2013年 09月 03日
前号の最後に、次回は「弁証法再考」を書きますといっていましたが、話の流れでその前にこの記事を挟むことにしました。その理由は、「日本のジレンマ」のキーファクターに、ノマド、シェアという概念の働き方がからむこと。もう一つは「弁証法再考」で触れる予定の方法論と「働き方の選択」が深くつながっていたからです。 1972年(昭和47年)といえば今から41年前。70年安保闘争後2年。 1953年には3年つづいた朝鮮戦争が38度線の設定で休戦状態に入り、22年後の1975年にはベトナム戦争がはじまっている。1972年は、ベトナム戦争勃発の3年前に当たる。そして、日本的経営と後にいわれた「集団主義」が日本人にフィットし、高度経済成長の気流にのりはじめていた。 1972年とは、私が実質初めての会社に勤務し14年勤めたのち、「自己実現のために自由」を求めて、人材銀行経由で転職した年、39歳。当時転職の「成功・失敗・可でも不可でもなし」それぞれ1/3といわれていた。 転職した会社でも「自己実現の自由」は叶えられず、14年は勤めたが辞め、新聞の求人広告で2回目の転職、年すでに52歳。 3つ目の職場(国内系・コンサルタント・ファーム)でやっと得られた「自己実現の自由」。自由は満喫できた。その代わり2年後の生存率25%。理系コンサルタントあがりのオーナー社長は、「コンサルタントの自己実現欲求の自由は、会社が許容できる限界まで認めると。それはコンサルタントが自己実現のために会社に与える損害許容度のこと。50%を限界とする。それを越えるコンサルタントは理由を問わず辞めてもらう」との掟だった。社長がいったコンサルタントに与える自由とは、コンサルタント・ファームの商品とは、高付加価値を生み出す「知恵」とか「ロジック」。それは各コンサルタントの全人格から醸し出される「クライアントへの役立ちのOUTPUT技術」。その技術の開発は、ゆとりのない環境からは生まれない。自由な環境からしか生まれない。との考えからきていた。各コンサルタントは自らの知恵で、コンサルティング商品を企画し、それを社内の営業部隊にPRし、取り上げてもらい、クライアントに提案してもらう。興味をもったクライアントが現れたらはじめて企画したコンサルタントが、営業と共にクライアントを訪問し、企画主旨説明。クライアントの感触しだいで次のステップへ。見込まれれば本格的プレセンテーション。さらにすすめば、数回経営者、役員、実行責任役員を交えて、有形・無形のOUTPUTへのプロセスと、期待効果など検討される。そこではじめてコンサルティグ・テーマが絞られた「コンサルティング企画書」を担当コンサルタントが作成し(ここでは本部長コンサルタントのフィルターはかかることになっていた)、、営業からのコンサルティング費用の見積書と共にクライアントに提出される。そのファームでのこの時点での受注予想率、約70%。コンサルタントの月有料稼働日数7日が最低ノルマ。大手企業向けの主技術に、ハード・VEを駆使した収益改善・コスト改善。これは理系のコンサルタント部隊。テーマによるが1日フィ40万円。他方、ソフトVEの他、マネジメント全般、マーケティング全般とか、顧問コンサルティングを本領とするコンサルタント部隊、これは文系出身者で構成。テーマにもよるが1日フィ30万円。そこに私はいた。 その後、バブル景気が崩壊し、定年なしの雇用契約であったこのファームも時代の流れには勝てず、60歳以上のコンサルをシニア・コンサルタントとして役職を外して働いてもらう試行をしたが、このファームの特徴の「限度50」思想が有効に働く環境は崩れた。そして2年の猶予の後、定年制が施行された。創業者のオーナー社長が東京銀座の本社に、地域ごとの定年退職者を呼び、約束を破ったことを一人一人に詫びた。関西支社からの出席は私を含め5人だった。帰りの新幹線のなかで、40歳代からいた技術系のコンサルが、昔は、子供が進学するので年俸をあげて欲しいといえば、社長は「よし」といって100万円あげてくれたもの、といっていた。その名残りは退職日までつづいていた。年俸は、年度替わりの夜、本社の人事部よりコンサルの自宅に通告された。