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哲学から演歌まで  

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2013年 09月 19日

選択した働き方(4・2)

 前号の続きです。

 初回の「インテリア振興対策委員会」は、本省の会議室だったと記憶している。配られた委員名簿には、聞き慣れた、日本のインテリアエレメントメーカーの社長や、企画問屋(主にカーテン、インテア小物のプライベートブランドメーカー)の社長。学識経験者、意匠系の一級建築士、インテリアデザイナーなどの名が連ねられていた。関西の業界の集いとは格式の違いのような権威あるもののように私には思えた。

 はじめに、生活産業局長の委員会設立主旨の話があった。廉価で快適な住環境の普及させ、国の政策の大きな柱の一つ。そのために廉価で安全な躯体を工場生産住宅として供給し、内装のファッシヨン化で快適な住空間を官民挙げて普及し、ハードもソフトも生活者に便利なシステム供給とあいまって、商取引の近代化(過当競争による製品品質の低下、安全性の低下など)も迫られている。。日本人のライフスタイルも、やがて欧米化し、家庭がコミニティの場になってゆく日もそう遠いことではない。新しいライフスタイルが若い主婦たちによって形成されるものと予測する。消費者に安心を、生活に快適を──を通し住関連産業の振興を図る。とのあいさつがあった。

 各企業の社長たちはそれぞれスタッフと共に出席し、分担されるであろうワーキングにそなえていた。
 初回は、活動の方法・スケジュールなどの説明と、スタッフを含めた名刺交換をし、解散した。


 その後は、各社から業界の実態ヒアリングする通産省外郭団体のスタッフの相手は、Y社では私になり、5回に一度ぐらい社長からのヒアリングとなった。私に会う時間では、ときに昼食時などに、私から社長の本音の話をききたがり、その代わり役所の業界への行政指導の方向性を教えてくれた。そのヒアリングで得た委員(社長)ごとの本音と、「報告レポート」をインテリアファブリックにおいては繊維製品課の例のキャリア官僚・事務官にあげ読み込んでいた。
 そんな影の業界指導をやりながら、本委員会では、委員ごとに報告書原稿執筆の担当を委員会事務局が振り分けていた。
 トータルインテリアデザインとエレメントデザインのファッション化については、インテリアの学識経験者や、建築士、インテリア・デザイナーが方向性と知識・実技の啓蒙企画を検討していた。
 私も、割り当てられた分野の原稿を書き、総合編集実務は、中小診断士のスタッフがやり、監修は学識経験者がやった。そして製本されて「インテリア振興対策委員会報告書」が官公出版として世に流された。


 それからというものは、どこでどのように官僚が指導し、関与したかは不明だが。各インテリア・エレメントごとの業界団体が東京に設立された。もちろん元々あったところもあったが、インデリブァブリックスはなかったので懇話会形式で設立し発足した。もちろん業界の自主団体である。Y社もその団体に加盟した。
 私の東京でのそんな活動は頻度を増し、他の住関連業界の幹部たちとも親交ができ、東京通いが増えた。

 それから3ケ月後、例のキャリア官僚事務官が、題目は忘れたが「◯◯に関するメモ」という文書を、日本インテリアファブリックス懇話会(NIF)の月例会議に提示した。それは長年この業界にひたっている者でも絞り切れてない課題を提示し、課題遂行のためになにをなすべきかが書かれ、彼の意見として述べた。その的確さには驚いた。さすがキャリア官僚だと私はおもった。元官僚のOBに聞くところによると、彼らは他の省からの出向であろうと、担当職務に真剣に取り組んでいる。出勤は10時、11時のときもあるが、帰宅はほぼ毎日12時を過ぎている。国会のあるときは、寝袋持ちで泊まり込み。彼らの代わりに業界調査する外郭団体のスタッフの報告はしっかり聞き、報告書もしっかり読み込み、「問題と課題」をしっかり掴んでいる、といった。
 その見返りにと、元官僚のOBはいった。「途中で出世コースから外れる者は、3回まで退職金付天下りが保証されている」といった。その仕組みを省の官僚を挙げて代々築いてきたし、これからも後輩のためにしっかり維持してゆく義務があると考えているのが官僚だ、ともいった。
 当時からすれば現在は随分やりにくくなっていようが、そのシンジケートはとてもとても強靱なものと聞く。

