2014年 06月 11日
このブログで、日本刀を取り上げたのは2009.5.5の「日本刀との出会い」からだった。 元々日本の刃物に執着心の強かった私は、幼い頃から脆弱な心身を補強する呪術的感性を無意識に求め彷徨っていた。永い間─── 2009年時点での社会環境は、~1993年バブル景気崩壊。2008年のリーマンショク前。 私は1986年62歳でコンサルファームJを退職した。入社時では定年なしの約束。70歳でも現役で年俸3000万円のコンサルもいるとのことだった。 バブル景気崩壊後しばらくJファームに在籍していて、バブル崩壊後の各社の人員調整(出向・転籍)→リストラのまっただ中で企業向けの「リストラ組社員の自立支援のコンサルティングプログラム」をつくり、彼らと会社を支援した。私の支援プログラムの柱は「キャリヤの転職先向け再訓練と、個として己の自立」だった。ここでは、「個の自立支援」でやった私の固有技術について述べることにしておく。バブル期には「~テクノ」が流行り、マネジメント畑でも、コンサルのスキルを固有技術などと呼んでいた。いかにもロジカルに聞こえたから。 私の固有技術の柱を、今まで関心のあったマインド・サイエス系のもの、それに日本的テイストとして、日本の佛教(おもに梅原日本学から学ぶ)。心理学系ではエリクソン系の発達心理学とアイデンティティ論。後、河合隼雄先生の日本人向けアイデンティティ論。日本的ロジックには、かなり衒学的だが「唯識佛教のこころの構造」「深層にある無意識世界の〔阿頼耶識〕」これを実務にも使えるロジックにしょうと試みた。「唯識論理療法」も囓ったりした。それは必ずしも教理に叶って学ぶというよりは、社会、会社、自己との関係でこの時代をどう凌ぐか、生き延びるかにコンセプトを置いたものだった。私が当時現実と繋ごうとした〔阿頼耶識〕の概念は、2009.5.6のブログのチャート。そのコアを主体にもった「個と会社」の関係性をどうあるべきか。そのベースになるものは社員個々人の内発的モチベーションとした。それが2009.5.2の「自立してゆくしかない時代」に添えたチャートである。このチャートは今でもよくできたものと自画自賛している。が、当時は多少の評価もされたが、政治も経済も金融も大きく変わった今、単純すぎるといわれそうだ。 その頃、いやそれ以前から遠のいてはまた思いだし、とぎれとぎれにつづいた日本刀へのインタレスト。自己の弱さの根っこを切除する。牛刀でなく、剃刀でなく、呪術性と原始共同体社会に根をもつ日本人の魂と美学。それは私という固有の人間の「志向性」からくる空想、幻想の内部増殖と意識はしていたが、自然発生的に増殖していった、今日まで。それはひとえに「脆弱な自己の改造」のために、であった。 子育て時代は、そんな妄想に耽ってはおれず、生活のために働き、多くの時間、そのことを忘れていた。 再度日本刀へのインタレストが膨らんだのは、バフル景気崩壊後「己の個の主体」を考えもせず、路頭に迷った多くのサラリーマンを見て触発されてのこと。 会社・ときの政府の言い分は不条理であったとしても、「己の生」は、己で凌いで行かねばならない。「社会の仕組み・制度、自分が所属する組織(昔は藩、現代は会社)に頼って生きるか。自力で生きるか」。前者の生き方を「共同体社会での隣人助けあい」といい、後者を「個力・キャリアで働き、自力で稼ぐ生き方」といったもの。政府も「21世紀の社会構造委員会報告」をバブル崩壊直後に「個の実現を支える新たな絆を求めて」のタイトルで経済企画庁国民生活局編で発刊している。ここでは、日本的集団主義(絆)は否定しないが、個力中心の集団主義にこれから移行すべき、といったのである。 そこで、まだJコンサルタントファームにいた私は、「リストラ組社員の自立支援のコンサルティングプログラム」の一端として「自力で生きる」概念と「現実の働き方」の枠組み=実現性がイメージできるロジックチャートを中心としたものをつくった。