不服の者は社長との交渉権があった。 最盛期には、コンサルタントだけでも700人?おり、一時は税引き後利益、国内系コンサルタントファーム一位のときもあった。営業拠点は全国・台湾・韓国にまでおよんでいた。 「自己実現のための自由」なんて当時は一番かっこいい言葉だった。心理学者A.H.マズロー著「人間性の心理学──モチベーションとパーソナリティ」当時、現代の聖書とか死の直前に至るまで彫琢を施したマズローの畢世の名著、といわれた本。私は、このブログに「モチベーションとパーソナリティ」という言葉をなんども使った。当時の感動の残像だったのか、と読者は思いあたられよう。特に「モチベーション」という言葉は、[共通善]として位置づけられないかと3.11以降私は思案した経緯もお察しいただけるかとと思う。白熱教室のサンデル教授も、梅原猛先生も、[共通善]を求めるのが哲学の使命といわれていたから。とて、学者でもない私が俗世的概念を、[共通善]などと考えることははばかった。しかし、人間は自分でできることで社会、経済、他者に役立ってこそ存在価値があると思うOUTPUT思考。実務家や、市井の人には、共感してもらえるかもと思案していた。 ところが、2012.9.20のブログ「[族]と[縁]を考えるその周辺」あたりから、[共通善]という哲学の夢はこの時代はたして、と考えるようになった。 ここからしばらく、私というバーソナリティが形成される、社会に出るまでの環境などを語ることにします。 私は、岡山県東北部のど田舎美作から、同年の者と2年遅れで京都の私大の経済学部に1953年(昭和28年)入学した。京大滝川事件で追われた憲法学者末川博教授がそのとき総長でいた。経済学部はマル経一色だった。当時の京都市内の本屋にはマルクス、エンゲルス系の本で溢れていた。それは、哲学、経済学、美学、芸術論、映画演劇論、に渡り、西欧の古典から国内外の現代のものまでに渡っていた。 京都の学生は、どこの大学に限らず、そんな傾向の京都の町で学生生活を送っていた。特に貧しい下宿生活を送っていた地方出身組には。やさしい街だった。下宿住まいの学生が通う銭湯のある路地。そこに並ぶ小さな間口の生業の店。顔なじみになった古い京都弁を使うおばちやん。市内でも地域によって京都弁は違うと知ったもの。学生は、当時唯一のアルバイト家庭教師をするでなく、ほとんどは親の仕送りで餬口を凌ぎ、パラサイトだった。 他方、NHKドラマ「八重の桜」の話にもでたように、京都には、洛中洛外に千を越える寺院のある「鎌倉佛教の聖地」。西洋文明を拒絶する勢力は強かった。でも新しい息吹は、よそ者が持ち込み、それを容認した。その一つに、前述の左翼と違う思想を英語力を使って近代経済学に繋いでいった流れがあった。しかし、皮肉なことではあったがそこには、「代々からの京都人」と「三代以上暮らして京都人になった人たち」が好んでいったところでもあった。彼らは、子供の頃から南座で歌舞伎を見、高校時代から洋画・邦画を観、3年間映画サークルでデイスカスしてきて洗練されていた。 それが今いわれる「関関同立」のなかの2つ。 そのころだから、そのころでもか、京都の人は、京都帝大=京都大学以外は大学でないとみなおもっているようであった。あからさまにいう人もういた。蛮カラの三高の学生が朴歯の高下駄にマントに汚れた角帽をかぶり、寮歌を唱って京の町を闊歩した。そんな頃を知っている町衆は、懐かしく思っていたのだろう。私のいた学生下宿にも三高上がりの人がまだいた。 そんななかで、地方出身者は、京都は選民思想が色濃くのこる街といっていた。またある者は、洗練されて個人主義者の多いところといい、ソフイスケートなフランス人が好む街。といった者もいた。 先のブログにも書いたが、私は1955年(昭和31年)卒業したが不況でもあり就職に失敗して、今でいうフリーターを2年近くやった。そのころプロリダリア文学系の同人を同じ大学にいた女友達に誘われて覗いたことがあった。当時同人のナンバー2らしき人がいて、ドストエフスキー論をしきりにぶっていたYがいた。彼を紹介した彼女曰く、彼は京大経済学部でで、山一証券の若手の出世頭であるが、サラリーマンという働き方が気に入らないらしく、高い報酬を放棄して、近々退社するらしいといった。 