2015年 08月 22日
この記事は、2015年9月号の『文藝春秋』486頁に掲載された国語学者金田一秀穂氏(父春彦・祖父・京助=名だたる日本語の言語学者)と、きたやまおさむ氏(1946年生まれ・京都府立医科大学卒業後ロンドンの病院で精神分析学を習い帰国後臨床精神科医として活躍・他方フォーク歌手であり作詞家・大学中ザ・フォークルセーダーズ結成、代表曲に『戦争を知らない子供たち』『あの素晴らしい愛をもう一度など』)の対談を読み、82歳の私がとても触発された。 それで、この対談でも語られたリテラシーを私なりに試みようとした。それは対談に出てきたいくつもの対立矛盾する、あるいは整合のしようのない語彙・単語の数々を、真っ正直に受け取らず、対極概念も気楽に乗り越えて、私なりに理解し、改めて私流(我流)の再構成・思考の再編集を試みた。 フロイトの臨床哲学という話が飛び込んだ。対談の話とは関係なく、そう古くない「哲学カフェ」のことが蘇った。元阪大総長(平成19年)、23年大谷大学教授、2015.4京都市立芸術大学理事長・学長の鷲田清一先生----「臨床哲学」を提唱された方。私は鷲田先生の話を聞いたことはないが、阪大時代の門下生が流れをつぎ、「哲学カフェ」の活動を大阪、京都、その後東京、岡山、東北と広がっていた。3.4回京都、大阪の会に参加した。そこでは、フロイトを心理学者としてより哲学者として扱う阪大の準教授たちが進行役をやっていた。 ここでの臨床とは、字のごとく患者に寄り添う現場のように、難しい哲学論議ではなく、パーソナルな個としての患者(クライエント)に接する臨床心理士のように、と云うことだっだ。 その頃、私はフロイトの心の構造と、唯識の心の構造がよく似ているとの噂に興味をもち、唯識の深層[阿頼耶識=あらやしき]がおもしろいと思い少し突っ込んでいた。すると関連に「唯識論理療法」という一種の心理療法があった。あれこれ調べていると、臨床心理士の療法と同じカテゴリーと思えた。 その頃、西欧的アイデンティティ論がマインドサイエンスとして叫ばれ、精神分析学、臨床精神医学として位置づけられていたようだった。現在の政府からすると、医学系は厚生労働省、心理学系は文科省となる。そんなわけで、ユング系の河合隼雄先生は、文科庁長官をされた時期もあった。 その後、学童のいじめ問題が、社会問題化し、SC(スクールカウンセラー)の役割が重要視され、SCの増員(早成)を文科大臣は挙げたが、臨床心理士資格と、クライエントと一対一の対話のできる人間の力量には多くの矛盾を孕んでいた。その頃河合隼雄先生は、日本的アイデンティティを提唱され、「嫌いな相手とも上手に付き合い、ようは自分の望む自己欲求を完遂する、世渡り上手の大人になること」それが、当時話題の「アイデンティティの確立」ということといわれたもの。 きたやま氏は、臨床哲学的アプローチは、古いタイプの精神分析だといっている。かつての精神医学は、人間の存在に関わる精神病と対峙するので、医者にも哲学が求められた。かつ体系的治療法など確立していなかったから、とにかく「よく患者の話をよく聞く」に尽きるとされた。臨床心理士から私もよく講演などでよく聞いた話だった。きたやま氏はつづいて、精神病患者の症状を取り除くだけなら、薬物の方が効果的であると実証されているという。私も一般の疾病と同じように精神病を考え、薬物投与で治るものは,その方が合理的と思える。だが、患者の家族がそう考えられないのは、精神病は遺伝するものとの呪縛から今なお開放されないからでもあろう。 西欧医学では、患者の話を聞くよりも、検査や説明の書類作成し、インフォームド・コンセントをしっかりやることが重視されてきた20年もの経緯がある、ときたやま氏はいう。その結果、そんなところに時間をとられる医師は増えているといい、患者の話を聞くどころか、医師が喋ってばかりいるという。