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哲学から演歌まで  

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2013年 11月 21日

もう一つの「断・捨・離」

 この言葉を小学二年の孫坊主がきてるとき、なにげなく私の書いた「無」一字の草書の額を見て、「だんじゃり」といった。
「それどういうイミー? 教えてぇ」というと、
「シイーラナイ」といって、ぷいと立ち去った。
 その無の字は、大正五年に原本作成の『五體字類』辞典の王寵の書体から選んだもので、孫が読めるはずもない。まして、どこで聞いたか「だんじゃり」という言葉。

 私が「断捨離」という流行り言葉を見たのは、2~3年前の女性月刊誌の新聞広告だった? その特集見出しに大きな変形角ゴジックを見たときだった。その媒体とは実に不似合いな〈突如、世から姿を消したともいわれる元・女優原節子・1920年(大正9年)生まれ、現存九十三歳〉その人を即連想した。
 女優としての活動期間は、1935年(昭和10年・15歳)~1962年(昭和37年・43歳)だから現在50歳以上の人が彼女の活動期と重なることになる。恐らくこのブログの読者は、日本映画関心者でない限り、関係性エリア外の人と受け取られよう。

 彼女は、芸能生活28年で108本の映画に出演し、当時を代表する監督たち、黒澤明、吉村公三郎、木下惠介、今井正、小津安二郎、成瀬己喜男、他に出演し、日本映画史では彼女を外して語れない存在である。
 その彼女が1963年小津安二郎監督が60歳で亡くなったのと同時に、43歳の若さで、公の場から忽然と姿を消した。最後に彼女の姿を見たのは、小津監督の通夜の席で、なにも語らず銀幕を去った。彼女ほど謎に包まれた女優はいない、と語った記者たち。


 その孫坊主の吐き捨てた言葉に、女性月刊誌の広告の見出しが甦った。
 それは、私としていたって個人的・生理的ともいえる肌感覚の五感が反応したものだった。

「断・捨・離」という3つの単語を1つづつバラスと、その言葉の意味が鮮明に浮かぶ。

「断」は、世間とのつながりを断つ。世間さまの目からも。
「捨」は、世(社会)から、人(個人個人)から、受けた恩も情けも一緒に捨てる。
「離」は、どんなに深い関係のあった人でも別れなければならないときは、きっぱりと離れ、スックと立っている。

 この3つの言葉の解釈は、私が思ったことであり、「ままならぬ世においても、世間さまに、他人(ひと)さまに頼らず、すべてを失っても、閉ざした孤独の世界で生きてゆく」であった。一見日本的無常観に似ているようではあるが、「閉ざした孤独」というイメージには、彼女の理性で人工的に外界と遮断してみせる。という決意を感じたものだ。
 それは純粋孤独の世界であり、他者との義理や人情を行動規範にするのでなく、理性的判断で生きるという西欧流の生きざまとも符合する。日本人は、自然と同化して、無常に生きるという悲しみ、諦観の文化が日本人の美意識を裏打ちしている。それはそれとして、この現代において、少なくとも私は原節子の生きざまに良くも悪くも共感する。無常でなく無に近い自己規制であると思う。その姿勢は決して傲慢でなく、心豊かな内省と思うからである。


 彼女の生い立ちには影の部分があった。彼女だけではなく当時はだれでもそうだった。今だからなおそういえる。
 彼女は、横浜生まれの8人兄弟(男3人、女5人)で、私立の高等女学校に進学するも家庭の経済的困窮で女学校二年(1935年4月)で中退。次女の結婚相手が映画監督だったので、その人の勧めでで日活に入った。その年『ためらう勿れ若者よ』田口哲監督作品でデビュー。その翌年、日独合作の映画『新しき土』(昭和12年)への出演。その映画のヒットで、一躍銀幕のスターに駆け上がった。その後彼女の出演する映画は高い興行収入を上げた。
 その頃彼女に浴びせられた言葉は「大根女優」だった。いくらなんでも、なんの修行もしていない小娘が、いきなり女優になれるなんておかしいと彼女自身も思っていたらしい。
 さらに、事実上のデビュー作『新しき土』(東宝発足で原は東宝に移籍)は、昭和12年11月25日に締結される「日独防共協定」、ヒットラーやナチ党のプロパガンダ映画だったのだ。ドイツ宣伝省の工作もあり、原はドイツで大歓迎受けている。
 そして太平洋戦争中は、義兄の影響を受けてか、国粋主義思想に影響され、多くの戦意高揚映画にも出演している。