会が終わって、Yの誘いで3人は近くの喫茶店でYの構想をきくハメになった。とっさにYが仕掛けた「場」とおもったが、彼女の手前もあり聞くことにした。 Yは、構想を語る前に、「条件が飲めるならなら話す」と開口一番にいった。 そして「人間という者は、生まれながらにして、支配する者と、支配される者に分かれるもの」。旧帝大族・そのなかで東大と京大こそが支配する側の人間」「その他私大出身者もふくめすべての民衆は従順に支配されることを運命とする側の人間だ」といった。どこかの国の統治の論理と聞こえだが、まあ一度聞いてみたらと彼女がいい、聞くことにした。 Yが語った構想とは、「自分が書く小説は自分が生きている世代ではきっと世に出ないだろう。それほどの未来的なものだ。君たちには分かる術もないだろうから、君たちは私の生活環境を支援しくくればいい。その計画の詳細や、生活の糧を稼ぐ考えと、事業計画は私が作る。それを信じて実行してくれればいい、PDCA(この言葉を使ったは覚束ないが)はわたしがやる」どうかね。 私はこれほど傲慢な話を聞いたことがなかった。私を紹介してくれた女友達はすでにかなり強いマインドコントロールにかかっていると知った。大学では「部落問題研究会」にいた彼女らしくないとおもったものだ。 Yは、大正時代のエリート文人の旦那風の働き方、稼ぎ方を平成版で試みたのかもしれない。 話をフリーター時代の私の話に戻すと、私は在学中の4年間映画研究部(製作はやらない学生自治クラプ)にいたので、映画部の先輩がヨーロッパ映画輸入配給会社・東和映画の宣伝部におり、前売り券販売の仕事「動員係」をやらせてくれた。 その他先輩が世話してくれたアルバイトは、動員係以外もあり、その周辺で2年近く就職するまでのアイドリング期間を過ごした。結果的にそうなったともいえる。 2004.4.15の「昭和32年頃」のブログ、と、その次の同年同日の「仕事のない日」のブログ。これは、学生生活の尾てい骨を残したモラトリアム時代(この時期はまだ使われていなかった言葉だか働き方に多大な影響)の私の記録。学生時代と明らかに違うはずの社会生活。研究職に残れる者は、IQとそれ向きの思考スタイルをもった者に限るから、大多数の学生は、大・中の企業か、地方の公務員。 そのころの私は、コーリン・ウイルソン著「アウトザイダー」や、ボーヴワール著「第二の性」を読みながら、前述の映画部先輩が回してくれた仕事をした。3週間働いて2ケ月食った。その2ケ月を至福のときとして本来内省的な自分の時間にあてた。3週間働いて2ケ月遊ぶ。そのサイクルはつづいた。いま思えば個を発酵させようとしていた時間であったのだろう。 今日は2004.4.15の話との重複を避け、当時いかにして配給会社初の封切り映画の前売り券販売によりる動員数の増加を図ったかの話をしたい。当時でも珍しかった若者の働き方の1つとして。 ときは、1957年年(昭和32年)、上映はその年の初夏だったか。 映画は、ロベルト・ブレッソン監督のフランス映画「抵抗」だった、。今年リバイバルで上映した映画館もあったので、観られた読者もあろう。観客層は限られそうな政治的色彩の強い映画であった。東宝直営館の「京都宝塚劇場」で上映予定。劇場から渡された販促材料は、その映画のポスターと、窓口で販売されるものと同じの金券の束。販売手数料の代わりに渡す劇場招待券。そして貸与された自転車。日当320円。団体ならどこでも可。ポスターと前売り券を事前に預けてまわり、以後適当な時期に前売り代金の回収。お礼に招待券の枚数を見積もり手渡す。前売り券の金額は忘れた。学生300円、一般500円だったか、シニア割引きはなかった。 このやりかたは、配給会社も、映画館もはじめてだったので、どこに預けて回るかも分からす、すべて私任せだった。いくら売れるものかも予想すら出きてなかった。私も、物売りに回ることなどしたこともなく、電話帳をめくって拠点単位で人数の多そうな名のある工場や病院の労働組合事務所を「東和映画動員係」という名刺をもって訪問することになった。一般企業は総務課を訪問した。そうした作業はほぼ10日間で60件ばかりになった。 