聞き上手の医師よりも、説明に長けた医師がもてはやされ、患者は胸の内を吐露する機会がすっかり減ったと。 ここにも古いタイプ、新しいタイプ、どちらのアプローチにも満足できない日本人の心があるのかも知れない。日本人というよりインドや多民族国家時代からの中国も、東洋医学という心体全体アプローチ型に馴染んだ側面もあった。近代においての日本においては、漢方を含む東洋医学は、西洋医学の補填として扱われてきた。 日本の病院におけるインフォームド・コンセントについてであるが、私も80歳を過ぎてから病院通いも増え、諸々のアンケート類についても、70歳以上とあり、80歳は年齢の区切りから外れている。人間の苦「生、老、病、死」の意味が分かる歳になった。インフォームド・コンセントの意味も改めて確認してみると、精神病に限らず、一般の疾病についての検査、などにおいても、患者の話を聞くより、説明に長けた勤務医が病院経営者には優遇される傾向があると観察できる。 インフォームド・コンセントの概念は、アメリカ生まれの概念で「正しい情報を得た(伝えられた)上での合意」と定義付けられている。特に医療行為(投薬・検査・手術など)や、治験などの対象者(患者や被験者)が治療や臨床試験・治験の内容説明を十分受けてとある。 ─────────執筆中─────────── #
by kuritaro5431
| 2015-08-22 07:05
2015年 07月 29日
1、単体バラ情報をメモる。 ↓ 2、バラ情報集積の山 ↓ 3、それを命題によって多様に組みあらせるには ↓ 4、組み合わせのシステム化・ロジック化 ↓ 5、個人でやる。何人かでやる バラ情報を、人間が編集していく上には、以下の条件が必要に思えてくるが------ 1、集積されていく夥しいバラ情報の煩わしさに押しつぶされて、もう分かったと、単体バラ情報メモを捨てる人要注意。 (このタイプの人、性格によるところ大と思われ、別の方法を考える必要ありと思う) 2、ここでいう情報とは、現在・過去(古い過去、新しい過去)、近未来、将来など、様々なカテゴリーの情報。 どのカテゴリーのものでも、もともとフローのもの(流していいもの)と、ストックしておかねばならないものありそうだ。 3、フローのものは記憶にとどめず捨てていい。だだし捨てても記憶のなかにあり、いつでも即再利用ONでいられる自信あること。 (それは『記憶」と「忘却」を考える条件ともいえそう) 4、ストックとは、整理の仕方のことで、個々人の「固有技術」に類するものと思われる・絡む。例えばつぎのようなもの。 ☆形状が違うものとして ・本、サイズ違い ・メモ、バラカード、メモノート ・新聞の切り抜き、PCでプリントされたもの ☆INDEXの付け方 ・付箋をつける ・栞を差し込む ・別途に作ったINDEXノートなどなど 5、いずれにしても、自身にとって大切な情報の肉体化。 理想は「リアルタイム検索ON」にしておくこと。他の情報とのコラボをいつても可の状態に。 ところが、[善]の情報と[悪]の情報が幾重にも重層的に重なり、厚い層をなし、その厚さは急速に増している。その危機が「人工頭脳/人間を越える2045年」説であるようだ。 #
by kuritaro5431
| 2015-07-29 10:43
2015年 07月 28日
NHK・Eテレ「ニッポンのジレンマ」古市憲寿司会/青木NHKアナウンサーの毎月最終週土曜日23時~/40歳以上お断りの定例番組/2015.7.26放送「ビックデータのジレンマ大研究@秋葉原」より。 この放送を見ての私の勝手な私見。 ここで示された人工知脳の3つの条件 1.ボリューム 量 2.バラエティ 種類 (カテゴリーかとおもったらバラェティ、これも条件のようだ) 3.スピード 速さ この日のテーマとして「編集・エディションこそ人間最後の創造性となるか?」とも読めた。 