 戦後も、演技の未熟な女優として映画界の評価は変わらなかった。そんななか小津安二郎監督だけは彼女を評価していた。「一時世間から美貌がわざわいして演技が大変まずいとひどい噂をたてられたこともあるが、僕はむしろ世間でうまいといわれる俳優こそまずくて、彼女の方がはるかに巧いとさえ思っている」と擁護していた。
 そんななか彼女は、資生堂のイメージガールなどに起用されたりした。
 その時期彼女に転機が訪れた。黒澤明監督戦後初の作品『わが青春に悔いなし』のヒロインに抜擢されたのだ。このとき東宝紛争があり、新東宝に移り後フリーになっている。フリーでの第一作が、初の松竹作品、吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』(1947年)がヒットし、戦後のトッフ女優の地位を確立した。
 つつく1949年の今井正監督の『青い山脈 上・下』では女性教師役を演じ、古い日本の習慣を脱ぎ捨てようとハイローキーな明るい映像、服部良一の同名主題歌、藤山一郎が醸す清浄な本格歌謡とともに、戦中の彼女のことを皆忘れて、喝采を送り、大ヒットとなった。(この段落では「原節子ーWikipedia」を参考にした)


 私ごとになるが、私がこの映画を見たのは、旧制中学の3年か、新制高校一年だった。旧制中学から新制に変わるどさくさのなか。まだ美作の田舎でも食糧難はつづき、農家でなかったわが家の食料調達は大変だった。父は遺産の農地が農地改革でとられると教職をを定年前に辞めて、隠遁すると決めていた。父も祖母も、母も、近隣の村で小学校教師をしていたので教え子を訪ねて1900年生まれの元教師の母は、衣料の行商に周り、米と物物交換して村々を歩き、食料調達していた時代だった。

 当時の私にとっての今井正の『青い山脈 上・下』は、強烈な思考および感性変換をもたらした映画で、後にでた「青い山脈」はどれも見なかった。当時から数えて何回見ているだろう、今年だって2回みている。その中の原節子は、今井正監督の「青い山脈」のなかの原節子であった。
  
 その年の邦画のキネマ旬報ベスト10は、

 ① 晩秋(松竹) 小津安二郎監督 原節子・出演
 ② 青い山脈(東宝) 今井正監督 原節子・出演
 ③ 野良犬(新東宝) 黒澤明監督
 ④ 破れ太鼓(松竹) 木下惠介監督
 ⑤ 忘れられた子等(新東宝) 稲垣浩
 ⑦ お嬢さん乾杯(東宝) 木下惠介
 ⑧ 女の一生 (東宝) 亀井文夫
 ⑨ 静かなる決闘(大映) 黒澤明
 ⑩ 森の石松(松竹) 吉村公三郎
  
 この年の日本の出来事

 ・湯川秀樹吐博士ノーベル賞受賞
 ・芥川賞復活
 ・前進座員69名、共産党集団入党
 ・古橋廣之進ーフジヤノトビウオ
 ・ドル360円設定
 ・教員のレッドパージはじまる 
 ・近江俊郎の演歌「湯の町エレジー」大ヒット

 その年の洋画キネマ旬報ベスト10

 ① 戦火のかなた (伊) R・ロッセリーニ
 ② 大いなる幻影 (仏) J・ルノワール
 ③ ママの思い出 (米)  J・スティーブンス
 ④ ハムレット   (英)  R・オリビエ   
 ⑤ 裸の町 (米)  J・ダッシン
⑥ 平和に生きる (伊) ルイジ・ザンバ
 ⑦ 恐るべき親たち(仏) ジャン・コクトー
 ⑧ 黄金     (米) J・ヒューストン
 ⑨ 子鹿物語    (米) C・ブラウン
 ⑩ 犯罪海岸    (仏) アンリ・クルーゾー