10日おいて私は60件をフォローした。すると思いのほか各組合事務所は好意的に対応してくれていて、結構売れていた。招待券がもっと欲しいという人もあり、私は10枚単位であげた。一巡して映画館に帰り報告するとまずまずと思っていた私の感触を遙かに超えて、みんな「スゴイ、スゴイ」といってくれた。 そして私は5.6回の訪問フォローをし、招待券の足りない人は、裏口から入れてあげた。それだけ映画館の人が私のわがままを許してくれていたんだと思う。 そんな各組合との良好な関係が好転とたせいか、3週間のノングランが終わった段階でで前売り実績は2500枚を越えていた。東和映画の先輩もよろこんでくれているとの噂が流れてきた。その先輩はもういない。 その後その話が広がりり、東和映画系列でない河原町・京極界隈の映画館から相乗りさせて欲しいとの申し込みがつづいた。大阪に比べて京都の労働組合規模は小さい、そこそこのところは、私が皆押さえていたらしかった。 東和映画の先輩も私の実績に免じて黙認してくれた。 その後私は、5つの映画館を掛け持ちする動員係となった。アルバイト収入一気に跳ね上がった。 1日350円×5社=1750円×月稼働日数15日として=26.250円 これで働かなくても3月は食えた。幸いか、不幸か酒が飲めなかったので食道楽せずにすんだ。 当時、大卒の初任給は10.000円だった。 この時代でも、組織に拘束されないで稼げる世界もあり、よいことはあるもんだとおもえた。しかも、使える金の多いのはいいと。 ときには、映画研究部の同僚・後輩、東和映画で知り合った女性たちが管理人のいないわたしの下宿によってきて、わいわい語り、映画論や美学、哲学はギリギリ一杯の議論になった。 現役の映画研究部の学生が集うBOXにもときに覗き、だべったもの。 はじめ、1つの記事で収めるつもりでいた原稿が、収束の悪さから歯切れの悪い長いものになった。そして書ききれない不満が(その2)へとすすむはめになった。 (その2)では、初めて体験した職場、旧財閥系の自動車ディーラーで、夢見た自分の将来の働き方。 14年勤め転職を決意した経緯と、転職した今までと全く違う業種・台頭しはじめていたインテリア・ファブリックスのブランド企画問屋。核家族化の進展で求められる廉価で快適な住宅の供給。建設省は在来工法で、通産省はプレハブ住宅で、それぞれ凌ぎを削ろうとしていた時代。インテリア・エレメント(カーテン・カーペット・小物のファブリックス、壁紙、家具、照明)は通産省。通産省は廉価な躯体を工場生産=プレハブ住宅で、ブラス内装のファッション化で、やがてやってくる若い世代の我が家をコミニティの場とするであろうウォンツの先取り。通産省生活産業局の国家的プロジエクト。この流れに積極的だった転職先の企画問屋は、そのプロジエクトから好感をもたれ、プロジェクト・メンバーに選ばれた。その主プロジエクトの傘下に官僚主導で組織されたさまざまなサブプロジェクト。そこで活躍する東大卒のキャリア官僚の働きぶりのすばらしさ。関西では無頓着だった中央の権力構造。そこには、京都の選民京大閥も、東京では圧倒的選民としての東大閥におされ、以外にも影が薄かった。そして「躯体は安く、内装のファッシヨン化で住宅産業の発展」目論んだ通産省は、失敗した。その原因は、インテリア・エレメントの大半は、ウォンツ志向のファッション商品でなく、いたってベーシックなニーズ品、実用品と消費者は考えていたことが判明したから。ベーシックな実用品としてのセンスのよさを求める啓蒙促進にはなった。その結果、インテリアエレメントの多くは、トータルインテリアの旗を掲げた専門店から、売り場はホームセンターに移った。商品価格も下がったせいか、当時8000億といわれていたマーケットサイズは、拡大どころが縮んでいるとみる説もある現状。 その辺の当たりを(その2)で書きたいとおもっている。それと、自分が選ぶ働き方にしても、社会環境の変化からの影響は相当受けるということも。 .
by kuritaro5431
| 2013-09-03 09:33
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