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2012年 09月 14日

私の考えたことのある自殺対策

 [②のカテゴリー]

 前号で取り上げた「~自殺者の最も多い国日本」の記事への読者の関心は薄かった。ランキング10位中7位だった。やはり、若い読者が多いせいだろう「死」ということへの関心は、私もそうだったように若い頃は考えもしなかった。

 若い人の関心はやはり④のカテゴリーに類するもの、特に「自立」とか「実学」に関する記事への反応が強かったと思われる。反面④のカテゴリーについての「感想お願い」についても反応は大変に少なかった。そのこと自体が声なき読者の声として真摯に受け止めている。

  
 ところで、今日の本題であるが、昔マインド・サイエンスに興味をもっていた頃、「人間の本能と命」について考えていたら、出所は忘れたが、次のような大変興味深い話だったので、内容は鮮明に今でも覚えている。
「動物はすべて肉体に異物が侵入するのを極度に嫌い拒絶する」と「その拒絶(強烈なディフェンス)は、免疫という生命保持のシステムである」という意味のことだった。

 血液型の違う血液を輸血することも、臓器移植による拒絶反応も、インフルエンザ・ビールス侵入に高熱を発するのもみな免疫反応からくるものであると。

 最も強烈な印象をもった話は「鶏と鶉を掛け合わせると、奇妙な姿のひよこがかえる。ところが一週間で死ぬ。互いの命の免疫体が拒絶し合い生きることができない」とあった。
 免疫学上どうなのか知るよしもないが、本当にありそうな話として、人間も体内に異物侵入を拒絶する免疫力が命を存続させているのだと認識した記憶がある。

 免疫力は、物的なものに限らず、自己の存在を脅かす外的要因も拒絶して生きていると私は考えた。それは、河合隼雄先生の「嫌いな人とも上手につきあって……」というメソードとはまるっきり反対のものである。異人者(自己とはまったく価値観の違う人)がなにかでかかわってくる。(子供のいじめ問題がこれ)我慢できる限度は人によってまちまちであろう。
 昔の人は我慢の限度幅が広かったのかも知れない。

 その人間関係をどう扱うか。免疫的に考えると「拒絶」「別れ」である。恋人との別れ、長年連れ添ってきた夫や妻との離婚、などなどの別離。それにはそうなっても耐えられる覚悟がいる。覚悟とは孤独に耐えられる力である。こちらからの拒絶ばかりではない。相手から拒絶される場合もある。最愛の人が去っても、未練がましく追わず、去られてもなおひとりで立っている力。孤独にどこまで耐えられるかが命のやりとりと大きく関わってくるのだ。
 パラサイト・シングルで40歳50歳になり親がいなくなる。そこで孤独に耐える覚悟が試される。

 戦後第一世代より、物の豊かさ、心の自由さを満喫した団塊の世代の方が弱いか、いや関係ないか、いずれにせよ孤独に弱い高齢者はこれから増えていく。

 孤独とは悲しみに耐えることである。
 小林秀雄の言葉に「文学とは、走り去る哀しみである」といった名言がある。

 そんな意味も込めて「生命腺弛緩症候群」(免疫力低下現象)に気をつけて、と書いた。
 その対策に一役買うのが臨床心理療法の分野なのであろう、結構期待されている。願わくは対症
プログラムの数を増やす療法もさることながら本来の全人格的個別対応をと思う。

 そんなことを思っていた当時、自己アイデンティティの決め手は、免疫力、孤独に耐えられる力、かと考えたりもした。

 かといって幼い子供に孤独力を求めるわけにもいかず、臨床心理士の支援が必要になる。

 私も、とふと考えたりする。「己の孤独耐久力はいかほどかと」。

 昔、一回目の職場にいるとき、理不尽なトップの要求に悩み、家では嬰児が泣き、居場所がなく車で峠を越えて、夜の琵琶湖畔で黙々と想いを巡らせた時期もあった。
 そんな時期に、以前のブログに書いた「なにもかも忘れる〈忘却〉の時間をつくる自己暗示」の訓練を湖畔でしたものだった。

by kuritaro5431 | 2012-09-14 07:44


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