 この年の世界のできごと
 
 ・アカデミー賞・特別賞「自転車泥棒」
 ・ベェネチア国際映画祭・作品賞「情婦マノン」
 ・カンヌ映画祭・グンプリ・「第三の男」・監督賞・ルネクレマン

 ・中国解放軍、北京入城
 ・東ドイツ成立
 ・ソ連原爆保有公表。ほか


 原節子の主な受賞作品

 『我が青春に悔いなし』(1946年 黒澤明)
 『安城家の舞踏会』(1947年 吉村公三郎)
 『お嬢さん乾杯』(1949年 木下惠介)
 『青い山脈』(1949年 今井正)
 『晩春』(1949年 小津安二郎)
 『麦秋』(1951年 小津安二郎)
 『めし』(1951年 成瀬巳喜男)
 『東京物語』(1953年 小津安二郎)
 『秋日和』(1960年 小津安二郎)


 当時同時代に生きた女優たちや彼女と交流のあった人たちの話を拾ってみると、岡田茉莉子は、原は「女優ならタバコ吸っちゃだめよ」と岡田にいったにもかかわらず、岡田の前でタバコを吸ったり、ビールを飲んだり、大胆な女性だった。引退した理由は、小津作品は立ったり座ったりすることが多く、「立ったり座ったりするのが苦痛」という理由で引退したと話した、と。
 共演したことのある司葉子は、原の一番の魅力は「清潔感」と指摘し「演技では出せない生地の魅力」と述べている。
 ある人がいうには「現役女優の頃は美貌のトップ女優で、その早い引退後の完全な隠遁生活などとも同じことから『日本のグレタ・ガルボ』といっていた」。グレタ・ガルボとは、1905年スエーデン生まれのサイレント時代の最盛期、美貌で多くの賞と、多くの興行収入をあげたトップスター女優。幼少の家庭環境も原節子と似ている。ハリウッドに渡りトーキー時代を迎える。スエーデン訛りの発音が懸念されるもそれを乗り越える。ところが多くの出演依頼が舞い込むなか、突如35歳の若さで引退し、世間から一切遮断した隠遁生活を送り、84歳で死去している。(この段落も「原節子ーWikipedia」を参考にした)

 一番の原節子伝説? はなんといっても小津安二郎監督の助監督で、以後直木賞作家になっている高橋治の話であろう。彼は直木賞第88回候補になった『絢爛たる影絵──小津安二郎』(昭和57年/1982年11月・文藝春秋刊)。で生煮えとの評価はあるものの、高橋治は、別のところで、原節子は「小津の死に殉ずるかのように」公的な場から身を引いたといっている。

 ここに面白い資料があった。昭和58年/1983年4月号の『オール読物』新人賞に応募したときの『絢爛たる影絵──小津安二郎』の選評者たちのコメントと評価点。作品批評ではあるが、原節子の影を彷彿させる。

 その前に、この作家・高橋治のプロフィル。1929年/昭和4年千葉県生まれ。金沢四高が東大文学部国文科卒、松竹入社。小津安二郎監督の助監督。1965年松竹退社。1984年第90回直木賞を『秘伝』で受賞。1985年の『風の盆恋歌』で人気作家となる。

 それでは『オール読物』新人賞に応募した作品『絢爛たる影絵──小津安二郎』の選評者たちのコメントと評価点をみてみよう。

 この作品の時代設定は、昭和20年代~30年代。場所は、大船~京都など。季節・1部春・2部夏・3部秋。
 登場人物◯私(語り手・高橋治・新人助監督)
◯小津安二郎(映画監督)
       ◯原節子(女優)
       ◯笠智衆(俳優)
       ◯野田高悟(脚本家)
       ◯厚田雄春(カメラマン)
       ◯森栄(小津の生涯の恋人)
       ◯城戸四郎(松竹映画の重鎮)

 選評の概要(選考委員・評言)

 井上ひさし 「手かたい仕上げで文章も練達です。ただし大事な箇所、いいと感じた箇所のおおくが他からの引用、あるいは証言という手法なので、だいぶ損をしたのではないかと思います。作者は正直過ぎたのです」 評価■

 源氏鶏太  「私には面白かったのは3部だけ、1部2部は、論文を読まされているようで味気なかった。評価■

 池波正太郎 コメントもなし。評価もなし

 城山三郎  「私には読みごたえがあった。人間分析の鋭さ、周到さ」「偉大な個性とは組織にとって何であったのか。その組織まで斜陽に追いやったものは何なのか。人生論、芸術論を越えて考えさせられるものがあった。 評価◎

