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哲学から演歌まで  

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2013年 01月 23日

亭主もつなら堅気をおもち……                                    

 あの反骨の炎の映画監督「大島渚が逝った」。
 私はテレビに映った小山明子の顔を見て、すぐ記憶に甦ったのはつぎの文句だった。

  亭主もつなら 堅気をおもち
  とかくやくざは 苦労の種よ

 この文句は、林芙美子の小説の一節とながいあいだ思い込んでいた。ところが本当は、昭和10年東映映画「旅笠道中」の主題歌の一節であったと知り、拍子抜けしたものの、女がやくざに憧れる心情の裏返しと思え、私の演歌の言葉のひと隅に入れていた。

 昭和30年頃だったか、コーリン・ウイルソン著の『アウトサイダー』という本がでて、安保闘争に挫折し、疲弊していた若者のこころをとらえたのがこの本だった。アウトサイダーの対意語としてインサイダーという言葉も流行った。インサイダーとは、体制に順応して、予定調和で平穏に生きることをモットーとした中央思考の人間たち。そんな[族]に変わっていった学生時代の友人たち。
 それに対しアウトサイダーとは、もう時代遅れになった既存の秩序や価値観を否定し、または破壊して新しい価値観や秩序を生み出したいとの志向の人とか人種を指していっていた。社会の本流(ここでは保守)に逆らうことが自分にとって損な生き方なのだが、やむにやまれず反体制的(反社会的とは違う)思考や行動を取っている人のことをいった。
 まさに世間からのはぐれ者、不定型な仕事で暮らしている人、職業でいえば作家や、映画監督や作詞家など、ウイルソンの唱えるアウトサイダーこそ当時若者の関心を惹いた「やくざ」であった。

 大島渚の訃報を伝えるテレビでの小山明子は、松竹を辞め独自の道を志す映像作家たちが稼ぎもない大島渚の家にたびたび集い「酒だ、飯だ」と叫ぶ。そんな当時の映像が流されるなかで「稼げるのは私ひとり。連日の撮影で疲れ切ってはいたが、酒を買い、若い男の胃袋を満たす手料理をつくった」でも苦労と感じたことはなかった、と。

 松竹時代の大島渚は「松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手」として1959年(昭和34)に『愛と希望の街』で映画監督にデビュー。社会性の強い作品を中心に、権力機構に虐げられる民衆に視線を向けた作品を多く手がけた。松竹を退社してからも大島渚は、イタリアのネオ・リアリズムを起源とするドキューメンタリー手法のながれを汲んだヌーヴェルヴァーグの映像作家として世界にも認められる映画監督となった。

 戦後第一世代の私たちにとって、映画は視覚から得る「知覚」の最たるもので、映画から得た刺激を無視して私たちの世代は語れないといえるほどのものである。
 私たちと同世代の読者には、釈迦に説法であるが、戦後のイタリア映画は、ロベルト・ロッセリーニ監督の1945年製作の『無防備都市』同監督1946年製作の『戦火のかなた』ヴィトリオ・デシーカ監督の1948年製作の『自転車泥棒』などの初期のネオ・リアリズムは、当時の社会の現実・民衆の姿を作り手の主観を交えず、生の映像でとらえ観客に示す。判断は観客に任す。映像に含まれた社会の現実を観て観客は考えるはず。これがドキューメンタリー映像の根本にあった。その精神を貫いたのが大島渚であったと私は思う。

 ニュース映画にしても、記録映画といわれるものであったも、たくさん撮られたフイルムから編集者によって選択されたシーンの映像が一つの作品に編集される。そこには作り手としての主張や主観は除きようはない。でもシーンごとの真実は生の映像のなかにある。例え、劇映画であっても、ドキューメンタリー映像の手法・技法のなかにその精神は生かされるはずと考えたのがイタリアのネオリアリズムであったと思う。
 そこでドキューメンタリーの手法をべースとして、撮る対象をその時代に生きた人間の内面にむけたり、政治とか権力とかも角度を変えて対象としようとした劇映画にも適用しようと模索した映像作家が多く現れた。これらの映像作家群の出現を「新しい波」「ヌーベルバーグ」と人々は呼んだ。思想的傾向とか、映像製作の技法の同一性などがあったわけではなかったが、時代を象徴する一つの現象として人々はそういったのだろう。映画会社の商業政策で勝手にヌーベルバーグ監督呼ばわりなどされ、随分迷惑した監督もいたようだ。

 恐らくそんな商業主義に束縛されるのがいやで大島渚は松竹を飛びだしたのだろう。
 当時の新鋭監督たちはみな、映画の興業資本と興行権と絡む五社協定。独立プロを目指すも制作費調達の現実。それに台頭してきていたテレビへの観客移動。映像作家の苦悶の時代だった。

 その後の大島渚は、本来のドキューメンタリー精神を忘れず、テレビにその活躍の場を移し、たまには劇映画も撮り、いつかの『朝まで生テレビ』の番組で、「俺は怒ることを忘れた日本人に怒っているんだ」といったことが忘れられない。

 それこそ、大島渚が死ぬまでやくざだった証拠だったのだと。
 訃報のテレビ番組での小山明子の悔いのない顔が忘れられない。

by kuritaro5431 | 2013-01-23 13:16


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