 それからのNIFは、彼が示した課題別の委員会をNIFのなかで編成し。委員長には、会員会社の社長がどれかの委員長になり、委員には、各社のスタッフが選ばれた。それをフォローする事務局もおいた。活動は討議方式で行い、議事録を事務局に提出した。どうやらその議事録は例のキャリアがみているようであった。彼には行政指導という権限はない。
 ところが、節目節目に、例のメモについて彼は触れる。
 当時知ったことは、省内には、大臣が発令する省令からはじまって、職制によって異なる公文が出されるらしい、課長以上でないと公文は発信できないと聞いた。本省の課長といえば、一部上場の大企業の代表取締役社長にダイレクトに電話できる慣例があるそうだ。
 従って、例のキャリア官僚のメモには、何の拘束力もないのである。ところがである。係長といえども、その業界にとって重要な役所リードの人選には口を出す。その影響力はすてたものではない。そのことを関東の企業幹部はよく知っている。だから例えメモでも重視する。先に述べた、業界と本省の官僚と繋がる人事に敏感なわけがここにある。
 NIFのメンバーは、市場では敵どうしである。老舗の製造業は新興のブランドメーカーという元彼らの代理店という問屋であった業態。「これからは、問屋はメーカーに近づき、メーカーは問屋に近づく2.5次産業の時代だなんて通産がいうもんだから、物づくりの大事さも技術も知らない問屋が、消費者に近い業態が消費者ニーズを先に掴み、商品企画して製造業に作らせ売る時代、とのぼせている」と老舗の製造業は、経営者から一般社員までそう思っている。そんななかでのNIF内委員会だからY社の社長が委員長の「取引の近代化委員会」にしてもステークホルダー同士の討論で、まともなルールが話し合えるものではない。

 何かにつけてそんな環境のなかではあったが、通産省が柱としていた2つの施策は、着実に進行していた。
 その一つは、「インテリアのフッション化の推進のための、通産大臣認定の〔インテリアコーディネーター資格制度の制定〕。もう一つは「日本のインテリアファブリックスの総合展示会として〔JAPANTEX〕を東京晴海で毎年開催」。いずれも業者対象のプロモーションではなく、消費者・生活者を対象としたものだった。
 「インテリアコージネーター資格制度」は、インテリアのオールエレメントを、生活者のライフスタイルや、パーソナルな感性に合わせ、トータルにバランスの取れたコージネートができるデザイナーを育てることを目的としていた。したがって、プレハブ住宅メーカーとオールインテリア業種(家具、照明器具、壁紙、カーペット、カーテン、インテリア小物)のタッグによる住宅産業の推進であった。〔インテリアコーディネーター資格制度〕制定は、ブレハブ住宅メーカーの業界団体の「住宅産業協会」がその任に当たった。

 そんななか、私はNIF内の委員会活動やら、〔JAPANTEX〕の準備と実行。また。〔インテリアコーディネーター資格制度〕の制定の準備作業など、専門職(東京で指折りのインテリアデザイナーや、一級建築士)の先生方と一緒にやった。私は、マーケティングまわりとか、インテリアコーディネーターは、どのような働きをして収入を得るかなどの分野を受け持った。
 そして2年。〔インテリアコーディネーター資格制度〕は発足した。マスコミでも話題になり、資格取得の講座があちこちにできた。そのころには〔JAPANTEX〕も軌道に乗り、消費者向けのプロモーション催事として定着していった。


 その頃、東京通いの仕事が一段落して、Y社長と一緒に新幹線で大阪に向かう車中で、「コンピューター室のアタマが2つできて混乱している。2年ばかり面倒見てくれないか」といわれた。
 転職登録票に、コンピューターシステムプロジエクトで仕事をした経験を書いていたから覚えていてくれたらしい。
 その後15年、コンピューターは、ハードもソフトも格段の発展を遂げていた。そのめざましい発展に私は関心を寄せていた。当時はキャパの小さい単能機を寄せ集めたハードで、マシン群を総合管理するOSも幼稚であった。その上、コンピュター・ユーザー各社はその業界特有の商習慣に縛られ、各社なりのやりかたで事務処理をしていた。同じ業種でも、得意先の業態が違えば対応を変えなければならなかった。得意先の業態比率が違えば当然売れる商品構成も異なり、売り方・作り方も違う。その会社の収益構造に大きな影響を与えていた。
 コンピューターを上手に使い、間接人員の生産性を上げようとすれば、作業の標準化がどうしても必要になる。それを阻害するものは、商習慣である。との疑問をもっていたからである。それは同時に日本的仕事観とトレードオフの関係に思えたアメリカ合理主義でもあった。日本人は働くことも「性善説」、西欧人は「働くことは苦で、性悪説」。