 阿川弘之  コメントもなし、評価もなし

 山口瞳   「意外に文学青年であることに驚く。詰まりは、生硬であって、ここを抜けださないと小説にならない」 評価●

 五木寛之  コメントもなし、評価もなし、

 村上元三  「題名は、内容にふさわしくないし、小津安二郎のエピソートを扱った部分だけが面白い。評伝としても生煮えで、その点が物足りない」 評価■

 水上勉    「いちばん魅かれた」「説明が多くて、描写が少ない。という欠点もあった。「伝」を語ることのむつかしさだ。これが小説か、といわれれば、作者も考えざるを得ないだろうが、私は推すつもりていた。作者の小津さんへの畏敬の深さに魅かれたからだ。不運にも、賛成委員が少なかった。


 ここに挙げた原節子を含む小津安伝は、「断・捨・離」のこの記事とは遠いと思われた読者もあろう。が、私に取ってはこの錚錚たる選評者たちの評価にうなされる。コメントなし、評価もなし、とした作家はなおさらのこと。原節子より、原節子を買った小津安に目が向いていて、両者と長年ともに仕事をした作者の人間観察が批評され、小説作りのアプローチと、形象化の甘さが指摘されていた。それは裏を返せば、原節子の深層の影は助監督だった高橋治にもこの時点では捉えられていなかったともいえる。このコメントにより高橋治は本格的小説家になり、後、直木賞を受賞したのだと思った。


 ここで話を変えて「断捨離」の語源を、岩波「哲学・思想辞典」でたぐってみた。
〈古代インド思想にあった広義のヨーガで、「瞑想や苦行などのインドの伝統的な心身統一のテクニックであった」。このテクニックに「断行」「捨行」「離行」がある。狭義には、古代インドの六派哲学のヨーガ派にはじまる解説を目的とする実践哲学大系を指す〉とある。

 古代ヨーガの3種の概念
 ①カルマ(行為)
 ②ジュニャーナ(知)
 ③パクティ(信仰)

 近代ヨーガの概念
 ①活動的
 ②宗教的
 ③精神分析的
 ④哲学的

 となっているようだ。
 ここで気をとめておきたいのは、古代においては「信仰」、近代においては「宗教的」、いうところである。「宗教的」という言葉の成立には「信仰」は不可欠である。どのような宗教でも。信仰とは、理屈を言わず神や佛の啓示を信じ、啓示を受けた伝道者の教えに従うことである。そういう意味では、精神分析的手法から導かれるOUTPUTや、哲学的内省は、伝道者の教えに対峙することもあり、伝道者からすれば絶対排除しなければならない「掟」とさえいえる。一神教は絶対神。多神教は相対神(それはあり得ないと思うが)。


 そんなことに思いを巡らしていると、原節子の次に、高峰秀子の生きざまが重なる。日本映画史100本の2位にあるあの名作『浮き雲』に代表される高峰秀子。原節子より6つ年下の1926年/昭和元年生まれ。彼女が亡くなったとき、夫の松山善三は、極力彼女の死亡告知を押さえ、ひっそりとしていた。あれだけの大女優が逝ったのだ。告知もし、特集を組んで欲しいと願う「でこちゃんファン」は全国に大勢いたのにとの思いが巡ったものだった。

 
 時代は巡る。原節子→日独防共協定→ナチ党プロパガンダ映画に出演→特高暗躍の時代→そして戦後の原節子→43歳で「断捨離」。
 岡田茉莉子のコメントにもあったように「あまりにも政治に無反応だった彼女批判への比喩」。城山三郎のコメントのなかの「原節子をあのように使い、映画を斜陽に追い込んだ勢力は?」。そして戦後甦ったスター原節子。そんな彼女とはいえ単に「自分を庇ってくれた小津安への殉死のような引退」だけが「断捨離」の理由とは私には思えない。彼女には、誰にも知れぬ「幾重もの負の影」をもって引退したのだと。
 だから「彼女ほど謎の多い女優はいない」と記者たちがいった理由が分かるような気がする。
 

 











              

by kuritaro5431 | 2013-11-21 17:06


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