営業を通してプロモートした。中身は概念止まりで済む世界でないのでOUTPUT=コンサル成果、はストーリー的計画書と、場面ごとのアドリブでやったもの。よく批判されるコンサルタントのハウツウ指向は、Jファームのコンサルタントは全員が嫌ったものだったし、だれもやらなかった。 それにしても、この難問は、コンサルファーム各社も確たる成果は出せなかった。 これらの経緯で、私ごと日本刀との関連は、「原始共同体的=絆頼り」対「個力・自力」を対意概念とするバンラスの問題だった。前者の概念や感性を抑制したり、捨てたりせず、そのままにしておいて、後者の概念と感性のオクターブを上げればいい。私はそう考えた。日本刀のように折れず曲がらずよく切れる──その歴史をたぐると、何かヒントがありそうな。 日本刀の定義は、玉鋼でつくられた反りのある劍・刀であると、ものの本にある。ものの本とは定かな定義が述べられた本が見あたらなかったという意味である。 彎刀になった時期は平安時代の前期あたり。それ以前の日本の太刀は、直刀だった。彎刀は、渡来してきた騎馬民族が馬上からの戦いに優れていたから使っていたものとの説。その騎馬民族とは、南から北に向かって進んだ大和朝廷に従わず、東北・岩手あたりで「まつらわぬ民」として永く戦った蝦夷(エミシ)。その首領「悪路王」こと、あの「アテルイ」。蝦夷が使っていた彎刀は、「蕨手刀」(わらびてとう)という柄まで鉄の小刀(二尺以下・一尺以上、日本刀でいう脇差)で、日本刀のような切っ先はなかった。奈良・正倉院に現存。その蕨手刀は、渡来した騎馬民族の鍛冶は、百済との交易ルートをもち材料の軟鉄を持ち込んだとか。定かでない。私の調査力のおよばぬところ。 さらに日本刀は世界の太刀のなかで唯一低温(炭の火力)でつくられていると。なぜか、それはコークスが入手できなかったからと。コークスを使う溶鉱炉は、現在の高炉である。鉱石をコークスの炉で溶解し鉄の湯を取り出す製鉄法。ところがこの製鉄法では、硫黄と燐とマンガンがかなり混入するとある。 というぐわいに、つじつまの合わない謎だらけの日本刀。その他にも興味深い謎がある。その謎には「フェティシズム」が絡んでいるように思えるから面白い。 私は永年の内に、「鉄」「和鋼」「玉鋼」「日本刀作刀法」「古刀・新刀の違い」「刀鍛冶の流派」そして「日本刀にまつわる物語」などの書籍を随分買い込んだ。。最近では、今まで手の届かなかった謎が、かなりインターネットで検索できるようになった。その情報も、日本史では当たり前となっているものから、真偽ない交ぜのものまで広く深く広がった。 最近偶然書店で見つけた、小笠原信夫著『日本刀──日本の技と美と魂』文春新書730円は、今まで入手した本や情報のなかで一番満足もゆき信用もできる本だった。東京国立博物館勤務・刀剣室長。 最近妙に気になる二種の言葉。松尾芭蕉の①「不易流行」と②「虚に居て實を行うべし。實に居て、虚にあそぶ事はかたし」と、神仏系の人がいう③「諸行無常」と④「輪廻転生」。私はこの二種の言葉は、アイロニー(対意語)と思えるのだが。 ①は、「蕉門に、千歳不易の句。一時流行の句といふあり。是を二つに分けて教へ給へる、其の元は一つなり。去来」。②は「想像の世界に身をおいて、真実を表現せよ。事実にとらわれていて、想像の世界に奔放に遊ぶことは、難しいことである」。 ③は、「あらゆる現象(人間存在も含め)は変化してやむことがないという理」④「生ある者が生死を繰り返すこと」 玉鋼(たまはがね)とは、純度の高い和鋼(わこう)のこと。鉄の純度は、硫黄と燐とマンガン(鉄が嫌う不純物)が極度に少ない鉄を指す。玉鋼は砂鉄(1山砂鉄・2川砂鉄・3浜砂鉄) からつくられる。山砂鉄が一番。古代の玉鋼は、赤松の山林の斜面を堀り、赤土混じりの山砂鉄を採取した。斜面に池を掘り、疎水をつくりその溝に赤土混じりの砂鉄を流し沈殿した砂鉄を選別した。溜まった砂鉄を野蹈鞴(のたたら・1メートルほどの縦穴)を山の中腹につくり、近隣の赤松の木を伐採して割り木にする。