差といった人がいた」と以前のブログに書いた。それは分かるとしても、古代の日本刀作刀工程のコスト/価値の方程式を肯定評価するのは、世界の0.001%ぐらいの富裕層か。これからの世紀で人間が求めるクールジャパンはどこに軸足をおけばいいか。確かに、日本刀作刀のなかに、クールジャパンのコアは存在する。

⑧明治維新前夜、刀鍛冶の間で「古刀の作刀に戻れ」の運動が起こった。姿は似た刀ができたにはできたが、切れなかった。後の治金工学の学者の研究で、古刀の断面と、この「古刀に帰れ運動」でつくられた刀の断面の電子顕微鏡写真比較が行われ、一つには鋼の焼き入れ時におけるマルテンサイトの変態密度が違っていた。古刀の密度は圧倒的に濃かった。鋼に含まれる不純物、燐と硫黄とマンガンが非常に少なかったという2点だった。
奥出雲の野蹈鞴で赤松を伐採し、皮を剥いていたという記録は、赤松の皮に燐が多かったことを古代の人は知っていたことになる。硫黄とマンガンの少ない原因は、私の調べたところでは不明だった。

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by kuritaro5431 | 2014-08-09 13:28


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