機械としてのロボットは、第一ステップでセンサーが対象を捉え(知覚の形式・認識の仕方)、その信号をアクチュレーター(モーター)に伝え、モーターの円運動を線運動に変え、多様な装置のスイッチをON/OFさせる。それがロボットの基本動作と思える。理系でない私が及ぶ想定はこの程度。 そしてロボット技術は進化して、「ロボットの基本動作+進化途中の人工知脳+宇宙衛星信号ナビゲーターモデルが利用できるようになり、車の自動運転も可能」にした。 そこまでの進化の過程で、演算の単能機マシンが、1969年---私の体験---では汎用機マシン(コンピューター)になり、マシン体積が縮まり(トランジスターから、ICになり、LSIになり)、この時期から業務用専用回線として秒12000ビット送信ができるようになった。その後小型化したコンピューターは、パーソナルコンピューター・パソコンとして、個人利用可能な卓上型コンピューターにまで発展した。 その次の段階でコンピューターは、2系統に別れ発展した。 1つは、汎用機業務用マシン系統として発展するオフイスコピューター(オフコン)として発展し、経済予測、景気予測、他、国家の指針さえ予測しようとする膨大な量のデーターと因子を高等数学を使って解析するビッグコンピューターが登場する。それが今日のテーマ人工知脳に育っていった。 もう1つは、一般消費者まで使える通信機能ITを搭載した携帯用のコンピューター。それは、初期汎用機時代のコンピューターの姿を想像すらさせない、小さな巨人となった。今の姿はスマホである。仕組みなど知る必要もなく、軽快な操作性が40歳以下の世代に広がっている。 それどころか、10代世代といわれる新世代が、軽妙にスマホを操り、ロジックでなくセンスと感性で多様な環境に順応し生きようとしスゴイスピードで成長している。 そこまでに至る段階で、アメリカのシリコンバレーで起業した若い事業家たちにIT産業の発展を託し、ペンチャーキャピタル(投資家)がこぞって投資した。それがあだ花ITバブルとなってアメリカ経済は後退した。 その後のリーマンショックも越えて、デフレのなかでも、各国の国民はセンスと感性を自然発生的に磨き、ITがICTが若者を変えていった。Cはコミュニケーションともコンテンツとも、コンセプトではないらしい。 人工知脳が対象を認識・知覚する形式は、磨かれたセンスと感性でありながら生臭い人間性を連想させる。このブログ「阿頼耶識」に書いた「五角形チャート」のように生臭い。その識・認識は、唯識の識。唯識の識をよく現した句に「手を打てば 鳥は逃げ 鯉は餌と聞き 猿沢の池」がある。人間が打った手を、鳥は鳥として、鯉は鯉として聞こえるもの。音一つにしてもこのように聞こえるもの。ましてものには実体はなく「空」だという。遠い昔インドに発生した佛教思想が今の中国を経由して日本に渡来した。この話にも政争、佛派にまつわる物語が秘められている。 私の思う「人工知脳」とは、単独バラ情報がBIGコンピータに記憶され「人工知脳の3つの条件」を満たしたとき、人間が予期しない自己増殖(接触した情報をなにもかも飲み込み原始動物のように増殖)し始める。 その日の番組に出席した「コンピュータと人間棋士が将棋をやり、コンピュータが勝った」をやった人。 「大昔からの棋譜や、歴代のタイトル戦の棋譜をどんどんBIGコンピュータに読み込ませた」いつしか「人間との勝負記録をもBIGコンが勝手に取り込むようになった」(3つの条件を満たしはじめたから)と。ときに考え込むBIGコンも、応答し始める。対局中も己の失敗まで栄養にして自己増殖していたと。 「どうして勝てたんですか」という他の出席者に「なぜだかわからないです」という。「妙ですねえ」と笑っていた。 私は思う。BIGコンに「ある命題を与えると、人工知脳は勝手に「判断」し、「答え」を出してくる。人間に代わって「選択」してくれる。 