赤松の皮には燐が多く、そのため皮を剥いて割り木にしたと。その時代赤松の皮に燐が多いことだれが知っていた? 野蹈鞴の上に赤松の割り木を井桁に組んで、七昼夜燃やし、燃える蹈鞴に人夫が交替で砂鉄を放り込む。七昼夜過ぎ冷えた蹈鞴の底に、溶けて固まった1トンばかりの粗鉄の塊、鉧(けら)ができ、それをコロを敷き人夫が里に降ろす。 里では、役割を持つ今でいう技師たちが、鉧を粉砕し、玉鋼と銑鉄に選別する。鉧に含まれる玉鋼は10 %もなかったとか。このようにして砂鉄が製鉄されのは古代の一時期と思われる。平安時代の初期か、奈良時代の後期までと推定できる。 この時代から玉鋼の名産地は伯耆の国、安来だった。JR山陰線安来駅から南、中国山脈の麓に奥出雲の集落がある。横田町、吉田町、砂鉄記念館もある。八岐大蛇伝説の斐伊川の上流である。今も年に一度、伝統保存事業として、粘土作りの長方形の里の蹈鞴で古代の製鉄法で吹いていた。 私がJファームにいた頃、3年ばかり松江近辺でコンサルの仕事があったので、現地で空いた日程を「和鋼・玉鋼・安来鋼」と「古代日本の製鉄法」の探索にあてた(ファームでは居場所さえ告げておれば比較的行動は自由だったから)。 その頃の私はもう足かけ30年ばかり日本刀研究に首を突っ込んでおり、日本刀に関する基礎知識は粗方持っていた。 その過程で、日本刀の「謎」はなんといっても素材としての鉄、日本独自の玉鋼にあると、どの研究者も口を揃えていたので、その時点では素材の鉄に焦点を絞っていたものだ。 安来市内の「和鋼記念館」(日立特殊鋼KKがなんといってもこの領域の権威)や、奥出雲の吉田町・横田町にある資料館を回ると、野蹈鞴時代の操業模型や当時産出された砂鉄の標本もあった。不定住の人夫が過酷な砂鉄採掘と、七昼夜不眠の蹈鞴操業。そこには当時から(平安時代中期くらいか)れっきとした管理組織があったように伺える。地域の豪族、村の庄屋、下級武士、蹈鞴操業にかかわる技能職種(結構分業化されていた模様)の階級、その下に不定住人夫家族。そこには村組織があったと見える。 伯耆の国以外では、中国山脈を越えた美作の国(現・岡山県西粟倉村大茅)の蹈鞴製鉄跡「大茅の鉄山」。播磨の国(現・兵庫県宍粟市千種)の規模の大きい「千種の蹈鞴操業集団」。山の斜面に段々の石垣の屋敷跡があった。(ここはアニメ「もののけ姫」のモデルになったところ)。両蹈鞴製鉄跡は、同じようなたたずまいを醸し、広場には蹈鞴操業を祀る火の神の祠があるり、集合便所らしい跡には、どてかい赤い棘のある羊歯(しだ)が群生していた。それはあたかも火傷して転げ回って死んだ人夫の怨念のように。 不定住の人夫たちは、野蹈鞴時代から山に赤松がなくなれば他の鉄山に雇われて渡る。里の蹈鞴時代では砂鉄採掘の山が枯れると、家族ごと他の操業村に移っていった。不定住の山の民とも…… 現代で蹈鞴操業でこの鉄を製鉄すれば金より高くつくと。 平安・鎌倉時代においても、良質の玉鋼の採掘は、資源の限りで衰え消える。以降は神社仏閣の解体で出た古釘、農具、大工道具などの古鉄を混ぜて使うようになり、作刀鍛練法も変わってゆく。 慶長四年?以前を古刀といい、それ以降を新刀といった。古刀は一体の鉄でつくられた。新刀は、刃の部分にカーボン粒子の多い鉄を入れ、胴は柔らかい鉄で巻いた。その頃には、渡来の蕨手刀の素材も製鉄法も日本流に昇華して日本独自のものとしての日本刀が完成していた。縄文の魂が渡来の鍛冶たちの技法を受けながら、日本の技と美と魂になっていった時代といえるだろう。 次の(3)では、一条天皇の勅命を受け、「小狐丸」という名刀を、稲荷山の狐の合槌(向こう槌)のお陰で作刀でき奉納した、京都三條粟田口の名工、三條宗近の伝説に────
by kuritaro5431
| 2014-06-11 07:41
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