 そんな矛盾を抱えながら社長の依頼を受けた。一つには、当時流通業界で話題になっていた「オーダーエントリー・システム」をやってみたかったからである。今は日常化しているシステムであろう。
 得意先の小売店から注文の電話が入る。すると受注担当(主に女性)が商品名と数量を聞き、「在庫確認し」あれば「出荷指示兼売上伝票」を入力する。もちろんその入力伝票には、得意先コード、営業担当者コード、商品マスターから引っ張った正規の商品名・色コード、標準売価・特値、原価などが端末の画面に表示される。受注担当者がEnterキーを押すと「支店の倉庫に[出荷指示票・納品書・受領書]が複写でプリントされる。倉庫が社外であればオンライン専用回線を利用」。その時点でコンピューター上の在庫は引き落とされる。(このシステムでの一番の難関は、現物在庫とコンピューター在庫=俗にいう帳簿在庫との誤差。しかもカーテンは切り売りされるので端反のm在庫あり)。倉庫では、ビッキングした商品に金額入りの納品書を添えて得意先に送る。
 支店事務所では、規模に合わせたそう大きくないオフコンで、売上処理と同時に、売上伝票出力。同時に、営業担当者別、課別、目標管理ファイルが更新される。当日の得意先からの受注受付は、16時までとし、以降は翌日出荷とした。
 それによって、「にちにち目標管理が実現する」。今までは単能機で支店単位の売上のみ集計し、電話で営業本部に報告していた。月末は、受注伝票枚数で売上高を推定して、営業本部に報告していた。それが、毎日16時30分には、各支店で営業担当者別・商品大分類別・売上・粗利の当月の目標達成率がプリントできるようになる。

 そのような構想を常務会に提案した。コンピューター・ルールに縛られる商売は、わが社の営業体質にそぐわない、とか。そんなに手品のようにうまく行くかなど、質問や反対もあったが、社長がその提案を了承した。

 システム導入は、メーカーの支援なくしてできるものではない。めぼしい国内系のメーカー3社に打診した。充実した体制を組むと約束してくれた富士通の支援をうけることで決定した。窓口になるディラーをはじめ、富士通直轄のSEを束ねる統括部長の指導を受けながら、紆余曲折はあったが、広島支店、福岡支店、名古屋支店、東京支店、札幌支店、最後に本社のホストと、大阪支店、本社流通センターのシステム構築を2年がかりで終えた。一番苦労したのは、どこまで例が処理をなくし、標準化できるか。オフコンの負荷をどこで軽減できるか、どこまで業務標準化ができるか、商習慣をどこまで変えられるかにあった。それは、NIFで取り組んだ「取引の近代化」そのものでもあった。

 そしてこのシステム化の私としての仕上げは、全社の年度経営計画と連動でる「支店別、課別、業態別、テリトリー別、個人別、主要得意先別、商品別、月別、などの目標設定と管理」のありかたであった。それがY社入社のとき社長が私に期待したことではなかったかと、思ったからでもあった。
 満足のゆくレベルのものではなかったが、概ねシステム化、省人化、自動化し、毎年の関係者が多大の時間を掛けていた目標設定ワークが軽減された。

 それからの私は、経営企画室長という役割のはっきりしない社長特命の仕事ばかりやるポジションに付かされた。中期経営計画策定のプロジェクトリーダーとか、本社では常時2.3本のブロジェクトがコンサルタント指導で動いていたので、社長が気になるのか、その他のブロジェクトにも私に関与させ、進行状況報告を求めた。そのとき、コンサルタント・ファームにもいろいろのタイブがあり、コンサルタント個人にも売りのスキルや態度いろいろと知った。

 そしてこの会社でも、自己実現欲求の限界を感じ、最後の選択を考えようとしていた。52歳。









                     

by kuritaro5431 | 2013-09-19 21:36


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