ここでロボットと人工知脳の違いは、「判断できる」「選択する」だと思う。 ある出席者から「答えは決まっている方程式使いの問題など、もう人間のやるものでなくなった。人工知脳にやらせばいい時代となった」と。 そうなれば「楽だ、働かなくていい」と思う人。「失業するから不安」と思う人。現れる。 ところが人工知脳が「判断」したり「選択」できるのはある限られた領域内のこと。領域が壮大になれば、人工知脳は対応能力をオーバーする。人間の編集力(見城徹氏のいう)には及ばない。この説も危うい昨今。 人工知脳が人間並みの編集脳力をもつであろう、いや越えるであろうというのが2045年。今から30年後。 この番組出席者は「みんなそのとき死んでいる?」と大笑い。その死はいろいろの------ ところが、汎用機コンピューターが生まれて今日まで46年と見積もろう。その間にコンピューターはなにができるようになったか。その能力は--------。 これからの30年のBIGコンの成長は、桁違いに拡張する。今と「人工知脳の3つの条件」が大きく異なる。 この人工頭脳が暴走すれば、人間は「人工知脳の奴隷となる」。そのことがはっきりするのが2045年という説である。 そこで暴走制御をどうするすの話題に番組は移る。 1、「命題を与えたプログラムに、自己増殖寿命(死)の仕掛けをしておく」。 この提案をしたのは十代後半と見える、女子大生。出席者の中で一番若い、飛び抜けて若い。 2、「いくら自己増殖しようと人間の壮大なイマジネーションにはかなわない」という楽観論もあり。 3、ところがそこで人工知脳の自己増殖と、人間の編集能力の競争になり共に向上する。 4、そうなると人間側に脳力・能力格差が生じ、新しい差別化と、新しい階級化がはじまる。 途中から私見まじりとなる。 人間が造った人工脳が人間を不幸にする。若いお母さんから、子供の教育についての質問が場外中継からでた。 回答のゲストから、若い女子大生の提案が推された。 もう一つは、30年後には「人間の幸福感」も変わっているだろう、それはそれでいいのでは、という人あり。 そんなことで、人工知脳とリスクの話「ビックデータのジレンマ大研究@秋葉原」の番組は終わりました。 お詫び 今、7.29日20時30分です。「ビックデータのジレンマ大研究@秋葉原」の番組録画を見直し、次の記述が間違っていて、書き直しました。 1、「人工頭脳」→「人工知能」 2、「囲碁ではなく」「将棋」だったこと。 #
by kuritaro5431
| 2015-07-28 20:51
2015年 07月 10日
3ケ月ぶりです。休んでいたわけではありません。その理由は後段で─── なでしこジャパンとアメリカ戦の闘いを終え、帰国会見で記者が問うた「決勝戦で得たこと、なんでしたか」という言葉に「なにもありません」とはっきりいい、そのあとの言葉は付け加えなかった。 以下は、私の感想。 さすが日本の「なでしこ」。仲間をおもいやり、応援してしてくれたなでしこサポーターの人たち、そして私たちに力強いエールを送ってくださった日本人のみなさんに心からのお礼を───その言葉も伏せて、佐々木則夫監督の話を聞いた。慎ましく強い本来の日本女性だ。 そう思った人も、多かったことでしょう。情と心でつながる絆、集団・チーム力に強いニッポン。その真似をしたのがこんどのアメリカチーム。それにプラスした大型選手の体力で。さらに~が。 私の感想は、こうだった。なでしこチームをとことん分析したアメリカチームの立てた戦術は、決して日本的情と絆を学ぶことではなかった。一言で言えば、「情と絆のチーム力」を砕くために、「機能的組織戦術と軍事的戦闘行動をとった」ことだつた。 「大型選手の持ち前の体力を軍事装備力と見てたて、なでしこの弱点分析をし、弱点モデルを絞り、それに向かう機能的組織を組み立て、徹底的訓練をやった」 「それは、試合開始のわずかの時間で、瞬発集中の先制波状攻撃を仕掛け、一気に勝負をつけるやり方だった」。それは初代ブッシュ大統領のときのイラク戦争のとき、一週間で勝負をつけてみせるといった戦術と似ている。アメリカモデルの戦術だ。 恐らく、宮間はアメリカでのプレーで承知していたことだったろう。予測していたことだろう。 それで「負けは,負け。負けに理屈はない」といったのだ。 それが私の感じた宮間。だからスゴイ。 グローバルの闘いとは、ということを知っている。 彼女は、もっと深いところで、アメリカと日本、西洋と日本、の強さ、弱さ、を静かに反芻しているように見えた。 ブログを休んでいたわけでない理由。 このブログ、2009年から初めて今年で6年。 そしてこの5.6.7月の政権の変わりよう。読者の関心記事も変わった。 2009年スタートの日、「はじめに」に書いた、時空を越えてその時々の私の関心事をランダムにを良しとして書いてきた。 そしてスタート時の関心事を列挙した。それも変わった。 右肩に掲げたこのブログのテーマらしきものを、はじめには、「中間所得層をいかにして増やすか」としていた。中間所得層とは、暗にホワイトカラー(文系のサラリーマン)を指していた。 その後、理系も文系も含めて、ビジネスマンとか、ビシネスパーソンと呼ばれるようになり、働き方も様変わりした。そのニュアンスには、好きなように能動的に生き、働く、と意味が込められるようになった。そんな意味もあってその後このブログテーマも、「混迷の時代所得格差といかに対峙するか」に変えた。 これは、だれと対峙するのかという意味も込めた。「自分自身」「競争相手」「ステークホルダー」「経済欲求の同族と協働」「政党の綱領」「ピケティのr族とg族」さらに「政府の所得再分配政策」など,どちらにしても、「対峙」には、発信する方も,受ける方も、全人格的アプローチが求められることを読者は意識してきたとおもえる。 そこで、今までランダムに書いてきた多くの記事を、一度シークェンシャルにまとめ直してみる必要性を感じた。そうすると、コンテクスト=文脈も違うコンテンツが混在し、迷っていた。 そして激変する、世界的政争のなかの日本。 書店では、やたらと「日本史」「世界史」「戦後日本を振り返る」本が、日替わりのように並ぶ。 #
by kuritaro5431
| 2015-07-10 09:23
2015年 04月 06日
私はこのブログにおいても、なぜ日本刀だけが砂鉄を蹈鞴(たたら)で噴いた鉧(けら・粗鋼)に含む玉鋼から造ったのか。そして日本刀とは、の定義に「玉鋼で造られた鎬づくりの彎刀」とあるのは? 必ずしもそうでなく、軍刀需要が増えた昭和期では「総称としての安来鋼でつくられた刀」ともいわれる。 ★古刀は(平安時代の延歴5年・806年空海帰朝・伯耆安綱の刀、日本刀モデルとなる・から桃山時代の慶長元年・1596年まで)(750年) ★新刀は(桃山時代の慶長2年・1597年から江戸時代の終わり慶応3年・1867年)(270年) ★現代刀(明治以降) こうしてみると圧倒的に古刀の時代が長かったことが分かる。前にも書いたように、古刀時代の作刀法は、一本の鉄で鍛錬することで脱炭し、さらに焼き刃土を刀身に塗り、鉄の変態特性を抑え、焼き刃土を塗らない刃の部分は変態させ、折れず曲がらぬ日本刀を造った。それには特級品純度の玉鋼を使った。古刀期の後半には、もう純度の高い玉鋼は枯渇しはじめていた。 新刀の作刀法は、刃の部分だけ純度の高い鉄を抱かせ、その他の鉄は、神社仏閣の修理解体などででた古釘などを使ったりして、素材調達に腐心して作刀した。新刀の後期では、質の悪い砂鉄で製鉄した鉄で作刀した。砂鉄の品質は、一に山砂鉄、二に川砂鉄、三に浜砂鉄といわれ、奥出雲は、山砂鉄の山地だった。その後抱かせる鋼も枯渇して、奥出雲、安来の蹈鞴の首領たちが出資して、新しい抱かせ専用の鋼を考案した。その段階で幕府がどのような支援をしかは不詳。明治に入り日露戦争もあり、その後満州事変もはじまり軍刀の需要はいやが上にも高まった。 いつ頃から安来にあったか知らないが、日立特殊鋼株式会社が日本の優れた特殊鋼の開発に貢献し、用途開発も拡大させた。特殊鋼の開発のみならず日本刀の刀鍛冶が身につけた異なった鉄でも、鍛錬によって接着させ一体化してしまう作刀法が功して、青紙スーパー、青紙、白紙、黄紙と粘りと堅さの品質ランク別、鋼片を商品化し、軍刀はもとより、軍艦、戦車の鋼板、大工道具、鍬や鎌、斧、鉈、鋏、肥後守の小刀、カミソリ、医療用メス、果ては洋式ナイフまでにいたった。もちろんこれは玉鋼ではなかった。 今は、これらの鋼を一括して「安来鋼」といっているようだ。日立特殊鋼の製品か、地域ブランドか、他の会社も「安来鋼」の名称で作っているのか、作っていいのかも知らない。青紙、白紙などは固有名詞かも。 ところで、こんな推論もできるかも。歴史研究家からは失笑される話かもしれないが、私の30歳から82歳のこのかたの疑問でもあったことだから。 日本の刀物の起源から現代までには、日本の原住民といわれた縄文の12000年、弥生の3000年の間にいくつものルートで渡来した民族という説と同様に、中国→百済→日本というだけでなく、幾多の史跡にその痕跡が見られる。 古来から製鉄は、鉄鉱石を高炉で溶かし、様々な鉄器から巨大戦艦まで造った歴史がある。高炉で鉄鉱石を溶かすには、コークスが必要なことはかなりの昔から知られていたようだ。十字軍の兵士の使ったといわれる両刃の剣は、カーボーン粒子の多い鉄であった。よく切れるが折れやすいので重厚にした。ダマスカスの鋼は、インドのウォーツ鋼との世界初の合金だったなどなど謎めいた伝説も多い。 日本刀は、平安の中期に伯耆国・安綱という刀工が、確立した日本刀のモデルが以降の日本刀を規定したといえそうだ。それは「「玉鋼で造られた鎬づくりの彎刀」であり「刀身の握りは、刀身と一体の鉄でなく、握りやすい木製の柄(つか)で作られ、その柄のなかに刀身の手元「なかご」という、を差し込み、柄と刀身を一体化するために柄と刀のなかごに「目釘穴」をあけ、目釘を刺した。なかごには刀工名を鏨で打った。 以上が日本刀モデルの最低の規範となったと私はみている。 その安綱の銘入りの彎刀は、「童子切り」のニックネーム「大江山の酒呑童子を成敗した刀」の伝説をもち国宝として現存している。 その他日本刀特有の柄・鞘・鍔・小柄などは工芸品として多様に分業化した職人世界が形成される。刀身の彫り師、研ぎ師も分業化し、制作時間をいとわず、ひたすら完結した美を求めた。 日本刀の刀身は、刀鍛冶の魂・命として武闘具でありながら、刀身の反り、刀身の地肌、多様な刃紋の文様、輝きを、刀工が醸す美意識・日本人の精神世界の象徴として流派を形成し、歴代の天皇も刀剣の持つ美のオーラと、国家統治の権威の象徴として、そのものがもつ霊性にこだわった。 彎刀の以前にあった日本の太刀は、聖徳太子の肖像画にあるように、細身の直刀で、刀といより太刀だった。しかも安綱モデルでなく、刀身は、切り出しのように研がれた片刃であった。それと同様の様式のものが奈良時代から平安時代に征夷大将軍として奥州の蝦夷(エミシ)を征伐した田村麻呂の所持した太刀も同様で、鞍馬寺所蔵とある。 さらにその直刀の以前は、というと正倉院に現存している「蕨手刀」(わらびてとう)というのがある。脇差し(二尺以下、一寸以上)ほどの刀である。刀身は手元がくの字に曲がって、握りは刀身と同じ鉄でできている。 どうやらこれは渡来物で、一説によると日本刀の原型ではないかとも言われている。 資料で見ると、握る柄の方の先が蕨の新芽のように曲がり、片手での馬上の闘いにも、便利に見える。立派な鞘も、鍔らしい物もついている。それがやがて直刀ではあるが長くなり、刀身と一体の鉄は、同じく手元でくの字に曲がり、握る柄は中抜き・透かしが入り刀身を軽くしている。これを毛抜き型太刀と呼ばれていた。 それが進化して安綱モデルになったという説である。 そこで今日の本題であるが。古代奥州に、たたら製鉄と並ぶ、砂鉄より不純物の少ない(注・他の資料では不純物の多い鉄ともある)「餅鉄(べいてつ・もちてつ)」という円礫磁鉄鉱(えんれきじてつこう)があったと。餅鉄は、河川に流され摩耗して円礫状になった磁鉄鉱(Fe3o4)のこととある。 餅鉄使用の在銘の刀剣もあり、高炉銑(鉄鉱石を高炉に入れて溶解されて出てきた鉄は、カーボン粒子の多い銑鉄)で刀の鋳物を作り、脱炭と鍛錬を行った製品ではなかろうか。または、当時は高炉銑を原料にのべ鉄も製造していたから、銑卸しの方法で鋼も製造しただろうか。 または、餅鉄を砂鉄採取した鉧と同様に、砕いて、選別し、後は刀鍛冶に流通し、刀鍛冶が各自工夫してものにした、とも推理できる。 現代においては、各流派の刀鍛冶の末裔は、ほとんどが包丁や小刀、洋式ナイフの店になった。銃刀法との関連もあり、法に触れないぎりぎりのところで商いしている。刀鍛冶の末裔と唱える人たちの「売りの技」は玉鋼とは無縁な、「異なった鋼材を鍛錬一つで接着し一体化する作刀の秘伝」とした。 それは、多層の地肌を醸す小刀、ナイフであったり、妖艶な不規則な文様を醸すダマスカス鋼(これは玉鋼のような一種類の鋼ではなく、インドのウォーツ鋼をベースにおいて、異種の鋼を混ぜた合金)の鍛錬技術に近い。 それを「正宗作刀の秘伝のナイフ」などとして、クールジャパンの一環に乗せようとする動きもある。一昨年から京都の刃物屋にならんだ、これらの打ち刃物は、店ごとの別注で、混ぜる鋼の種類によって妖艶さも変わりも値段も格段高くなる。 この記事の締めくくりに当たって考えさせられることは、古代出雲の国で、斐伊川の上流に頭は八ツ胴は蛇の大蛇「八岐大蛇」が棲んでいて、アマテラスに追放された弟のスサノオが出雲に降り立った。そこに八岐の大蛇の生け贄にされんとする稲田姫がいて助けるために大蛇に濃い酒で酔わせ、剣で大蛇を斬り殺した。すると大量の血にまみれた一振りの太刀が現れた。それが天叢雲剣(あまのむらくもの つるぎ)のちのヤマトタケルが使った別名・草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。 八岐大蛇とは、奥出雲の山砂鉄採掘の首領であったと。やがてスサノオと稲田姫は幸福な結婚生活を送るが根の国=冥界にくだっしまう。その後は、オオクニヌシが出雲神話の中心となる。出雲神話でもスサノオは、鉄を制したシンボルとしてあがめられた。 素戔嗚尊は、後京都東山八坂神社に祀られている。 天日槍(スサノオ)は、姿を隠した姫を求めて放浪の旅を続けているとき、蘇民将来さんの家に泊めてもらった。お礼に、疫病対策の茅の輪(血の輪)の使い方などを伝授して去った。蘇民将来の家の者は、その後流行った伝染病に罹らず、他の家の人々は残念にも亡くなった。そこで、「蘇民将来の子孫也」(祇園祭の粽に巻く)を名乗るお札を用意しておけば伝染病を免れる、という民間信仰が生まれて広まった。 八坂神社からほど近い、三条大橋を東へ旧東海道をすすむと京物古刀作刀の鍛冶場粟田口がある。あの謡曲「小鍛治」にでてくる三条宗近の名刀「小狐丸」の鍛冶場のあったところ。謡曲で、一条天皇が夢枕に、宗近に、「天叢雲剣」にも負けぬ刀を打てと命じたほど、朝廷と剣・日本刀は天皇の権威の象徴であった。 ところが、奥州の俘囚といわれた蝦夷(エミシ)が、長年にわたり大和朝廷を手こずらした刀は、餅鉄でつくった蕨手刀ではなかったかと、悲しい伝説となって、京都清水寺の境内の石碑に、名残をとどめている。 . . . . #
by kuritaro5431
| 2015-04-06 09:37
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